ヴロツワフ

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18世紀のヴロツワフ

ヴロツワフポーランド語: Pl-Wrocław.ogg Wrocław[ヘルプ/ファイル]</span>ドイツ語: Breslau ブレスラウテンプレート:Lang-hu ボロスロー)は、ポーランド西部にある第4の都市で、ドルヌィ・シロンスク県の県都。歴史的にシロンスク地方の中心都市で、ポーランドの中でも最も古い都市のひとつである。市内にはオドラ川とその支流が流れ、200以上の橋が架かっている。

ヴロツワフは、UEFA欧州選手権2012 のホストである。2016年の欧州文化首都になることが決まっており[1]、またワールドゲームズ2017の開催地にも決定した。

歴史

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ヴロツワフの建設

テンプレート:Main 伝説によれば、ヴロツワフはボヘミアテンプレート:仮リンク(在位915年 - 921年)によって建設された。

ポーランド・ピャスト朝

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990年頃にはすでに他のシロンスク地方の都市とともにポーランド公国1025年よりポーランド王国となる)に属し、ミェシュコ1世ボレスワフ1世(勇敢王)時代のピャスト朝の支配下に入っていた。当初、開拓の中心地はオドラ川の中洲にあった。

西暦1000年グニェズノ会談において、神聖ローマ皇帝オットー3世とボレスワフ勇敢王がカトリック教区の設置を決めた(Roman Catholic Archdiocese of Gniezno)。その後まもなくヴロツワフに最初の司教座が置かれた。10世紀にはすでに都市は建設されていたが、公式には西暦1000年がヴロツワフ建設の年として見なされ、2000年には都市建設1000年が祝われた。11世紀にはポーランド王国に2箇所あった貨幣鋳造所の一つが設立され(もう1箇所は当時の王国首都クラクフに設立された)、ポーランド王国の金融産業の一大中心地となった。

ボヘミア・ハプスブルク期

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13世紀にはモンゴル帝国の侵略を受け、ポーランドではシュラフタ(ポーランド貴族)が乱立し、14世紀始めにヴワディスワフ1世のもとでポーランド王国が統一されたが、シロンスク地方のヴロツワフは王国から離脱した。14世紀にはポーランド王カジミェシュ3世(大王)がシロンスク地方のボヘミア王国による支配を黙認した。それでもこの一帯ではポーランドの古い王家ピャスト家の分家であるシロンスク・ピャスト家がこの地方の領主として存続した。一方、1386年、ポーランドはヴワディスワフ2世のもとでヤギェウォ朝が誕生し、強国になっていった。1675年にシロンスク・ピャスト朝の最後の嫡男イェジ・ヴィルヘルムが死ぬと、この土地の君主家からポーランド王国との男系の血縁が途絶え、ヴロツワフを含む一帯は相続によりハプスブルク家の手に渡った。

近代

その後はオーストリア継承戦争でハプスブルク家から武力でこの地を奪い取ったプロイセン王国の手を経て、第二次大戦後までドイツの一部となっていた。第二次世界大戦におけるドイツ軍ソ連軍の激しい戦闘で歴史地区の大半が破壊された[2]が、終戦によってヴロツワフはポーランドへ復帰した。戦後はそれまで残っていた資料を元にポーランド市民の手によって正確に復元された[3]

地理

ポーランドの首都ワルシャワから西南へ約350キロ、シロンスク地方の中心地。

気候

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経済

ポーランドでもっとも住民所得の高い都市の一つである。とりわけ有力なものは、バス自動車製造業、化学製品製造や電子産業である。近年は、金融の中心地としての中世ポーランド王国の伝統を復活したかのような感を呈するほどの間接金融の中心地であり、国内主要銀行のいくつかが市内に本店を置いている。

美しい歴史地区、運河、市内や郊外の歴史的建造物を利用した宿泊施設、そして有名な日本庭園を利用した観光産業にも力を入れており、毎年多くの観光イベントが開かれる。

教育

市内にある高等教育機関。

交通

鉄道交通の要衝の一つであり、フランクフルトミュンヘンコペンハーゲンパリと結ぶ国際空港もある。


姉妹都市

出身著名人

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:ドルヌィ・シロンスク県

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  1. http://www.wro2016.pl/
  2. [1]
  3. [2]