ラージプート

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ラージプートの語は、サンスクリット語の「王子」を意味するrajaputraから生まれた言葉で、この語は、11世紀以後、北インドや西部インドのヒンドゥー系の王侯、戦士集団のカースト名称として使用されるようになった。

起源と伝承

この社会集団の起源は明らかではないが、5~6世紀頃、中央アジアから繰り返し侵入してきた、イラン系ともテュルク系ともいわれる騎馬遊牧民エフタル(中国名白匈奴)などの外来の諸民族が、在地の旧支配層と融合し、徐々にヒンドゥー教の教義を信奉しつつ、その社会体制に組み込まれたものではないかという説、また、土着の部族のほかに、ハルシャ・ヴァルダナ以降インドに定着したスキタイ系やフン系の民族に由来するとか、北インドを支配した領主層には、クシャトリアの家系だけでなく、バラモンヴァイシャの家系に属する者がいて、ラージプトラと呼ばれて、全てクシャトリヤの地位を与えられるようになった、など諸説ある。

しかし、当のラージプート自身は、プラーナ文献、例えば『マハーバーラタ』に述べられている伝承上の太陽や月の家系にたどったり、プラティーハーラ朝パラマーラ朝チャウハーン朝のように、賢者ヴァシシュタがグジャラート州内にあるアーブー山で守ってきたという「犠牲の火」に先祖をたどっているものもある。こうした伝承は、スータ (suta) と呼ばれる一種の吟遊詩人、弾唱詩人による伝承ではじめて言い伝えたことなので、事実をたどることはできないが、それぞれのラージプートの一族は別々の起源をもっていることを示している。なお、前述した三王朝のほか、カジュラーホーの寺院を建設したチャンデーラ朝が著名である。

ラージプート諸王朝はこの伝承を自らの王権を正当化する根拠とし、古代からの正当なクシャトリヤであることを主張する。

13世紀末まで、ラージプーターナー地方(ほぼ現ラージャスターン州にあたる)に、ゴール朝シハーブッディーン・ムハンマドタラーインの戦いに敗れた後に、チャウハーン朝の後継者が再興したランタンボールをはじめ、メーワール王国など版図は小さいが強力な王国を築いていたが、ハルジー朝に征服された。しかし、その後のデリー・スルターン朝の弱体化に伴って徐々に独立し、ムガル帝国の初期に尚武の気風とヒンドゥー教徒の独立を守るために激しく抵抗したことで知られる。特に、その中でも、メーワールだけは、ムガル帝国から独立を維持し、19世紀初めまで続いた。

関連項目

参考文献