ヘイスティングズの戦い

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バイユーのタペストリーに描かれた、ヘイスティングズの戦いにおけるハロルド2世の死
戦争ノルマン・コンクエスト
年月日1066年10月14日
場所ヘイスティングス近郊のバトル
結果:ノルマンディー公国の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | ノルマンディー公国
ブルトン人
フラマン人
イングランド王国
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | ギヨーム2世 ハロルド2世
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 約6000人 約7000人
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ヘイスティングズの戦い(ヘイスティングズのたたかい、英:Battle of Hastings)は、1066年イングランドヘイスティングスから若干内陸に入ったバトルの丘でノルマンディーギヨーム2世イングランドハロルド2世との間で戦われた会戦である。

経過

発端

イングランド1016年デンマークノルウェークヌートによって征服された。クヌートの王国はノルウェーとスウェーデンの一部をも征服したため強大な帝国となった(北海帝国)。彼の死後、イングランドではエドワード懺悔王が即位してデンマークから自立し、アングロ・サクソンの王統を回復した。しかし、その王権は弱体で、国内には有力な封建諸侯が割拠していた。

エドワードは、最も有力な諸侯であったウェセックス伯爵ゴドウィンの娘エディスを王妃に迎えて彼の協力を得ていたが、実子がないまま没した。ゴドウィンの子でエディスの兄ハロルドが諸侯に擁立されて王位に就きハロルド2世となったが、これに対し即座に異議を唱えたのが弟トスティとエドワード懺悔王の従甥でフランス貴族のノルマンディーギヨーム2世であった。

ギヨーム2世はノルマンディー公国を強国に育て、フランスフィリップ1世摂政ウェセックスアルフレッド大王マーシアテンプレート:仮リンクの子孫であるフランドル伯ボードゥアン5世の娘マティルダを妻にしてフランス内で不動の地位を確立していた。彼は懺悔王からイギリス王位の継承を約束されたと主張し、ローマ教皇アレクサンデル2世からイギリス支配のお墨付きをも取り付けて遠征の準備にかかった。

ノルウェー軍の侵攻

ギヨーム2世は8月初めに大艦隊を河口に集めて海峡横断の機を待ったが、逆風のため2ヶ月近くも出発できなかった。ギヨーム2世の侵入に備えて軍を待機させていたハロルド2世は、当初用意させた糧食が尽きたため9月初めに備えを解いた。直後、トスティと手を組んだノルウェーハーラル3世がイギリスの王位を狙って北から侵入した。ハロルド2世はノルウェー軍が上陸したヨークまでロンドンからわずか4日間で急行し、油断していたハーラル3世の陣営を急襲し(スタンフォード・ブリッジの戦い)、トスティとハーラル3世を討ち取りノルウェー軍を壊滅させた。

戦い

ハーラル3世らが敗死した頃、ギヨーム2世は船団の出港を命じ、約6000の兵力を持ってイングランド南部のヘイスティングズに上陸した。当時のヘイスティングズは岬の先端にあり、ロンドンまでは尾根筋の一本道を進撃する以外に無かった。一方、ハーラル3世を破ったハロルド2世は返す刀で7000の軍と共に南下し、ヘイスティングズのある岬の付け根にあるバトルの丘で陣立てを整えようとした。

これを察知したギヨーム2世はイングランド軍の陣形が完成しないうちに合戦に持ち込む以外に勝機は無いと考え、バトルの丘に急行。丘の麓に布陣した。決戦は10月14日朝に始まった。ノルマン軍は短弓クロスボウを装備した弓兵に援護させながらの騎兵による突撃を繰り返したが、丘上に布陣したイングランド軍は長大な戦斧を装備した重装歩兵による密集陣形でこれに応じ、昼までに戦闘は膠着状態に陥った。この後に何が起こったかについては諸説あり、ノルマン側の弓兵がハロルド軍の前衛の盾の列の後方に攻撃を集中した結果、イングランド軍の陣形が綻んだとの説や、ギヨーム2世が退却を装ってイングランド軍の前衛を突出させたところで反転攻撃に転じたとの説もある。いずれにせよノルマン軍はイングランド軍の陣形を崩すことに成功し、ハロルド2世は戦闘中に落命した。

ハロルド2世が討ち取られたとされている地点はイングランド軍側から見て右翼の丘の中腹にあるが、丘のこちら側は勾配が他の部分に較べて緩やかなことから、ノルマン軍がイングランド軍の右翼に攻撃を集中させた為、ハロルド2世も右翼に移動して前線で戦闘に参加して落命したとの見方もある。

バイユーのタペストリーではハロルド2世は矢で目を射抜かれたことになっているが、これについては「視力を失う」ことが別の何かの象徴なのではないかとの見方もあり、史実がこのようであったと断言出来るわけではないとされる。

戦後処理

ギヨーム2世はイングランド南部を平定、12月25日にウィリアム1世として即位し、ノルマン朝を開いた。ウィリアム1世は反抗したアングロ・サクソン系貴族の土地を没収して本土から付き従っていた功臣に与え、彼ら諸侯に忠誠を誓わせて強大な王権を樹立した。またロンドンを首都と定め、教会組織も整えた。こうしてイギリスには、中世では例外的に王権が強力な独自の封建制が成立することになった。その後、ノルマン人はアングロ・サクソン人に同化し、文化の融合も行われた。言語もアングロ・サクソンの言葉を中心に、ノルマン・フランスそれぞれの要素を融合させ、今日の英語になっていったのである。

関連作品

ボードゲーム

  • Joseph Miranda"1066 The Battle of Hastings",Strategy & Tactics No.234,Decision Games,2006※11世紀のブリテン島の覇権を争う。

外部リンク

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