ヘンリー・ヒュースケン

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ヘンリー・コンラッド・ジョアンズ・ヒュースケンテンプレート:Lang-en, 1832年1月20日 - 1861年1月15日)は、日本の江戸時代後期に伊豆国下田の玉泉寺に設置された駐日アメリカ総領事館の通弁官(通訳)。

ヘンリー・ヒュースケンは英語名で、オランダ語名はヘンドリック・コンラット・ヨアンネス・フースケン[1](Hendrick Conrad Joannes Heusken)である。

生涯

アムステルダム生まれのオランダ人で、父は石鹸製造業者のヨアンネス・フランシスクス・フースケン、母はヨアンナ・スミットである。後に家族とともに米国に渡り帰化する。

1856年安政3年)に初代総領事タウンゼント・ハリスに雇われて来日し、ハリスの秘書兼通訳を務めた。1861年1月14日万延元年12月4日)にプロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽接遇所(港区三田)から善福寺への帰途、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派『浪士組』所属の薩摩藩士、伊牟田尚平樋渡八兵衛らに襲われ、翌日死去した。テンプレート:没年齢

幕府はヒュースケンの母ジョアンネ(ヨアンナ)に1万ドルの弔慰金を支払って事件を落着させた。事態を重く見た幕府は、辻番所に外国人保護を訴える標識を立てたり、外国御用出役の新設するなど外国人警護に努めたが、これ以後も攘夷派による外国公使館や幕府要人に対する襲撃事件(東禅寺襲撃事件坂下門外の変)が続いた。

1855年から下田に到着するまでの日本に向う南方航路の印象、外交折衝や日本での見聞をつづった『ヒュースケン日本日記』((Japan Journal, 1855-1861)青木枝朗訳、校倉書房のち岩波文庫)は幕末外交史の貴重な資料となっている。

墓碑は、東京都港区南麻布四丁目の光林寺にある。

備考

日本における風俗として、浴場における混浴の習慣はハリスには耐えきれないものであったが、ヒュースケンはたびたび混浴の様子を見に行ったため、市中の人間が迷惑したとされる。アメリカ側の記録である「下田物語」によると、1857年1月には街中で刀を向けられて脅されている。一説によるとこれは大場久八の子分で武闘派やくざの赤鬼金平の仕業であり、外交問題になるのを恐れた幕府は「金平は狂人でありますから」と釈明したとされる。

脚注

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著書

  • 青木枝朗訳『ヒュースケン日本日記』(『岩波文庫』)、岩波書店、1989年7月。ISBN 4-00-334491-X

関連項目

外部リンク

  • 「ヘースケン」と発音されることもある。