ピエール=オーギュスト・ルノワール

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ファイル:Renoir autograph.png
ルノワールのサイン
ファイル:Pierre-Auguste Renoir, Le Moulin de la Galette.jpg
ムーラン・ド・ラ・ギャレット </br>1876年 オルセー美術館

ピエール=オーギュストオギュスト・ルノワールPierre-Auguste Renoir発音例1841年2月25日 - 1919年12月3日)は、フランス印象派画家である。後期から作風に変化が現れ始めたので、まれにポスト印象派の画家とされることもある。

風景画、花などの静物画もあるが、代表作の多くは人物画である。初期にはアングルドラクロワなどの影響を受け、モネらの印象主義のグループに加わるが、後年は古典絵画の研究を通じて画風に変化が見られ、晩年は豊満な裸婦像などの人物画に独自の境地を拓いた。日本など、フランス国外でも人気の高い画家である。

長男のピエールは俳優、次男のジャンは有名な映画監督である。

生涯

青年期

ルノワールは1841年2月25日、フランス中南部のリモージュにて生まれる。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父は仕立屋、母はお針子であった。3歳の時、一家でパリに移住し、ルーヴル美術館に近い都心に住む。

幼いころから画才を示していたが、美声でもあったルノワールは1850年頃に9歳前後で作曲家シャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーはルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、同時期に父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申し出が父親にあったことや、ルノワール自身が磁器工場での仕事を希望したため、両親及びルノワール自身がグノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。

1854年、13歳で磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなる[1]が、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなったルノワールは画家を目指した。1862年にはエコール・デ・ボザール(官立美術学校)に入学。並行して1861年からはシャルル・グレールアトリエ(画塾)に入り、ここでモネシスレーテンプレート:仮リンクら、後の印象派の画家たちと知り合っている[2]。画塾で制作中のルノワールに師のグレールが「君は自分の楽しみのために絵を描いているようだね」と言ったところ、ルノワールが「楽しくなかったら絵なんか描きませんよ」と答えたというエピソードは著名である。

初期

1864年には『踊るエスメラルダ』をサロンに出品し、初入選している。この作品はヴィクトール・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』に取材したものだが、後に作者自身によって破棄されたとされ、現存しない。

サロンには1865年にも2点が入選するが、1866・1867の両年は落選するなど、入選と落選を繰り返していた。初期のルノワール作品にはルーベンスアングルドラクロワクールベなど、さまざまな画家の影響が指摘されている。この頃の作品としては『ロメーヌ・ラコー嬢の肖像』(1864年)などが現存する。ルノワールの友人であったテンプレート:仮リンクは、当時、生活に困窮していたルノワールを、ヴィスコンティ通りにある自分のアトリエに同居させていた。ルノワールはモネとも親しく、1869年にはパリ郊外ブージヴァルのラ・グルヌイエールの水浴場でモネとともにイーゼルを並べて制作した。この時彼ら2人が制作した、ほとんど同構図の作品が残っている[3][4]

1868年のサロンには、その前年に制作した『日傘のリーズ』を出品し、入選している。この作品のモデルは当時ルノワールが交際していたリーズ・トレオという女性で、彼女は他にも『夏、習作』(1869年のサロンに出品)、『アルジェの女』(1870年のサロンに出品)などの作品でモデルを務めている。

1870年、普仏戦争が勃発するとルノワールも召集され、ボルドーの第10騎兵隊に配属されるが、赤痢にかかり、翌年3月に除隊している。なお、ルノワールの友人で援助者でもあったテンプレート:仮リンクは、普仏戦争に自ら志願し、29歳の若さで戦死した。

印象主義の時代

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『舟遊びの人々の昼食』</br>1880 – 81年 フィリップス・コレクション(ワシントンD.C.)

除隊後のルノワールは、パリ郊外・アルジャントゥイユのモネ宅をしばしば訪問し、ともに制作した。この頃に、画家で印象派絵画のコレクターでもあるギュスターヴ・カイユボット、画商のポール・デュラン=リュエルなどと知り合っている。1873年12月、モネ、ピサロ、シスレーら、後に「印象派」と呼ばれるグループの画家たちは「芸術家、画家、彫刻家、版画家その他による匿名協会」を結成。ルノワールもそこに名を連ねていた。1874年4月 - 5月にはパリ、キャピュシーヌ大通りの写真家ナダールのアトリエでこのグループの第1回展を開催。これが後に「第1回印象派展」と呼ばれるもので、ルノワールは『桟敷』など7点を出品した。

1876年の第2回印象派展には『ぶらんこ』、『陽光を浴びる裸婦』など15点を出品した。後者は今日ではルノワールの代表作として知られるものだが、裸婦の身体に当たる木漏れ日や影を青や紫の色点で表現した技法が当時の人々には理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評された。1877年の第3回印象派展には、前年に完成した大作『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』を含む22点を出品した。印象派展は1886年までに全部で8回開催されたが、ルノワールは1882年の第7回展に25点を出品したものの、第4、5、6、8回展には参加していない。

1878年にはサロンに出品を再開。翌1879年のサロンに出した『シャルパンティエ夫人と子どもたち』は絶賛を浴びた。モデルのシャルパンティエ夫人は出版業者ジョルジュ・シャルパンティエの妻で、同夫人が自邸で催すサロンは評判が高く、ルノワールもこのサロンに出入りして、当時の文化人や芸能人の知己を得た。

1881年には大作『舟遊びの人々の昼食』を完成。この作品の左端に描かれる、帽子をかぶり犬を抱く女性は後にルノワール夫人となるアリーヌ・シャリゴである。アリーヌは『田舎のダンス』(1882 - 1883年)などの作品のモデルとなり、1881年のイタリア旅行にも同行し、1885年には息子ピエール(俳優。ジャン・ルノワールの兄)をもうけているが、ルノワールと正式に結婚するのは1890年のことである[5]

1880年代以降

しかし、ルノワールは、1880年代前半頃から、光の効果におぼれ形態を見失った印象派の技法に疑問を持ち始める。1881年のイタリア旅行でラファエッロらの古典に触れてからはこの懐疑はさらに深まった。この時期、特に1883年頃からの作品には新古典派の巨匠アングルの影響が顕著で、明快な形態、硬い輪郭線、冷たい色調が目立つ。

1890年代に入ると、ルノワール本来の暖かい色調が戻り、豊満なヌードを数多く描いた。

1898年頃からリューマチ性疾患に悩まされ、晩年は車椅子で制作を続けた。ただし、「指に筆をくくりつけて描いた」というのは伝説の域を出ないようである[6]1903年からは南仏のカーニュに移り住み、1907年レ・コレットと呼ばれる広大な地所を購入し、この地で死を迎えた。ルノワールの作品総目録(カタログ・レゾネ)は現在編集中だが、4000点は下らないだろうと言われている。

ルノワールは日本にも早くから紹介され、その親しみやすい画風のためか愛好者も多い。また、梅原龍三郎をはじめ多くの画家に直接・間接に影響を与えている。

作品例

参照

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参考文献

テンプレート:参照方法

  • ジャン・ルノワール 『わが父 ルノワール』 粟津則雄訳、みすず書房、新装版2008
  • 今泉篤男、近藤昭解説 『世界の名画 5 ルノワール/スーラ』、学習研究社、1965
  • 瀬木慎一編「ルノワール展」カタログ、読売新聞社、1971
  • 『週刊朝日百科』「世界の美術 11 ルノワール」(責任編集中山公男)、朝日新聞社、1978
  • 『世界の名画7 ルノワール』 新装カンヴァス版:世界の名画 中央公論社、1993
  • 『ルノワール 生命の讃歌』 創元社「知の再発見」双書55)、1996 アンヌ・ディステル解説、柴田都志子・田辺希久子訳、高階秀爾監修
  • 宮崎克己 『ルノワール その芸術と青春』六耀社、2002
  • 賀川恭子編 『西洋絵画の巨匠4 ルノワール』 小学館、2006
  • 賀川恭子解説 『ルノワール 光と色彩の画家』 角川文庫、2009 
  • 『別冊太陽 ルノワール 色の魔術師』 平凡社、2008
  • ガブリエレ・クレパルディ 『ルノワール 陽とバラの肌』 ARTBOOOK:昭文社、2007
  • 島田紀夫 『アート・ビギナーズ・コレクション もっと知りたいルノワール 生涯と作品』  東京美術、2009年

外部リンク

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  1. Renoir, Jean: Renoir, My Father, pages 57–67. Collins, 1962.
  2. Vollard, Ambroise: Renoir, An Intimate Record, pages, page 30.
  3. Pierre-Auguste Renoir: La Grenouillère Wikimedia Commons at commons.wikimedia.org
  4. Claude Monet La GrenouillÃre – Wikimedia Commons at commons.wikimedia.org
  5. Wadley, Nicholas: Renoir, A Retrospective, page 15. Park Lane, 1989.
  6. André, Albert: Renoir. Crés, 1928.