ムハンマド・オマル

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テンプレート:政治家 ムハンマド・オマルテンプレート:Lang-ps Muhammad Omar、1959年頃 ‐ )は、イスラーム主義勢力ターリバーンの最高指導者。アフガニスタン・イスラム首長国首長。「オマル」は「ウマル」とも表記される。日本の報道では「オマル師」と表記することが多い。

経歴

アフガニスタン南部カンダハール近郊[1]出身のパシュトゥーン人。一家は極貧の雇われ百姓であり、オマルの生誕前に父親を亡くし、生計はオマルが支えたとされる。

パキスタンカイバル・パクトゥンクワ州イスラーム神学校(マドラサ)に学び、ソ連のアフガニスタン侵攻ムジャーヒディーンとしてゲリラ戦を行い、ムハンマド・ナジーブッラー政権と戦った。オマルは対ソビエト軍の戦いで4度負傷したとされる。1986年、カンダハール近郊の戦闘で右目を失い、クエッタのマドラサで過ごした。他のムジャーヒディーンとは異なりオマルはアラビア語を解したため、アブドゥッラー・アッザームの教えに感化されてマドラサでその思想を広めた。オマルはカラチに移り説教を始めるが、そこでウサーマ・ビン・ラーディンと初めて会っている。

1989年にソビエト軍がアフガニスタンから撤退を開始し、アフガニスタン内戦1992年にナジーブッラー政権が崩壊すると、オマルはカンダハールに戻りマドラサを設立した。1994年、オマルの夢に預言者ムハンマドが現れて、武装決起を命じ、味方することを告げた、とされる。オマルはその頃から、周りの友人達と治安回復を話し合っていた。周囲はオマルを「ムッラー」(物知り)「アミールッムーミニーン」(信者の長)と呼んだ。オマルはマドラサでの50人にも満たない教え子たちと「ターリバーン」(アラビア語で「学生」の意)と呼ばれる運動を開始、そこにパキスタンにいるアフガン難民らも合流した。1994年の段階でもターリバーンの勢力は30名ほどでライフルも16丁しかなかったと言われる。腐敗した軍閥に憤っていたターリバーンは軍閥に誘拐された少女らを救出して人々の支持を得、ターリバーンには他のイスラーム神学校からも多数が参加するようになった。一大勢力に成長したターリバーンは1995年にはヘラートを占領した。1996年カーブル占領でターリバーンの最高指導者としてオマルは新政権「アフガニスタン・イスラム首長国Islamic Emirate of Afghanistan)」を発足させ、その首長(アミール・アル=ムウミニーン)に就任した。ターリバーンは宗教的な紐帯を軸に発足した政権であり、首長の称号もかつてのカリフになぞらえたものだったが、オマル自身はマドラサの教育を修了しておらず、宗教的な勧告(ファトワー)を発する権限は持たなかった。

ターリバーン政権はイスラームの価値観に基づいたアフガニスタンの復興を目指したが、イスラームの名のもとに国民に女子教育禁止など極端な人権侵害を行ったため国際的に孤立した。さらにアメリカ合衆国サウジアラビア政府に対するテロ行為の黒幕と目されていたビン・ラーディンとアルカーイダを客人として迎え入れて匿ったことから、アメリカと激しく対立する。アルカーイダはアフガニスタンでテロリストの訓練キャンプを設置したほか、この間にもアメリカ大使館爆破事件米艦コール襲撃事件などのテロ事件を引き起こした。このため1999年には国際連合安全保障理事会決議1267[2]、2000年には国際連合安全保障理事会決議1333[3]が採択され、アルカーイダとビン・ラーディンの引き渡しが要求されたが、オマルはいずれの決議にも従わなかった。

テンプレート:Main 2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件が起こり、ビン・ラーディンがその最重要容疑者とみなされ、ターリバーンはまたもアメリカからその身柄の引渡しを要求されるが、オマルはこれも拒否した。このためターリバーンはNATOの攻撃対象とされ、NATO軍と北部同盟の攻撃により同年12月にターリバーン政権は崩壊した。

消息

オマルは寡黙な性格で、首長時代にもメディアへの露出も外交的な活動もなく、公式な写真は一枚もない。しばしば身長が極めて高い(2mと言われる)とされる。2001年12月、カンダハールのオマルの自宅がアメリカ軍に爆撃されてオマルの息子が死亡した。ターリバーン政権崩壊でオマルは残余の兵士とともに逃亡し、その後は消息不明となっている。一説には、アフガニスタンとパキスタンのパシュトゥーン人居住地帯を転々としながらアフガニスタンの親米政権に対する敵対行動を指揮しているという。

2004年4月、パキスタンのメディアがオマルとのインタビューに成功した。そこでオマルはビン・ラーディンとは連絡を取っていると語った。2006年初頭にアフガニスタン国軍により拘束されたターリバーンのムハマド・ハニーフ報道官の供述に拠れば、オマルは現在パキスタン軍統合情報局(ISI)の保護下にあり、クエッタの安全な場所に滞在しているという。ハーミド・カルザイはオマルの背後にはISIがいる、とパキスタンを非難している。また、スタンリー・マクリスタルデヴィッド・ペトレイアスらアメリカ軍高官はイランイスラム革命防衛隊がターリバーンの庇護に関与している、と度々イランを非難している。2006年6月、アブー・ムスアブ・アッ=ザルカーウィーがアメリカ軍の爆撃で死亡すると、オマルはザルカーウィーを殉教者と讃える声明を発表した。2009年11月、ワシントン・ポスト紙はオマルの潜伏先がISIによってカラチに移された、と報じた。ワシントン・ポスト紙は2011年1月にはCIA筋の情報として、オマルが心臓病を発症したと報じるなど、パキスタン潜伏説が度々流れている。2011年5月、7月と死亡説が流れたが[4]、ターリバーンのスポークスマンはこれを否定している。

脚注

テンプレート:Reflist

先代:
ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
(イスラーム国大統領)
アフガニスタン・イスラム首長国首長
1996年 ‐ 2001年
次代:
ブルハーヌッディーン・ラッバーニー
救国・民族イスラム統一戦線大統領)
  1. 生誕地はカンダハール州ノデ村とも、ウルズガン州ともいわれる。
  2. 安保理決議1267(訳文) 外務省
  3. 安保理決議1333(訳文) 外務省
  4. 'Taliban leader Mullah Omar killed'