ラーマ8世

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テンプレート:Infobox ラーマ8世テンプレート:Lang-th1925年9月20日 - 1946年6月9日)は、チャクリー王朝の第8代のシャム国王(在位:1935年3月2日 - 1946年6月9日)。

通称をアーナンタマヒドンテンプレート:翻字併記)といい、アーナンタ国王マヒドン国王とも呼ばれる。タイで流通している20バーツ紙幣の裏面に肖像が使用されている。

生涯

生い立ち

ラーマ5世の孫で、ラーマ7世の甥に当たる。1925年タイ仏暦2468年)ドイツハイデルベルクで生まれた。

1928年(同2471年)年に初めてタイに帰ってきた。翌年に父のソンクラーナカリン王子が亡くなると、兄弟3人でスイスローザンヌで修学した。1934年(同2477年)ラーマ7世が退位するとタイの国会の決定で即位したが、すぐにスイスに帰り学業を続けた。その後1939年に勃発した第二次世界大戦の開戦後も中立国となったスイスに滞在を続けた。

崩御

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1945年(同2488年)に第二次世界大戦が終結するとともに学業を終えると帰国する。しかし翌年に「殺害事件」で崩御した。

1946年6月9日朝、ラーマ8世はボーロマピマーン宮殿の自身の寝室で、額から後頭部にかけて銃弾が貫通する形で死亡。傍らには自動拳銃(M1911A1)が落ちていた。第一発見者のチット侍従の証言を要約すれば、「午前9時20分頃、チット、ブット両侍従がラーマ8世の寝室の前に控えていたところ、中から銃声が聞こえた。チット侍従が中に入ってみるとラーマ8世がベッドの上で頭から血を流していた」とのことである。

ラーマ8世崩御事件調査委員会

王宮や警察が直後に出した声明では銃の暴発事故の可能性が高いとされたが、プリーディーテンプレート:Lang-th、ルワン・プラディットマヌータムとも)内閣が設置したラーマ8世崩御事件調査委員会(テンプレート:Lang-th)は、1.事故、2.自殺、3.他殺という3つの可能性を挙げた上で、遺体の状況に基づき事故・自殺説を否定、他殺説を採った。同年8月にプリーディー内閣は責任を取って総辞職。跡を継いだタムロン内閣が1947年11月のクーデターにより倒された直後、警察は上述のチット、ブット、および事件発生時に宮殿内にいたチャリアオ侍従、他2名の計5名を、ラーマ8世の殺害に関与した容疑で逮捕した(後者の他2名は後に釈放)。3人の裁判は確固とした証拠のないまま状況証拠に基づいて争われ、3人は一貫して容疑を否認したが、1954年10月12日、最高裁判決により3人に対する死刑が確定。翌年2月17日、ノンタブリーの刑務所にて3人に対する死刑が執行された[1]。プリーディー元首相も殺害謀議への参加を疑われたが、1947年11月のクーデターの際に国外亡命しており、逮捕・訴追されることはなかった。不敬罪に抵触する可能性があるので、タイではこの問題に深入りすることが今なおタブーとなっている。

後にこの事件に関してラーマ9世の協力の下で調査した小説家でジャーナリストでもあるウィリアム・スティーブンソンはその著作・革命の王(原題:The Revolutionary King)で証拠を提示し、旧日本軍の参謀・辻政信による犯行の可能性が高いと示唆した。しかしながら辻政信の記録、『潜行三千里』によれば辻は1945年にタイを脱出しており、1946年6月9日は中国にいた[2]ことから、わざわざバンコクまで戻りラーマ8世を暗殺するのは不自然であるともいえる。

系譜

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脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

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  1. 事件関係者の証言や事件後の推移については บุญร่วม เทียมจันทร์ 著「คดีประวัติศาสตร์ลอบปลงพระชนม์ ร.๘ คำพิพากษาศาลฏีกา ฉบับสมบูรณ์」が詳しい
  2. ネット上で確認できるものとしては、メコン・プラザ『潜行三千里』特集参照。特に「潜行三千里の詳細」のリンク先に時系列に沿った詳細がある。