ポツダム

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紋章 地図
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基本情報
連邦州: ブランデンブルク州
郡: 郡独立市
緯度経度: [[[:テンプレート:座標URL]]52_23_45_N_13_03_41_E_{{{9}}} 北緯52度23分
東経13度03分]
標高: 海抜 35 m
面積: 187.27 km²
人口: テンプレート:PopSet[1]
人口密度: 構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。 人/km²
郵便番号: 14401–14482
市外局番: 0331
ナンバープレート: P
自治体コード: 12 0 54 000
行政庁舎の住所: Friedrich-Ebert-Str. 79/81
14469 Potsdam
ウェブサイト: potsdam.de
首長: ヤン・ヤーコプス (Jann Jakobs)
州内の位置
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ポツダムPotsdam)はドイツ連邦共和国東北部に位置する郡独立市。ブランデンブルク州の州都である。人口は約構文エラー: 認識できない区切り文字「[」です。万人。旧東ドイツ領。東ドイツ時代は、ポツダムを県都とするポツダム県が置かれていた。

地勢・交通

ベルリンの西南近郊に位置し、ベルリンの中心街から約26kmである。ベルリンからSバーン(近郊列車)で行くことができる。ハーフェル川が流れ、いくつかの互いにつながった湖がある。

歴史

ポツダムは"Poztupimi"と呼ばれるスラヴ人の村として7世紀に設立された可能性が高い。名前の意味は「樫の木の下」と思われる。993年に最初に文書に記述され、1317年までは小さな町として記述されていた。1345年に都市特権を得た。1573年のポツダムは、人口2000人程度の小さな市場町であった。三十年戦争によって、ポツダムは人口の半分近くを失った。

ポツダムの命運が劇的に変わったのは、1660年ブランデンブルク=プロイセン選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムの狩猟館として選ばれてからである。その後、ホーエンツォレルン家の宮殿が置かれるなどプロイセン公国の拠点の一つとして発展した。1685年フランスルイ14世ナントの勅令1598年に定められていた宗教寛容令)を廃止してユグノーの迫害を図ると、プロイセンはテンプレート:仮リンクを発表した。これにより、ポツダムはヨーロッパ移民の中心地となった。フランスのユグノーの亡命者のほか、ロシアオランダボヘミアなどから、移民がやってきた。移民をひきつけたのは、勅令によるその宗教的な自由度である。

その後、街はプロイセン王家の居住地となった。王家の壮大な建造物は、18世紀半ば、主にフリードリヒ2世の治世の間に建てられた。そのうちの一つが、庭園ロココ様式の内装で有名なサンスーシー宮殿である。他には、新宮殿オランジェリー宮殿がある。 戦前には、ドイツ映画人の別荘が多く建てられた。1933年3月5日の国会開会式はこの地のテンプレート:仮リンクで開会され、この日はナチス・ドイツ時代の始まりを象徴する日として「テンプレート:仮リンク」と呼ばれる。 1945年、4月14日から15日には大規模な空襲に見舞われた(テンプレート:仮リンク)。第二次世界大戦においてドイツが降伏した後、この都市のツェツィーリエンホーフ宮殿の3首脳が集まりポツダム会談が行われた。この会談でドイツをふくめたヨーロッパなどの戦後処理を決定するポツダム協定が成立し、また会議日程中には日本に対する降伏勧告・ポツダム宣言が発された。その後日本がポツダム宣言を受諾したため、日本の降伏に関する言葉にしばしばポツダムが使用される(ポツダム命令ポツダム進級)。

1991年ポツダム大学が創立された。

政治

姉妹都市

観光

ファイル:Potsdam view from above.jpg
ハーフェル川に繋がる湖

1745年プロイセン王国のフリードリヒ大王が造営した夏の離宮サンスーシー宮殿や、第二次世界大戦末期の1945年にポツダム会談が行われたツェツィーリエンホーフ宮殿などが、1990年に「ポツダムとベルリンの宮殿群と公園群」としてユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録された。

関連

引用

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:ブランデンブルク州の郡および郡独立市
  1. テンプレート:Population GER-BB