モルドバ

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モルドバ共和国
Republica Moldova
モルドバの国旗 モルドバの国章
国旗国章
</dd>

国の標語:なし
国歌我らが言語 Limba noastră
モルドバの位置

公用語 モルドバ語
首都 キシナウ
最大の都市 キシナウ
政府

大統領 ニコラエ・ティモフティ
首相 ユリエ・レアンカ

面積

総計 33,843km2135位
水面積率 1.4%

人口

総計(2012年 3,559,500人(121位
人口密度 121,9人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2008年636億[1]モルドバ・レウ
</dd>
GDP(MER

合計(2008年61億[1]ドル(140位
</dd>
GDP(PPP

合計(2008年107億[1]ドル(141位
1人あたり 3,173[1]ドル
</dd></dl>

<tr> <th>独立
 - 日付<td>ソビエト連邦から
1991年8月27日 </tr>

通貨 モルドバ・レウMDL
時間帯 UTC +2(DST:+3)
ISO 3166-1 MD / MDA
ccTLD .md
国際電話番号 373

</dd> </dl> モルドバ共和国(モルドバきょうわこく)、通称モルドバモルドヴァは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。内陸国であり、西にルーマニアと、他の三方はウクライナと国境を接する。旧ソビエト連邦を構成していた国家の一つであった。現在、ドニエストル川東岸地域が沿ドニエストル共和国として事実上、独立状態にある。

モルドバ人は言語的、文化的にルーマニア人との違いはほとんどなく、歴史的には中世のモルダビア公国以後、トルコとロシア、ルーマニアの間で領土の占領・併合が繰り返された地域である。

国名

正式名称はモルドバ語で、Republica Moldova

日本語の表記は、モルドバ共和国。通称、モルドバ、またはモルドヴァ

モルドバという名前はダキア語のmolta(多い)dava(砦)に由来する。ハンガリーの貴族が川の名前から付けたという別の説もある。

ソビエト連邦の構成共和国であったモルダビア・ソビエト社会主義共和国から領土を継承した。

ロシア連邦民族自治共和国のひとつでヴォルガ川中流域にある、ウラル語族モルドヴィア共和国(Mordovia、 首都サランスク)とは何の関係もない。両者が似た名前となるのは、日本語の表記でLとRの音を区別しないためである。

歴史

古代からモルドバ平原にダキア人がいたが、その後やってきたローマ人入植者も加わりこの地帯独自の文化が形成された。271年のローマ軍撤退後は、ヨーロッパとアジアを繋ぐという戦略上重要な位置にあるためキエフルーシモンゴル系などの様々な侵略を受けた。ただしロシア側は、民族大移動時代スラブ人がこの地域に辿りついた時、タタール人しか住んでいなかったと主張している。この辺はルーマニア北西部トランシルヴァニア地方をめぐる、ハンガリーとの歴史認識の違いに似ている。

中世には、モルダビア公国の東部を構成していた。16世紀にはモルダビアはオスマン帝国の属国になったが、他のバルカン諸国と違って部分的な支配だった。露土戦争の結果、1812年ブカレスト条約によりベッサラビアとして帝政ロシアに併合される。第一次世界大戦終了後の1918年ベッサラビアは独立宣言して、同年ルーマニアの一部になる。

ソビエト連邦は1940年6月にベッサラビアを占領、モルダビア・ソビエト社会主義共和国が建国されソ連の一部となる。これは一部戦略的に重要な黒海沿岸などをウクライナ領としたもので、トランスニストリアが加わったものの面積は小さくなり、陸の孤島となった。独ソ不可侵条約が破られるとドイツ寄りの政権であったルーマニアはベッサラビアとウクライナの一部を併合してかつての形になる。1944年ソビエト軍の侵攻で、モルダビア・ソビエト社会主義共和国に戻る。スターリン政権の下、ルーマニア系住民がカザフスタンシベリア送りとなった。

1991年8月ソビエト崩壊後、モルドバとして独立を宣言し、1991年12月21日、独立国家共同体 (CIS) に加盟。なお、ソ連時代のモルダビア・ソビエト社会主義共和国の国旗と国章は、スラブ系住民が多いことから分離独立を宣言した沿ドニエストルがそのまま継承し、独立以降のモルドバの国旗はルーマニアとよく似たものに変更した。これにともなって都市名も、キシニョフ (Kishinev) をキシナウ (Chişinău)というように、ロシア語からルーマニア語に全て戻した。

初代大統領スネグル (1991-1996) は親ルーマニア的外交政策をとったが、2代目のルチンスキー時代 (1996-2001) にはロシアにも配慮した中立的スタンスに変わった[2]

独立当初にはルーマニアへの再統合を望む声もあったが、1994年圧倒的な票差で独立国家として歩むことが決まった。2001年与党の共産党が党首のウラディミール・ボロニンを第3代大統領に指名、2005年に再選された。2009年に選ばれた自由党のミハイ・ギンプ国会議長兼大統領代行は、たとえ民主派に政権が交代しても、ルーマニアとの再統合やCISの脱退、あるいはNATOに加わる考えのいずれもないと明言した[3]。モルドバは軍事的に中立国のままEU加盟を目指している。

政治

国家元首は、任期4年の大統領である。議会は、一院制で定数は101議席。

民族的、歴史的にもルーマニアと極めて近い存在であり(両国の国旗が似ているのもそのため)、将来的にはルーマニアとの合併が計画されている。ただ、国内にはソ連時代に移住してきたスラブ系住民が独立を主張する「沿ドニエストル共和国」を巡る争いがあり、事実上ロシアとの紛争状態にある。2003年に発生したグルジアでの無血クーデターの影響を受けモルドバ国内でも政権打倒を目指す運動が加速している。また、脱ロシアを志向する諸国で1997年に結成されたGUAMには発足当初から参加している。

テンプレート:See also

軍事

テンプレート:Main 陸軍空軍があり、旧ソビエト連邦軍を引き継いで結成された。国軍は、3個歩兵旅団、1個砲兵旅団、1個対空ミサイル旅団、1個混成航空団から成り、約1万人。

1992年10月30日には、ヨーロッパ通常戦力条約を批准、1994年10月には核拡散防止条約に加入した。また、1994年3月16日には、NATOPFP加盟国となっている。

イラクにおけるアメリカの軍事作戦にも参加していたが撤収した。

地方行政区分

テンプレート:Main 32の地域と5つの都市区域(バルツィキシナウテンプレート:仮リンクベンデル(ティギナ)、ティラスポリ)のほか、ガガウズ自治区と、事実上独立した沿ドニエストルがある。ベンデルはドニエストル川西岸にあるものの、沿ドニエストル地域に含まれるためモルドバの支配は及んでいない。なお、沿ドニエステル共和国を抜いた統計は人口3,041,537人(2012年)、面積29,680㎢となる。

地理

国土のほとんどはドニエストル川を東端としプルト川を西端とする。

気候

  • 年平均気温 9.5-11.0℃
  • 年平均降水量 568-604mm
  • 年平均降水日数 99-128日

経済

産業

旧ソ連時代には重工業も盛んであったが、その一部が沿ドニエストルに位置しており、同地域の事実上の独立によりモルドバは生産拠点を失うに至っている。 外貨獲得源としてワインの生産が盛んであり、モルダヴィアワインの系譜につながるワインが、名産品として造られている。2006年以来、ロシア連邦グルジアとモルドバへの経済制裁の一環としてワイン輸入を禁止している(en:2006 Russian ban of Moldovan and Georgian wines)。この結果、モルドバワインはロシア以外への輸出を模索し、欧米や日本に輸出されている。

低迷する経済

ヨーロッパ最貧国といってもいい程の経済状態にある。なぜ貧困が加速したのかを以下で分析する。

国内紛争

ファイル:Transnistria-map.png
モルドバが主張する領域(青と黄)の内、黄部は支配が及んでいない沿ドニエストル共和国

1990年、ドニエストル川東岸においてスラブ系住民を中心とした勢力が、モルドバ政府の民族主義的政策に反対し「沿ドニエストル・ソビエト社会主義共和国(現在の沿ドニエストル共和国)」として独立を宣言。その後1992年にはモルドバ政府が沿ドニエストル地方を武力攻撃して、約1500人の死者[4]を出す内戦(トランスニストリア戦争)に発展。それに対抗してロシアが沿ドニエストルに味方して軍事介入した結果ようやく停戦したが、現在でも紛争終結の目処は立っていない。モルドバ政府は沿ドニエストルの武装解除や警察権の剥奪、モルドバの法制度への完全な従属などを主張しているが、沿ドニエストル共和国はモルドバと対等な形での国家連合か連邦制、モルドバ共和国からの離脱権の保持などを主張して譲らない。沿ドニエストル側のこの地域はモルドバ工業生産の3分の1を占めていたので、モルドバ側としては主要な工業地域を奪われた形になった。(※モルドバ政府の政策は工業化ではなく、農業推進型。)

また同時期に、モルドバ南西部に住むガガウス人の独立運動も発生したが、こちらはガガウス側の譲歩でガガウス自治区という独自の自治権を持つことで独立を撤回。(ガガウス人は歴史的にトルコとの付き合いが強く、現在ガガウス自治区に対して、トルコより経済援助が行われている。) テンプレート:Clearleft

地理的要因

国内に資源が乏しく、石油やガス、鉱物資源などを国外からの供給に依存している。これらは当然無償ではなく、輸入しているので毎年資源部門は赤字となるうえ、財源の乏しいモルドバは、過去に何度か滞納を理由に供給を止められている。工業化に際しての問題点はこの資源面にもある。

また、モルドバの主要なエネルギー供給源であるロシアは近年、旧ソ連諸国に対するエネルギー資源輸出に関する優遇処置を撤廃する動きを強めている。それまでの割安な価格での石油・ガス供給に慣れていたモルドバにとって、この動きはただでさえ不安定な経済をさらに混乱させる要因となっている。

ロシアの経済危機の余波

モルドバ経済は資源供給、市場、出稼ぎ先などロシアに依存する面が多く、そのためロシア経済の影響を大きく受ける。ところがそのロシアで、

  1. 1992年から1995年のロシア国内のハイパーインフレーション。
  2. 1998年のロシア財政危機
  3. 2008年の金融危機によるロシア経済後退

と立て続けに経済危機が発生。それに伴い、モルドバ経済も大きなダメージを受けた。

IMF(国際通貨基金)・世界銀行主導の急速な市場経済化

ソ連が崩壊した原因は急速な市場経済化であった。そしてモルドバはソ連から独立したが、現在の貧困過疎化等から国民の中にはソ連時代の方がまだ良かったという人まで増えている状態である。ついに政党も共産党が旧ソ連圏の中で初めての第一党となった。市場経済移行に逆行する共産党だったが、IMFはアメリカ寄り。そしてモルドバ最大の経済援助国は1位アメリカ、2位ドイツ、3位オランダ、4位日本である。

IMF/世銀は国際収支の改善、インフレーションの安定を目的とする政策を掲げているが、それに対し、ユニセフは「ヒトを無視した改革は真の貧困解決ではない」と反論している。エイズ患者の増加や相次ぐ人身売買の送り国の現状の解決のためにも貧困の解決は急務だが、IMFの方法は失業率を悪化させ、新たな貧困を生むので良くないと批判している。

観光

積極的でないが、観光収入は4500万ドルで観光客は年間1万8000人。観光の見所は、首都のキシナウと全国の要塞城塞で特にドニエストル川沿いの円形要塞ソロカである。観光に最適な時期は葡萄の収穫時期の10月でワイン祭りが行われる。 2007年1月1日より、日本国民がモルドバに入国する際のビザ(査証)が免除された。

国民

テンプレート:See also

民族

テンプレート:Bar box モルドバ人ルーマニア人)(約78.2%)、ウクライナ人(8.4%)、ロシア人(5.8%)、ガガウズ人(4.4%)、ブルガリア人(1.9%)の順に多い。ほかにドイツ植民者などもいた。政府の統計では少なく見積もられているが実際はロマ人もかなり含まれる。また、かつてはユダヤ教徒シュテットルがある一大中心地であった。およそ100年ほど前キシナウの人口の50%以上がユダヤ人だった。同時期に建設されたモルドバの博物館は当時の住民比率を反映してか中東的建造物をモチーフにしたデザインになっており、同国の多民族性を表現したものだという。ロシア及びソ連による統治が長かったため、ルーマニアとは異なりロシア風の姓を名乗っているモルドバ人が多く、実際にロシア人やウクライナ人と混血している人もかなり多い点でルーマニア人とは異なる。

言語

モルドバ語公用語)76.51%、ロシア語11.2%、ウクライナ語5.51%、ガガウズ語4.07%

モルドバ語は比較的近年になってから政治的意図によりルーマニア語から区別されたものであり、多少発音や表現に差異があるが、相互理解に不自由はほとんどない。(詳しくはモルドバ語に記載)。ロシア語は沿ドニエストル共和国では公用語になっているものの、モルドバでは公用語になっていない。しかし、ビジネスやメディアでは広く使われ、ほぼ全国民に通用する。英語はキシナウをのぞいて路上ではあまり通じない。

同国の独立運動は、モスクワでの8月革命に先駆けて、モルドバ共和国の公用語をルーマニア語に戻す運動から発端している。過去の歴史において異文化による占領を多く経験してきた同国にとって、自らのアイデンティティーを確立する要素は非常に少なかった。長い間のソビエト連邦によるルーマニア文化排斥政策が行われた。言語転換もその一つであり元来ラテン表記である物をキリル標記にさせ、モルドバ語という言葉を人為的に作りルーマニアとの隔離政策を行ったのである。しかしながら、くしくも日常的に使用する言葉が呼び名は変わろうともルーマニア語に他ならないことが、自らのルーツがルーマニア民族であるという主張を裏付ける説得要因であったが為に、必然的にソビエトからの独立を突き動かす原動力となっていったのではないかという見解が存在する。80年代後半には当時の歴史学者、作家他知識人達が主導して言語奪回運動を組織し、当時モルドバ・ソビエト議会議長だったミルチャ・スネグルを巻き込み、公用語をルーマニア語と宣言した。(独立宣言においては公用語はルーマニア語と表記されている。同時に当時はルーマニア国歌がモルドバ国歌になり、国旗もルーマニアの国旗が使われた。)しかし後に作成された憲法には、1条13項に於いて、モルドバ共和国の公用語はMoldovan (モルドバ語) であり、その表記はラテンアルファベットを使う、と記述されることになる。

8月31日は"Limba Noastră我らが言語)"と呼ばれる祝日で、1989年の同日に公用語をルーマニア語にし、キリル文字表記から元々のラテン文字表記に変更されたことを毎年祝賀している。首都キシナウには、これにちなんだ8月31日通りが存在する。

モルドバ共産党党首のウラディミール・ボロニンが大統領に就任して以降、この言語の日の存続が危うくなっている。2006年に、共産党政権は、17年間にわたって伝統的にLimba Noastrăの日が祝賀されていた広場においての、公式イベントの実施を禁止し、翌年2007年にはLimba Noastrăの日を解体する計画が立てられている、という噂も流れていた。 モルドバの独立とモルドバ語の再獲得とを切り離せない同国において、この共産党の政策は歴史の逆行と同等であり、初代大統領スネグルを含め、様々な懸念が各所から噴出している。

2006年3月に、ロシアがモルドバのワインに対して禁輸政策を打ち出し経済制裁を敷いたが、発端はモルドバ側が、ルーマニア語学校を閉鎖した沿ドニエストル地方に対する経済封鎖を科したからだった。この交渉の際に禁輸政策他経済制裁を解く対価として、ロシア側のウラジーミル・プーチン大統領がモルドバ国内におけるロシア語の擁護をボロニン大統領に要請したが、モルドバ側はかたくなに拒否した。

共産党政府は、ルーマニア歴史過程をロシア寄りの歴史解釈を教える統一歴史過程に置き変える政策を打ち出して、学校におけるロシア語教科のウェイトを増やした他、ルーマニア語・フランス語学校などモルドバ内に住む他言語住民の学校名をモルドバ語・フランス語学校に変えるなどといった政策を展開させ、議論のみならず多数住民との間の対立を深めている。その後統一歴史教科書は出版されたものの現場には受け入れられず実際には使用されなかった。

モルドバ人にとってルーマニア語は誇りであるとされ、その響きの美しさが他言語を話す者をも魅了すると自負することが多い。また、モルドバの有名な音楽グループであるO-Zoneも「Nu Ma Las De Limba Noastră」(僕らの言葉は渡さない)という歌を歌っている。

宗教

正教会が主であり、主にルーマニア正教会と、ロシア正教会系のモルドバ正教会の2者が並存している。1992年、ロシア正教会のキシナウ府主教区が自治権を得て、自治教会としてのモルドバ正教会が成立した。モルドバ正教会は、ルーマニア正教会のベッサラビア府主教区と教区が重複しており、両者の関係は良好ではない。古儀式派の信徒も居住している。

人権

警察による抑留者への拷問と虐待が広範囲にわたって行われていることが問題視されている。政府はそれを根絶するため、警察機構の改革のための立法上の手続きを行っていたが、その法の支配が現場まで及んでいないのが現状である。2005年以降、欧州人権裁判所は8つの事例において、モルドバが拷問と虐待によって人権を侵害していると発表した[5]

また、モルドバは人身売買の供給源として知られている。これは、労働者や売春婦として国外で働くことが、今もまだ重要な外貨獲得の手段として考えられているからと言われている[6]

2012年3月6日には、有罪が確定した児童性犯罪者に対し、強制的に化学的去勢を施す法案が可決された。仮に性犯罪を起こした人間が外国人でも同様の扱いを受ける。モルドバは「児童買春天国」と諸外国から問題視されている[7]

以上のことから、経済面でなく人権面でも他の欧州諸国と比べると立ち遅れが目立つ。

文化

2004年2005年に世界的な大ヒット、日本でも「飲ま飲まイェイ!」で話題になった「恋のマイアヒ (DRAGOSTEA DIN TEI)」はモルドバ出身の男性3人組「O-Zone」がモルドバ語で歌っていたもの。

有名な出身者

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参考文献

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脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

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外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 IMF Data and Statistics 2009年4月27日閲覧([1]
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite news
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Citenews