モハメド・アリ

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テンプレート:MedalTableTop テンプレート:MedalCountry テンプレート:MedalSport テンプレート:MedalCompetition テンプレート:MedalGold テンプレート:MedalBottom モハメド・アリ(Muhammad Ali、1942年1月17日 - )は、アメリカ合衆国の元プロボクサー。元世界ヘビー級チャンピオン。アフリカ系アメリカ人であり、他にイングランドアイルランドの血を引いていた[1]ケンタッキー州ルイビル出身。

イスラム改宗前の旧名はカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニア (Cassius Marcellus Clay Jr.)。1964年にネーション・オブ・イスラムへの加入を機に、リングネームと本名をモハメド・アリに改名した。1960年ローマオリンピックボクシングライトヘビー級金メダル獲得。その後プロに転向し、ソニー・リストンを倒して世界ヘビー級王座を獲得。ベトナム戦争の徴兵拒否や、人種差別に関する発言、マルコム・Xとの関わりなど政治的言動から、当時のアメリカの政権や保守派と対立し、ライセンス剥奪、試合禁止等、たび重なる圧力を加えられたが、通算で3回のチャンピオン奪取に成功し、通算19度の防衛を果たした。

ジョージ・フォアマンザイールで対戦し、8Rの一発で大逆転を演じたタイトルマッチや、ジョー・フレージャーとの死闘など、数々の名勝負を残した。徴兵拒否でアメリカ政府と長期にわたる訴訟を戦って無罪を勝ち取った(#リング外での闘い)でも知られる。引退後の現在は、現役時代に受けた頭部への打撃が原因のパーキンソン病と闘病中である。

ボクシングスタイル

蝶のように舞い、蜂のように刺す
大男たちが力任せに殴り合いをしていたヘビー級に華麗なフットワークと鋭い左ジャブを活用するアウトボクシングを持ち込んだアリのボクシングスタイルは "Float like a butterfly, sting like a bee" (蝶のように舞い、蜂のように刺す)と形容された。これは、スタッフであったドゥルー・バンディーニ・ブラウンが言ったもの。ブラウンはアリの精神的支柱であり、「蝶のように舞い蜂のように刺す」と一緒に叫ぶパフォーマンスを見せていた。
ヘビー級史上最速の一人
リングを縦横無尽に動き回れる体のこなしだけでなく、ジャブに右ストレートでカウンターを合わせる離れ業をやってのけるパンチのスピードも持っていた。マイク・タイソンが出現した現代においてもなお、ヘビー級史上最速との見方がある。
シュガー・レイ・ロビンソンの影響
シュガー・レイ・ロビンソンを尊敬しており実際に影響をうけたと指摘する声もある。レオン・スピンクスとの再戦を前に「俺は三度ヘビー級チャンピオンを獲得する最初の男になる。ヘビー級のシュガー・レイ・ロビンソンになるんだ」と語っている。後にはシュガー・レイ・レナードを育てた名トレーナー、アンジェロ・ダンディーと常にコンビを組んでいた。
プロボクサーの娘
娘のレイラ・アリはプロボクサーとして活躍した。WBC女子スーパーミドル級の初代チャンピオン。ジョー・フレージャーの娘であるジャッキー・フレージャー・ライドと2001年6月に対戦した。
トラッシュトーク
アリ以前のボクサーは基本的にファン層である労働者階級に悪影響を与えないよう優等生的で、紳士然とした態度を求められていたがアリは対戦相手を徹底的に口汚く罵ることで相手を惑わし、自分を奮わせる態度をとったため当時のメディアからは非常に不評で、自らを最強で美しい男と言ってはばからない彼を「ホラ吹きクレイ」と揶揄していた。彼の言葉は単なる口汚いものではなく「It will be a killer, and a chiller, and a thriller, when I get the gorilla in Manila」巧みに韻を踏んだ言葉も残している。

来歴

幼年期

1942年1月17日にアメリカ合衆国ケンタッキー州ルイビルのルイビル総合病院で、父カシアスと母オデッサの間に、カシアス・マーセラス・クレイとして生まれた。父親と同じ名前であるため、ジュニアが名前の最後についていた。彼は小学生の頃、父親から誕生日にプレゼントにもらった自転車を宝物にしており、それに乗ってよく近所にポップコーンとアイスクリームをもらいに行っていた。ところが、ある日、誰かに自転車を盗まれ、警察にいった際、この時の警官がボクシングジムのトレーナーもしており、彼に犯人に鉄拳制裁を加えるという意味でボクシングを勧め、その警官のボクシングジムに入った。これが、モハメド・アリがボクシングを始めたキッカケである。

アマチュア時代

ジムに入門後、アリは8週間でアマチュアボクサーとしてデビューした。対戦相手は、アリ同様にデビューしたてのロニー・オキーフだった。試合は3分3Rで行われ、スプリットデシジョンで判定勝ちした。アリが通っていたジムには、後にWBA 世界ヘビー級王者になるジミー・エリスも通っており、アリはアマチュア時代にエリスと2度対戦し、1勝1敗の戦績を残した。この間に、アリはヴァージニア大通り小学校とデゥヴァル中学校を卒業。セントラル高校に進学している。

その後、ケンタッキー州ゴールデングローブで6度優勝し、1959年には全米ゴールデングローブのミドル級で2年連続優勝した。さらに、AAU ボクシング競技のライトヘビー級でも1959年から2年連続優勝を果たした。

1960年9月に開催されたローマオリンピックボクシング競技(ライトヘビー級)に出場。前年度ヨーロッパチャンピオンのポーランドズビグニェフ・ピトロシュコスキーを判定で破って優勝。

プロ転向と改名

1960年10月29日にプロデビュー。タニー・ハンセイカーと対戦し、6R判定勝ちを収めて、プロデビュー戦を勝利で飾る。また、プロ転向直後にネーション・オブ・イスラムの信徒であると公表し、リングネームを現在の本名である、ムスリム(イスラム教徒)名モハメド・アリに改めた。この名前は、預言者ムハンマドと指導者(イマームアリーに由来する。なお、1975年にはイスラム教スンナ派に改宗している。

1962年11月15日に元世界ライトヘビー級王者のアーチー・ムーアと対戦。試合前に、控え室の黒板に「ムーアを4ラウンドにKOする」という予言を書いてリングに向かい、その予言の通り4ラウンド目に3度ダウンを奪ってKO勝ちした。

1963年3月13日に、元世界ライトヘビー級王座挑戦者のダグ・ジョーンズと対戦。アリが10R判定で勝利。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤー(年間最高試合賞)に選出されたが、アリは試合前にジョーンズを6RでKOすると公言していたため、試合後に新聞からバッシングを浴びた。

1964年4月25日、WBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンに挑戦。当時史上最強のハードパンチャーと評価されたリストンに対しアリは絶対不利と言われ、賭け率は7対1でリストンが優位だった。しかしアリは臆せず「蝶のように舞い、蜂のように刺す」と公言。試合は一方的なものとなり、6R終了時にTKO勝ちとなった。アリは試合終了後のインタビューで「I must be 'The Greatest'!」と興奮冷めやらぬ様子で叫んだ。試合後アリは正式に本名をカシアス・クレイからモハメド・アリへと改名した[2][3]

リング外での闘い

1960年に勃発し、のちにアメリカが本格参戦したベトナム戦争への徴兵を拒否したことから無敗のままWBAWBC統一世界ヘビー級王座を剥奪され、3年7か月間ブランクを作ったが、復帰後、実力で王座奪還を果たした。また露骨な黒人差別を温存するアメリカ社会に批判的な言動を繰り返した。その後公民権運動などの貢献が称えられ、ドイツの平和賞「オットー・ハーン平和メダル」を受賞。

キンシャサの奇跡

王座剥奪後の1971年3月8日、ジョー・フレージャーに挑戦する。初めての敗北を喫したが、3年後の1974年10月30日、フレージャーに代わり新王者となっていたジョージ・フォアマンにKO勝ちを収め、王座に返り咲いた。

この挑戦試合はアフリカのザイール(現・コンゴ民主共和国)で行われ、"Rumble in the jungle"というタイトルがつけられていた。当時、一般には全盛を過ぎたと見られていたアリが史上最高のハードパンチャーと目されたフォアマンを破ったため、「キンシャサの奇跡」とも呼ばれる。

この試合でアリは、ロープにもたれながら相手のパンチを腕でブロックし、自分では打ち返さずに、防戦一方になっていたが、一見劣勢に見えながらも、フォアマンの体力を消耗させて、最後の一発で逆転するというクレバーな作戦をとり、見事な勝利を収めた。アリはこの戦法を"rope a dope"と名づけた。

ただし、以降の防衛戦でこの戦法を多用する一方、対戦相手のパンチを被弾することも増加していったため、後年のパーキンソン病の遠因ではないかとする説がある。

日本での活動

1972年に初来日。この時は4月1日に東京・日本武道館でマック・フォスターと対戦し、15回判定勝ちを収めた。

1976年の来日では6月26日に日本武道館でプロレスラーアントニオ猪木と「格闘技世界一決定戦」を行う。特別ルールで戦い結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け(詳細はアントニオ猪木対モハメド・アリ)。アリのテーマソングである「炎のファイター」(通称「アリ・ボマイエ(ボンバイエ)」、作曲: マイケル・マッサー)は、76年に格闘技世界一決定戦を戦った猪木に記念品として寄贈されたということになっており、「イノキ・ボンバイエ」として歌われている。この歌は、翌年公開の映画「アリ/ザ・グレーテスト」(en)のエンディング・テーマ「I Always Knew I Had It In Me」(作詞:ジェリー・ゴフィン)としてジョージ・ベンソンが全く別アレンジのバラードとなって流れる。ちなみにオープニング・タイトルの「The Greatest Love of All」は後にホイットニー・ヒューストンがカバーして大ヒットとなった。

1998年の来日の際には4月4日に東京ドームで挙行されたアントニオ猪木のプロレスラー現役引退試合のスペシャルゲストとしてリングに上がり、猪木を労った。

病との闘い

引退後にパーキンソン病にかかり、長い闘病生活に入った。公の場に出る機会は大きく減ったが、難病の中でも社会に対してメッセージを発し続けるアリへの評価は、アメリカ社会そのものの変化もあってむしろ高まっていった。

1996年7月19日、アトランタオリンピックの開会式で聖火を聖火台に点火。金メダルを再授与された。この開会式では聖火台の点火者は当日まで秘密にされていたが、女子水泳選手のジャネット・エバンスが、点火台まで聖火のトーチを運び上げた時、アリは彼女からトーチを受け取り、病気のため震える手で点火用のトーチに火を点けた(火が点くと同時にそのトーチは上昇し、上にある聖火台に飛び込んで火が点くしかけだった)。この時、1960年のローマオリンピックで金メダルを得て帰国直後に、レストランにて黒人である事を理由に入店拒否され、メダルを川に捨てたというエピソードが紹介され、改めてアトランタの金メダルが彼に贈られた。

また、練習時に踏まれた右足の小指が骨折し、おかしな位置でくっついてしまったために引退後は軽い歩行困難になっている。

引退後

1990年に湾岸危機に際し、サッダーム・フセイン:イラク大統領との直接対話のため、病をおしてバグダードに赴き、アメリカ人の人質解放に成功する。解放された人のうち6人[4]が、早く帰れる飛行機には乗らず、アリと同じ飛行機に乗って帰国した。

2003年のMLBオールスターゲーム始球式を務め、久し振りに公の場に姿を見せた。

2005年11月9日、アメリカ合衆国ホワイトハウスにて文民に送られる最高の勲章である大統領自由勲章を授与された。

2009年にはアイルランド・クレア郡エニスの名誉市民に選出され、9月1日に記念式典が行われた[5]

ファイル:Muhammad Ali and Jimmy Carter.jpg
1977年、ホワイトハウスで開かれた新パナマ運河条約締結の祝宴でジミー・カーター第39代米国大統領(右)と

2012年に開催されたロンドンオリンピック開会式では、オリンピックシンボル運搬の際に、実に3年ぶりに公の場に姿を現した。

戦績

アリ、フレージャー、フォアマンはいずれもオリンピックの金メダリスト(アリはライトヘビー級、フレージャーとフォアマンはヘビー級の金メダリスト)であり、オリンピックチャンピオンがプロでも活躍するという流れがこの当時続いていた。アリと同様、ライトヘビー級で金メダルを獲得したスピンクスがアリに挑戦し、番狂わせで王座を獲得したが、アリは再戦で王座に返り咲き、史上初めて、3度王座を獲得したヘビー級ボクサーとなった。

1960年ローマオリンピックで金メダルを獲得。その後、黒人差別を受け金メダルを川に投げ捨てた[6]。同年10月29日にプロデビュー。

1962年12月15日、老雄アーチー・ムーアに4回TKO勝ち。

1964年2月25日、ソニー・リストンに7回TKO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(2度目)。

1965年5月25日、初防衛戦でリストンとのリターンマッチに臨み、初回の2分12秒で返り討ちにした。

1965年11月22日、2度目の防衛戦でかつての名王者フロイド・パターソンの挑戦を受け、12回TKO勝ち。当時アリはネーション・オブ・イスラム入信を公表しアメリカ社会を激しく批判していた「白人の意のままにならない黒人」だった。パターソンはそれを止めるベビーフェイスとして担ぎ出された。彼もこの報道攻勢に乗せられる形で「タイトルをアメリカに戻す」と発言。それを聞いたアリは失望し、憧れでもあった彼に対して「アンクルトム」と罵り、試合中もレフェリーが止めるまで決定的な強打を打たずパターソンを痛めつけ続けた。

1966年3月29日、3度目の防衛戦でカナダの強豪ジョージ・シュバロと対戦。先の試合で見せた圧倒的な強さから前評判ではアリの圧倒的有利の予想であった。しかしシュバロの徹底したインファイトと執拗なボディ攻撃に苦しんだが、要所で有効打をヒットさせて15回判定勝ち。アリにとってみれば初の大苦戦ともいえる試合であった。

1966年5月21日、4度目の防衛戦でヘンリー・クーパーと対戦。クーパーは王者になる前のアリからノックダウンを奪うほどの実力者であった。試合はお互いの実力が拮抗したハイレベルな打撃戦となったが、クーパーが6回終了後に左瞼からの大出血のためドクターストップで辛くも勝利した。

1966年8月6日、5度目の防衛戦でブライアン・ロンドンに3回KO勝ち。勝負を決めたラッシュはカメラが捕らえきれないほどの高速でありながら、全てがクリーンヒットするという驚異的なものだった。

1966年9月10日、6度目の防衛戦でドイツのカール・ミルデンバーガーの挑戦を受ける。アリは終始パワフルな攻撃を見せるが、ミルデンバーガーは打たれても打たれても強靭な精神力で耐え続けアリが休むと怒涛の反撃を見せる。しかしワンサイドで打たれまくったミルデンバーガーの危険を察したレフェリーが12回に遂にストップを宣告するという壮絶なものであった。

1967年2月6日、WBA世界ヘビー級王者アーニー・テレルと対戦。試合前アーニーはわざとアリの旧名であるカシアス・クレイと呼んで挑発し、これに怒ったアリは試合を完全にコントロールしたどころかわざと決定打を打たず「俺の名前を言ってみろ!」と叫び続けて完全に打ちのめし判定勝利した。試合後アリは「やつは早く楽になりたかったろうな。奴隷の名前で俺を呼んだ罰だ(当時アリが入信していたネーション・オブ・イスラムではほとんどのアフリカ系アメリカ人が持つ名前を、奴隷主に付けられた名として否定的に見る面がある)」

1967年3月22日、9度目の防衛戦でゾラ・フォーリーを7回TKOで沈めた。この年良心的兵役拒否のため、禁固5年と罰金1万ドルを科せられ(1971年7月に合衆国最高裁で無罪となった)[7]、WBA世界ヘビー級王座も剥奪された。ボクサーライセンスも剥奪され、3年7か月間のブランクを作った。

1969年3月11日、WBC世界ヘビー級王座を剥奪された。

1970年10月26日、世界ヘビー級1位、ジェリー・クォーリーと3年ぶりの試合を行い、3回TKO勝ちして再起を果たした。

1970年12月7日、ジョー・フレージャーの持つ世界ヘビー級タイトルへ挑戦する前の前哨戦で、フレージャーを相手に健闘したオスカー・ボナベナと対戦する。試合前は楽観視されていたが、大苦戦の末に最終回にボナベナから3度のダウンを奪って勝利した。

1971年3月8日、ジョー・フレージャーの持つWBA・WBC統一世界ヘビー級王座に挑戦するが、15回に左フックでダウンを奪われるなどして判定負け。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(3度目)。

1971年7月26日、NABF北米ヘビー級王座決定戦でジミー・エリスを12回TKO勝ちで北米ヘビー級チャンピオンとなる。

1972年4月1日、東京・日本武道館マック・フォスターとのノンタイトル15回戦を行う。15回判定勝ち。

1973年3月31日、ケン・ノートンに判定負け、生涯2度目の敗北。さらに試合後、顎を骨折していたことが分かる。

1973年9月10日、ケン・ノートンに判定勝ちし、雪辱。

1974年1月28日、前王者ジョー・フレージャーと3年越しの再戦を行い、12回判定勝ち。雪辱を果たすとともに王者ジョージ・フォアマンへの挑戦権を得る。この試合はリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(4度目)。

1974年10月30日、ジョージ・フォアマンに8回KO勝ちでWBA・WBC統一世界ヘビー級王座を獲得(キンシャサの奇跡)。その後、10度防衛。

1975年3月24日、無名のチャック・ウェプナーと初防衛戦を行い、15回KO勝ちするが、ダウン(実はウェプナーがアリの足を踏んだため)を喫するなど、ウェプナーが善戦する。この試合を見たシルヴェスター・スタローンは、映画「ロッキー」のストーリーを思い付いた。

1975年10月1日、フィリピンアラネタ・コロシアムで行われた4度目の防衛戦でジョー・フレージャーと対戦し、14回TKO勝利を収めた。終生のライバルとなったフレージャーとは3度対戦して、2勝1敗であった。興行名を "The Thrilla in Manila" としたこの対戦は両者死力を尽くして形勢が何度も逆転した名試合であり、この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(5度目)。

1976年6月26日、武道館で猪木戦を行う。結果は3分15回を戦い時間切れ引き分け。

1978年2月15日、レオン・スピンクスにニューヨークのヒルトンスポーツパビリオンでの試合で判定負けして王座を失った。この試合もリングマガジン ファイト・オブ・ザ・イヤーに選出された(6度目)。この後、スピンクスはWBCから王座を剥奪され、WBA王座のみとなった。WBC世界ヘビー級王座には、ケン・ノートンが認定された。

1978年9月15日、レオン・スピンクスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級王座を奪回(3度目の返り咲き・この後王座返上)。

1980年10月2日、カムバックし、かつてスパーリング・パートナーだったラリー・ホームズのWBC世界ヘビー級王座に挑戦するが、11ラウンドTKOで敗れ、奪取ならず。

1981年12月11日、トレバー・バービックに判定負けし、遂に引退

語録

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獲得タイトル

ファイル:Muhammad Ali's boxing gloves.jpg
米国歴史博物館に展示されるアリのグローブ

アマチュアボクシング

  • ケンタッキー州ゴールデングローブ優勝
  • 全米ゴールデングローブミドル級優勝
  • AAUボクシング競技ライトヘビー級優勝
  • ローマオリンピックボクシングライトヘビー級優勝

プロボクシング

  • NABFヘビー級王座
  • WBA世界ヘビー級王座
  • WBC世界ヘビー級王座
  • WBA・WBC統一世界ヘビー級王座

受賞歴

  • オットー・ハーン平和メダル
  • 金メダル再授与(1996年)
  • 自由勲章

関連映画

関連書籍

  • モハメド・アリ自伝 わが魂の戦歴 鈴木主税訳 早川書房
  • ホセ・トレス 『カシアス・クレイ』 和田俊朝日新聞出版 1972年
  • 田原八郎 『モハメド・アリ―合衆国と闘った輝ける魂』 燃焼社、2003年8月
  • ハワード・L. ビンガム 『モハメド・アリ 聖者』 岩本正恵訳、リトルモア、1997年11月
  • マイク・マークシー 『モハメド・アリとその時代―グローバル・ヒーローの肖像』 藤永康政訳、未來社、2001年10月
  • デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月
  • デイヴィス・ミラー 『モハメド・アリの道』 田栗美奈子訳、青山出版社、1997年9月
  • 田中茂朗 『モハメド・アリ 〜リングを降りた黒い戦士』 メディアファクトリー、1992年6月20日
  • トマス・ハウザー 『シリーズ・ザ・スポーツノンフィクション14 モハメド・アリ -その生と時代』小林勇次訳、東京書籍、1993年7月2日
  • ハナ・アリ 『私の父モハメド・アリ』 北沢あかね訳、愛育社、2001年9月
  • 『月刊スーパーマン増刊 スーパーマン対モハメド・アリ』月刊スーパーマン1978年9月号増刊号、マーベリック出版
    雑誌は既に廃刊・絶版済み。スーパーマンのストーリーにアリを絡ませたコミック作品である。アリを取材にクラーク・ケントたちがやってきた際、地球に強大な宇宙艦隊が飛来する。その宇宙艦隊の要求により、アリが地球チャンピオンとして、宇宙の格闘技王者ハンニャと地球の運命をかけて対戦することになる。地球人を奴隷にするという宇宙人の言葉に怒ったアリはハンニャにKO勝ち、宇宙艦隊もスーパーマンの前に全滅し、アリとスーパーマンの共同戦線により地球の平和は守られるという奇想天外なストーリー。

脚注

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関連項目

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外部リンク

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  1. テンプレート:Cite news
  2. 『ボクシングヘビー級最強伝説 ◎世界を制覇した男たち』ベースボール・マガジン社、2009年、39ページ。
  3. 『スポーツ20世紀8 カリスマの系譜 スーパースター最強列伝』ベースボール・マガジン社、2001年、32ページ。
  4. トマス・ハウザー「モハメド・アリ(下)」岩波現代文庫377頁
  5. モハメド・アリ、曾祖父の故郷アイルランドで名誉市民に AFPBB News 2009年9月2日閲覧
  6. スポーツのココロ 第1回 秩父宮記念スポーツ博物館・図書館
  7. デイビッド・レムニック 『モハメド・アリ―その闘いのすべて』 佐々木純子訳、阪急コミュニケーションズ、2001年9月