ラオス人民革命党

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ラオス人民革命党(ラオスじんみんかくめいとう、ラオ語:ພັກປະຊາຊົນປະຕິວັດລາວ)は、ラオス政党。同国唯一の政党として国家を主導する。社会主義マルクス・レーニン主義プロレタリアート独裁を党の綱領として掲げる一方、社会主義の枠内での経済の自由・開放化をも綱領に掲げている。

歴史

インドシナ共産党ラオス地方委員会の党員であったカイソーン・ポムウィハーンらによってラオス人民党が結成され、1955年3月22日に結党大会が開催された。翌1956年1月、大衆組織ネーオ・ラーオ・ハックサート(ラオス愛国戦線)を組織して左派勢力を糾合し、ラオス内戦を戦う。

内戦末期の1972年2月3日から2月6日まで開催された第2回党大会において、党名を現在のラオス人民革命党に改称。ラオス人民革命党が主導するネーオ・ラーオ・ハックサートはラオス王国を打倒し、1975年12月2日ラオス人民民主共和国を建国。ラオス人民革命党は同国唯一の政党として、ラオスを支配した。建国当初、ラオス人民革命党は急進的にラオスの社会主義化を進めていったが、その結果、経済は破綻してしまった。そのため、1986年11月13日から11月15日にかけて開催された第4回党大会において、カイソーン・ポムウィハーン書記長は社会主義の枠内での経済の自由・開放化を認める「チンタナカーン・マイ(新思考)」を提唱し、党の指導思想とした。

1989年東ヨーロッパで起きた民主化運動、そして1991年ソ連崩壊でラオス人民革命党も民主化の岐路に立たされたが、現在もマルクス・レーニン主義を堅持し、一党独裁制民主集中制を敷いている。

歴代党首

ラオス人民革命党の党首は中央委員会書記長であるが、1991年3月の第5回党大会から2006年3月の第8回党大会までの間は書記長および書記局が廃止され、新たに設置された党議長が最高機関である中央委員会を指導・監督した。第8回党大会で党議長職が廃止され、書記長および書記局が復活した。 テンプレート:Clear

姓名 役職 任期
1 カイソーン・ポムウィハーン 書記長 1955年3月22日 - 1991年3月29日
議長 1991年3月29日 - 1992年11月21日
2 カムタイ・シーパンドーン 議長 1992年11月24日 - 2006年3月21日
3 チュンマリー・サイニャソーン 書記長 2006年3月21日 - 現職

党幹部

2006年3月の第8回党大会で発足した第8期指導部。

2011年3月の第9回党大会で発足した第9期指導部[1]

脚注

  1. 山田(2012年)、33ページ・表1、35ページ・表3。

参考文献

  • 山田紀彦「ラオス人民革命党第7回大会 ― 残された課題 ― 」(石田暁恵編『2001年党大会後のヴィエトナム・ラオス ― 新たな課題への挑戦』アジア経済研究所、2002年3月)
  • 山田紀彦「今後の政治改革路線と新指導部」(山田紀彦編『ラオス人民革命党第9回大会と今後の発展戦略』アジア経済研究所、2012年)
  • カム・ヴォーラペット『現代ラオスの政治と経済』(藤村和広・石川真唯子訳、めこん、2010年)

関連項目

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