モヘンジョダロ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
モヘンジョ・ダロから転送)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox

モヘンジョ=ダロウルドゥー語موئن جو دڑوシンド語موئن جو دڙوテンプレート:Lang-en)は、インダス文明最大級の都市遺跡

紀元前2500年から紀元前1800年にかけ繁栄し、最大で4万人近くが居住していたと推測される。しかしその後短期間に衰退し、原因はさまざまな説がある。近年の研究では大規模な洪水によると考えられている。

呼称

モヘンジョ=ダロは現地の言葉で「死の丘」を意味し、歴史学者が足を踏み入れるまでは、非常に古い時代の死者が眠る墳丘として、地元民は恐れて近よらない禁忌の領域であった。この都市の本来の呼び名、すなわち往時の名称については、インダス文字が解読されていないため、ヒントすら得られていない。

都市の特徴

遺跡は東西二つの遺丘からなる。東方に市街地が、西方に城塞が広がっている。規模としてはほぼ1.6キロメートル四方と推定されるが、今後の調査によってさらに大きなものに訂正される可能性がある。遺跡は整然とした都市計画を示し、道路は直角に交差し、碁盤の目のように細分されていた。水道、汚水の排水システム、個人用の浴室、公衆浴場などがすでに存在しており、水量の季節的変動を考慮して貯水池を十分に整備するまでに水利工学は進歩していた。また、建築には一定のサイズの煉瓦が使用されていた。以上のことは、この地に確固たる社会構造、強力な階級制度中央集権制度が存在していたことを意味する。

東丘の市街地

市街地は、東西2本、南北3本の幅10メートルの大路によって12区間に分かたれていたらしい。一つ一つの区間が、大通りに通ずる1.5~3メートルほどの小路でさらに分けられていた。市街地全体を囲むような市壁があったかどうかは不明である。ここでは、一般の家屋から隊商宿といわれる建物、労働者用の粗末な小屋など、さまざまな建物が見つかっている。家屋は大小さまざまだが、中庭を中心にしそれを囲んでいくつかの部屋を持つように作られ、出入口を大路に面した側には持たず、小路に面して戸口を開くスタイルが一般的だった。各戸は下水道を備え、汚水は小路の排水溝へ通じ、さらに大路の排水溝へ集められる仕組みになっていた。

西丘の城塞

モヘンジョ=ダロの「城塞」(城塞並みに重厚な建造物であることからそのように呼ばれているが、城塞とは異なり、戦争用の遺物は見られない)は、ハラッパーの場合と同様、堅固な城壁をめぐらし、その内側に煉瓦を10メートルほど積み上げた人口の基壇を設け、東丘を見下ろすように一段高くつくられている。基壇の上には、問学所と呼ばれる建物や、会議場あるいは列柱広間と呼ばれる30メートル四方の建物など、おそらくは市制を司ったであろう公共的な建造物が建ち並んでいる。ほぼ中央には長辺12メートル、短辺7メートル、深さ2.4メートルの、内面を瀝青で耐水加工した焼成煉瓦造りの大浴場が存在し、これに接するように、長辺45メートル、短辺27.5メートルの範囲内に27ほどの穀物倉の基壇群が存在する。この構造は煉瓦造りの基壇の上に木造の建物が載っていたとされている。大浴場はある種の祭儀の場であろう、と考えられていたが、近年ではさらに、この大浴場と穀物倉との位置関係が改めて注目されている。この二つが結びつくことで、再生・増殖の象徴として機能していたのではないか、という指摘がなされている。城塞は、政治センターとしての役割ばかりではなく、宗教センターの役割も果たしていたようである。

農業

このインダス河流域の都市社会では、農業が重要な役割を果たしていた。人々は小麦を栽培し家畜牛を飼育して生計を立てていた。広い道路や傾斜路が整備されていたので、収穫物を載せた荷車が容易に往来できた。輸送手段とともに食物の保存技術も発達した。

遺跡を巡る現代史

文明遺跡としての発見は、1922年インド考古調査局員であったインド人歴史学者R・D・ボンドパッダーエ(Rakhaldas Das Bandyopadhyayベンガル語রাখালদাস বন্দোপাধ্যায়、異名:Rakhaldas Banerji、Rakhaldas Banerjee [R・バネルジ、R・バナージー])の発掘調査によってなされた[1]

1980年、「英語名:Archaeological Ruins at Moenjodaro和訳名:モヘンジョダロの考古遺跡)」の名でユネスコ世界遺産文化遺産に登録された。

遺跡が属する地域一帯では地下水の上昇による塩害が進行し続けているが、モヘンジョ=ダロはこれを覆い隠していた堆積物が大規模に取り払われた1965年以降、遺構の構成物である煉瓦が塩分を吸い上げて風化してゆく塩分砕屑現象が止まらない。そうして土に還ってしまった遺構も少なくはなく、保存の問題が何十年も叫ばれ続けている。

ユネスコ世界遺産

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

交通アクセス

往路はカラチからサッカル (Sathkar) まで空路を利用。サッカルからチャータータクシーを利用して、約1時間半程度。 カラチの旅行会社であらかじめ往復航空券とチャータータクシーの予約をする方法がある。モヘンジョ=ダロの隣町ラルカナまで鉄道もあるが、治安があまりよくない。復路はモヘンジョ=ダロ空港からカラチまでの直行便があり、インダス川を空から眺めることができる。

なお、モヘンジョ=ダロから見てインダス川の対岸にも遺跡が多く存在するが、こちらの方はアクセスも難しい上、 ダコイト(武装集団、野盗)が猛威を振るっているため、非常に危険である。 また、以前はモヘンジョ=ダロの宿舎に宿泊もできたが、職員が夜には全員引き上げるため、現在は宿泊は不可能。 ラルカナの安宿に宿泊する手もあるが、治安のことを考えるとなるべくカラチから日帰りで行くべきである。

脚注・出典

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

参考文献

  • アンリ・スティルラン『世界の古代遺跡』森山隆訳、創元社、2006年、3頁
  • 『古代文明と遺跡の謎・総解説』自由国民社、1993年、160-162頁
  • 木村重信『失われた文明を求めて』KBI出版、1994年、50頁

関連項目

テンプレート:Sister

外部リンク

テンプレート:Pakistan-stub

テンプレート:パキスタンの世界遺産

テンプレート:Coord
  1. テンプレート:Cite web