フェルッチョ・ブゾーニ

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フェルッチョ・ブゾーニ

フェルッチョ・ブゾーニFerruccio Busoni, 1866年4月1日 エンポリ - 1924年7月27日 ベルリン)は、イタリア出身でドイツを中心に世界中で活躍した作曲家ピアニスト指揮者音楽教師

本名はダンテ・ミケランジェロ・ベンヴェヌート・フェッルッチョ・ブゾーニ (Dante Michelangelo Benvenuto Ferruccio Busoni) 。作曲家として新古典主義音楽を提唱し、電子音楽微分音による作曲など、未来の音楽像を描き出してみせた。シベリウスニールセンレーガーマニャールシェーンベルクバルトークなど、ブゾーニの尽力によって世界の檜舞台に出た作曲家は少なくない。

生涯

デビュー

イタリアに生まれ、少年時代をほとんどトリエステに過ごす。母親アンナ・ヴァイス=ブゾーニはトリエステ出身のプロのピアニストで、祖父ジュゼッペ・ヴァイスを通じてユダヤ人の血を引いている[1]

イタリア人の父親フェルディナンド・ブゾーニはプロのクラリネット奏者をつとめるかたわら、画業もこなし、ブゾーニの少年時代に両親はしばしば演奏旅行を行なった。ブゾーニは神童で、7歳の若さで両親の公開演奏会においてデビューを果たした。数年後にはウィーンで自作のいくつかを演奏し、リストのピアノ演奏にも接した。ウィーンでは、リストやブラームスアントン・ルビンシテインにも面会している。リストは、ブゾーニの演奏の真価について消極的な返事を出したらしいが、(cf.全音版パガニーニ練習曲のブゾーニの略歴)、一方のブゾーニは、「リストのピアノ曲は、ピアノ芸術のアルファにしてオメガである」と最大限の賛辞(cf.Busoni and the Piano: The Works, the Writings, and the Recordings - Contributions to the Study of Music and Dance... by Larry Sitsky)を捧げており、リストのピアノ曲の校訂も手懸けている。

わずか13歳で「24の前奏曲」を完成、そのほか大量にピアノ作品を作曲したが「少年期の作品はあまり意味がない」とブゾーニはこの時期の作品の完成度に否定的であった。その後、彼の周囲に作曲とピアノで並ぶものがいなくなり、「アントン・ルビンシテイン国際音楽コンクール」の作曲部門とピアノ部門の両部門に挑戦し、作曲部門は優勝(「ピアノと管弦楽のためのコンチェルティーノ」)、ピアノ部門は第二位という結果を得て若手のホープに躍り出た。

ドイツ人としての活動

ブゾーニは短期間グラーツで学んだ後、1886年ライプツィヒに赴き、その後いくつかの教職に就く。まず1888年ヘルシンキで教鞭を執り、同地で後の夫人イェルダ・ショーストランド (Gerda Sjöstrand) に出会っている。1890年にはモスクワ、翌年から1894年までアメリカ合衆国でも教鞭を執った。アメリカではヴィルトゥオーゾのピアニストとして演奏旅行もこなしており、有名なバッハの《シャコンヌ》の編曲も、この頃に手懸けたようである。

1894年ベルリンに居を構え、同地でピアニストや指揮者として一連の演奏会を行い、とりわけ同時代の音楽の普及につとめた。ウィーン国立音楽院ヴァイマルバーゼルでは、数々のマスタークラスで教鞭を執り、クラウディオ・アラウエゴン・ペトリらの門弟を育てた。

ピアノ協奏曲は完成できなかったオペラ作品「アラジン」からのスピンオフ作品であったが、この協奏曲完成後はロマン主義からの脱却と新古典主義への偏愛を見せるようになる。

新音楽への道

第一次世界大戦中は、まずボローニャに避難して音楽院を監督し、それからチューリッヒに移った。交戦中の国々で演奏することをその間、拒否し続けた。チューリッヒ時代の弟子に、後に米国における電子音楽の先駆者の一人となるオットー・ルーニングがいる。1920年にベルリンに帰り、作曲のマスタークラスを主催した。有名になった作曲家の弟子にクルト・ワイルエドガー・ヴァレーズシュテファン・ヴォルペらがいる。

ブゾーニは腎臓病のために亡くなり、ベルリンで埋葬された。死の直前まで新しい作曲家の発掘作業を怠ることはなく、最後に評価した作曲家がカイホスルー・ソラブジであった。

ブゾーニは、ピアノ演奏のレコードやピアノロールを遺した。ブゾーニの作品は、作者の死後、長年にわたって多くが無視されてきたが、ピアノの偉大なヴィルトゥオーゾとして、またバッハ作品の編曲者として、また来るべき現代音楽の擁護者として記憶されてはいた。1980年代を境に、ブゾーニ作品への興味が蘇るようになった。ベルリン市シェーネベルクのブゾーニの住居では、記念のレリーフによって彼の功績が称えられている。

死後

没後はブライトコップからあれほどまでに出版が繰り返されたにもかかわらず、多くの作品が品切れになり、瞬く間に忘れられた。特に少年期の作品は契約した出版社が多く、作品全曲の収集はきわめて難しかったが、Larry Sitskyが可能な限りのピアノ作品全曲の収集に成功、著書も出された。

ブゾーニのピアノ作品が持ち上げられるようになったのは、ギュナー・ヨハンセンがアメリカでLPを連続して発売したころからであるが、その時点でもブゾーニ演奏はメジャーにならなかった。その状況が破られたのはジョフリー・ダグラス・マッジがCD6枚組でフィリップスより少年期の作品から壮年期までを収録した音源をリリースしたころからである。その流れに、ポール・ジェイコブス、アーシュラ・オッペンス、マルカンドレ・アムラン、ボルフ・ハーデン、ギャリック・オールソンほかのピアニストが乗ったが、ピアノ作品全集を個人で達成した人物はまだ誰もいない。

厄介なのは、著作権がとうの昔に失効したにもかかわらず、完全個人全集を作る動きがイタリアやドイツに全くないことである。IMSLPが一度閉鎖になった時に、「ブゾーニの楽譜が表紙から完全にスキャンされて無断でアップロードされている」というクレームが出版社当局によって行われたが、著作権の失効については完全無視の状態だった。ブライトコップ社は長年絶版になった作品を復刻している。

ブゾーニの作品

ブゾーニの楽曲は、概して対位法的に入り組んでおり、いくつかの旋律線がいっせいに綾をなす。シェーンベルク的な意味の完全な無調性で作曲したというわけではないものの、後年の作品はしばしば調性を決定することができない。1912年の「ソナチネ第2番」のプログラムにおいてブゾーニは、この作品を「調性のないsenza tonalità」作品と呼んだ。主な影響はヨハン・ゼバスティアン・バッハフランツ・リストの二人であるが、いくつかの作品では新古典主義の傾向も認められ、旋律をモーツァルトに似せた作例も見受けられる。作品の多くはピアノ曲である。

ブゾーニの成熟された作曲姿勢は、1907年の声明書『新音楽概論』[2]から把握することができる。この著書は、出版当時はいくぶん議論の的となった。この中でブゾーニは、当時ほとんど探求されず、ブゾーニ自身も採用したことのない、電子音楽微分音について論じたからである。さらにブゾーニは、何か新しいことを行うには、過去の音楽の本質を抽出しなければならないとも主張した。

ブゾーニ作品の多くは過去の音楽、とりわけバッハの作品を基礎としている。ブゾーニはいくつかのバッハ作品をピアノ用に編曲しており、中でもオルガン曲の《トッカータとフーガ ニ短調》や、《無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調》からの〈シャコンヌ〉を編曲したものは有名である。それゆえブゾーニのことを新古典主義音楽の創始者と見なす向きもある。

ブゾーニの最も有名でかつ最も長いピアノ曲《対位法的幻想曲(Fantasia Contrappuntistica)》の初版は、1910年に出版された。およそ1時間半にわたる長さで、バッハの《フーガの技法》の未刊のフーガに基づく作品である。また、バッハ作品にしばしば用いられる旋律的な音型(バッハ動機)すなわち変ロ、イ、ハ、ロの音列も使われている。ブゾーニはこの作品をたびたび改訂し、2台ピアノのための編曲も行なった。オルガン版や、管弦楽版も作成された。

ブゾーニはバッハだけでなく、その他の作曲家の作品の内容も利用した。たとえば《若者に向けて(An die Jugend)》(1909年)の4つの楽章は、パガニーニの無伴奏ヴァイオリンのための《奇想曲》(第11曲と第15曲)を用いており、一方で1920年の《ソナチネ第6番》は、「カルメンに基づく室内的幻想曲(Fantasia da camera super Carmen)」と題され、ビゼーのオペラ《カルメン》が使われている。

ブゾーニは超絶技巧のピアニストであり、彼の作品を演奏するのは至難の業である。《ピアノ協奏曲》(1904年)は、このジャンルでこれほどの長さを持つものは前例がなかった。優に1時間を超す長さで、独奏者に体力と根気と余裕が要求される。フィナーレは、大オーケストラと男声合唱のために作曲されている。

ブゾーニの管弦楽組曲《トゥーランドット(Turandot)》(1904年)は、おそらく彼の管弦楽曲では最も有名な作品で、ここからオペラ《トゥーランドット》(1917年)に発展した(ただし知名度と世界的成功において、プッチーニ同名のオペラとは比べようがない)。ブゾーニが他に完成させたオペラは2つで、《花嫁選び(Die Brautwahl)》(1911年;E.T.A.ホフマン原作)と《アルレッキーノArlecchino》(1917年)である。ブゾーニの最も有名なオペラ《ファウスト博士(Doktor Faust)》は1916年に着手されたが未完成に終わり、作曲者の死後、門人フィリップ・ヤルナッハによって完成された。その後、ヤルナッハの解釈がブゾーニの意図に忠実ではないとの見方から、アントニー・ボーモントによって新版が作成された。

ブゾーニ校訂版

ブゾーニは、他人の作品を校訂してもいる。最も有名な例は、門人エゴン・ペトリブルーノ・ムジェッリーニの輔佐を受けたバッハの鍵盤楽曲選集である。ブゾーニは速度記号アーティキュレーション、フレーズ記号、デュナーミク、メトロノーム記号をバッハの原曲に付け加え、詳細な演奏の指示を注釈した。たとえばゴルトベルク変奏曲においては、演奏会向きにするためとして、変奏曲のうち8曲を削除するよう提案し、多くの部分を書き換えている。

ブゾーニ校訂版は、バッハが本来チェンバロのために創った楽曲を、モダンなグランドピアノを用いてロマンティックに解釈し直したものであり、ブゾーニ版の後継的な校訂譜にも同じことが指摘できる(但し、日本井口基成版のように、ブゾーニ版の演奏効果を認めながらも、ある程度まで、いわゆる原典版の解釈も加味しようとした校訂譜も存在する)。ブゾーニ校訂版は、現在のバッハ愛好家の中ではたいてい顰蹙を買ってはいるものの、最近ではCDやオンライン上の楽譜ファイルとして入手することが可能になったこともあり、再評価する向きも見られる。

規模はもっと小さくなるが、ブゾーニはベートーヴェンブラームスショパンリストシューマンモーツァルトシェーンベルクの作品を校訂ないしは改訂した。ブゾーニ版の《ラ・カンパネッラ》(リスト作曲)は、イグナツ・フリードマンヨゼフ・レヴィーンジョン・オグドンのようなピアニストによって擁護されたが、あまりにも凝った編曲のためか、レパートリーに採用するピアニストは決して多くはない。一方、ベートーヴェンのエコセーズとして親しまれている作品(WoO.86。《6つのエコセーズ》WoO.83とは別の単独の楽曲である)は、ベートーヴェンの遺作の小品にブゾーニが手を加えたものにほかならない。

ブゾーニの演奏

当時は演奏に編集の手を加えることが不可能だったので、ブゾーニもヨゼフ・レヴィーンと同じく録音を嫌がった。それでも数点の音源が遺されており、驚異的な演奏技巧を伝えている。中でも《超絶技巧練習曲 第5番「鬼火」》や、《ハンガリー狂詩曲 第13番》は、自らの編曲したものを蝋管に録音しており、いずれも劣悪な音質にもかかわらず、ブゾーニの遺した最も秀逸な音源の一つに数えて差し支えない。

ブゾーニ国際ピアノコンクール

「ブゾーニ国際ピアノコンクール」が1949年よりイタリアのボルツァーノで行われている。彼はトリエステで幼少時代を過ごしておりこの都市とは縁がないが、第一次大戦前にはオーストリアに属し現在でも多くのドイツ語人口を抱える南チロルの都市にとって、彼はドイツとイタリアの文化の融和を象徴するのに最適な存在とみなされた。

老舗国際コンクールのひとつである。当初は毎年行われていたが、当初は少なかった国際コンクールの数が増えすぎたために、現在では2年ごとの開催に移行している。通常の隔年開催とは異なり、1年目は予備選のみを行って参加者を絞り、2年目は本選を行うというシステムをとっている。

大変第一位を輩出する基準が厳しく、「一位なし二位」が相当の実力者に与えられることもある難関コンクールである。近年はブゾーニの遺志を汲み現代音楽の演奏を必修にしている。必ずしも「上位入賞者」だけが軌道に乗るとは限らず、特別賞に留まったピアニストにもクン・ウー・パイクのような巨匠がいる。

  1. Della Couling: Ferruccio Busoni: "a musical Ishmael", p.352, Scarecrow Pr, 2004.
  2. 邦訳は『新音楽美学論』として、1929年に共益商社書店から出版された。

外部リンク

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