マルティン・ハイデッガー

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テンプレート:Redirectテンプレート:複数の問題 テンプレート:Infobox 哲学者 マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、ドイツ哲学者ハイデガーハイデカーとも表記される[1]エトムント・フッサール現象学の他、イマヌエル・カントからゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルへと至るドイツ観念論、そしてセーレン・キェルケゴールフリードリヒ・ニーチェらの実存主義に強い影響を受け、独自の哲学理論を発展させた。実存主義哲学における重要な思想家とされるだけでなく、20世紀大陸哲学の潮流における最も重要な哲学者の一人とされる。

概要

現象学の手法を用い、存在論を展開した。その思想の中心的努力は、解釈学的現象学、現象学的破壊、存在の思索といった時期とともに変遷する特徴的思索をもって、伝統的形而上学を批判し、「存在の問い(die Seinsfrage)」を新しく打ち立てる事に向けられた。ヘルダーリントラークルについての研究でも知られるが、これらは後期思想と密接に結び付いている。

後の実存主義などにも多大な影響を及ぼし、その多岐に渡る成果は、彼の影響を直接にうけた弟子たちが後に現代哲学に多大な足跡を残した事、またハイデッガー以後の哲学者たちが、彼の著作から新しい思索の可能性を発展させた事により、ドイツだけではなく20世紀の世界の哲学・人文諸科学にもっとも重大な影響力を及ぼすものとなった。また1930年代に一時的にせよ彼がナチスへ肯定的な発言をしたことも、彼の哲学がたびたび緊迫した論争の主題へ上ることと関わっている。しかし彼は再び表舞台で発言することになる。それは彼の哲学が与えた影響の大きさを物語っている。

生涯

ファイル:Geburtshaus Heidegger Sonne.JPG
ハイデッガーが少年期を過ごしたメスキルヒの家
ファイル:Grab Heidegger.JPG
メスキルヒにおける墓

1889年にマルティン・ハイデッガーは帝政ドイツバーデン大公国メスキルヒにて、地元のカトリック教会の樽職人のフリードリヒとヨハンナの第一子として生まれた。敬虔な両親の教育もあり、ハイデッガーは初めは神学を学んだ。

1903年からコンスタンツで、1906年からフライブルク大学で学び、1909年にギムナジウムを卒業した後にはイエズス修道会に加入する。心臓の病気により修道の道を断念した後は、1911年までフライブルク大学の神学部で学んでいた。この時期にも幾つか論文を執筆しており、それらは今日出版されている。

1911年に哲学に専攻を変更し、数学、歴史学、自然科学を共に学ぶ。当時、フライブルク大学の哲学講座は西南ドイツ学派(新カント派)のリッケルトが有しており、ハイデッガーの最初の哲学的訓練もそれに則したものとなった。

1913年に学位論文『心理学主義の判断論──論理学への批判的・積極的寄与』を、1915年に教授資格論文『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』を提出した。主査は新カント派の西南ドイツ学派のリッケルトであった。また、リッケルトがハイデルベルク大学に転出した後にフライブルク大学に赴任したエドムント・フッサール現象学を直接に学ぶが、ハイデッガーはそれ以前にもフッサールの著作に親しんでいた。

1919年の戦争緊急学期から1923年の夏学期までの時期、ハイデッガーはフッサールの助手として勤めつつ、フライブルク大学の教壇に立つ。一般的にこの時期は初期フライブルク期と呼ばれる。この時期の主要な著述・講義としては、ドイツ留学中の田辺元も聴講した1923年夏学期講義『存在論 ― 事実性の解釈学』や、マールブルク大学ナトルプに提出した1922年の論文『アリストテレスの現象学的解釈──解釈学的状況の提示』(ナトルプ報告)などがある。1923年から28年の間、マールブルク大学の教壇に立った。

1924年にハンナ・アーレントが同大学に入学し、その時から既婚者であったハイデッガーと指導下の学生であった彼女と愛人関係が始まる[2]。1927年に未完の主著『存在と時間』で存在論解釈学により伝統的な形而上学の解体を試みた。1928年のエドムント・フッサールの引退を受け、ハイデッガーはその後任としてフライブルク大学の教授に就任した。ハンナ・アーレントと別れ、翌1929年に彼女はギュンター・シュテルンと結婚した。しかしハンナ・アーレントとの恋愛関係は後に復活し、戦後も長く続くことになった。

ハイデッガーとナチス

ハイデッガーとナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)の関わりは政権獲得以前にさかのぼる。1929年ごろには反ユダヤ主義的言動が目立ち、1930年ごろからは、初期ナチズムに影響を与えたといわれるエルンスト・ユンガーの『労働者・支配と形態』に深く共鳴した。1930年7月31日の「バーデン郷土の日」の祭典では、オイゲン・フィッシャーエルンスト・クリークレオポルド・ツィーグラーといったナチの同調者や党員とともに講演を行っている[3]。1931年ごろにはハイデッガー家の人々がナチズムに「改宗」していたというヘルマン・メルヘンの証言もある[4]。また、ハイデッガーは学長就任にあたってフライブルク大学最古参のナチ党員であるヴォルフガング・アリーらの支援をうけており、すでにこの時点で入党をほのめかしていた[5]

ナチス党がドイツの政権を掌握した1933年の4月21日、ハイデッガーはフライブルク大学総長に選出された。5月1日の「国民的労働の日」をもって、22名の同僚教授とともにナチス党に入党した。5月27日の就任式典では就任演説『ドイツ大学の自己主張』(Die Selbstbehauptung der deutschen Universität)を行い、ナチ党員としてナチス革命を賞賛し、大学をナチス革命の精神と一致させるよう訴えた[6]。またこの式典ではナチス党歌「旗を高く掲げよ」が演奏され、ナチス式敬礼を非党員にも強要して物議をかもしている[7]。10月1日にはフライブルク大学の「指導者」に任命され、大学の「強制的同一化」を推進した。また国際連盟脱退やヒトラーの国家元首就任を支持する演説も行うなど、学外でもアクティブな活動を行った[8]。フライブルク大学の同僚で世界的な化学者であったヘルマン・シュタウディンガーや、かつて自分の友人であったテンプレート:仮リンクの密告も行っている。しかしハイデッガーの「改革」は大学内に内紛をもたらし、混乱を収拾できなくなったハイデッガーは1934年4月23日に総長を辞任した[9]

ナチス協力期のハイデッガーは西洋文明の巨大化に危機意識を持ち、物質的でない自然観の復権を願ってナチスに接近し、アドルフ・ヒトラーを指導してナチスを自身の考える方向に向かわせることを考えていたが、イデオロギー闘争に敗れた、と木田元は語る[10]。木田はこれよりも前の著作『ハイデガーの思想』において、思想とナチスを擁護したことを関連付けて思想をも批判されているが、フライブルク大学の学長として同大学を守るがためにナチスに協力をせざるを得なかったとしていた。

総長辞任後のハイデッガーは「長いナイフの夜」による突撃隊路線の敗北、エルンスト・クリークらといったナチ党系の思想家との対立により、ややナチスとの距離を置くようになった[11]。バチカンとの政教条約締結などいくつかの政策には批判的であり、1936年頃からはナチス党諜報部の監視を受けるようになったという[12]。しかしこの頃はナチス党の党員バッジをはずすことはなく、「ナチズムがドイツの発展の方向を指し示す道だと相変わらず確信していた」[13]と言われるなど、全体としてはナチズム思想の枠内で行動していた[14]

第二次世界大戦後、ハイデッガーはフランス占領当局によって、蔵書と住居の引渡しを求められた上に、非ナチ化を行う浄化委員会の査問を受けることになった。これはハイデッガー裁判と呼ばれる。ハイデッガーはこれに抗して「弁明」を行った。当初は弁明が功を奏したが、フライブルク大学の同僚らの証言によって、次第に窮地に追い込まれることになった。ハイデッガーはライバルであったカール・ヤスパースを頼ろうとしたが、ハイデッガーによるバウムガルテン密告事件を知っていたヤスパースはかえって厳しい評価を含む報告書を送った。こうして1946年12月、バーデン州文部大臣から大学の職務と講義を停止する命令が下された。給与も一時的に停止されたが、1951年には名誉教授として大学に復帰した[15]

実存主義サルトルによってハイデッガーの哲学は実存主義であるとされた。しかし、宇都宮芳明によると「ハイデッガー自身は、前期・後期を通じて一貫して実存哲学者とか実存主義者とよばれるのを拒否している」[16]。1976年、ハイデッガーはフライブルクにて没した。


思想

概要

ここでは便宜的に大きく前期・中期・後期に分けてみる。前期を1920年代。中期を1930年代から第二次大戦終戦まで。後期を第二次大戦終戦から逝去までとする。(『「ヒューマニズム」にかんする書簡』を後期の始まりとし、それ以前を前期とする見方もある。)代表作としては前期では『存在と時間』。中期では『形而上学入門(講義)』『哲学への寄与(覚書)』。後期では『「ヒューマニズム」にかんする書簡』『ニーチェ』『技術への問い』『放下』がある。

前期

前期の代表的な著作は『存在と時間』である。

存在の意味と現象学的方法

この著作でハイデッガーは、「存在者」(Seiende、ザイエンデ)と「存在一般」(Sein、ザイン)を区別した上で、存在の意味についての問い―存在者が存在するという意味はどういうことなのか?―を明らかにしようとした。そのためハイデッガーがとったのは現象学的な方法である。ハイデッガーは、フッサールと同様に志向性の現象を考察することから始めた。人間の行為は、何らかの対象や目的を(建築という行為ならば建物を、会話ならば話題を)目指す限りにおいて志向性をもっている。ハイデッガーは志向性を「関心(Sorge)」と呼ぶが、これは「不安(Angst)」の肯定的側面を反映している。ここでいう「関心」は志向的存在に関する基本的な概念であり、存在的(ontischen)なあり方(ただ単にあるだけの存在)とは区別された存在論的(ontologisch)なあり方(存在という問題に向き合いながら存在すること)として、存在論的に意味付けられたものである。

理論的な知識が表現するのは志向的な行為のうちの一種にすぎず、それが基づいているのは周囲の世界との日常的な関わり方(約束事)の基本形態であって、それらの根本的な基礎である存在ではないとハイデッガーは主張する。彼は「実存的了解」(実存を実存それ自体に即して了解する)と、「実存論的了解」(何が実存を構成するかについての理論的分析)の二種類に分類した。これは、「存在的―存在論的」と呼応するものであるが、人間存在に範囲を限定したものである。ものは、それが日常的な約束事のコンテクスト(これをハイデッガーは「世界」と呼ぶ)の中に「開示される」限りにおいて、そのような存在者である(そのように存在する)のであって、そのコンテクストを離れても客観的に認められる固有性をもっているからではない。カナヅチがカナヅチであるのは、特定のカナヅチ的性質をもっているからではなく、釘を打つのに使えるからなのである。

デカルト批判と現存在

現象学的方法は、デカルト的な実体である「われ」―純粋な思惟者としての「われ」―の否認を必要とする。デカルトが「われ思う」だけは疑いえないものとしたとき、思っている「われ」の存在様式は無規定のまま放置されたとハイデッガーは述べている。その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって、人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在」(In-der-Welt-sein)であると主張した。人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という)。これらはいずれもハイデッガーの企図にはそぐわないデカルト的二元論のもとにあるためである。

存在者がわれわれにとって意味をなすのは、存在者がある特定のコンテクストの中で使用できるためであり、そしてこのコンテクストは社会的規範によって定義される。しかし、元来こうした規範はみな偶発的で不確定なものである。こうした偶然性は、不安という根源的な現象によって明らかにされる。この不安の中に、すべての規範が投げ出され、ものは本来の無意味さの中に、特になにものでもないものとして開示される。不安の経験は現存在の本来的な有限性をあらわにする。

存在者が開示されうる(コンテクストにおいて有意味にであれ、不安の経験において無意味にであれ)という事実は、いずれにせよ存在者は開示されうるという先行する事実に基づいている。ハイデッガーはそうした存在者の開示を「真実」と呼んだが、これは正しさというよりは「隠れのなさ」と定義される。この「存在者の真実」(存在者による自己発見)は、より本源的な種類の真実を含む。すなわち「存在者の存在が隠されていない、明るみに出された存在者の発露」である。これはギリシア語で「アレテイア(αληθεια)」と呼ばれ、アリストテレスやヘラクレイトスからハイデッガーによって引き出された概念である。

ハイデッガーにとって、現存在を規定するのはこの存在の隠れなさである。ハイデッガーの用語「現存在」とは、おのれの存在を関心事とする存在者であり、また、おのれの存在をそのように開示させる存在者である。ハイデッガーが存在の意味についての探求を現存在の本質についての探求とともに始めたのはこうしたわけである。存在の隠れなさは基本的に現世的かつ歴史的な、非計測的な時のうちでの現象である(本書を『存在と時間』と題したのもこのためである)。われわれが過去・現在・未来と呼ぶものは本来この隠れなさの見地に照応するものであり、時計によって測定される均一的な数値化された時間における排他的な三区域のことではない。

解釈学

総体的な存在了解は、現存在固有の存在に関する潜在的な知識を説明することによってのみ到達できる。ゆえに哲学は解釈という形をとる。これが、『存在と時間』におけるハイデッガーの手法がしばしば解釈学的現象学と呼ばれるゆえんである。『存在と時間』は未完に終わったため、全体的な計画に関するハイデッガーの宣言や、現存在とその時間内的な限界についての緊密な分析と解釈をなし遂げてはいるが、そのような解釈学的手法により「存在一般の意味」を解明するまでには至らなかった。しかし、その野心的な企図は後の著作において異なる方法によりながら執拗に追求されることとなる。

カントは『純粋理性批判』の序文で、外的世界の存在に関する完全な証明がいまだなされていないことを「哲学のスキャンダル」だと嘆いた(自分の著書がそれを与えるのだと自負した)が、ハイデッガーにいわせればそのような証明ばかりが求められることこそ哲学のスキャンダルであった(本書第1篇第6章第43節)。同時に彼の企図は非常に野心的であり、生物学物理学心理学歴史学といった存在的なカテゴリーにおいて研究される特定の事物の存在には関心がなく、追求したのは存在一般についての問い、すなわち「なぜ何も無いのではなく、何かが存在するのか」(ライプニッツ)といった存在論的な問いであった。われわれにとってあまりにも近く自明なものである「存在一般」への問いこそ何よりも困難なものである。

ハイデッガーはこうした問いに対し、「いかにしてわれわれは世界と具体的かつ非論理的な方法で遭遇するか」「いかにして歴史や伝統がわれわれに影響を与え、われわれによって形成されるか」「事実上いかにしてわれわれはともに生きているか」「そしていかにしてわれわれは言語やその意味を歴史的に形成するか」といったことに注視するという最も具体的な方法をもって取り組んだ。

存在の哲学

ハイデッガーの見地においては、行為に対する理論の伝統的優位が逆転される。彼にとって理論的な見解というものは人工的なものであり、関わり合いを欠いたまま事物を見ることによってもたらされるものであり、そうした経験は「平板化」(Nivellierung)されたものである。こうした態度は、ハイデッガーによって「客体的」(vorhanden=すでに手のうちにある)と呼ばれ、相互行為のより根源的なあり方である「用具的」(zuhanden=手の届くところにある)な態度に寄生的な欠如態とされる。寄生的というのは、歴史のうちにおいてわれわれは、世界に対して科学的ないし中立的な態度をもちうるよりも前に、まず第一に世界に対する何らかの態度や心構えをもたなければならないという観念においてのことである。

客体的存在と用具的存在に加えて、現存在の第三の様態として「共同存在」(mitsein)があり、これが現存在の本質となる。他者とは、孤立して存在する単一の主体「私」を除いたすべての人びとのことではなく、たいていの場合はひとが自分自身とは区別していない(ともにある)人びとのことである。例えば、「私」が作物を踏み潰したり土を踏み固めてしまわないよう注意しながら畑の周りを歩くとき、この畑は「私」にとって道具的なものであるが、同時に「誰か」の所有地として、あるいは「誰か」に手入れされている(他の「誰か」にとっても道具的である)ものとしても現れる。この「誰か」たる農夫は、「私」が思考のうちでその畑に付け加えたものではない。なぜなら、畑が耕され手入れされているという事実を通してすでに農夫は自らを現しているからである。このようにしてわれわれは世界内において他者と出会うのであり、またこうして現存在が他者と出会いともにある存在の仕方が「共同存在」であるとハイデッガーは述べる。

「共同存在」には好ましからぬ側面もあり、ハイデッガーは「世間」という語を用いてそれに言及する。つまりニュースやゴシップでしばしば見られるように、「世間では~といわれている」というとき、一般化して断定したり、一切のコンテクストを無視してそれをやり過ごそうとしたりする傾向があるということである。何が信頼に値し、何が信頼に値しないのかという実存的概念が「世間」という考えに依拠して求められるのである。たんに群集のあとを追って他の人々に習うだけでは何の妥当性も保証されないし、社会的・歴史的状況から完全にかけ離れたことが妥当なことだとみなすことなどできないにもかかわらず、「世間」がその平均性のみを妥当なものとして指示するのである(本書第1篇第4章第26 - 27節)。

時間性

時間もまた斬新な方法によって考察される。ハイデッガーは、時間というものはアリストテレス以来まったく同じように解釈されてきたと主張する。つまり「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するというものである。しかしハイデッガーは、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張する。また現在もそれ自体で生起するのではなく、「死へ臨む存在」(Sein-zum-tode)としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものである。したがってアリストテレスの均質的な「過去・現在・未来」という時間はこの根源的時間からの派生物にすぎないとして、これらの派生現象を可能にする根源的な「時間性」(Zeitlichkeit、Temporalitätとも)の概念を提示した。

中期

中期の代表作として1936-1938年に執筆され死後にクロスターマン版全集第65巻として公表された覚書『哲学への寄与論稿』他がある。またこの執筆の前奏ともいえる1935年講義録『形而上学入門』がある。

存在の超絶性

この時期、人間という場において時熟とともに「世界」を開く歴史としての存在にかえて、超絶的な動態としての意味づけがなされた存在が思索される。つづりもSeinとともにSeynが使用されるようになる。存在と人間は対抗関係にある。存在の制圧的な秩序を人間は元初まで見越す知(techne)によって作品(Werk)にもたらし開く。だが作品にもたらされた存在の超力は人間という場(現-存在 Da-sein)において突発的に裂け開き現象し、その超力をすべて治めることは叶わず、人間は存在によって砕け散る運命にある。砕け散ることは存在が人間という場を必要とする理由であり、現-存在としての人間の本質である。存在と対抗関係にありながら存在の発現する居場所であることによって、「人間とは最も不気味なものである」(ソフォクレス)。

覚書

ナチスから距離を置く中でハイデッガーは公表されざる膨大な覚書を残す。あらゆるものや自然が迅速に算定され、組織的な操業に変えられていくなかで人間の自己喪失は終わりのない過程となる。この根こそぎの喪失へむけて異様な語彙を駆使した思索を残した。それは死後に初めて発表された。ここでは用語は特異なものになり、何を指しているかも熟考を要する。要約すれば、そこに書かれたのは神が必需とする存在(他に有・また原存在の訳語 Seyn)であり拒絶(Verweigerung)が、存在(Seyn)の呼びかけと現-存在の聴従的帰属(すなわち呼びかけへの応答)の「対抗躍動」として、底無しの深淵(Abgrund)として、人間という場において開けていく性起(他に自現の訳語ereignis)である。この動態は「開け透かす覆蔵」、「語り拒み[語り与え]」といった言い回しであらわされ、覆蔵として、また語り拒みとしての贈与とされる。それは単なる自己隠匿ではない、むしろ「自らを覆蔵するものがそのものとして自らを開き明けること」という意味で差し向けの親密さであり拒絶の差し向けとしての開け・最高の贈与である。また悟性や理性といった人間知による確認や算出の不可能である。存在(Seyn)の開けは没落を要求し、その者たちは守護された炎の中で焼き尽くされる。その犠牲は存在に立ち去られることからの退路であり、それは「反-動的な者たち」の「活動」とは全く別である。「反-動的な者たち」は「近視眼的に見られた従来のものに盲目的にしがみつく」だけである。そのように存在者は回復を経験する。人間はこの存在(Seyn)の開けを見守ることしかできない。これらはハイデッガーの従来からの命題「既在的に将来すること」の深化でありすなわち歴史的でありまた予言的ともみえ、高度資本主義社会における実存の不可解を暗示しているかにもみえる。いま重要なのはこの覚書が現実との接点のない詩・絵空事・夢であると決めつけず、また一部研究者のいうような単なる「アイデアの貯蔵庫」とかたずけ良しとせず、また黙示録性にたいし臆せず、現在の時代性において読み説くことであろう。

後期

ハイデッガーは、ついには『存在と時間』が失敗作であることを認めざるを得なかった。そして、長い時間を費やした上で、戦後ハイデッガーの思想は大きく「転回」していった。

「ヒューマニズム」批判

ハイデッガーは『「ヒューマニズム」にかんする書簡』においてサルトルが本質と実存を転倒し、実存の先行性を訴えたとし、にもかかわらずそれら既存の形而上学から抜け出ていないことを指摘した。ハイデッガーからみればサルトルの思想は時間性の本質-存在の問い-を省いた空虚さを備えている。サルトルもまた存在忘却の歴運の中にある。ハイデッガーは「人間らしさ」に反対はしないが、ヒューマニズムには反対する。ただヒューマニズムが人間にたいし人間性を十分高く設定しきれないからであり、最高のヒューマニズムさえが人間の本来的な尊厳には届かないからである。

技術論

すでに1930年代の覚書でも書かれていた算定性の組織化がさらに熟考をされ集-立(他に立て組の訳語 Ge-stell)として概念化された。人間は自然を最大限の効率で役立つものにすべく露わに発き(あらわにあばき)挑発し集め-立たせる。同時に人間は自己にたいしそれを遂行する、役立ち得る主体として仕立て挑発し集め-立たせる。これらは絶えざる挑発の派生として、呼びかなめとしてなされる。そのようにして全体は抜け目なく、駆り立たされ、役立ち得る主体として人間は発かれ淘汰されることとなる。ここには真理にとって最高の危険が存している。近代社会における命運がここでは端的に表されることとなった。集-立である存在忘却への追い遣りは存在自身の自己拒絶に至る。このとき危険の転向が急遽現れ起こる。存在忘却は世界(現-存在)による存在の成否の見護り、存在の真理による見護りなき存在への見入り(存在の真理の閃き)に転回する。この見入りの瞬きの出現において、人間は我執を去ってその瞬きの呼び求めに応答し自己を棄て-投げる。かく応答しつつ人間は神的なるものに目見える自己となる。ここには1930年代後半からの存在の思索の1960年代までにいたる継承と発展がみえる。

放下

ハイデッガーが技術への対し方として最後に到達した概念。我々は技術の進化を、我々の本質(存在)を塞き止めないことにおいて、放置することができる。避けがたい使用を放置することができる。同時に我々の本質を歪めるその限り、否を向けることができる。この二重性が技術への対し方であるとした。講演「放下」に於いては放下とともに、技術時代での存在(Seyn)の覆蔵という仕方での到来を密旨とし、密旨に向けて自己を開け放っておく態度をあげ、「物への関わりに於ける放下」と「密旨に向かっての開け」を「その上に於いて私共が技術的世界の内部にあって而もその世界によって害されることなく立ちそして存続しうる如き新しい根底と地盤を約束」する「新しい土着性への展望」とした。

影響・評価

弟子には哲学者のハンス・ゲオルク・ガダマー、哲学者のカール・レーヴィットがいる。

ハイデッガーの現象学は、ジャン=ポール・サルトルのみならず、エマニュエル・レヴィナスモーリス・ブランショの他多数のフランス現代思想家、特にポスト構造主義哲学者ミシェル・フーコージャック・デリダフィリップ・ラクー・ラバルトらに影響を与えた。特にハイデッガーによる形而上学の解体はデリダの脱構築に深い影響を与えた。また、ハイデッガーの哲学は、デリダ研究においても有名な後続世代のカトリーヌ・マラブーなどにも影響を及ぼし、フランスにおけるハイデッガー研究は脈々と続いている。

日本においては昭和初期(戦前)から、九鬼周造三木清和辻哲郎ら、京都学派と縁の深い哲学者がハイデッガー現象学の影響を受けている。梅原猛もハイデッガーを20世紀最大の哲学者と位置づけ、批評の対象としている[17]。戦後、マルクス主義思想などの隆盛等によってその影響は退潮したものの、サルトルやモーリス・メルロー=ポンティらに代表される実存主義との関連で読まれることも多く、その紹介者としては木田元らが有名である。さらに、1980年代のいわゆる「ニュー・アカ」ブーム(浅田彰中沢新一など)において、フリードリヒ・ニーチェジャック・デリダジル・ドゥルーズらの著作との関連において知られる機会が多くなった。浅田彰らの影響を受けた世代では、東浩紀國分功一郎などが、ハイデッガーを大陸哲学最大の哲学者(「ハイデッガーを以て大陸哲学はすでにやることをやっている」)とした上で、その洗練された思想をドイツ的農夫的イデオロギーから解放しなければならないと述べた[18]

ハイデッガーのことを西部邁(評論家)は次のように評価している。「認識論において、ヴィルヘルム・ディルタイが「生」に、チャールズ・パースが「記号」に、エトムント・フッサールが「現象」に、ハイデッガーが「語源」に、そしてルードヴィッヒ・ヴィトゲンシュタインが「日常言語」に注目したのも、人間「心理」の核心と全貌をとらえたかったからにほかならない。それらの哲学者は、文学者とも精神分析医とも大いに異なったやり方ではあったが、やはり心理家であった。彼らは、認識活動の根源が、神の理性にでも自然の法則にでもなく、ほかならぬ人間の「精神」のなかにあるとみなした。そしてその精神の根源には、「気分」とよんでさしつかえないものがわだかまっていることを見据(みす)えた。その見据え方において最も腰の坐っていたもの、最も堂に入っていた者、それはハイデッガーであろうと、私は判断している。」[19]また、西部はハイデッガーについて次のようにも述べている。「マルティン・ハイデガーが面白いのは、一生懸命に言葉のオーセンティシティ、本来性を尋ねる哲学をひとしきりやった後で、後半はヘルダーリンという詩人のことを研究し、ほとんど音楽に近いような感覚の世界を探り始めたことです。」[20]

著作

  • Die Lehre vom Urteil im Psychologismus. Ein kritisch-positiver Beitrag zur Logik (1913)
    • 『心理学主義の判断論──論理学への批判的・積極的寄与』
  • Die Kategorien- und Bedeutungslehre des Duns Scotus (1915)
    • 『ドゥンス・スコトゥスの範疇論と意義論』
  • Phänomenologische Interpretationen zu Aristoteles (1922)
    • 『アリストテレスの現象学的解釈――解釈学的状況の提示』
  • Sein und Zeit (1927)
  • Kant und das Problem der Metaphysik(1929)
    • 『カントと形而上学の問題』
  • Einführung in die Metaphysik(1935)
    • 『形而上学入門』
  • Beiträge zur Philosophie(1936)
    • 『哲学への寄与』
  • Hölderlins Hymne »Der Ister«(1942)
    • 『ヘルダーリンの讃歌『イスター』』
  • Die Frage nach der Technik(1949)
    • 『技術への問い』
  • Holzwege(1950)
    • 『杣径』
  • Der Satz vom Grund(1955~1956)
    • 『根拠の命題』
  • Identität und Differenz(1955~1957)
    • 『同一性と差異性』
  • Gelassenheit(1959)
    • 『放下』
  • Unterwegs zur Sprache(1959)
    • 『言葉への途上』
  • Nietzsche (1961)
  • 邦訳された全集としては、創文社から刊行されている『ハイデッガー全集』などがある。

脚注

  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite book
  3. 奥谷、2008年11月、p. 88.
  4. 奥谷、2008年11月、p. 86.
  5. 奥谷、2008年11月、pp. 91-92.
  6. 奥谷、2008年11月、pp. 92-93.
  7. 奥谷、2008年11月、p. 94.
  8. 奥谷、2008年11月、p. 95.
  9. 奥谷、2008年11月、pp. 95-96.
  10. テンプレート:Cite journal
  11. 奥谷、2008年11月、p. 96-97.
  12. 奥谷、2008年11月、p. 97.
  13. 奥谷、2008年11月、p. 98.
  14. 奥谷、2008年11月、p. 105.
  15. 奥谷、2008年11月、pp. 106-107.
  16. テンプレート:Cite web
  17. 梅原猛、『人類哲学序説』、岩波新書、2013年、第三章。
  18. 東浩紀編、『震災ニッポンはどこへいく』、ゲンロン、2013年、第三章「3.11後の哲学、科学、文学」、「3.11後、哲学とは何か」
  19. テンプレート:Cite book
  20. *テンプレート:Cite book

関連文献

関連項目

外部リンク

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