フィンセント・ファン・ゴッホ

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テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox 芸術家 フィンセント・ファン・ゴッホ[注釈 1]Vincent van Gogh1853年3月30日 - 1890年7月29日)は、オランダ出身でポスト印象派(後期印象派)の画家。主要作品の多くは1886年以降のフランス居住時代、特にアルル時代(1888年 - 1889年5月)とサン=レミの精神病院での療養時代(1889年5月 - 1890年5月)に制作された。

彼の作品は感情の率直な表現、大胆な色使いで知られ、ポスト印象派の代表的画家である。フォーヴィスムドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響を及ぼした。

概要

テンプレート:Multiple image ゴッホは、1853年、オランダ南部のズンデルトで牧師の家に生まれた(出生、少年時代)。1869年、画商グーピル商会に勤め始め、ハーグロンドンパリで働くが、1876年、商会を解雇された(→グーピル商会)。その後イギリスで教師として働いたりオランダのドルトレヒトの書店で働いたりするうちに聖職者を志すようになり、1877年、アムステルダム神学部の受験勉強を始めるが挫折した。1878年末以降、ベルギーの炭坑地帯ボリナージュ地方で伝道活動を行ううち、画家を目指すことを決意した(聖職者への志望)。以降、オランダのエッテン(1881年4月-12月)、ハーグ(1882年1月-1883年9月)、ニューネン(1883年12月-1885年11月)、ベルギーのアントウェルペン(1885年11月-1886年2月)と移り、弟テオドルス(通称テオ)の援助を受けながら画作を続けた。オランダ時代には、貧しい農民の生活を描いた暗い色調の絵が多く、ニューネンで制作した「ジャガイモを食べる人々」はこの時代の主要作品である。

1886年2月、テオを頼ってパリに移り、印象派新印象派の影響を受けた明るい色調の絵を描くようになった。この時期の作品としては「タンギー爺さん」などが知られる。日本の浮世絵にも関心を持ち、収集や模写を行っている(パリ時代)。1888年2月、南フランスのアルルに移り、「ひまわり」や「夜のカフェテラス」などの名作を次々に生み出した。南フランスに画家の協同組合を築くことを夢見て、同年10月末からポール・ゴーギャンを迎えての共同生活が始まったが、次第に2人の関係は行き詰まり、12月末のゴッホの「耳切り事件」で共同生活は終焉した。以後、発作に苦しみながらアルルの病院への入退院を繰り返した(アルル時代)。1889年5月からはアルル近郊のサン=レミの精神病院に入院した。発作の合間にも「星月夜」など多くの風景画、人物画を描き続けた(サン=レミ時代)。1890年5月、精神病院を退院してパリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移り画作を続けたが(オーヴェル時代)、7月27日、自ら銃を撃ち、29日死亡した。もっとも、自殺という一般の理解に対しては異説もある()。発作等の原因については、癲癇統合失調症など様々な仮説が研究者によって発表されている(病因)。

生前に売れた絵はたった1枚「赤い葡萄畑」だったと言われているが、晩年には彼を高く評価する評論が現れていた。彼の死後、回顧展の開催、書簡集や伝記の出版などを通じて急速に知名度が上がるにつれ、市場での作品の評価も急騰した。彼の生涯は多くの伝記や『炎の人ゴッホ』に代表される小説・映画などで描かれ、「情熱的な画家」、「狂気の天才」といった幻想的イメージをもって語られるようになった(後世)。

弟テオや友人らと交わした多くの手紙が、書簡集として出版されており、彼の生活や考え方を知ることができる(手紙)。約10年の間に、油絵約860点、水彩画約150点、素描約1030点、版画約10点を残し、手紙に描き込んだスケッチ約130点も合わせると、2100以上の絵を残した[1]。有名な作品の多くは最後の2年間(アルル時代以降)に制作された油絵である。一連の「自画像」のほか身近な人々の肖像画、花の静物画風景画などが多く、特に「ひまわり」や小麦畑、糸杉などをモチーフとしたものがよく知られている。印象派の美学の影響を受けながらも、大胆な色彩やタッチによって自己の内面や情念を表現した彼の作品は、外界の光の効果を画面上に捉えることを追求した印象派とは一線を画するものであり、ゴーギャンやセザンヌと並んでポスト印象派を代表する画家である。またその芸術は表現主義の先駆けでもあった(作品)。

生涯

出生、少年時代(1853年-1869年)

ゴッホの家族
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フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部の北ブラバント州ブレダにほど近いズンデルト[注釈 2]の村で、父テオドルス・ファン・ゴッホ(通称ドルス、1822年-1885年)と母アンナ・コルネリア・カルベントゥス(1819年-1907年)との間の長男として生まれた。父ドルスは、オランダ改革派牧師であり、1849年にこの村の牧師館に赴任し、1851年、アンナと結婚した[2]。ブラバントは、オランダ北部とは異なりカトリックの人口が多く、ドルス牧師の指導する新教徒は村の少数派であった[3][注釈 3]

フィンセントという名は、ドルス牧師の父でブレダの高名な牧師であったフィンセント・ファン・ゴッホ(1789年-1874年)からとられている[4]。祖父フィンセントには、長男ヘンドリク(ヘイン伯父)、次女ドロアテ、次男ヨハンネス(ヤン伯父)、三男ヴィレム、四男フィンセント(セント伯父)、五男テオドルス(父ドルス牧師)、三女エリーザベト、六男コルネリス・マリヌス(コル叔父)、四女マリアという子があり、このうちヘイン伯父、セント伯父、コル叔父は画商になっている[5]

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1866年頃(13歳頃)のフィンセント。
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「農場の家と納屋」1864年2月、素描。

父ドルス牧師と母アンナとの間には、画家フィンセントが生まれるちょうど1年前の1852年3月30日に、死産の子があり、その兄にもフィンセントという名が付けられていた[6][注釈 4]。画家フィンセントの後に、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(通称ヴィル、1862年生)、弟コルネリス(通称コル、1867年生)が生まれた[7]

フィンセントは、小さい時から癇癪持ちで、両親や家政婦からは兄弟の中でもとりわけ扱いにくい子と見られていた。親に無断で一人で遠出することも多く、ヒースの広がる低湿地を歩き回り、花や昆虫や鳥を観察して1日を過ごしていた[8]1860年からズンデルト村の学校に通っていたが、1861年から1864年まで、妹アンナとともに家庭教師の指導を受けた[7]。1864年2月に11歳のフィンセントが父の誕生日のために描いたと思われる「農場の家と納屋」と題する素描が残っており、絵の才能の可能性を示している[9]。1864年10月からは約20km離れたゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入った[7]。彼は、後に、親元を離れて入学した時のことを「僕がプロフィリさんの学校の石段の上に立って、お父さんとお母さんを乗せた馬車が家の方へ帰っていくのを見送っていたのは、秋の日のことだった。」と回顧している[10][手紙 1]

1866年9月15日、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ウィレム2世校に進学した。パリで成功したコンスタント=コルネーリス・ハイスマンスという画家がこの学校で教えており、ゴッホも彼から絵を習ったと思われる[11]1868年3月、ゴッホはあと1年を残して学校をやめ、家に帰ってしまった。その理由は分かっていない[12]。本人は、1883年テオに宛てた手紙の中で、「僕の若い時代は、陰鬱で冷たく不毛だった」と書いている[手紙 2]

グーピル商会(1869年-1876年)

1869年7月、セント伯父の助力で、ゴッホは画商グーピル商会ハーグ支店の店員となり、ここで約4年間過ごした[注釈 5]。彼は、この時のことについて「2年間は割と面白くなかったが、最後の年はとても楽しかった」と書いている[13][手紙 3]。テオの妻ヨーによれば、この時上司のテルステーフはフィンセントの両親に、彼は勤勉で誰にも好かれるという高評価を書き送ったというが[14]、実際にはテルステーフやハーグ支店の経営者であるセント伯父との関係はうまく行っていなかったと見られる[15]1872年夏、当時まだ学生だった弟テオがハーグのフィンセントのもとを訪れ、職場でも両親との間でも孤立感を深めていたフィンセントはテオに親しみを見出した。この時レイスウェイクまで2人で散歩し、にわか雨に遭って風車小屋でミルクを飲んだことを、フィンセントは後に鮮やかな思い出として回想している。この直後にフィンセントはテオに手紙を書き、以後2人の間で書簡のやり取りが始まった[16]

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ゴッホが1869年(16歳)から1873年(20歳)まで勤めたグーピル商会ハーグ支店。

フィンセントは、ハーグ支店時代に、近くのマウリッツハイス美術館レンブラントフェルメールオランダ黄金時代の絵画に触れるなど、美術に興味を持つようになった。また、グーピル商会で1870年代初頭から扱われるようになった新興のハーグ派の絵にも触れる機会があった[17]

1873年5月、彼はロンドン支店に転勤となった[18]。表向きは栄転であったが、実際にはテルステーフやセント伯父との関係悪化、フィンセントの娼館通いなどの不品行が理由でハーグを追い出されたものとも見られている[19]。8月末からロワイエ家の下宿に移った[20]。ヨーの回想録によれば、ゴッホは下宿先の娘ユルシュラ・ロワイエに恋をし、思いを告白したが、彼女は実は以前下宿していた男と婚約していると言って断られたという。そして、その後彼はますます孤独になり、宗教的情熱を強めることになったという[21]。しかし、この物語には最近の研究で疑問が投げかけられており、ユルシュラは下宿先の娘ではなくその母親の名前であることが分かっている[注釈 6]。そして、ゴッホ自身が書いている「20歳の恋」[注釈 7]の相手は、ハーグで親交のあった遠い親戚のカロリーナ・ファン・ストックム=ハーネベーク(カロリーン)ではないかという説がある[22]。いずれにしても、彼は、ロワイエ家の下宿を出た後、1874年冬頃から、チャールズ・スポルジョンの説教を聞きに行ったり、ジュール・ミシュレイポリット・テーヌの著作、またエルネスト・ルナンの『イエス伝』などを読み進めたりするうちに、キリスト教への関心を急速に深めていった[23]

1875年5月、彼はパリ本店に転勤となった[24][注釈 8]。同じパリ本店の見習いで同宿だったハリー・グラッドウェルとともに、聖書トマス・ア・ケンピスの『キリストに倣いて』に読みふけった[25]。他方、金儲けだけを追求するようなグーピル商会の仕事には反感を募らせた[26]。この頃、父はフィンセントには今の職場が合わないようだとテオに書いている[27]。翌1876年1月、彼はグーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けた[28][手紙 4][注釈 9]。この事件は両親に衝撃と失望を与えた[29]

聖職者への志望(1876年-1880年)

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「エッテンの牧師館と教会」1876年4月、エッテン。グーピル商会を解雇された23歳のゴッホは、イギリスに発つ前、ブレダ西郊の農村エッテンの実家に立ち寄り、家族に別れを告げた[30][注釈 10]

同年(1876年)4月、ゴッホはイギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす、ストークス氏の経営する小さな寄宿学校で無給で教師として働くこととなった。ここで少年たちにフランス語初歩、算術、書き取りなどを教えた。同年6月、寄宿学校はロンドン郊外のアイズルワースに移ることとなり、フィンセントはアイズルワースまで徒歩で旅した。しかし、伝道師になって労働者や貧しい人の間で働きたいという希望を持っていたフィンセントは、ストークス氏の寄宿学校での仕事を続けることなく、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしたりした[31]ジョージ・エリオットの『牧師館物語』や『アダム・ビード』を読んだことも、伝道師になりたいという希望に火を付けた[32]

その年のクリスマス、彼はエッテンの父の家に帰省した。聖職者になるには7年から8年もの勉強が必要であり、無理だという父ドルス牧師の説得を受け[33]、翌1877年1月から5月初旬まで、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働いた。しかし、言われた仕事は果たすものの、暇を見つけては聖書の章句を英語やフランス語やドイツ語に翻訳していたという。また、この時の下宿仲間で教師だったヘルリッツは、フィンセントは食卓で長い間祈り、肉は口にせず、日曜日にはオランダ改革派教会だけでなくヤンセン派教会、カトリック教会ルター派教会に行っていたと語っている[34]

フィンセントは、ますます聖職者になりたいという希望を募らせ、受験勉強に耐えることを約束して父を説得した[35]。同年3月、アムステルダムのコル叔父や、母の姉の夫ヨハネス・ストリッケル牧師を訪ねて、相談した。コル叔父の仲介で、アムステルダム海軍造船所長官のヤン伯父が、ゴッホの神学部受験のため、彼を迎え入れてくれることになった。そして、同年5月、ゴッホはエッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学に励むことになった[36]。ストリッケル牧師の世話で、2歳年上のメンデス・ダ・コスタからギリシャ語ラテン語を習った。しかし、その複雑な文法や、代数幾何歴史地理、オランダ語文法など受験科目の多さに挫折を味わった[37]。精神的に追い詰められたゴッホは、パンしか口にしない、わざと屋外で夜を明かす、杖で自分の背中を打つというような自罰的行動に走った[38]1878年2月、習熟度のチェックのために訪れた父からは、勉強が進んでいないことを厳しく指摘され、学資も自分で稼ぐように言い渡された[39]。フィンセントはますます勉強から遠ざかり、アムステルダムでユダヤ人にキリスト教を布教しようとしているチャールズ・アドラー牧師らと交わるうちに、貧しい人々に聖書を説く伝道師になりたいという思いを固めた[40]

こうして、同年(1878年)10月の試験の日を待たずに、同年7月、ヤン伯父の家を出てエッテンに戻り、今度は同年8月からベルギーブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごした。同年11月15日に試行期間が終わる時、学校から、フランドル生まれの生徒と同じ条件での在学はできない、ただし無料で授業を受けてもよい、という提案を受けた。しかし、彼は、引き続き勉強するためには資金が必要だから、自分は伝道のためボリナージュに行くことにするとテオに書いている[41][手紙 5]

同年(1878年)12月、彼はベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方(モンス近郊)に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めた。1879年1月から、熱意を認められて半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えられることになった。彼は貧しい人々に説教を行い、病人・けが人に献身的に尽くすとともに、自分自身も貧しい坑夫らの生活に合わせて同じような生活を送るようになり、着るものもみすぼらしくなった[42]。しかし、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットに労働者が死に、抑圧され、労働争議が巻き起こる炭鉱の町において、社会的不正義に憤るというよりも、『キリストに倣いて』が教えるように、苦しみの中に神の癒しを見出すことを説いたオランダ人伝道師は、人々の理解を得られなかった[43]。教会の伝道委員会も、ゴッホの常軌を逸した自罰的行動を伝道師の威厳を損なうものとして否定し、ゴッホがその警告に従うことを拒絶すると、伝道師の仮免許と俸給は打ち切られた[44]

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1880年、ゴッホ(当時27歳)がクウェムで暮らした家。ここにいる時に彼は画家となることを決めた。

伝道師としての道を絶たれたゴッホは、同年(1879年)8月、同じくボリナージュ地方のクウェム(モンス南西の郊外)の伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んだ[45]。父親からの仕送りに頼ってデッサンの模写や坑夫のスケッチをして過ごしたが、家族からは仕事をしていないフィンセントに厳しい目が注がれ、彼のもとを訪れた弟テオからも「年金生活者」のような生活ぶりについて批判された[46]1880年3月頃、絶望のうちに北フランスへ放浪の旅に出て、金も食べるものも泊まるところもなく、ひたすら歩いて回った[47]。そしてついにエッテンの実家に帰ったが、彼の常軌を逸した傾向を憂慮した父親がヘールの精神病院に入れようとしたことで口論になり、クウェムに戻った[48]

クウェムに戻った1880年6月頃から、テオからフィンセントへの生活費の援助が始まった[49][手紙 6]。また、この時期、周りの人々や風景をスケッチしているうちに、ゴッホは本格的に絵を描くことを決意したようである[50]。9月には、北フランスへの苦しい放浪を振り返って、「しかしまさにこの貧窮の中で、僕は力が戻ってくるのを感じ、ここから立ち直るのだ、くじけて置いていた鉛筆をとり直し、絵に戻るのだと自分に言い聞かせた。」と書いている[手紙 7]ジャン=フランソワ・ミレーの複製を手本に素描を練習したり、シャルル・バルグのデッサン教本を模写したりした[51]

同年(1880年)10月、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに出て行った。そして、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続けた。また、この時、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと交友を持つようになった[52]。ゴッホ自身も、ハーグ派の画家ウィレム・ルーロフスから、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められた[53]。同年11月第1週から、同アカデミーの「アンティーク作品からの素描」というコースに登録した記録が残っており、実際に短期間出席したものと見られている[54]。また、名前は不明だが、ある画家から短期間、遠近法や解剖学のレッスンを受けていた[55]

オランダ時代

エッテン(1881年)

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「父テオドルス」1881年、エッテン。鉛筆。
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ゴッホ(当時27歳)の片思いの相手ケー・フォス・ストリッケルと、その息子ヤン。

1881年4月、ゴッホはブリュッセルに住むことによる経済的な問題が大きかったため、エッテンの実家に戻り、田園風景や近くの農夫たちを素材に素描や水彩画を描き続けた。まだぎこちなさが残るが、この頃にはゴッホ特有の太く黒い描線と力強さが現れ始めていた[56]。夏の間、最近夫を亡くしたいとこのケー・フォス・ストリッケル(母の姉と、アムステルダムのヨハネス・ストリッケル牧師との間の娘)がエッテンを訪れた。彼はケーと連れ立って散歩したりするうちに、彼女に好意を持つようになった。未亡人のケーはゴッホより7歳上で、さらに8歳の子供もいたにもかかわらずゴッホは求婚するが、「とんでもない、だめ、絶対に。」という言葉で拒絶され、打ちのめされた[57][手紙 8]

ケーはアムステルダムに帰ってしまったが、ゴッホは彼女への思いを諦めきれず、ケーに何度も手紙を書き、11月末には、テオに無心した金でアムステルダムのストリッケル牧師の家を訪ねた。しかし、ケーからは会うことを拒否され、両親のストリッケル夫妻からはしつこい行動が不愉快だと非難された。絶望した彼は、ストリッケル夫妻の前でランプの炎に手をかざし、「私が炎に手を置いていられる間、彼女に会わせてください。」と迫ったが、夫妻は、ランプを吹き消して、会うことはできないと言うのみだった[58][手紙 9]。伯父ストリッケル牧師の頑迷な態度は、ゴッホに聖職者たちへの疑念を呼び起こし、父やストリッケル牧師の世代との溝を強く意識させることになった[59]

11月27日、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けたが、クリスマス前にいったんエッテンの実家に帰省する。しかし、クリスマスの日に彼は教会に行くことを拒み、それが原因で父親と激しく口論し、その日のうちに実家を離れて再びハーグへ発ってしまった[60][手紙 10]

ハーグ(1882年-1883年)

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「屋根、ハーグのアトリエからの眺め」1882年、ハーグ。水彩。個人コレクション。ゴッホは28歳から30歳にかけてハーグに住んだ。
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シーンを描いた「悲しみ」1882年4月、ハーグ。素描(黒チョーク)。

1882年1月、彼はハーグに住み始め、オランダ写実主義・ハーグ派の担い手であったモーヴを頼った。モーヴはゴッホに油絵水彩画の指導をするとともに、アトリエを借りるための資金を貸し出すなど、親身になって面倒を見てくれた[61]。ハーグの絵画協会プルクリ・スタジオの準会員にも推薦してくれた[62]。しかし、モーヴは次第にゴッホによそよそしい態度を取り始め、ゴッホが手紙を書いても返事を寄越さなくなった。ゴッホはこの頃にクラシーナ・マリア・ホールニク(通称シーン)という身重の娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助をしており、結婚さえ考えていたが、彼は、モーヴの態度が冷たくなったのはこの交際のためだと考えている[63][手紙 11]。石膏像のスケッチから始めるよう助言するモーヴと、モデルを使っての人物画に固執するゴッホとの意見の不一致も原因のようである[64]。ゴッホは、わずかな意見の違いも自分に対する全否定であるかのように受け止めて怒りを爆発させる性向があり、モーヴに限らず、知り合ったハーグ派の画家たちも次々彼を避けるようになっていった[65]。交友関係に失敗した彼の関心は、アトリエでモデルに思いどおりのポーズをとらせ、ひたすらスケッチをすることに集中したが、月100フランのテオからの仕送りの大部分をモデル料に費やし、少しでも送金が遅れると自分の芸術を損なうものだと言ってテオをなじった[66][注釈 11]

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1882年夏頃、遠近法やプロポーションを捉えるための透視枠を自作し、1888年5月のアルル初期まで使っていた[67][手紙 12]

同年(1882年)3月、ゴッホのもとを訪れたコル叔父が、街の風景の素描を12点注文してくれたため、ゴッホはハーグ市街を描き続けた[68]。そしてコル叔父に素描を送ったが、コル叔父は「こんなのは商品価値がない」と言って、ゴッホが期待したほどの代金は送ってくれなかった[69]。ゴッホは、同年6月、淋病で3週間入院し、退院直後の7月始め、ゴッホは今までの家の隣の家に引っ越し、この新居に、長男ウィレムを出産したばかりのシーンとその5歳の娘と暮らし始めた[70]。一時は、売れる見込みのある油絵の風景画を描くようにとのテオの忠告にしぶしぶ従い、スヘフェニンゲンの海岸などを描いたが、間もなく、上達が遅いことを自ら認め、挫折した[71]。冬の間は、アトリエで、シーンの母親や、赤ん坊、身寄りのない老人などを素描した[72]

ゴッホはそこで1年余りシーンと共同生活をしていたが、1883年5月には、「シーンはかんしゃくを起こし、意地悪くなり、とても耐え難い状態だ。以前の悪習へ逆戻りしそうで、こちらも絶望的になる。」などとテオに書いている[73][手紙 13]。ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をすることを考え、同年9月初め、シーンとの間で、ハーグでこのまま暮らすことは経済的に不可能であるため、彼女は子どもたちを自分の家族に引き取ってもらうこと、彼女は自分の仕事を探すことなどを話し合った。シーンと別れたことを父に知らせ、ゴッホは、9月11日、ドレンテ州のホーヘフェーンへ発った[74][手紙 14][注釈 12]。また、同年10月からはドレンテ州ニーウ・アムステルダム泥炭地帯を旅しながら、ミレーのように農民の生活を描くべきだと感じ、馬で畑を犂く人々を素描した[75]

ニューネン(1883年末-1885年)

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ジャガイモを食べる人々」1885年4月、ニューネン。油彩、キャンバス、81.5×114.5cm。ゴッホ美術館。最初の本格的作品と言われる。

同年(1883年)12月5日、ゴッホは父親が前年8月から仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村(アイントホーフェンの東郊)に初めて帰省し、ここで2年間過ごした。2年前にエッテンの家を出るよう強いられたことをめぐり父と激しい口論になったものの、小部屋をアトリエとして使ってよいことになった。さらに、1884年1月に骨折のけがをした母の介抱をするうち、家族との関係は好転した[76]。母の世話の傍ら、近所の織工たちの家に行って、古いオーク織機や、働く織工を描いた。一方、テオからの送金が周りから「能なしへのお情け」と見られていることには不満を募らせ、同年3月、テオに、今後作品を規則的に送ることとする代わりに、今後テオから受け取る金は自分が稼いだ金であることにしたい、という申入れをし、織工や農民の絵を描いた[77][手紙 15]。その多くは鉛筆やペンによる素描であり、水彩、さらには油彩も少し試みたが、遠近法の技法や人物の描き方も不十分であり、いずれも暗い色調のものであった[78]ピサロモネなど明るい印象派の作品に関心を注ぐテオと、バルビゾン派を手本として暗い色調の絵を描くフィンセントの間には意見の対立が生じた[79]

1884年の夏、近くに住む10歳年上の女性マルホット(マルガレータ・ベーヘマン)と恋仲になった。しかし双方の家族から結婚を反対された末、マルホットはストリキニーネを飲んで倒れるという自殺未遂事件を起こし、村のスキャンダルとなった[80][手紙 16]。この事件をめぐる周囲との葛藤や、友人ラッパルトとの関係悪化、ラッパルトの展覧会での成功などに追い詰められたフィンセントは、再び父との争いを勃発させた[81]1885年3月26日、父ドルス牧師が発作を起こして急死した。フィンセントはテオへの手紙に「君と同様、あれから何日かはいつものような仕事はできなかった、この日々は忘れることはあるまい。」と書いている[82][手紙 17]。妹アンナからは、父を苦しめて死に追いやったのはフィンセントであり、彼が家にいれば母も殺されることになるとなじられた。彼は牧師館から追い出され、5月初めまでに、前からアトリエとして借りていた部屋に荷物を移した[83]

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「開かれた聖書の静物画」1885年10月、ニューネン。油彩、キャンバス、65×78cm。ゴッホ美術館

1885年の春、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、彼の最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させた[84]。自らが着想した独自の画風を具体化した作品であり、ゴッホ自身は大きく満足した仕上がりであったが、テオを含め周囲からの理解は得られなかった。同年5月には、アカデミズム絵画を批判して印象派を持ち上げていた友人ラッパルトからも、人物の描き方、コーヒー沸かしと手の関係、その他の細部について手紙で厳しい批判を受けた。これに対し、ゴッホも強い反論の手紙を返し、2人はその後絶交に至った[85]

夏の間、ゴッホは農家の少年と一緒に村を歩き回って、ミソサザイの巣を探したり、藁葺き屋根の農家の連作を描いたりして過ごした。炭坑のストライキを描いたエミール・ゾラの小説『ジェルミナール』を読み、ボリナージュでの経験を思い出して共感する[86]。一方、「ジャガイモを食べる人々」のモデルになった女性(ホルディナ・ドゥ・フロート)が9月に妊娠した件について、ゴッホのせいではないかと疑われ、カトリック教会からは、村人にゴッホの絵のモデルにならないよう命じられるという干渉を受けた[87]

同年(1885年)10月、ゴッホは首都アムステルダム国立美術館を訪れ、レンブラントフランス・ハルスロイスダールなどの17世紀オランダ(いわゆる黄金時代)の大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく一気呵成に描き上げることといった教訓を得るとともに、近年の一様に明るい絵への疑問を新たにした。同じ10月、ゴッホは、黒の使い方を実証するため、父の聖書と火の消えたろうそく、エミール・ゾラの小説本『生きる歓び』を描いた静物画を描き上げ、テオに送った[88][手紙 18]。しかし、もはやモデルになってくれる村人を見つけることができなくなった上、部屋を借りていたカトリック教会管理人から契約を打ち切られると、11月、ニューネンを去らざるを得なくなった[89]。残された多数の絵は母によって二束三文で処分された[90]

アントウェルペン(1885年末-1886年初頭)

1885年11月、ゴッホはベルギーのアントウェルペンへ移り、イマージュ通りに面した絵具屋の、2階の小さな部屋を借りた[91]1886年1月から、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出た[注釈 13]。また、美術館やカテドラルを訪れ、特にルーベンスの絵に関心を持った。さらに、エドモン・ド・ゴンクールの小説『シェリ』を読んでそのジャポネズリー(日本趣味)に魅了され、多くの浮世絵を買い求めて部屋の壁に貼った[92]

金銭的には依然困窮しており、テオが送ってくれる金を画材とモデル代につぎ込み、口にするのはパンとコーヒーとタバコだけだった。同年2月、ゴッホはテオへの手紙で、前の年の5月から温かい物を食べたのは覚えている限り6回だけだと書いている。食費を切り詰め、体を酷使したため、歯は次々欠け、彼の体は衰弱した[93][手紙 19][注釈 14]。また、アントウェルペンの頃から、アブサンを飲むようになった[94]

パリ(1886年-1888年初頭)

テンプレート:Multiple image 1886年2月末、ゴッホは、ブッソ=ヴァラドン商会(グーピル商会の後身)の支店を任されているテオを頼って、前ぶれなく夜行列車でパリに向かい、モンマルトルの弟の部屋に住み込んだ。部屋は手狭でアトリエの余地がなかったため、6月からはルピック通りのアパルトマンに2人で転居した[95]。パリ時代には、この兄弟が同居していて手紙のやり取りがほとんどないため、ゴッホの生活について分かっていないことが多い[96]。モンマルトルのフェルナン・コルモンの画塾に数か月通い、石膏彫刻の女性トルソーの素描などを残している[97]。もっとも、富裕なフランス人子弟の多い塾生の中では浮き上がった存在となり、長続きしなかった。オーストラリア出身のジョン・ピーター・ラッセルとは数少ない交友関係を持ち、ラッセルはゴッホの肖像画を描いている[98]

1886年当時のパリでは、ルノワールクロード・モネカミーユ・ピサロといった今までの印象派画家とは異なり、純色の微細な色点を敷き詰めて表現するジョルジュ・スーラポール・シニャックといった新印象派・分割主義と呼ばれる一派が台頭しており、この年、印象派絵画展が第8回をもって終了した[99]。ゴッホは、春から秋にかけて、モンマルトルの丘から見下ろすパリの景観、丘の北面の風車・畑・公園など、また花瓶に入った様々な花の絵を描いた。同年冬には人物画・自画像が増えた。また、画商ドラルベレットのところでアドルフ・モンティセリの絵を見てから、この画家に傾倒するようになった[100]。カフェ・タンブランの女店主アゴスティーナ・セガトーリにモデルを世話してもらったり、絵を店にかけてもらったり、冬には彼女の肖像(「カフェ・タンブランの女」)を描いたりしたが、彼女に求婚して断られ、店の人間とトラブルになっている[101]

同居のテオとは口論が絶えず、1887年3月には、テオは妹ヴィルに「フィンセントのことを友人と考えていたこともあったが、それは過去の話だ。彼には出て行ってもらいたい。」と苦悩を漏らしている[102]。他方、その頃から、フィンセントは印象派や新印象派の画風を積極的に取り入れるようになり、パリの風景を明るい色彩で描くようになった。テオもこれを評価する手紙を書いている[103]。同じくその頃、テオはブッソ=ヴァラドン商会で新進の画家を取り扱う展示室を任せられ、モネ、ピサロ、アルマン・ギヨマンといった画家の作品を購入するようになった。これを機に、エミール・ベルナールや、コルモン画塾の筆頭格だったルイ・アンクタントゥールーズ=ロートレックといった野心あふれる若い画家たちも、ゴッホ兄弟と親交を持つようになった[104]。彼が絵具を買っていたジュリアン・タンギー(タンギー爺さん)の店も、若い画家たちの交流の場となっていた[105]

ゴッホは、プロヴァンス通りにあるサミュエル・ビングの店で多くの日本版画を買い集めた[106]。1887年の「タンギー爺さん」の肖像画の背景の壁にいくつかの浮世絵を描き込んでいるほか、渓斎英泉の「雲龍打掛の花魁」、歌川広重名所江戸百景「亀戸梅屋舗」と「大はし あたけの夕立」を模写した油絵を制作している[107]。こうした浮世絵への熱中には、ベルナールの影響も大きい[108]

同年(1887年)11月、ゴッホはクリシー大通りのレストラン・シャレで、自分のほかベルナール、アンクタン、トゥールーズ=ロートレック、A.H.コーニングといった仲間の絵の展覧会を開いた。そして、モネやルノワールら、大並木通り(グラン・ブールヴァール)の画廊に展示される大家と比べて、自分たちを小並木通り(プティ・ブールヴァール)の画家と称した[109]。ベルナールはこの展示会について「当時のパリの何よりも現代的だった」と述べているが[110]、パリの絵画界ではほとんど見向きもされなかった[111]。同月、ポール・ゴーギャンカリブ海マルティニークからフランスに帰国し、フィンセント、テオの兄弟はゴーギャンと交流するようになる[112]

アルル(1888年-1889年5月)

ゴーギャン到着まで

ゴッホは、1888年2月20日、テオのアパルトマンを去って南フランスのアルルに到着し、オテル=レストラン・カレルに宿をとった[113]。ゴッホは、この地から、テオに画家の協同組合を提案した。エドガー・ドガ、モネ、ルノワール、アルフレッド・シスレー、ピサロという5人の「グラン・ブールヴァール」の画家と、テオやテルステーフなどの画商、そしてアルマン・ギヨマン、スーラ、ゴーギャンといった「プティ・ブールヴァール」の画家が協力し、絵の代金を分配し合って相互扶助を図るというものであった[114][手紙 20]

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アルルの跳ね橋」1888年3月、アルル。クレラー・ミュラー美術館。34歳のゴッホは突然テオのもとを去ってアルルに移った。

ゴッホは、ベルナール宛の手紙の中で、「この地方は大気の透明さと明るい色の効果のため日本みたいに美しい。水が美しいエメラルドと豊かな青の色の広がりを生み出し、まるで日本版画に見る風景のようだ。」と書いている[手紙 21]。3月中旬には、アルルの街の南の運河にかかるラングロワ橋を描き(「アルルの跳ね橋」)、3月下旬から4月にかけてはアンズモモリンゴプラムと、花の季節の移ろいに合わせて果樹園を次々に描いた[115]

同年(1888年)5月からは、宿から高い支払を要求されたことを機に、外壁が黄色に塗られた2階建ての建物(「黄色い家」)の東半分、小部屋付きの2つの部屋を借り、画室として使い始めた(ベッドなどの家具がなかったため、9月までは3軒隣の「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の一室に寝泊まりしていた)。ポン=タヴァンにいるゴーギャンが経済的苦境にあることを知ると、2人でこの家で自炊生活をすればテオからの送金でやり繰りできるという提案を、テオとゴーギャン宛に書き送っている[116][手紙 22]。5月30日頃、地中海に面したサント=マリー=ド=ラ=メールの海岸に旅して、海の変幻極まりない色に感動し、砂浜の漁船などを描いた[117]。6月、アルルに戻ると、炎天下、蚊やミストラル(北風)と戦いながら、毎日のように外に出てクロー平野の麦畑や、修道院の廃墟があるモンマジュールの丘、黄色い家の南に広がるラマルティーヌ広場を素描し、雨の日にはズアーブ兵(アルジェリア植民地兵)をモデルにした絵を描いた[118]。7月、アルルの少女をモデルに描いた肖像画に、ピエール・ロティの『お菊さん』を読んで知った日本語を使って「ラ・ムスメ」という題を付けた[119]。同月、郵便夫ジョゼフ・ルーランの肖像を描いた[120]。8月、彼はベルナールに画室を6点のひまわりの絵で飾る構想を伝え、「ひまわり」を4作続けて制作した[121]。9月初旬、寝泊まりしていたカフェ・ドゥ・ラ・ガールを描いた「夜のカフェ」を、3晩の徹夜で制作した。この店は酔客が集まって夜を明かす居酒屋であり、ゴッホは手紙の中で「『夜のカフェ』の絵で、僕はカフェとは人がとかく身を持ち崩し、狂った人となり、罪を犯すようになりやすい所だということを表現しようと努めた。」と書いている[122][手紙 23]

一方、ポン=タヴァンにいるゴーギャンからは、ゴッホに対し、同年(1888年)7月24日頃の手紙で、アルルに行きたいという希望が伝えられた[120]。ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活の準備をするため、9月8日にテオから送られてきた金で、ベッドなどの家具を買い揃え、9月中旬から「黄色い家」に寝泊まりするようになった。同じ9月中旬に「夜のカフェテラス」を描き上げた[123]。9月下旬、「黄色い家」を描いた[124]。ゴーギャンが到着する前に自信作を揃えておかなければという焦りから、テオに費用の送金を度々催促しつつ、次々に制作を重ねた。過労で憔悴しながら、10月中旬、黄色い家の自分の部屋を描いた(「アルルの寝室」)[125]

ゴーギャンとの共同生活

テンプレート:Multiple image 同年(1888年)10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し、共同生活が始まった[126][注釈 15]。2人は、街の南東のはずれにあるアリスカンの散歩道を描いたり、11月4日、モンマジュール付近まで散歩して、真っ赤なぶどう畑を見たりした。2人はそれぞれぶどうの収穫を絵にした(ゴッホの「赤い葡萄畑」)。また、同じ11月初旬、2人は黄色い家の画室で「カフェ・ドゥ・ラ・ガール」の経営者ジョゼフ・ジヌーの妻マリをモデルに絵を描いた(ゴッホの「アルルの女」)[127]。ゴーギャンはゴッホに、全くの想像で制作をするよう勧め、ゴッホは思い出によりエッテンの牧師館の庭を母と妹ヴィルが歩いている絵などを描いた[128]。しかし、ゴッホは、想像で描いた絵は自分には満足できるものではなかったことをテオに伝えている[129]。11月下旬、ゴッホは2点の「種まく人」を描いた[130]。また、11月から12月にかけて、郵便夫ジョゼフ・ルーランやその家族をモデルに多くの肖像画を描き、この仕事を「自分の本領だと感じる」とテオに書いている[131][手紙 24]

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ゴーギャンによる、ひまわりを描くゴッホの肖像(1888年11月)。ひまわりの季節は終わっており、ゴーギャンの想像による作品と思われるが、その表情の描写はカリカチュア的ともいえる[132][注釈 16]

一方で、次第に2人の関係は緊張するようになった。11月下旬、ゴーギャンはベルナールに対し「ヴァンサン〔ゴッホ〕と私は概して意見が合うことがほとんどない、ことに絵ではそうだ。……彼は私の絵がとても好きなのだが、私が描いていると、いつも、ここも、あそこも、と間違いを見つけ出す。……色彩の見地から言うと、彼はモンティセリの絵のような厚塗りのめくらめっぽうをよしとするが、私の方はこねくり回す手法が我慢ならない、などなど。」と不満を述べている[129]。そして、12月中旬には、ゴーギャンはテオに「いろいろ考えた挙句、私はパリに戻らざるを得ない。ヴァンサンと私は性分の不一致のため、寄り添って平穏に暮らしていくことは絶対できない。彼も私も制作のための平穏が必要です。」と書き送り、ゴッホもテオに「ゴーギャンはこのアルルの仕事場の黄色の家に、とりわけこの僕に嫌気がさしたのだと思う。」と書いている[133][手紙 25]。12月中旬(16日ないし17日)、2人は汽車でアルルから西へ70キロのモンペリエに行き、ファーブル美術館を訪れた。ゴッホは特にドラクロワの作品に惹かれ、帰ってから2人はドラクロワやレンブラントについて熱い議論を交わした。モンペリエから帰った直後の12月20日頃、ゴーギャンはパリ行きをとりやめたことをテオに伝えた[134]

同年12月23日、ゴッホが自らの耳たぶを切り落とす事件が発生した[注釈 17]。12月30日の地方紙「ル・フォロム・レピュブリカン」は、「先週の日曜日、夜の11時半、オランダ出身のヴァンサン・ヴォーゴーグと称する画家が娼家1号に現れ、ラシェルという女を呼んで、『この品を大事に取っておいてくれ』と言って自分の耳を渡した。そして姿を消した。この行為――哀れな精神異常者の行為でしかあり得ない――の通報を受けた警察は翌朝この人物の家に行き、ほとんど生きている気配もなくベッドに横たわっている彼を発見した。この不幸な男は直ちに病院に収容された。」と報じている。ゴッホ自身はこの事件について記憶にないようであり、何も語っていない[135][注釈 18]。翌日の12月24日、ゴーギャンは電報でテオをアルルに呼び寄せてから、パリに帰った[136]

アルル市立病院

テンプレート:Multiple image ゴッホは、アルル市立病院に収容された。ちょうどヨーとの婚約を決めたばかりだったテオは、12月24日夜の列車でアルルに急行し、翌日兄を病院に見舞うとすぐにパリに戻った[137]。テオは、ヨーに対し、「兄のそばにいると、しばらくいい状態だったかと思うと、すぐに哲学神学をめぐって苦悶する状態に落ち込んでしまう。」と書き送り、兄の生死を心配している[138]。担当医(インターン)のフェリクス・レーのほか、郵便夫ルーラン、病院の近くに住むプロテスタント牧師ルイ・サルがゴッホの面倒を見てくれ、テオに兄の病状を書き送っている。容態は改善に向かい、ゴッホは1889年1月2日、テオ宛に「あと数日病院にいれば、落ち着いた状態で家に戻れるだろう。何よりも心配しないでほしい。ゴーギャンのことだが、僕は彼を怖がらせてしまったのだろうか。なぜ彼は消息を知らせてこないのか。」と書いている。そして、1月7日退院して「黄色い家」に戻った[139][手紙 26]

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アルルの病院の中庭。1889年4月、アルル。

退院したゴッホは、レー医師の肖像や、耳に包帯をした2点の自画像を描き、また事件で中断していた「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」も完成させた[140]。ゴッホは、耐えられない幻覚はなくなり、悪夢程度に鎮まってきたとテオに書いている。しかし、2月7日、自分は毒を盛られている、至る所に囚人や毒を盛られた人が目につく、などと訴え、近所の人が警察に対応を求めたことから、病院に収容された[141]。2月17日に仮退院したが、住民29名から市長に、「オランダ人風景画家が精神能力に狂いをきたし、過度の飲酒で異常な興奮状態になり、住民、ことに婦女子に恐怖を与えている」として、家族が引き取るか精神病院に収容するよう求める請願書が提出され、2月26日、警察署長の判断で再び病院に収容された[142][143]

3月23日までの約1か月間は単独病室に閉じ込められ、絵を描くことも禁じられた[144]。4月18日の結婚式を前に新居の準備に忙しいテオからもほとんど便りはなく、フィンセントは結婚するテオに見捨てられるとの孤独感に苦しんだ[145]。日中付添人と外出することを許されると、絵を再開した[146]。家主から「黄色い家」の立退きを求められたため、荷物を片付けたが、不在の間にローヌ川の洪水による湿気で多くの作品が損傷していることに落胆せざるを得なかった[147]。4月下旬、テオに、サル牧師から聞いたサン=レミの精神病院に移る気持ちになったので、転院の手続をとってほしいと手紙で頼んだ[148][手紙 27]

サン=レミ(1889年5月-1890年5月)

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サン=レミのサン・ポール・ド・モソル精神病院の病室。当初ゴッホは3か月程度の滞在のつもりだったが、36歳から37歳までの1年間、療養生活を送った[149]

同年(1889年)5月8日、ゴッホは、サル牧師に伴われ、アルルから20キロ余り北東にあるサン=レミの精神病院に入院した。病院長テオフィル・ペロンは、その翌日、「これまでの経過全体の帰結として、ヴァン・ゴーグ氏は相当長い間隔を置いたてんかん発作を起こしやすい、と私は推定する。」と記録している[150]

ゴッホは、病院の一室を画室として使う許可を得て[151]、病院の庭でイチハツの群生やアイリスを描いた[152]。また、病室の鉄格子の窓の下の麦畑や、アルピーユ山脈の山裾の斜面を描いた。6月に入ると、病室の外に出てオリーブ畑や糸杉を描くようになった[153]。同じ6月、アルピーユの山並みの上に輝く星々と三日月に、S字状にうねる雲を描いた「星月夜」を制作した。彼は、「オリーブ畑」、「星月夜」、「キヅタ」などの作品について、「実物そっくりに見せかける正確さでなく、もっと自由な自発的デッサンによって田舎の自然の純粋な姿を表出しようとする仕事だ。」と述べている[154][手紙 28]。一方、テオは、兄の近作について「これまでなかったような色彩の迫力があるが、どうも行き過ぎている。むりやり形をねじ曲げて象徴的なものを追求することに没頭したりすると、頭を酷使して、めまいを引き起こす危険がある。」と懸念を伝えている[155][手紙 29]。7月初め、フィンセントはヨーが妊娠したことを知らされ、お祝いの手紙を送るが、複雑な心情も覗かせている[156]

ゴッホの病状は改善しつつあったが、アルルへ作品を取りに行き、戻って間もなくの同年(1889年)7月半ば、再び発作が起きた。8月22日、ゴッホは「もう再発することはあるまいと思い始めた発作がまた起きたので苦悩は深い。……何日かの間、アルルの時と同様、完全に自失状態だった。……今度の発作は野外で風の吹く日、絵を描いている最中に起きた。」と書いている[157][手紙 30]。9月初めには意識は清明に戻り、自画像、「麦刈る男」、看護主任トラビュックの胸像、ドラクロワの「ピエタ」の石版複製を手がかりにした油彩画などを描いた[158]。また、ミレーの「野良仕事」の連作を模写した。ゴッホは、模写の仕事を、音楽家がベートーヴェンを解釈するのになぞらえている[手紙 31]。以降、12月まで、ミレーの模写のほか「石切場の入口」、「渓谷」、「病院の庭の松」、オリーブ畑、サン=レミのプラタナス並木通りの道路工事などを描いた[159]

1889年のクリスマスの頃、再び発作が起き、この時は1週間程度で収まった[160]1890年1月下旬、アルルへ旅行して戻ってきた直後にも、発作に襲われた[161]。1月31日にテオとヨーの間に息子(フィンセント・ウィレムと名付けられた)が生まれたのを祝って2月に「花咲くアーモンドの木の枝」を描いて贈ったり、ゴーギャンが共同生活時代に残したスケッチをもとにジヌー夫人の絵を描いたりして創作を続けるが、2月下旬にその絵をジヌー夫人自身に届けようとアルルに出かけた時、再び発作で意識不明になった[162]。4月、ペロン院長はテオに、フィンセントが「ある時は自分の感じていることを説明するが、何時間かすると状態が変わって意気消沈し、疑わしげな様子になって何も答えなくなる。」と、完全な回復が遅れている様子を伝えている[163]。また、ペロン院長による退院時(5月)の記録には、「発作の間、患者は恐ろしい恐怖感にさいなまれ、絵具を飲み込もうとしたり、看護人がランプに注入中の灯油を飲もうとしたりなど、数回にわたって服毒を試みた。発作のない期間は、患者は全く静穏かつ意識清明であり、熱心に画業に没頭していた。」と記載されている[164]

一方、ゴッホの絵画は少しずつ評価されるようになっていた。同年(1890年)1月、評論家のアルベール・オーリエが「メルキュール・ド・フランス」紙1月号にゴッホを高く評価する評論を載せ、ブリュッセルで開かれた20人展ではゴッホの「ひまわり」、「果樹園」など6点が出品されて好評を博した[165]。2月、この展覧会でゴッホの「赤い葡萄畑」が初めて400フランで売れ(買い手は画家で20人展のメンバーのアンナ・ボック)、テオから兄に伝えられた[166]。3月には、パリで開かれたアンデパンダン展に「渓谷」など10点がテオにより出品され、ゴーギャンやモネなど多くの画家から高い評価を受けているとテオが兄に書き送っている[167]

体調が回復した5月、ゴッホは、ピサロと親しい医師ポール・ガシェを頼って、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに転地することにした。最後に「糸杉と星の見える道」を描いてから、5月16日サン=レミの精神病院を退院した。翌朝パリに着き、数日間テオの家で過ごしたが、パリの騒音と気疲れを嫌って早々にオーヴェルに向かって発った[168]

オーヴェル=シュル=オワーズ(1890年5月-7月)

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医師ガシェの肖像」1890年6月、オーヴェル。ガシェ(当時61歳)は、マネ、ルノワール、セザンヌ、ピサロ、ギヨマンらと親交を持つ美術愛好家でもあった。彼の手がけるホメオパシー療法を象徴するジギタリスの花が描かれている[169]
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ゴッホがオーヴェルで宿泊したラヴー旅館の部屋。37歳のゴッホは、最後の2か月間をここで過ごした。

同年(1890年)5月20日、ゴッホはパリから北西へ30キロ余り離れたオーヴェル=シュル=オワーズの農村に着き、ポール・ガシェ医師を訪れた。ガシェ医師について、ゴッホは「非常に神経質で、とても変わった人」だが、「体格の面でも、精神的な面でも、僕にとても似ているので、まるで新しい兄弟みたいな感じがして、まさに友人を見出した思いだ」[手紙 32]と妹ヴィルに書いている。ゴッホは村役場広場のラヴー旅館に滞在することにした[170]

ゴッホは、古い草葺屋根の家々、セイヨウトチノキ(マロニエ)の花を描いた。またガシェ医師の家を訪れて絵画や文学の話をしつつ、その庭、家族、ガシェの肖像などを描いた[171]。6月初めには、さらにオーヴェルの教会を描いた[172]。テオには、都会ではヨーの乳の出も悪く子供の健康に良くないからと、家族で田舎に来るよう訴え、オーヴェルの素晴らしさを強調する手紙をしきりに送った。最初は日曜日にでもと言っていたが、1か月の休養が必要だろうと言い出し、更には何年も一緒に生活したいと、フィンセントの要望は膨らんだ[173]。そして6月8日の日曜日、パリからテオとヨーが息子を連れてオーヴェルを訪れ、フィンセントとガシェの一家と昼食をとったり散歩をしたりした。フィンセントは2日後「日曜日はとても楽しい思い出を残してくれた。……また近いうちに戻ってこなくてはいけない。」と書いている[174][手紙 33]。6月末から50cm×100cmの長いキャンバスを使うようになり、これを縦に使ってピアノを弾くガシェの娘マルグリットを描いた[175]

この頃、パリのテオは、勤務先の商会の経営者ブッソ、ヴァラドンと意見が対立しており、ヨーの兄アンドリース・ボンゲル(ドリース)とともに共同で自営の画商を営む決意をするか迷っていた。またヨーと息子が体調を崩し、そのことでも悩んでおり、テオは6月30日、兄宛に悩みを吐露した長い手紙を書いている[176][手紙 34]。7月6日、フィンセントはパリを訪れた。ヨーによれば、アルベール・オーリエや、トゥールーズ=ロートレックなど多くの友人が彼を訪ねたほか、ギヨマンも来るはずだったが、フィンセントは「やり切れなくなったので、その訪問を待たずに急いでオーヴェルへ帰っていった」という。この日、テオやヨーとの間で何らかの話合いがされたようであるが、ヨーはその詳細を語っていない[177][注釈 19]。フィンセントは、7月10日頃、オーヴェルからテオとヨー宛に「これは僕たちみんなが日々のパンを危ぶむ感じを抱いている時だけに些細なことではない。……こちらへ戻ってきてから、僕もなお悲しい思いに打ちしおれ、君たちを脅かしている嵐が自分の上にも重くのしかかっているのを感じ続けていた。」と書き送っている。また、大作3点(「荒れ模様の空の麦畑」、「カラスのいる麦畑」、「ドービニーの庭」)を描き上げたことを伝えている[178][手紙 35]。また、フィンセントはその後にもテオの「激しい家庭のもめ事」を心配する手紙を送ったようであり(手紙は残っていない)、7月22日、テオは兄に、(共同自営問題[注釈 20]に関し)ドリースとの議論はあったものの、激しい家庭のもめ事など存在しないという手紙を送り、これに対しフィンセントは最後の手紙となる7月23日の手紙で「君の家庭の平和状態については、平和が保たれる可能性も、それを脅かす嵐の可能性も僕には同じように納得できる。」などと書いている[179][手紙 36]

死(1890年7月)

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ゴッホの死を報ずる新聞記事(1890年8月7日)。

7月27日の日曜日の夕方、オーヴェルのラヴー旅館に、怪我を負ったゴッホが帰り着いた。ラヴー旅館に呼ばれてゴッホの容態を見たガシェ医師は、オーヴェルに滞在中だった医師マズリとともに傷を検討した。傷は銃創であり、左乳首の下、3、4センチの辺で紫がかったのと青みがかったのと二重のに囲まれた暗い赤の傷穴から弾が体内に入り、もう外への出血はなかったという。両医師は、弾丸が心臓をそれて左の下肋部に達しており、移送も外科手術も無理と考え、絶対安静で見守ることとした[180]。ガシェ医師は、この日のうちにテオ宛に「本日、日曜日、夜の9時、使いの者が見えて、令兄フィンセントがすぐ来てほしいとのこと。彼のもとに着き、見るとひどく悪い状態でした。彼は自分で傷を負ったのです。」という手紙を書いた[181]。翌28日の朝、パリで手紙を受け取ったテオはオーヴェルのフィンセントのもとに急行した。テオが着いた時点ではフィンセントは話をすることができたが、29日午前1時半、フィンセントは息を引き取った(当時37歳)[182]。7月30日、葬儀が行われ、テオのほか、ガシェ医師、ベルナール、その仲間シャルル・ラヴァルや、タンギーなど、12名ほどが参列した[183]

テオは8月1日、パリに戻ってからヨー宛の手紙に「オーヴェルに着いた時、幸い彼は生きていて、事切れるまで私は彼のそばを離れなかった。……兄と最後に交わした言葉の一つは、『このまま死んでゆけたらいいのだが』だった。」と書いている[184]

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オーヴェルにあるフィンセント(左)とテオの墓。

ゴッホの死因については、一般に自殺であると考えられているが、銃を撃った場所、経緯などは明らかになっていない。2011年にゴッホの伝記を刊行したスティーヴン・ナイフェとグレゴリー・ホワイト・スミスは、ゴッホと一緒にいた少年らが、持っていた銃を誤射させてゴッホを撃ってしまい、ゴッホは少年らをかばってこのことを言わなかったのではないかという新説を唱えた。ゴッホ美術館は、新説は興味深いが依然疑問が残るとしている[185][注釈 21]

テオは、同年(1890年)8月、フィンセントの回顧展を実現しようと画商ポール・デュラン=リュエルに協力を求めたが、これを断られて画廊での展示会は実現せず、9月22日から24日までテオの自宅アパルトマンでの展示に終わった[186]。一方、9月12日頃、テオはめまいがするなどと体調不良を訴え、同月のある日、突然麻痺の発作に襲われて入院した。10月14日、精神病院に移り、そこでは梅毒の最終段階、麻痺性痴呆と診断されている。11月18日、ユトレヒト近郊の診療所に移送され療養を続けたが、1891年1月25日、兄の後を追うように亡くなり、ユトレヒトの市営墓地に埋葬された[187]

なお、フィンセントの当初の墓地(その正確な位置は現在では不明である)は15年契約であったため、1905年6月13日、ヨー、ガシェ医師らによって、同じオーヴェルの今の場所に改葬された[188][189]1914年4月、ヨーがテオの遺骨をこの墓地に移し、フィンセントとテオの墓石が並ぶことになった[190]

病因

ゴッホが起こした「耳切り事件」や、その後も引き続いた発作の原因については、次のようなものを含め、数多くの仮説がある(数え方により100を超える[191])。このうち、癲癇とする説と統合失調症とする説が最も有力である[192]。しかし、医学的・精神医学的見解は混沌としており、確定的診断を下すには慎重であるべきとの指摘がされている[193]

癲癇
アルルの病院の上層部による診断は「全般的せん妄を伴う急性躁病」であったが、若いレー医師だけが「一種の癲癇」と考え、ゴッホもその説明に納得している。当時、伝統的に認められてきた癲癇とは別に、発作と発作の間に長い安定期間があり比較的普通の生活を送ることができる類型があること、日光、アルコール、精神的動揺などが発作の引き金となり得ることなどが分かってきていた。ペロン医師も、レー医師の診断を支持した[194]
統合失調症
カール・ヤスパースは、癲癇のうち強直間代発作における典型的症状である強直痙攣が見られないことから、癲癇説に疑問を呈し、統合失調症か麻痺であるとした上で、2年間も発作に苦しみながら判断能力を失わなかったことから見て統合失調症との判定に傾いている[195]
梅毒性麻痺説
ゴッホは、アントウェルペン滞在中に梅毒と診断されて水銀剤治療と座浴療法を受けている。ランゲ・アイヒバウムは、「急性梅毒性分裂・癲癇様障害」との診断を下している[196]
メニエール病
メニエール病とは内耳の病気で、ひどい目まい、吐き気、強い耳鳴り、難聴を伴うものである。ゴッホは「目まいに襲われている間、痛みと苦しみの前に自分が臆病者になってしまった思いだ」と書いており、こうした手紙の詳細な調査からメニエール病の症状に当てはまるとする研究がある[197]
アブサン中毒説
ゴッホはアントウェルペンないしパリ時代からアブサンを多飲していたが、アブサンには原料のニガヨモギに含まれるツジョンという有毒成分があり、振戦せん妄、癲癇性痙攣、幻聴を主症状とするアルコール中毒を引き起こす[198]。サン=レミの精神病院に入院中、ゴッホが絵具のチューブの中身を飲み込んだことがあるが、これは絵具の溶剤であるテレビン油がツジョンと性質が似ているためであるという意見も発表されている。しかしこれを「耳切り事件」のような行動と結びつけるには難点もある[199]
急性間欠性ポルフィリン症
ポルフィリン誘導体の代謝異常により、間欠的な腹痛、悪心、嘔吐を伴い、光過敏症となり、神経症状を引き起こすとされている、まれな病気である。この説に対しては、遺伝的な説明が不十分との意見もある[200][201]

彼の病気と芸術との関係については、発作の合間には極めて冷静に制作していたことから、彼の芸術が「狂気」の所産であるとはいえないという意見が多い[192]

後世

1890年代の評価

テンプレート:Multiple image ゴッホの作品については、晩年の1890年1月に「メルキュール・ド・フランス」紙に発表されたアルベール・オーリエの評論で、既に高く評価されていた。オーリエは、「フィンセント・ファン・ゴッホは実際、自らの芸術、自らのパレット、自然を熱烈に愛する偉大な画家というだけではなく、夢想家、熱狂的な信者、美しき理想郷に全身全霊を捧げる者、観念と夢とによって生きる者なのだ。」と賞賛している[202]。同時期の他の評論家らによるアンデパンダン展についての記事も、比較的ゴッホに好意的なものであった[203]。他方、ゴッホの絵が生前売れたのは、友人の姉アンナ・ボックが400フランで買い取った「赤い葡萄畑」だけであるとされ、これは一般的に生前の不遇を象徴する事実とみなされている[204][注釈 22]。ただし、これについては、ゴッホが絵を描いたのは10年に満たず、ちょうど展覧会に出品し始めた時に若くしてこの世を去ったことを考えれば、彼の絵画が成熟してから批評家によって承認されるまでの期間はむしろ短いとの指摘もある[205]

ゴッホ死後の1891年2月、ブリュッセルの20人展で遺作の油絵8点と素描7点が展示された。同年3月、パリのアンデパンダン展では油絵10点が展示された。オクターヴ・ミルボーは、このアンデパンダン展について、「エコー・ド・パリ」誌に「かくも素晴らしい天分に恵まれ、誠に直情と幻視の画家がもはやこの世にいないと思えば、大きな悲しみに襲われる。」と、ゴッホを賞賛する文章を描いている[206]。オーリエや他の評論家からもゴッホへの賞賛が続いた。オーリエは、ゴッホを同時代における美術の潮流の中に位置付けながら、「写実主義者」であると同時に「象徴主義者」であり、「理想主義的な傾向」を持った「自然主義の美術」を実践しているという、逆説的な評価を述べている[207]。唯一、シャルル・メルキが1893年に、印象派ら「現在の絵画」を批判する論文を発表し、その中でゴッホについて「こてに山と盛った黄、赤、茶、緑、橙、青の絵具が、5階から投げ落としたかごの中の卵のように、花火となって飛び散った。……何かを表しているように見えるが、きっと単なる偶然であろう。」と皮肉った批評を行ったが、同調する評論家はいなかった[208]

ヨーは、1892年アムステルダムでの素描展やハーグでの展覧会を開いたり、画商に絵を送ったりして、ゴッホの作品を世に紹介する努力を重ね、12月には、アムステルダムの芸術ホール・パノラマで122点の回顧展を実現した[209]

1893年、ベルナールが「メルキュール・ド・フランス」紙上でゴッホの書簡の一部を公表し、ゴッホの伝記的事実を伝え始めると、人々の関心が作品だけでなくゴッホという人物の個性に向かうようになった。1894年、ゴーギャンもゴッホに関する個人的な回想を発表し、その中で「全く、どう考えても、フィンセントは既に気が狂っていた。」と書いている[210]。こうして、フランスのゴッホ批評においては、彼の芸術的な特異性、次いで伝記的な特異性が作り上げられ、賛美されるという風潮が確立した[211]

社会的受容と伝説の流布(20世紀前半)

1900年頃から、今までルノワール、ピサロといった印象派の大家の陰で売れなかったシスレー、セザンヌ、ゴッホらの作品が市場で急騰し始めた。1900年にはゴッホの「立葵」が1100フランで買い取られ、1913年には「静物」が3万5200フランで取引された。さらに1932年にはゴッホ1点が36万1000フランで落札されるに至った。また、作品の価値の高まりを反映して、1918年頃には既に偽作が氾濫する状態であった。このように、批評家や美術史家のグループを超えて、ゴッホの絵画は大衆に受け入れられていった。それを助長したのは、彼の伝記の広まり、作品の複製図版の増殖、展覧会美術館への公衆のアクセスであった[212]

1901年3月には、パリのベルネーム・ジューン画廊で65点の油絵が展示され、この展覧会はアンリ・マティスアンドレ・ドランモーリス・ド・ヴラマンクというフォーヴィスムの主要な画家たちに大きな影響を与えた。1905年3月から4月のアンデパンダン展で行われた回顧展も、フォーヴィスム形成に大きく寄与した(絵画史的意義)。ドルドレヒトレイデンハーグ、アムステルダム、ロッテルダムなど、オランダ各地でも展覧会が開催され、1905年にはアムステルダム市立美術館で474点という大規模の回顧展が開催された[213]。フランスとオランダ以外でも、1905年にベルリンハンブルクドレスデン、1906年にウィーンなど、各地で展覧会が行われた[214]1937年には、パリ万国博覧会の一環として大規模な回顧展が開かれた[215]。ヨーはこれらの展覧会について、作品の貸出しや売却を取り仕切った[216]

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回顧展の開催、書簡集の出版などゴッホの知名度向上に努めた、テオの妻ヨー

伝記については、1911年、ベルナールが自分宛のゴッホの書簡集を出版した。1914年、ヨーが3巻の『ゴッホ書簡集』を出版し、その冒頭に「フィンセント・ファン・ゴッホの思い出――彼の義妹による」を掲載した[217]。書簡集の出版後、それを追うように、数多くの伝記、回想録、精神医学的な研究が発表された。そこでは、ゴッホの人生について、理想化され、精神性を付与され、英雄化されたイメージが作り上げられていった[218]。すなわち、「強い使命感」、「並外れた天才」、「孤立と実際的・社会的な生活への不適合」、「禁欲と貧困」、「無私」、「金銭的・現世的な安楽への無関心と高貴な精神」、「同時代人からの無理解・誤解」、「苦痛に耐えての死(殉教のイメージ)」、「後世における成就」といったモチーフが伝記の中で繰り返され、強調されている。これらのモチーフは、キリスト教の聖人伝を構成する要素と同じであることが指摘されている[219]。こうした伝説は、ゴッホ自身の書簡に記されたキリスト教的信念や、テオの貢献、「耳切り事件」、自殺といった多彩なエピソードによって強められた[220]1934年にはアーヴィング・ストーンがLust for Life(邦訳『炎の人ゴッホ』)と題する伝記小説を発表し、全米のトップセラーとなった[221]

精神医学的研究としては、1920年のビルンバウム(ドイツ)による論考に引き続き、1924年フランスで精神医学者ジャン・ヴァンションがゴッホの事例に言及した論文を発表すると、ゴッホの「狂気」に関する同様の研究が次々発表されるようになった。1940年代初頭までに、1ダースもの異なった診断が提示されるに至った[222]。他方、アントナン・アルトーは、1947年に小冊子『ファン・ゴッホ――社会が自殺させし者』を発表し、ゴッホが命を捨てたのは彼自身の狂気の発作のせいではないとした上で、ガシェ医師がゴッホに加えた圧迫、テオが兄のもとを訪れようとしなかったこと、ペロン医師の無能力、ガシェ医師がゴッホ自傷後に手術をしなかったこと、そしてゴッホを死に追いやった社会全体を告発している[223]

大衆文化への取込み(20世紀後半)

第2次世界大戦後、ゴッホは大部数の伝記、映画芝居バレエオペラ歌謡曲広告、あらゆるイメージ(作品の複製、模作、ポスター、絵葉書Tシャツテレフォンカード等)で取り上げられ、大衆文化に取り込まれていった[224]

1990年のカタログによれば、1948年から1990年までの間にゴッホを題材としたドキュメンタリー映画及びフィクション映画は合計82本に上り、近年では年間10本も制作されている[225]。代表的な作品として次のようなものがある。

作品の高騰

第1次世界大戦後には、前述のようにゴッホ作品の評価が確立し、1920年代-30年代の最高価格は4000ポンド台となり、ルノワールに肉薄するものとなった。第2次世界大戦後は、近代絵画全体の価格水準が高騰するとともに、ゴッホ作品も従来の十倍ないし百倍となり、ルノワールと肩を並べた[226]。1970年には「糸杉と花咲く木」が130万ドルで取引されるなど、ついに100万ドルを超えるものが出て、1970年代には美術市場に君臨するようになった。1980年、「詩人の庭」がクリスティーズで520万ドル(約12億円)という、30号の作品としては異例の高額で落札された[227]。1980年代にはオークションの高値記録が次々更新されるようになった[228]

1988年2月4日付「リベラシオン」紙は、「昨年(1987年)3月30日、ロンドンのクリスティーズにて日本の安田生命(安田火災海上、現損保ジャパン)がひまわりを3630万ドル[注釈 23](約58億円)で落札した[注釈 24]瞬間、心理的な地震のようなものが記録された。……またアイリスは、(同年)11月11日に、ニューヨークサザビーズで5390万ドルで落札された。」と取り上げている[229]

さらに、1990年5月15日には、ニューヨークのクリスティーズで齊藤了英が「医師ガシェの肖像」を8250万ドル(約124億5000万円)で落札し[230]、各紙で大々的に報じられた[231]。これは1980年代末から90年代初頭にかけての日本人バイヤーブームを象徴する高額落札となった[232]。この作品は、ヨーによって1898年頃にわずか300フランで売却されたと伝えられるものである[233]

ゴッホの油絵作品は約800点であるが、パリ以前と以後では価格に少なからぬ差異があり、主題によっても異なる。高い人気に対して名品が比較的少ないことが高値の原因となっている[234]

ゴッホの作品のうち、特に高額な取引として有名な例は次のとおりである[230]

作品名 画像 F JH 競売日 価格(米ドル
ひまわり(15本のひまわり) 60px 457 1666 1987年3月30日 3950万ドル[注釈 23]
アイリス 60px 608 1691 1987年11月11日 5390万ドル
医師ガシェの肖像 60px 753 2007 1990年5月15日 8250万ドル
自画像(あごひげのないもの) 60px 525 1665 1998年11月19日 7150万ドル
アルルの女 (ジヌー夫人) 60px 543 1895 2006年5月2日 4030万ドル[235]

日本での受容

1910年(昭和43年)、森鷗外が『スバル』誌上の「むく鳥通信」でゴッホの名前に触れたのが、日本の公刊物では最初の例であるが[236]、ゴッホを日本に本格的に紹介したのは、武者小路実篤らの白樺派であった。1910年に創刊された『白樺』は、文学雑誌ではあったが、西洋美術の紹介に情熱を燃やし、マネ、セザンヌ、ゴーギャン、ゴッホ、ロダン、マティスなど、印象派からポスト印象派、フォーヴィスムまでの芸術を、順序もなく一気に取り上げた[237]。第1年(1910年)11月号には斎藤与里による最初の評論が掲載[238]、第2年(1911年)2月号からは児島喜久雄訳の「ヴィンツェント・ヴァン・ゴォホの手紙」が掲載され、第3年(1912年)11月号には「ゴオホ特集」が掲載された[237]。特集号には、多くの作品の写真版、阿部次郎の訳したヨーによる回想録、武者小路や柳宗悦の寄稿などが掲載された[239][注釈 25]。そして、1920年(大正10年)3月には、白樺美術館第1回展が開催され、実業家山本顧彌太に購入してもらったゴッホの「ひまわり」が展示された[240][注釈 26]。白樺派は、西欧よりも早く、かつ全面的にゴッホ神話を作り上げたが、彼らはゴッホの画業を語ることはなく、専らその人間的偉大さを賛美していたことが特徴的である[241][注釈 27]。他方、画壇でも、1912年(大正2年)に第1回ヒュウザン会展を開催した岸田劉生ら若手画家たちが、ゴッホやセザンヌに傾倒していた[242]。もっとも、岸田は間もなくゴッホと決別し、他の多くの画家も同じ道をたどった[243]。第2次世界大戦前、海外からのゴッホの展覧会はなかったが、多くのゴッホ関連出版物が出され[注釈 28]、ゴッホ熱は高まった。1920年代から1930年代にかけてパリに留学する画家が急増すると、彼らはゴッホ作品を見るべくオーヴェルのガシェ家を続々と訪問し、その芳名帳に名を連ねている[244][注釈 29]1927年から1930年代にかけて、斎藤茂吉式場隆三郎がゴッホの病理についての医学的分析を発表した[245]

戦後は、ゴッホ複製画の展覧会を見て衝撃を受けたという小林秀雄1948年「ゴッホの手紙」を著した[246]劇団民藝代表の滝沢修が、1951年から生涯にわたり、世間の無理解と戦う悲劇的な人生を描いた新劇作品『炎の人 ヴァン・ゴッホの生涯』(三好十郎脚本)を公演したことも、日本でのゴッホの認識に大きな影響を与えた[247]1958年に初めて東京国立博物館京都市美術館で素描70点、油彩60点から成る本格的なゴッホ展が開催され、日本のゴッホ熱は更に高まった。2011年現在、27点の油彩・水彩作品が日本に収蔵されているとされる[248]

手紙

ファイル:The Public-Soup-Kitchen F272 Vincent van Gogh.jpg
ゴッホの手紙に描かれたスケッチ。

画家としてのゴッホを知る上で最も包括的な一次資料が、彼の書いた多数の手紙である。手紙は、作品の制作時期、制作意図などを知るための重要な資料ともなっている[249]ゴッホ美術館によれば、現存するゴッホの手紙は、テオ宛のものが651通、テオとその妻ヨー宛のものが7通あり、画家アントン・ファン・ラッパルトエミール・ベルナール、妹ヴィレミーナ・ファン・ゴッホ(通称ヴィル)などに宛てたものを合わせると819通になる。一方、ゴッホに宛てられた手紙で現存するものが83通あり、そのうちテオあるいはテオとヨー連名のものが41通ある[250]

テオ宛の書簡は、1914年にヨーによって書簡集として刊行され、あらゆる伝記、小説、伝記映画がこの書簡集とヨーが冒頭に載せた伝記をもとに作られてきた。ただし、この書簡集は手紙の順序や日付が間違っている場合があることが研究者によって指摘されており、ヨーが人名をイニシャルに変えたり、都合の悪い箇所を飛ばしたり、インクで塗りつぶしたりした形跡もある。2009年秋、ゴッホ美術館が15年をかけて決定版といえる書簡全集を刊行した。ここでは、天候の記録や郵便配達日数などあらゆる情報をもとに日付の書かれていない手紙の日付の特定が行われ、旧版の誤りが訂正されている。また、手紙で触れられている作品、人物、出来事に詳細な注が付されている。書籍版と同時にウェブ版も無料公開された[251][252]

作品

カタログ

テンプレート:Sister テンプレート:See also テンプレート:Multiple image ゴッホは、1881年11月から死を迎える1890年7月まで、約860点の油絵を制作した[253]。生前はほとんど評価されなかったが、死後、「星月夜」、「ひまわり」、「アイリス」、「アルルの寝室」など、多くの油絵の名作が人気を博することになった[254]。油絵のほか、水彩画150点近くがあるが、多くは油絵のための習作として描かれたものである[255][256]素描は1877年から1890年まで1000点以上が知られている。鉛筆、黒チョーク、赤チョーク、青チョーク、葦ペン、木炭などが用いられ、これらが混用されることもある[257][258]

今日、ゴッホの作品は世界中の美術館で見ることができるが、その中でもアムステルダムゴッホ美術館には「ジャガイモを食べる人々」、「アーモンドの木の枝」、「カラスのいる麦畑」などの大作を含む200点以上の油絵に加え、多くの素描、手紙が集まっており、同じくオランダにあるクレラー・ミュラー美術館にも「夜のカフェテラス」など多くの名作が収蔵されている。「星月夜」などはニューヨーク近代美術館にある[259]

ゴッホの全作品のカタログを1928年最初に作ったのがジャコブ=バート・ド・ラ・ファイユであり、1970年にゴッホ美術館により改訂された。ここでは作品にF番号が付けられている。また、1980年代にヤン・フルスケルが全作品カタログを編纂し、1996年に改訂された。こちらにはJH番号が付されている。F番号は最初に油絵、次いで素描と水彩画を並べているのに対し、JH番号は全ての作品を年代順に並べている。F番号の末尾にrとある場合は、1枚のキャンバス・紙の両面に描かれている場合の表面、vとあるのは裏側の絵を指す。JH番号は表・裏のそれぞれに固有の番号が付されている[260]

真贋・来歴をめぐる問題

前述のようにゴッホが死後有名になるにつれ、贋作も氾濫するようになった。ゴッホの作品の多くは、彼の死後テオが受け継ぎ、その後ヨー、そして子ウィレムに相続された。しかし、ゴッホが人に譲ったり転居の際に置き去りにしたりして記録に残っていない作品があること、ゴッホ自身が同じ構図で何度も複製(レプリカ)を制作していることなどが、真偽の判断を難しくしている[261]1927年ベルリンオットー・ヴァッカー画廊が33点のゴッホ作品を展示し、これらはド・ラ・ファイユの1928年のカタログにも収録されたが、その後、偽作であることが判明し、ヴァッカーは有罪判決を受けるというスキャンダルが起こった[262]。この裁判ではX線鑑定が証拠とされたが、1880年代と同じキャンバス、絵具等を入手可能だった20世紀初頭の贋作に対しては決め手とならない場合もある[261]。ほかにも初期の収集家だったエミール・シェフネッケルやガシェ医師が贋作に関与したとの疑いもあり、1997年にロンドンの美術雑誌が行った特集によれば、著名なものも含め100点以上の作品に偽作の疑いが投げかけられているという[263]。他方、長年偽作とされていた「モンマジュールの夕暮れ」は、2013年、ゴッホ美術館の鑑定で真作と判定された[264]

また、史上最高価格で落札された「医師ガシェの肖像」については、1999年の調査で、ナチス・ドイツヘルマン・ゲーリングが1937年にフランクフルトの市立美術館から略奪し売却したものであることが明らかになった。このような来歴を隠したままオークションにかけられていたことは、美術市場に大きな問題を投げかけた[265]

作風

ゴッホは、画家を志した最初期は、版画やデッサン教本を模写するなど、専ら素描を練習していたが、1882年にハーグに移ってからアントン・モーヴの手ほどきで本格的に水彩画を描くようになり、更に油絵も描き始めた[266]。初期(ニューネン時代)の作品は、暗い色調のもので、貧農たちの汚れた格好を描くことに関心が寄せられていた[267]。特にジャン=フランソワ・ミレーの影響が大きく、ゴッホはミレーの「種まく人」や「麦刈る人」の模写を終生描き続けた[268]

ファイル:Van Gogh - Das Restaurant de la Siréne in Asniéres.jpeg
アニエールのレストラン」1887年夏、パリ。印象派の強い影響が見られる[269]

しかし、1886年、パリに移り住むと、ゴッホの絵画に一気に新しい要素が流れ込み始めた。当時のパリは印象派新印象派が花ざかりであり、ゴッホは画商のテオを通じて多くの画家と親交を結びながら、多大な影響を受けた[270]。自分の暗いパレットが時代遅れであると感じるようになり、明るい色調を取り入れながら独自の画風を作り上げていった[267]。パリ時代には、新印象派風の点描による作品も描いている。もっとも、ゴッホが明るい色調を取り入れて描いた印象派風作品においても、印象派の作品のような澄んだ色彩はない。クロード・モネがルーアン大聖堂の連作で示したように、印象派がうつろいゆく光の効果をキャンバスにとらえることを目指したのに対し、ゴッホは「僕はカテドラルよりは人々の眼を描きたい。カテドラルがどれほど荘厳で堂々としていようと、そこにない何かが眼の中にはあるからだ。」と書いたとおり、印象派とは描こうとしたものが異なっていた[271][手紙 37]

ファイル:Van Gogh - Sämann bei untergehender Sonne3.jpeg
「種まく人」1888年11月、アルル。前景の木と遠景の対比は、パリ時代に模写した広重の「亀戸梅屋舗」の影響が見られる[272]

また、ゴッホはパリ時代に多数の浮世絵を収集し、3点の油彩による模写を残している。日本趣味(ジャポネズリー)はマネ、モネ、ドガから世紀末までの印象派・ポスト印象派の画家たちに共通する傾向であり、背景には日本の開国に見られるように、活発な海外貿易や植民地政策により、西欧社会にとっての世界が急速に拡大したという時代状況があった。その中でもゴッホやゴーギャンの場合は、異国的なものへの憧れと、新しい造形表現の手がかりとしての意味が一つになっていた点に特徴がある[273]。ゴッホは、「僕らは因習的な世界で教育され働いているが、自然に立ち返らなければならないと思う。」と書き、その理想を日本や日本人に置いていた[274][手紙 38]。このように、制度や組織に縛られないユートピアへの憧憬を抱き、特定の「黄金時代」や「地上の楽園」に投影する態度は、ナザレ派ラファエル前派バルビゾン派ポン=タヴァン派ナビ派と続く19世紀のプリミティヴィズムの系譜に属するものといえる[275]。一方、造形的な面においては、ゴッホは、浮世絵から、色と形と線の単純化という手法を学び、アルル時代の果樹園のシリーズや「種まく人」などに独特の遠近法を応用している[276]。アルル時代前半に見られる明確な輪郭線と平坦な色面による装飾性は、同じく浮世絵に学んだベルナールらのクロワゾニスムとも軌を一にしている[277]

単純で平坦な色面を用いて空間を表現しようとする手法は、クロー平野を描いた安定感のある「収穫」などの作品に結実した。しかし、同じアルル時代の1888年夏以降は、後述の補色の使用とともに荒いタッチの厚塗りの作品が増え、印象派からの脱却とバロック的・ロマン主義的な感情表出に向かっている[278]。ゴッホは、「結局、無意識のうちにモンティセリ風の厚塗りになってしまう。時には本当にモンティセリの後継者のような気がしてしまう。」と書き、敬愛するモンティセリの影響に言及している[279][手紙 39]。図柄だけではなく、マティエール(絵肌)の美しさにこだわるのはゴッホの作品の特徴である[280]

ゴッホの表現を支えるもう一つの要素が、補色に関する色彩理論であった。赤と緑、紫と黄のように、色相環で反対の位置にある補色は、並べると互いの色を引き立て合う効果がある。ゴッホは、既にオランダ時代にシャルル・ブランの著書を通じて補色の理論を理解していた[281][注釈 30]。アルル時代には、補色を、何らかの象徴的意味を表現するために使うようになった。例えば、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること」[手紙 40]を目指したと書いたり、「夜のカフェ」において、「赤と緑によって人間の恐ろしい情念を表現しよう」[手紙 41]と考えたりしている[282]。同じアルル時代の「夜のカフェテラス」では、黄色系と青色系の対比が美しい効果を生んでいる[283]

サン=レミ時代には、更にバロック的傾向が顕著になり、「麦刈る人」のような死のイメージをはらんだモチーフが選ばれるとともに、自然の中に引きずり込まれる興奮が表現される。その筆触には、点描に近い平行する短い棒線(ミレー、レンブラント、ドラクロワの模写や麦畑、オリーブ畑の作品に見られる)と、柔らかい絵具の曲線が渦巻くように波打つもの(糸杉、麦刈り、山の風景などに見られる)という二つの手法が使われている。色彩の面では、補色よりも、同一系統の色彩の中での微妙な色差のハーモニーが追求されている[284]。タッチに無駄がなくなり、キャンバスの布地が見えるほど薄塗りの箇所も見られるようになる[285]

絵画史的意義

テンプレート:See also ゴッホは、ゴーギャン、セザンヌ(後期)、オディロン・ルドンらとともに、ポスト印象派(後期印象派)に位置付けられている。ポスト印象派のメンバーは、多かれ少なかれ印象派の美学の影響の下に育った画家たちではあるが、その芸術観はむしろ反印象派というべきものであった[286]

ルノワールやモネといった印象派は、太陽の光を受けて微妙なニュアンスに富んだ多彩な輝きを示す自然を、忠実にキャンバスの上に再現することを目指した。そのために絵具をできるだけ混ぜないで明るい色のまま使い、小さな筆触(タッチ)でキャンバスの上に並置する「筆触分割」という手法を編み出し、伝統的な遠近法明暗法、肉付法を否定した点で、アカデミズム絵画から敵視されたが、広い意味でギュスターヴ・クールベ以来の写実主義を突き詰めようとするものであった[287]。これに対し、ポスト印象派の画家たちは、印象派の余りに感覚主義的な世界に飽きたらず、別の秩序を探求したといえる[288]。ゴーギャンやルドンに代表される象徴主義は、絵画とは単に眼に見える世界をそのまま再現するだけではなく、眼に見えない世界、内面の世界、魂の領域にまで探求の眼を向けるところに本質的な役割があると考えた[289]。ゴッホも、ゴーギャンやルドンと同様、人間の心が単に外界の姿を映し出す白紙(タブラ・ラーサ)ではないことを明確に意識していた[290]。色彩によって画家の主観を表出することを絵画の課題ととらえる点では、ドラクロワのロマン主義を継承するものであった[291]。ゴッホは、晩年3年間において、赤や緑や黄色といった強烈な色彩の持つ表現力を発見し、それを、悲しみ、恐れ、喜び、絶望などの情念や人間の心の深淵を表現するものとして用いた[292]。彼自身、テオへの手紙で、「自分の眼の前にあるものを正確に写し取ろうとするよりも、僕は自分自身を強く表現するために色彩をもっと自由に使う。」と宣言し、例えば友人の画家の肖像画を描く際にも、自分が彼に対して持っている敬意や愛情を絵に込めたいと思い、まずは対象に忠実に描くが、その後は自由な色彩家になって、ブロンドの髪を誇張してオレンジやクロム色や淡いレモン色にし、背景も実際の平凡な壁ではなく一番強烈な青で無限を描くと述べている[293][手紙 42]。別の手紙でも、「二つの補色の結婚によって二人の恋人たちの愛を表現すること。……星によって希望を表現すること。夕日の輝きによって人間の情熱を表現すること。それは表面的な写実ではないが、それこそ真に実在するものではないだろうか。」と書いている[手紙 40]

こうした姿勢は既に20世紀初頭の表現主義を予告するものであった。1890年代、ゴッホ、ゴーギャンやセザンヌといったポスト印象派の画家は一般社会からは顧みられていなかったが、若い画家たちの感受性に強く訴えかける力を持ち、ナビ派をはじめとする彼ら世紀末芸術の画家は、印象派の感覚主義に反発して「魂の神秘」の追求へ向かった。その流れは20世紀初頭のドイツオーストリアにおいて感情の激しい表現や鋭敏な社会的意識を特徴とするドイツ表現主義に受け継がれ、表現主義の画家たちは、ゴッホや、フェルディナント・ホドラーエドヴァルド・ムンクなどの世紀末芸術の画家に傾倒した[294]。同様の表現主義的傾向は同時期のフランスではフォーヴィスムとして現れたが、その形成に特に重要な役割を果たしたのが、色彩と形態によって内面の情念を表現しようとしたゴッホであった。1901年にゴッホの回顧展を訪れたモーリス・ド・ヴラマンクは、後に、「自分はこの日、父親よりもゴッホを大切に思った。」という有名な言葉を残しており、伝統への反抗精神にあふれた彼が公然と影響を認めたのはゴッホだけであった。彼の絵には、ゴッホの渦巻きを思わせるような同心円状の粗いタッチや、炎のような大胆な描線による激しい色彩表現が生まれた[295]。さらに、印象派の写実主義に疑問を投げかけたゴッホ、ゴーギャンらは、色彩や形態それ自体の表現力に注目した点で、後の抽象絵画にもつながる要素を持っていたといえる[296]

主題とモチーフ

ゴッホは、記憶や想像によって描くことができない画家であり、900点近くの油絵作品のほとんどが、静物、人物か風景であり、眼前のモデルの写生である。自然を超えた世界に憧れつつも、現実の手がかりを得てはじめてその想像力が燃え上がることができたといえる。自分にとって必要な主題とモチーフを借りてくるために、先人画家の作品を模写することもあったが、その場合も、実際に版画や複製を目の前に置いて写していた[297]。もっとも、必ずしも写真のように目の前の光景を写し取っているわけではなく、見えるはずのないところに太陽を描き込むなど、必要なモチーフを選び出したり、描き加えたり、眼に見えているモチーフを削除したりする操作を行っている[298]

当時のオランダやイギリスでは、プロテスタント聖職者らの文化的指導の下、16世紀から17世紀にかけてのエンブレム・ブックが復刊されるなど、絵画モチーフの図像学的解釈は広く知られていた。ゴッホの作品を安易に図像学的に解釈することはできないが、ゴッホも、伝統的・キリスト教的な図像・象徴体系に慣れ親しむ環境に育っていたことが指摘されている[299]

肖像画

ゴッホは、農民をモデルにした人物画(オランダ時代)に始まり、タンギー爺さん(パリ時代)、ジヌー夫人郵便夫ジョゼフ・ルーランと妻オーギュスティーヌ(ゆりかごを揺らす女)らその家族(アルル時代)、医師ガシェとその家族(オーヴェル=シュル=オワーズ時代)など、身近な人々をモデルに多くの肖像画を描いている。ゴッホは、アントウェルペン時代から「僕は大聖堂よりは人間の眼を描きたい」[手紙 37]と書いていたが、肖像画に対する情熱は晩年まで衰えることはなく、オーヴェル=シュル=オワーズから、妹ヴィルに宛てて次のように書いている。「僕が画業の中で他のどんなものよりもずっと、ずっと情熱を感じるのは、肖像画、現代の肖像画だ。……僕がやりたいと思っているのは、1世紀のちに、その時代の人たちに〈出現〉(アパリシオン)のように見えるような肖像画だ。それは、写真のように似せることによってではなく、性格を表現し高揚させる手段として現代の色彩理論と色彩感覚を用いて、情熱的な表現によってそれを求めるのだ。」[300][手紙 43]

自画像

テンプレート:Main ゴッホは多くの自画像を残しており、1886年から1889年にかけて彼が描いた自画像は37枚とされている[302]。オランダ時代には全く自画像を残していないが、パリ時代に突如として多数の自画像を描いており、1887年だけで22点にのぼる。これは制作、生活両面における激しい動揺と結び付けられる[303]。アルルでは、ロティの『お菊さん』に触発されて、自分を日本人の坊主(仏僧)の姿で描いた作品を残しており、キリスト教の教義主義から自由なユートピアを投影していると考えられる[304]

アルルでの耳切り事件の後に描かれた自画像は、左耳(鏡像を見ながら描いたため絵では右耳)に包帯をしている。一方、サン=レミ時代の自画像は全て右耳を見せている。そして、そこには「星月夜」にも見られる異様な渦状運動が表れ、名状し難い不安を生み出している[305]。オーヴェル=シュル=オワーズ時代には、自画像を制作していない。

ひまわり

ファイル:Vincent van Gogh - Sunflowers Berceuse triptych - letter.jpg
ゴッホのテオ宛書簡に描かれた、三連画のアイディアを伝えるスケッチ(1889年5月、サン=レミ)。

テンプレート:Main ゴッホは、パリ時代に油彩5点、素描を含め9点のひまわりの絵を描いているが、最も有名なのはアルル時代の「ひまわり」である。1888年、ゴッホはアルルでゴーギャンの到着を待つ間12点のひまわりでアトリエを飾る計画を立て、これに着手したが、実際にはアルル時代に制作した「ひまわり」は7点に終わった[307]。ゴーギャンとの大切な共同生活の場を飾る作品だけに、ゴッホがひまわりに対し強い愛着を持っていたことが窺える[308]

西欧では、16世紀-17世紀から、ひまわりは「その花が太陽に顔を向け続けるように[注釈 31]、信心深い人はキリスト(又は神)に関心を向け続ける」、あるいは「愛する者は愛の対象に顔を向け続ける」という象徴的意味が広まっており、ゴッホもこうした象徴的意味を意識していたものと考えられている[309]

後に、ゴッホはルーラン夫人ゆりかごを揺らす女を中央に置き、両側にひまわりの絵を置いて、祭壇画のような三連画にする案を書簡でテオに伝えている[310][手紙 44]

糸杉

ファイル:Van Gogh - Weizenfeld mit Zypressen.jpeg
「糸杉のある小麦畑」1889年6月、サン=レミ。油彩、キャンバス、73×93.5cm。個人コレクション。
サン=レミ時代に、糸杉が重要なモチーフとして登場する。入院直後の1889年6月に、「星月夜」、「2本の糸杉」、「糸杉のある小麦畑」などを描き、テオに宛てて「糸杉のことがいつも僕の心を占めている。僕は糸杉を主題として、あのひまわりの連作のようなものを作りたい。……それは、線としても、比例としても、まるでエジプトのオベリスクのように美しい。」と書いている[311]

西欧では、古代においてもキリスト教の時代においても、糸杉は死と結びつけて考えられており、多くの墓地で見られる木であった[注釈 32]。アルル時代には生命の花であるひまわりに向けられていたゴッホの眼が、サン=レミ時代には暗い死の深淵に向けられるようになったことを物語るものと説明されている[312]

模写

テンプレート:Main テンプレート:Multiple image ゴッホは、最初期からバルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーを敬愛しており、これを模写したデッサンや油絵を多く残している。ニューネン時代の書簡で、テンプレート:仮リンクの『ミレーの生涯と作品』で読んだという「彼〔ミレー〕の農夫は自分が種をまいているそこの大地の土で描かれている」という言葉を引用しながら、ゴッホは「まさに真を衝いた至言だ」と書いている[313][手紙 45]

アルル時代(1888年6月)には、白黒のミレーの構図を模写しながら、ドラクロワのような色彩を取り入れ、黄色にあふれた「種まく人」を描き上げた。このほか、「掘る人(耕す人)」、「鋤く人」、「麦刈りをする人」などのモチーフをとりあげて絵にしている。しかし、生身の農民と多様な農作業を細かく観察していたミレーと異なり、ゴッホは実際に農民の中で生活したことはなく、描かれた人物にも表情は乏しい。むしろ、ゴッホにとって、これらのモチーフは聖書におけるキリストのたとえ話[注釈 33]に出てくる象徴的意味を与えられたものであった。例えば「種まく人」は人の誕生や「神の言葉を種まく人」[注釈 34]、「掘る人」は楽園を追放された人間の苛酷な労働[注釈 35]、「麦刈り」は人の死を象徴していると考えられている[314]。ゴッホ自身、手紙で、「僕は、この鎌で刈る人……の中に、人間は鎌で刈られる小麦のようなものだという意味で、死のイメージを見たのだ。」と書いている[315][手紙 46]。「種まく人」がアルル時代に立て続けに描かれているのに対し、「麦刈りをする人」は主にサン=レミに移ってから描かれている[316]。また、「掘る人」も、1887年夏から1889年春までは完全に姿を消していたが、サン=レミに移ってから、特に1890年春に多数描かれている[317]

テンプレート:Multiple image サン=レミ時代には、発作のため戸外での制作が制限されたこともあり、彼に大きな影響を及ぼした画家であるドラクロワレンブラント、ミレーらの版画や複製をもとに、油彩画での模写を多く制作した[318]。ゴッホは、模写以外には明確に宗教的な主題の作品は制作していないのに対し、ドラクロワからは「ピエタ」や「善きサマリア人」、レンブラントからは「天使の半身像」や「ラザロの復活」という宗教画を選んで模写していることが特徴である[319]。ゴッホは、ベルナールへの手紙に、「僕が感じているキリストの姿を描いたのは、ドラクロワとレンブラントだけだ。そしてミレーがキリストの教理を描いた。」と書いている[手紙 47]。サン=レミでは、そのほかにギュスターヴ・ドレの「監獄の中庭」やドーミエの「飲んだくれ」など何人かの画家を模写したが、オーヴェルに移ってからは1点を除き模写を残していない[320]

ゴッホはこれらの模写を「翻訳」と呼んでいた。レンブラントの白黒の版画を模写した「ラザロの復活」(1890年)では、原画の中心人物であるキリストを描かず、代わりに太陽を描き加えることにより、聖書主題を借りながらも個人的な意味を付与していると考えられる[321]。この絵の2人の女性マルタとマリアはルーラン夫人とジヌー夫人を想定しており、また蘇生するラザロはゴッホの容貌と似ていることから、自分自身が南仏の太陽の下で蘇生するとの願望を表しているとの解釈が示されている[322]

脚注

注釈

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. ファン/ヴァンは姓の一部である。ヨーロッパ諸語における発音は様々であり、日本語表記もバリエーションがある。オランダ語ではテンプレート:IPA-nl。オランダ・ホラント州の方言では、vanの"v"が無声化してテンプレート:IPA-nlとなる。ゴッホはブラバント地方で育ちブラバント方言で文章を書いていたため、彼自身は、自分の名前をブラバント・アクセントで"V"を有声化し、"G"と"gh"を無声硬口蓋摩擦音化してテンプレート:IPA-nlと発音していた可能性がある。イギリス英語ではテンプレート:IPAc-en、場合によってテンプレート:IPAc-enと発音し、アメリカ英語ではテンプレート:IPAc-en(ヴァンゴウ)とghを発音しないのが一般的である。彼が作品の多くを制作したフランスでは、テンプレート:IPA-fr(ヴァンサン・ヴァン・ゴーグ)となる。日本語では英語風のヴィンセント・ヴァン・ゴッホという表記も多く見られる。
  2. ズンデルトの村のうち、中心部を占めるフロート・ズンデルト(大ズンデルト)地区で生まれた。Naifeh and Smith (2012: 19)
  3. ブラバントは従来からカトリックの影響の強い土地であったが、1839年、オランダとこれから独立したベルギーとの間の条約により南北に分割され、ズンデルトを含む北部はオランダに帰属した。Naifeh and Smith (2012: 20)
  4. この兄は数週間生きていたとの説もあるが、ズンデルト村役場の出生登録には、戸籍係の手で「死亡」と書き込まれており、死産であることが明確である。牧師館のすぐ近くの教会で同名の兄の墓を目にする体験は、少年ゴッホの心理に影響を与えた可能性が指摘されている。トラルボー (1992: 20-23)
  5. セント伯父はハーグに絵画の複製図版等を手がける画商を開き、1861年2月、パリのグーピル商会の傘下に入って共同経営者の一人となっていた。Naifeh and Smith (2012: 64-66)
  6. 娘の名前は実際にはウージェニ・ロワイエであった。二見 (2010: 28)
  7. ゴッホは、1881年のテオ宛書簡で「僕が20歳のときの恋はどんなものだったか……僕はある娘をあきらめた。彼女は別の男と結婚した。」と書いている。二見 (2010: 29)フィンセントよりテオ宛書簡183(1881年11月12日、エッテン、1958年版書簡集157、What kind of love did I have in my 20th year?...)。
  8. 1874年10月にパリ本店に一時転勤となり、1875年1月に新しくなったロンドン支店に戻り、同年5月に再びパリ本店に移った。二見 (2010: 341)。
  9. 解雇の理由の一つは、フィンセントが1875年のクリスマス休暇を取り消されたにもかかわらず無断でエッテンの実家に帰ったことともいわれる。Naifeh and Smith (2012: 114)
  10. 父は1875年10月、ここエッテンの教会の牧師となり、一家はヘルヴォイルトから移り住んでいた。二見 (2010: 36)
  11. 当時の平均的な労働者は週20フランの収入で家族を養っていた。それでもフィンセントは増額を求め続け、テオは自分の給料の半分近くに当たる月150フランの送金に応じることにした。Naifeh and Smith (2012: 271-72, 300)
  12. ゴッホが去った後、シーンも他の街を転々とする日々を送った。ウィレムは里子に出され、シーンの親族に引き取られて養育された。後年になってシーンの叔父はウィレムを正式に跡取りにするため、シーンと形だけ籍を入れることを提案した。だがシーンは申出を拒否すると「私はこの子の父親を覚えています。フィンセント・ゴッホはこの子の名の由来なのですから」と告げた(Wilkie (2004: 185))。しかし、ゴッホがシーンと出会った時には彼女は既に妊娠していた(トラルボー (1992: 101))。1904年、シーンは水死している(トラルボー (1992: 112)
  13. フィンセントは、当初、街の娼婦をアトリエに呼んでヌードのデッサンをしようとしていたが、これを止めるテオと対立した結果、アカデミーならモデルのデッサンができると言って、1886年1月半ば、今まで批判していたアカデミーに入学した。しかし、端正で明確なデッサンを求める教官と言い争い、他の生徒からも嘲笑され、2月初めには脱落した。Naifeh and Smith (2012: 479-87)
  14. テオには言っていないが、フィンセントは医者で梅毒の治療を受けている。また、その治療のため投与された水銀の副作用にも苦しめられていたと思われる。Naifeh and Smith (2012: 477-78)
  15. ゴーギャンは、アルル行きについて、友人の画家エミール・シェフネッケルに、「この滞在の目的は、自分が世に出るまで、金銭の心配をせずに安心して仕事ができるようにすることなのだから。」と書いているように、アルルでテオの仕送りにより安定した収入を確保しようという打算的な考えに基いていたのであり、芸術家の共同体を打ち立てようというゴッホとは全く相容れない動機であった。圀府寺 (2009: 175)
  16. ゴッホの死後、ゴーギャンは『前後録』の中で、ゴッホがこの作品を見て「こいつはまさに僕だ。しかし気が違った僕だ。」と言ったと書いている。しかしその真偽には疑問が呈されている。小林英樹 (2002: 126-28)
  17. 耳の付け根からではなく、下部の耳たぶを切断した。二見 (2010: 336)。事件の後の自画像では左の耳は包帯で覆われているが(ゴッホは鏡像を見ながら自画像を描いたため、包帯は絵の人物の右耳に付けられているように描かれている)、死の床にあるゴッホをガシェ医師が描いたスケッチによれば、左の耳介の大部分は無傷で残っている。テンプレート:Cite webテンプレート:Cite web
  18. パリに戻ったゴーギャンと会ったベルナールは、ゴーギャンから伝え聞いた話として、1889年1月1日消印の友人オーリエ宛の手紙で次のように書いている。「アルルを去る前の晩、私〔ゴーギャン〕の後をヴァンサン〔ゴッホ〕が追いかけてきた。私は振り向いた。時々彼が変な振舞いをするので警戒したのだ。すると彼は言った。『あなたは無口になった。僕も静かにするよ。』。私はホテルへ寝に行き、帰宅した時、家の前にはアルル中の人が押しかけていた。その時警官たちが私を逮捕した。家の中が血まみれになっていたからだ。事の次第はこうだ――私が立ち去った後、彼は家に戻り、剃刀で耳を切り落とした。それから大きなベレー帽をかぶって、娼家へ行き、遊女の一人に耳を渡して言った。『真心から君に言うが、君は僕を忘れないでくれるね。』」。一方、その10年あまり後に晩年のゴーギャンが書いた『前後録』の中では、ゴッホがゴーギャンの背後から剃刀を手にして突進してきた話が付け加えられているが、その信憑性には疑問もある。二見 (2010: 199-200)
  19. 小林英樹 (2009) は、子供ウィレムが生まれ自分たちの生活を守ろうとするヨーと、テオに金銭的に依存しているフィンセントとの間に、テオのブッソ=ヴァラドン商会去就問題を前に避けがたい対立関係が生じていたとした上で (201-02)、7月6日にヨーとフィンセントが絵をかける場所について口論になったことでそれが顕在化し (236-37)、フィンセントが疎外感から自殺する原因になった (273) と指摘する。高階 (1984) は、テオが夏の休暇中にオランダの母のもとに息子フィンセント・ウィレムを連れて一家で帰省する予定だったのに対し、フィンセントはそれによって自分が見捨てられるのではないかと感じ、テオ一家にオーヴェルに来てほしいと繰り返し希望しており、7月6日にもそのことで兄弟の間で激しい議論があったであろうとする。そして、テオが7月14日付けの手紙で「明朝ライデンに発つ」と知らせてきたことでフィンセントは自分の全存在をかけるほどの問題に敗れたとする (209-15)。
  20. テオとドリースが共同で画商を自営する計画については、ドリースが身を引いてしまい、7月21日、テオは経営者ブッソに商会に残ることを伝えた。二見 (2010: 285-86)
  21. 小林利延 (2008) は、左脇腹から下方向に撃ったとされる銃創の状況、凶器とされるピストルが発見されていないことなどから他殺である可能性が高いとした上で (39-51)、経済面での対立などを挙げてテオによる犯行を示唆する (192-219)。
  22. トラルボー (1992: 299-300) は、「赤い葡萄畑」の約15か月前にゴッホの自画像がテオからロンドンの画商に売られていることを指摘している。
  23. 23.0 23.1 ニューヨーク・タイムズ紙によれば、落札価格は36,292,500ドル、10%の手数料を加え3990万ドルであるとされる。テンプレート:Cite news
  24. この「ひまわり」は、現在は損保ジャパン東郷青児美術館が所蔵している。テンプレート:Cite web
  25. 武者小路はロダンとともにゴッホを熱愛し、『白樺』第3年(1912年)7月号には「バンゴオホよ/燃えるが如き意力を持つ汝よ/汝を思ふ毎に/我に力わく/高きにのぼらんとする力わく/ゆきつくす処までゆく力わく/あゝ、/ゆきつくす処までゆく力わく」という讃仰詩を発表している。東 (1980: 45-46)
  26. 白樺美術館第1回展は京橋星製薬階上で行われ、この「ひまわり」は日本で展示された最初のゴッホ作品となったが、その後、1945年芦屋で空爆のため焼失した。二見 (2010: 167)。この展覧会では、ほかにセザンヌ、デューラー、ドラクロワ、シャバンヌ、ロダンの作品が展示されたが、武者小路が夢見た白樺美術館は第1回展覧会だけで終わり、建物もついに建たなかった。東 (1980: 43-45)
  27. その要因として、当時の知識人の情報源であったドイツやイギリスで、ちょうどこの時期にユリウス・マイヤー=グラーフェロジャー・フライがゴッホ賛美の評論を出したこと、社会と自己の個性との対立という白樺派の課題に、社会の無理解に苦悩する純粋な魂という英雄像が合致していたことが挙げられている。高階 (1996: 250-61)
  28. 例えば、1913年、日本洋画協会出版部から、日本で最初の『ゴーホ画集』(5枚1組袋入りのもの)が出版された。木下 (2002: 110)
  29. 日本では白樺派などの影響でいち早くゴッホに対する熱狂が起きたが、この時期1920年代に実物のゴッホ作品を見ることが出来たのはパリの美術館ではわずか3点しかなくパリの画廊のベルメール=ジェンヌに10数点程度であった。このため特にゴッホの最後期の油彩画を20点ほど所蔵していたガシェ家はゴッホ作品を見たい日本人には貴重な場であった。ガシェ家は多くの来訪者を迎えたが、1922年3月9日から芳名帳を作成することになった。最初の署名者(最初の訪問者ではない)黒田重太郎を筆頭に、土田麦穂小野竹喬坂田一男佐伯祐三ら多くの日本人画家や、画家以外でも斎藤茂吉式場隆三郎矢代幸雄相馬政之助らの名前が芳名帳に記されている。尾本 (2012)
  30. 補色理論を普及させたのはミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの『色彩の同時対照の法則』(1839年)であったが、ゴッホはドラクロワをその確立者と考えていた。新関 (2011: 77-80)
  31. 実際には、ひまわりの花はずっと東を向いており、向日性はないが、西欧では一般に向日性を持つと信じられていた。圀府寺 (2010: 106)
  32. ジョージ・ファーガスン『キリスト教美術における記号と象徴』は、「糸杉が死と結び付けられる理由はいくつかある。例えば、それは暗い葉叢を見せているし、ひとたび伐り倒されると、二度とその根から芽を出すことはない等である。」と説明している。高階 (1984: 153)
  33. マルコによる福音書4章26節-29節には次のようにある。「また、イエスは言われた。『神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。』」。
  34. マルコによる福音書4章14節「『種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。』」
  35. 創世記3章19節で楽園を追放されたアダムに告げられる「お前は顔に汗を流してパンを得る」という言葉は、ミレーやゴッホにおいては「掘る人」の図像と結び付けられていた。圀府寺 (2009: 186-88)

手紙の出典

  1. フィンセントよりテオ宛書簡90(1876年9月2日-8日頃、アイルワース、1958年版書簡集82a-1、It was an autumn day and I stood on the front steps of Mr Provily’s school...)。
  2. フィンセントよりテオ宛書簡403(1883年11月5日頃、ニーウ・アムステルダム、1958年版書簡集339a、My youth has been austere and cold, and sterile...)。
  3. フィンセントよりテオ宛書簡312(1883年2月11日、ハーグ、1958年版書簡集266、I sometimes think that when I first came to The Hague...)。
  4. フィンセントよりテオ宛書簡65(1875年1月10日、パリ、1958年版書簡集50、His Hon. took the words out of my mouth...)。
  5. フィンセントよりテオ宛書簡148(1878年11月13日頃及び15日-16日、ラーケン、1958年版書簡集126、I should like to go there as an evangelist...)。
  6. [1](1880年6月22日-24日頃、クウェム、1958年版書簡集133、I learned at Etten...)。
  7. フィンセントよりテオ宛書簡158(1880年9月24日、クウェム、1958年版書簡集136、it was in this extreme poverty that I felt my energy return...)。
  8. フィンセントよりテオ宛書簡179(1881年11月3日、エッテン、1958年版書簡集153、I wanted to tell you that...)。
  9. フィンセントよりテオ宛書簡228(1882年5月16日、ハーグ、1958年版書簡集193、I put my fingers in the flame of the lamp and said...)。
  10. フィンセントよりテオ宛書簡194(1881年12月29日、ハーグ、1958年版書簡集166、At Christmas I had a rather violent argument...)。
  11. フィンセントよりテオ宛書簡224(1882年5月7日頃、ハーグ、1958年版書簡集192、Today I met Mauve and had a very regrettable conversation...)。
  12. フィンセントよりテオ宛書簡254(1882年8月5日-6日、ハーグ、1958年版書簡集223、In my last letter you’ll have found a little scratch of that perspective frame.)。
  13. フィンセントよりテオ宛書簡342(1883年5月10日頃、ハーグ、1958年版書簡集294、342 Her mood can be such that it’s almost unbearable, even for me, quick-tempered, wilfully wrong, in short, sometimes I despair.)。
  14. フィンセントよりテオ宛書簡380(1883年9月2日、ハーグ、1958年版書簡集318、Today I had a quiet day with her...)。
  15. フィンセントよりテオ宛書簡440(1884年3月20日、ニューネン、1958年版書簡集364、...if I continue to receive the usual from you, I may regard it as money that I’ve earned...)。
  16. フィンセントよりテオ宛書簡456(1884年9月16日頃、ニューネン、1958年版書簡集375、Something has happened, Theo...)。
  17. フィンセントよりテオ宛書簡489(1885年4月4日頃、ニューネン、1958年版書簡集397、I felt as you did, in so far as when you write that the work didn’t yet proceed as usual...)。
  18. フィンセントよりテオ宛書簡535(1885年10月13日頃、ニューネン、1958年版書簡集427、What particularly struck me when I saw the old Dutch paintings again is...)。
  19. フィンセントよりテオ宛書簡558(1886年2月4日、アントウェルペン、1958年版書簡集449、When you think that I went to live in my own studio on 1 May...)。
  20. フィンセントよりテオ宛書簡584(1888年3月10日、アルル、1958年版書簡集468、Nevertheless, artists won’t find a better way than — to join together, give their pictures to the association, and share the sale price...)。
  21. フィンセントよりベルナール宛書簡587(1888年3月18日、アルル、1958年版書簡集B2、I want to begin by telling you that this part of the world seems to me as beautiful as Japan...)。
  22. フィンセントよりテオ宛書簡616(1888年5月29日、アルル、1958年版書簡集493、I thought of Gauguin and here we are — if Gauguin wants to come here there’s Gauguin’s fare, and then there are the two beds or the two mattresses we absolutely have to buy.)。
  23. フィンセントよりテオ宛書簡677(1888年9月9日、アルル、1958年版書簡集534、In my painting of the night café I’ve tried to express the idea that the café is a place...)。
  24. フィンセントよりテオ宛書簡723(1888年12月1日頃、アルル、1958年版書簡集560、You can sense how in my element that makes me feel...)。
  25. フィンセントよりテオ宛書簡724(1888年12月11日頃、アルル、1958年版書簡集565、I myself think that Gauguin had become a little disheartened by the good town of Arles...)。ゴーギャンよりテオ宛書簡(同Note 1、I am obliged to return to Paris; Vincent and I can absolutely not live side by side without trouble...)。
  26. フィンセントよりテオ宛書簡728(1889年1月2日、アルル、1958年版書簡集567、I’ll stay here at the hospital for another few days...)。
  27. フィンセントよりテオ宛書簡760(1889年4月21日、アルル、1958年版書簡集585、At the end of the month I’d still wish to go to the mental hospital at St-Rémy or another institution...)。
  28. フィンセントよりテオ宛書簡782(1889年6月18日、サン=レミ、1958年版書簡集595、It’s not a return to the romantic or to religious ideas...)。
  29. テオよりフィンセント宛書簡781(1889年6月16日、パリ、1958年版書簡集T10、All of them have a power of colour which you hadn’t attained before...)。
  30. フィンセントよりテオ宛書簡797(1889年8月22日、サン=レミ、1958年版書簡集601、You can imagine that I’m very deeply distressed that the attacks have recurred when... For many days I’ve been absolutely distraught... This new crisis, my dear brother, came upon me in the fields...)。
  31. フィンセントよりテオ宛書簡805(1889年9月20日頃、サン=レミ、1958年版書簡集607、Very well – but in music it isn’t so – and if such a person plays some Beethoven he’ll add his personal interpretation to it...)。
  32. フィンセントよりヴィル宛書簡879(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、1958年版書簡集W22、Then I’ve found in Dr Gachet a ready-made friend and...)。
  33. フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡881(1890年6月10日、オーヴェル=シュル=オワーズ、1958年版書簡集640、Sunday has left me a very pleasant memory.)。
  34. テオよりフィンセント宛書簡894(1890年6月30日・7月1日、パリ、1958年版書簡集T39)。
  35. フィンセントよりテオ及びヨー宛書簡898(1890年7月10日頃、オーヴェル=シュル=オワーズ、1958年版書簡集649、It’s no small thing when all together we feel the daily bread in danger...)。
  36. フィンセントよりテオ宛書簡902(1890年7月23日、オーヴェル=シュル=オワーズ、1958年版書簡集651、As regards the state of peace in your household,...)。
  37. 37.0 37.1 フィンセントよりテオ宛書簡549(1885年12月19日、アントウェルペン、1958年版書簡集441、However, I’d rather paint people’s eyes than cathedrals...)。
  38. フィンセントよりヴィル宛書簡686(1888年9月23日又は24日、アルル、1958年版書簡集542、And we wouldn’t be able to study Japanese art...)。
  39. フィンセントよりテオ宛書簡689(1888年9月26日、アルル、1958年版書簡集541、And in the end, without intending to, I’m forced to lay the paint on thickly, à la Monticelli...)。
  40. 40.0 40.1 フィンセントよりテオ宛書簡673(1888年9月3日、アルル、1958年版書簡集531、To express the love of two lovers through a marriage of two complementary colours...)。
  41. フィンセントよりテオ宛書簡676(1888年9月8日、アルル、1958年版書簡集533、I’ve tried to express the terrible human passions with the red and the green.)。
  42. フィンセントよりテオ宛書簡663(1888年8月18日、アルル、1958年版書簡集520、Because instead of trying to render exactly what I have before my eyes, I use colour more arbitrarily in order to express myself forcefully...)。
  43. フィンセントよりヴィル宛書簡879(1890年6月5日、オーヴェル=シュル=オワーズ、1958年版書簡集W22、What I’m most passionate about, much much more than all the rest in my profession – is the portrait, the modern portrait...)。
  44. フィンセントよりテオ宛書簡776(1889年5月23日頃、サン=レミ、1958年版書簡集592、You must know, too, that...)。
  45. フィンセントよりテオ宛書簡495(1885年4月21日、ニューネン、1958年版書簡集402、How rightly it was said of Millet’s figures...)。
  46. フィンセントよりテオ宛書簡800(1889年9月5日-6日、サン=レミ、1958年版書簡集604、I then saw in this reaper...)。
  47. フィンセントよりベルナール宛書簡632(1888年6月26日、アルル、1958版書簡集B8、The figure of Christ has been painted...)。

出典

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参考文献

手紙

関連項目

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  • ファン・ゴッホ (小惑星)
  • ジャンヌ・カルマン - アルル在住だった世界最長寿の女性。1988年、113歳のときに生前のゴッホの印象をテレビ・インタビューで語った。生前のゴッホの目撃者がカラーテレビでその印象を語った記録は彼女のインタビューが唯一である。

外部リンク

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