ミゲル・インドゥライン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 自転車競技選手

ミゲル・アンヘル・インドゥライン・ララヤ(Miguel Ángel Induráin Larraya、1964年7月16日 - )は、スペインの自転車プロロードレース選手。ナバラ自治州出身(民族的にはバスク人)。1991年から1995年にかけてツール・ド・フランス個人総合5連覇を達成したほか、1992年1993年ジロ・デ・イタリア個人総合優勝、1995年の世界選手権など、数多くのタイトルを獲得した。日本ではミゲル(もしくはミゲール)・インデュラインと表記されることが多い。

略歴

1975年より自転車のロードレースへの参戦を開始。1985年にプロに転向し、レイノルズチームと契約を結ぶ。しかし1980年代のインドゥラインは主にアシストとして活動しており、1988年のツール・ド・フランスでは、チームのエースだったペドロ・デルガドのアシストとして、デルガドの個人総合優勝に貢献した。

そんなインドゥラインの環境が変わり始めたのは1989年にツール・ド・フランスで初めてステージ優勝(第9ステージ)を遂げたあたりから。1990年にはチームのスポンサーがレイノルズからバネストに交代し、インドゥラインもパリ~ニース総合優勝、クラシカ・サンセバスティアン優勝などの成績を挙げ、チームにおいてもデルガドに次ぐNo.2のポジションを確立する。

1991年のツール・ド・フランスでは、当初チームはデルガドをエースに立てていたものの、インドゥラインのあまりの好調ぶりにデルガドが途中でエースの交代を認め、そのままインドゥラインは初のツール総合優勝を遂げた。1992年・1993年にはツール・ド・フランス、ジロ・デ・イタリアの両レースで総合優勝を遂げ、いわゆる「ダブルツール」を達成。ダブルツールを2年連続で成し遂げた選手は後にも先にもインドゥラインただ一人。1994年はジロ・デ・イタリアでエフゲニー・ベルツィンらに敗れ総合3位に終わり力が落ちたかと思われたが、ツール・ド・フランスでは全く危なげない様子で4連覇。その直後にはアワーレコードに挑戦し、1時間で53.040kmを走りきり見事世界記録を更新した。

1995年はジロ・デ・イタリア参戦を見送ってツール・ド・フランスに集中し、当時前人未到だった個人総合5連覇を達成しただけでなく、世界選手権(ロード・タイムトライアル)でも優勝。

インドゥラインのレーススタイルは、基本的にタイムトライアルでライバルに大差を付けた上で、その差を山岳ステージでコントロールするというもの。その大柄な体格から山岳コースが苦手と思われがちだが、実際にはアシスト時代にはデルガドの山岳アシストとして活躍している上、ツール・ド・フランスの最初の区間優勝はカテゴリー超級の山岳(リュザルディダン)がゴールとなるステージだったように山岳コースを得意としており、山岳でインドゥラインが先頭に立つとライバルのほとんどはそれに付いて行くのがやっとという状態になるのが常だった。こういったレーススタイルは、その後ランス・アームストロングに受け継がれることになる。

1996年のツール・ド・フランスはインドゥラインの故郷であるスペイン・バスク地方を通るコース設定がなされ、インドゥラインが6連覇で地元に凱旋することが期待されていたが、この年のツール・ド・フランスは異常気象で前半に雨続き、アルプスでも大寒波が襲来と暑さに強いインドゥラインにとって最悪のコンディションであった。 加えてドイツテレコムチームのビャルヌ・リースヤン・ウルリッヒの2人が絶好調、また途中のステージでハンガーノック(水や行動食の補給のミスにより極端にペースが落ちること)に陥ったこともあり、インドゥラインはこの2人に付いて行くことができず総合11位に終わり6連覇を逃す。その直後に行われたアトランタオリンピックの自転車競技・個人タイムトライアルで金メダルを獲得し健在振りを見せたものの、本人のモチベーションが明らかに低下していることは周囲からも見て取れるほど。結局翌1997年1月、バネストとの契約切れを待ってインドゥラインは現役引退を発表した。

引退後はスペインオリンピック委員会の委員、UCI(国際自転車競技連合)のプロフェッショナル自転車委員会の委員を務めている。2005年11月には、現役時代の功績により国際フェアプレー賞を受賞した。

エピソード

  • 現役時代後半は花粉症に悩まされ、自宅の周りは花畑であったが全て刈り取ってしまった。クラシカ・サンセバスティアンを除いてUCIワールドカップシリーズに出場することがほとんど無かったのは、ワールドカップに批判的な監督エチャバリの方針と共に、この花粉症が理由であった。
  • 「クラシックで勝っていない」という常日頃の批判への反発から、1995年のツール・ド・フランスではリエージュ〜バストーニュ〜リエージュと同じコースを使用したステージで猛アタックをかけ集団を振り切ってしまった。この時区間優勝したのはヨハン・ブリュイネールだったが、ゴール直前まで一度も先頭を引かずインドゥラインの後についていくだけだった。
  • 弟プルデンシオもプロロードレーサーで、常に同じチームで走っていた。容姿、体型ともそっくりで自転車のセッティングも殆ど同じのため、弟の自転車に間違えて乗ったまま気づかないこともあったという。これだけそっくりの弟であるが、プロでの通算勝利数は3にとどまった。ちなみに兄が区間優勝した1993年のツール・ド・フランス第9ステージのタイムトライアルで弟は最下位となっている。
  • アワーレコード挑戦の動機は、彼の前にアマチュア選手(グレアム・オブリー、プロ転向前のクリス・ボードマン)が記録を達成したことを受け、「ツールを走っているトップクラスの選手なら、ちょっと練習しただけで簡単に塗り替えられる」であった。そして彼は、その言葉を実践してみせた。
  • 機材に関しては非常に保守的で、ツール・ド・フランスで優勝している間にフレームの各部寸法はまったく変わることがなかった。サドルもセラ・イタリア社のターボという比較的重量のある基本モデルを使い続け、引退の年にようやく軽量化を施した「ターボ・プロチーム」を使用するようになった。
  • 2012年にブラッドリー・ウィギンス(190cm)が総合優勝する以前は、ツールドフランス歴代総合優勝者の中で最も身長が高かった。また使用するクランクが長いことでも有名で、時には190mmのクランクを使うこともあった。(真偽は不明だが200mmという説もある)一般的な選手が使うクランクは165mm~175mmであり、180mm以上のクランクを使うライダーはほとんどいない。
  • 通常時脈拍が28回/分しかなく、ギネスブックに登録されていた。(現在はイギリス人男性の27回/分が最低。)

書籍

ミゲル・インデュライン(未知谷) 書籍情報:ISBN 978-4915841439   

外部リンク

テンプレート:ツール・ド・フランス総合優勝者 テンプレート:ジロ・デ・イタリア総合優勝者 テンプレート:世界自転車選手権男子エリート個人タイムトライアル優勝者 テンプレート:夏季オリンピック自転車競技男子ロード個人タイムトライアル優勝者

テンプレート:Link GA