ヒルベルト空間

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数学におけるヒルベルト空間(ヒルベルトくうかん、テンプレート:Lang-en-short)は、ダフィット・ヒルベルトにその名を因む、ユークリッド空間の概念を一般化したものである。これにより、二次元のユークリッド平面や三次元のユークリッド空間における線型代数学微分積分学の方法論を、任意の有限または無限次元の空間へ拡張して持ち込むことができる。ヒルベルト空間は、内積の構造を備えた抽象ベクトル空間内積空間)になっており、そこでは角度や長さを測るということが可能である。ヒルベルト空間は、さらに完備距離空間の構造を備えている(極限が十分に存在することが保証されている)ので、その中で微分積分学がきちんと展開できる。

ヒルベルト空間は、典型的には無限次元の函数空間として、数学物理学工学などの各所に自然に現れる。そういった意味でのヒルベルト空間の研究は、20世紀冒頭10年の間にヒルベルトシュミットリースらによって始められた。ヒルベルト空間の概念は、偏微分方程式論、量子力学フーリエ解析信号処理や熱伝導などへの応用も含む)、熱力学の研究の数学的基礎を成すエルゴード理論などの理論において欠くべからざる道具になっている。これら種々の応用の多くの根底にある抽象概念を「ヒルベルト空間」と名付けたのは、フォン・ノイマンである。ヒルベルト空間を用いる方法の成功は、函数解析学の実りある時代のさきがけとなった。古典的なユークリッド空間はさておき、ヒルベルト空間の例としては、自乗可積分函数の空間、自乗総和可能数列の空間超函数からなるソボレフ空間正則函数の成すハーディ空間などが挙げられる。

ヒルベルト空間論の多くの場面で、幾何学的直観は重要である。例えば、三平方の定理中線定理(の厳密な類似対応物)は、ヒルベルト空間においても成り立つ。より深いところでは、部分空間への直交射影(例えば、三角形に対してその「高さを潰す」操作の類似対応物)は、ヒルベルト空間論における最適化問題やその周辺で重要である。ヒルベルト空間の各元は、平面上の点がそのデカルト座標(直交座標)によって特定できるのと同様に、座標軸の集合(正規直交基底)に関する座標によって一意的に特定することができる。このことは、座標軸の集合が可算無限であるときには、ヒルベルト空間を自乗総和可能無限列の集合と看做すことも有用であることを意味する。ヒルベルト空間上の線型作用素は、ほぼ具体的な対象として扱うことができる。条件がよければ、空間を互いに直交するいくつかの異なる要素に分解してやると、線型作用素はそれぞれの要素の上では単に拡大縮小するだけの変換になる(これはまさに線型作用素のスペクトルを調べるということである)。

定義と導入

動機付けとなる例

最もよく知られたヒルベルト空間の例の一つは、三次元の空間ベクトル全体の成すユークリッド空間 R3点乗積を考えたものであろう。二つのベクトル x, y の点乗積 x · y は実数を与える。xyデカルト座標系であらわされているときには、点乗積は

<math>(x_1,x_2,x_3)\cdot (y_1,y_2,y_3) := x_1y_1+x_2y_2+x_3y_3</math>

として定まる。この点乗積は、条件

  1. 対称性: x · y = y · x.
  2. 第一引数に関する線型性: (ax1 + bx2) · y = ax1 · y + bx2 · ya, b は任意のスカラー、x1, x2, y は任意のベクトル)
  3. 正定値性: 任意のベクトル x に対して x · x ≥ 0, 等号成立は x = 0 のとき、かつそのときに限る

を満足する。

この点乗積のように、上記三つの性質を満足するベクトルの二項演算を(実)内積と呼び、そのような内積を備えたベクトル空間は(実)内積空間と呼ばれる。任意の有限次元内積空間は、ヒルベルト空間でもある。ユークリッド幾何学に関わる点乗積の基本的な特徴というのは、ベクトルの長さ(ノルム)‖x‖ と二つのベクトル x, y の間の角度 θ の両方が

<math>\mathbf{x}\cdot\mathbf{y} = \|\mathbf{x}\|\,\|\mathbf{y}\|\,\cos\theta</math>

なる式が成立するという意味で点乗積と関連付けられることである。 ユークリッド空間における多変数微分積分学極限が計算できること、および極限の存在を結論付ける有用な判定法を持つことに支えられている。R3 のベクトルを項とする級数

<math>\sum_{n=0}^\infty \mathbf{x}_n</math>

は、そのノルムの和(これは実数を項とする通常の級数)が

<math>\sum_{k=0}^\infty \|\mathbf{x}_k\| < \infty</math>

なる条件を満たすとき、絶対収斂するという[1]。スカラー項級数の場合と全く同じく、絶対収斂するベクトル項級数は

<math>\left\|\mathbf{L}-\sum_{k=0}^N\mathbf{x}_k\right\|\to 0\quad\text{as }N\to\infty</math>

なる意味で、このユークリッド空間の適当な極限ベクトル L に収斂する。このような性質(絶対収斂級数は通常の意味でも収斂する)は、ユークリッド空間の完備性 (completeness) として表される。

定義

Hヒルベルト空間であるとは、Hまたは複素内積空間であって、さらに内積によって誘導される距離函数に関して完備距離空間をなすことを言う[2]。ここで、H が複素内積空間であるというのは、H は複素線型空間であって、その上に内積、即ち H の元の対 x, y に複素数 〈x,y〉 を対応させる写像であって、条件

  1. y,x〉 は 〈x,y〉 の複素共軛である:
    <math>\langle y,x\rangle = \overline{\langle x, y\rangle}.</math>
  2. x,y〉 は第一引数に関して線型である[3]: 任意の複素数 a, b に対して
    <math>\langle ax_1+bx_2, y\rangle = a\langle x_1, y\rangle + b\langle x_2, y\rangle.</math>
  3. 内積 〈•,•〉 は正定値である:
    <math>\langle x,x\rangle \ge 0</math>
    かつ等号成立は x = 0 と同値。

を満たすものが存在することをいう。条件の 1 と 2 を併せると、複素内積は第二引数に関して反線型 (antilinear) となることが従う。即ち、

<math>\langle x, ay_1+by_2\rangle = \bar{a}\langle x, y_1\rangle + \bar{b}\langle x, y_2\rangle</math>

が成り立つ。実内積空間も同様に定められ(H が実線型空間であることと、内積が実数値であることとが違うだけである)、この場合の内積は双線型(各引数について線型)になる。

内積 〈•,•〉 によって定義されるノルム

<math>\|x\| := \sqrt{\langle x,x \rangle}</math>

は実数値函数であり、このノルムを用いて H の二点 x, y 間の距離が

<math>d(x,y):=\|x-y\| = \sqrt{\langle x-y,x-y \rangle}</math>

と定められる。これが距離であるというのは、(1)「xy に関して対称」で、(2)「xx 自身との距離は 0 に等しく、かつそれ以外のときは xy との距離は必ず正」で、(3)「三角不等式

<math>d(x,z) \le d(x,y) + d(y,z)</math>

を満たす、即ち三角形 xyz の一辺の長さは他の二辺の長さの和を超えない」という三性質を満たすことを意味する。 三つ目の性質は、突き詰めればより基本的なコーシー・シュヴァルツの不等式

<math>|\langle x, y\rangle| \le \|x\|\,\|y\|</math>

(ただし等号成立は x, y線型独立性と同値)からの帰結である。

このようにして定義される距離函数に関して、任意の内積空間は距離空間となる。内積空間のことを前ヒルベルト空間と呼ぶこともある[4]。距離空間として完備であるような任意の前ヒルベルト空間は、ヒルベルト空間になる。完備性は、H 内の列に対するコーシーの判定法の形で表すことができる。即ち、前ヒルベルト空間 H が完備となるのは、任意のコーシー列がノルムに関する意味で H 内の元に収斂することである。完備性は、次のような条件

ベクトル項級数 ∑テンプレート:Suuk
<math>\sum_{k=0}^\infty\|u_k\| < \infty</math>
なる意味で絶対収斂するならば、もとの級数は(部分和が H の元に収斂するという意味で) H において収斂する。

によっても特徴付けることができる。

完備なノルム空間であるという点で、定義によりヒルベルト空間はバナッハ空間でもある。これらは位相線型空間であり、開集合閉集合といった位相的概念を定めることができる。特に重要になるのが、ヒルベルト空間の閉部分空間の概念である。完備距離空間の閉部分集合は(そこへ距離を制限すれば)それ自身完備距離空間となるから、ヒルベルト空間の閉部分空間は(そこへ内積を制限するとき)それ自身ヒルベルト空間をなす。

もう少し自明でない例

複素数を項とする無限数列 z = (z1, z2, …) で級数

<math>\sum_{n=1}^\infty |z_n|^2</math>

収斂するようなもの(自乗総和可能な無限複素数列)全体の成す数列空間を ℓ2 で表す。ℓ2 上の内積はエルミート積として

<math>\langle \mathbf{z},\mathbf{w}\rangle = \sum_{n=1}^\infty z_n\bar{w}_n</math>

で定義される。この右辺の級数が収斂することはコーシー・シュヴァルツの不等式からの帰結である。

空間 ℓ2 の完備性は「ℓ2 の元からなる級数が(ノルムの意味で)絶対収斂するならば必ず、その級数が ℓ2 の何らかの元に収斂する」ことを示せば言える。このことの証明は解析学の初歩であり、この空間の元からなる級数は複素数(あるいは有限次元ベクトル空間のベクトル)からなる級数と同程度容易に扱うことができる[5]

歴史

ヒルベルト空間が開発される以前にも、数学や物理学においてユークリッド空間を一般化する別な概念が知られていた。特に、19世紀の終わりに掛けていくつかの流れの中から抽象線型空間の概念が獲得される[6]。これは、その元同士の加法と(実数複素数のような)スカラーによる乗法とを備えた空間のことを指すのであって、必ずしも物理的な系における運動量や位置といった「幾何学的な」ベクトルをその元が同一視される必要はないという性質のものである。20世紀に入ると、数学者たちは新たな対象を扱うようになり、特に数列の空間(級数論も含む)や函数の空間[7] は自然に線型空間と看做すことができる。実際に、函数の場合なら、函数同士の和や定数をスカラーとする乗法が定義できて、それらの演算は空間ベクトルの加法とスカラー倍が従うのと同じ代数法則に従う。

20世紀の最初の10年間で、ヒルベルト空間の導入に繋がる展開が同時並行的に現れた。その一つは、ヒルベルトシュミット積分方程式論の研究過程で見出された[8]。区間 [a,b] 上の二つの自乗可積分な実数値函数 f, g は「内積」

<math>\langle f,g \rangle = \int_a^b f(x)g(x)\,dx</math>

を持ち、これがよく知られたユークリッド空間の点乗積の性質の多くを有していた。これにより特に、函数からなる正規直交系の概念が意味を持つようになる。シュミットは、この内積と通常の点乗積との類似性として、

<math>f(x) \mapsto \int_a^b K(x,y) f(y)\, dy</math>

(ただし、Kx, y に関して対称)なる形の作用素に対してスペクトル分解の類似物を示した。得られる固有函数展開は函数 K

<math>K(x,y) = \sum_n \lambda_n\varphi_n(x)\varphi_n(y)\,</math>

なる形の級数として表す。ただし、函数系 φn は、nm なるとき常に 〈φnm〉 = 0 を満たすという意味で、直交系を成す。この級数の個々の項は、基本積解 (elementary product solution) と呼ばれることもある。しかし、この固有函数展開には、適当な意味で自乗可積分函数に収斂するものとそうでないものがある。収斂を保証するには完備性(系の完全性)が不可欠なのである[9]

いま一つは、ルベーグリーマン積分に替わるものとして1904年に導入したルベーグ積分である[10]。ルベーグ積分は、より広範なクラスの函数で積分を定義することを可能にした。1907年に、リースフィッシャーはそれぞれ独立にルベーグ自乗可積分函数全体の成す空間 L2完備距離空間であることを示した[11]。このような幾何学的議論と系の完全性の議論が合わさった帰結として、19世紀に得られたフーリエベッセルテンプレート:仮リンクらの三角級数についての成果を、これらのより一般の空間へ容易に持ち込むことができた。そうて得られした幾何学的かつ解析学的な仕組みは今日ではふつうリース・フィッシャーの定理として知られる[12]

更なる基本的結果が20世紀の初め頃に証明されていく。例えば、リースの表現定理は1907年にフレシェリースがそれぞれ独立に示した[13] フォン・ノイマンは自身の非有界エルミート作用素の研究において「抽象ヒルベルト空間」という用語を創作した[14]。他のワイルウィーナーのような数学者は(しばしば物理学的な興味を動機として)既に特定のヒルベルト空間については極めて詳細な研究を行っていたのだけれども、一般のヒルベルト空間をきちんと、しかも公理的に取り扱ったのはフォン・ノイマンが最初である[15]。後にフォン・ノイマンは、量子力学の基礎付けに関する金字塔的研究[16]においてこのヒルベルト空間の概念を用いており、ウィグナーへと続いていく。「ヒルベルト空間」という呼称は瞬く間に他へ広まり、例えばワイルは自身の量子力学と群論の教科書[17]で用いている。

ヒルベルト空間の概念の重要性は、それが最も適切な量子力学の数学的基礎の提供を実現したことで強く認識されるようになった[18]。簡単に言えば、量子力学系の状態はある種のヒルベルト空間におけるベクトルであり、可観測量はその空間上のエルミート作用素であり、系の対称性ユニタリ作用素であり、測定直交射影である。量子力学的対称性とユニタリ作用素との間の関係は、1928年のワイル[17]に始まるユニタリ表現論の発展の原動力となった。他方、1930年代の初め頃には、古典的な力学系のある種の性質が、エルゴード理論の枠組みのもとでヒルベルト空間を用いた方法で調べられるようになり、明らかにされた[19]

量子力学における可観測量の代数は、ハイゼンベルグ行列力学による量子論の定式化に従って、自然に或るヒルベルト空間上で定義される作用素環となる。1930年代のうちにフォン・ノイマンがヒルベルト空間上の作用素の成すとしての作用素環を調べ始め、フォン・ノイマンやその時代の人々が研究した種類の作用素環は、今日ではフォン・ノイマン環と呼ばれている。1940年代には、ゲルファントテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクらが C-環と呼ばれる種類の作用素環の定義を与えた。これはヒルベルト空間の基盤となることはない一方で、それまで知られていた作用素環のもつ有用な特徴が当てはまる。特に、存在する殆どのヒルベルト空間論の根底にある、自己随伴作用素のスペクトル定理が C-環に対して一般化された。これらの手法は今や抽象調和解析や表現論において基本となっている。

ルベーグ空間

テンプレート:Main

ルベーグ空間は測度空間 (X, M, μ) (X は集合で、MX の部分集合からなる完全加法族、μ は M 上の完全加法的測度)に付随する函数空間である。L2(X,μ) を、X 上の複素数値可測函数で、その絶対値の平方のルベーグ積分が有限となるようなもの全体の成す空間とする。即ち、L2(X,μ) に属する函数 f は必ず

<math> \int_X |f|^2 d \mu < \infty</math>

を満たす。ただし、測度零の集合の上でだけ異なる(殆ど至る所一致する)ような函数は全て同一視するものとする。

L2(X,μ) に属する函数 f, g の内積は

<math>\langle f,g\rangle=\int_X f(t) \overline{g(t)} \ d \mu(t)</math>

で与えられる。L2 の元 f, g に対して、右辺の積分が存在することはコーシー・シュヴァルツの不等式から示されるから、これは確かに内積を定義している。このように定義された内積に関して L2 は実は完備になる[20]。積分がルベーグ積分であることは完備性を保証するために本質的である。例えば、実数からなる領域上でリーマン可積分函数を考えるのでは十分でない[21]

多くの自然な設定の下でルベーグ空間を考えることができる。L2(R) および L2([0,1]) をそれぞれ実数直線および単位閉区間上で定義される(ルベーグ測度に関する)自乗可積分函数全体の成す空間とすると、それぞれの自然な定義域上でフーリエ変換とフーリエ級数が定義できる。別な状況では、実数直線上の通常のルベーグ測度ではない何か別の測度を用いることもある。例えば、任意の正値可測函数 w をとり、区間 [0,1] 上の可測函数 f

<math>\int_0^1 |f(t)|^2w(t)\,dt < \infty</math>

を満たすもの全体の成す空間は重み付き L2-空間と呼ばれ、w を重み函数と呼ぶ。内積は

<math>\langle f,g\rangle=\int_0^1 f(t) \overline{g(t)} w(t) \, dt</math>

で与えられる。重み付き空間 Lテンプレート:Su([0,1]) はヒルベルト空間 L2([0,1],μ) に等しい。ただし測度 μ は可測集合 A に対して

<math>\mu(A) = \int_A w(t)\,dt</math>

を満たすものと定める。このような重み付き L2 空間は直交多項式を調べるのによく用いられる(これは種々の直交多項式系は、それぞれ別な重み函数に関する意味で直交することによる)。

ソボレフ空間

ソボレフ空間 Hs あるいは Ws,2 はヒルベルト空間になる。これらの空間は微分が行えるような函数空間の一種で、(ヘルダー空間のようなほかのバナッハ空間とは異なり)内積の構造も持つ特別な場合になっている。微分が使えることで、ソボレフ空間は偏微分方程式論に対して都合がよい[22]。また変分法における直接法の基礎も与えている。[23]

非負整数 s と領域 Ω ⊂ Rn に対し、ソボレフ空間 Hs(Ω) は s 階までの弱微分が全て L2 に属するような L2-函数を全て含む。Hs(Ω) における内積は

<math>\langle f,g\rangle = \int_\Omega f(x)\bar{g}(x)\,dx + \int_\Omega D f\cdot D\bar{g}(x)\,dx + \cdots + \int_\Omega D^s f(x)\cdot D^s \bar{g}(x)\, dx</math>

で与えられる。ただし、右辺の点乗積は各階の偏導函数全体の成すユークリッド空間における点乗積である。s が整数でない場合にもソボレフ空間は定義できる。

ソボレフ空間は、(ヒルベルト空間のより具体的な構造に依拠する)スペクトル論の観点からも研究される。適当な領域 Ω に対してソボレフ空間 Hs(Ω) をベッセルポテンシャル全体の成す空間として定義することができる[24]。これはだいたい

<math>H^s(\Omega) = \{ (1-\Delta)^{-s/2}f | f\in L^2(\Omega)\}</math>

のようなものである。ここで Δ はラプラス作用素、(1 − Δ)s/2スペクトル写像定理によって捉えることができる。非負整数 s に対するソボレフ空間の意味のある定義を与える必要があることをひとまず置いておけば、ソボレフ空間の定義はフーリエ変換のもとで特に望ましい性質を持ち、擬微分作用素の研究に対して理想的である。これらの方法をコンパクトリーマン多様体上で用いれば、例えばホッジ理論の基礎を成すホッジ分解が得られる[25]

正則函数の空間

ハーディ空間
複素解析調和解析で用いられるハーディ空間は、その元が複素領域上の正則函数となっているような函数空間の一種である[26]U をガウス平面上の単位円板とすると、ハーディ空間 H2(U) は U 上の正則函数 f で、その平均
<math>
 M_r(f) = \frac{1}{2\pi}\int_0^{2\pi}|f(re^{i\theta})|^2\,d\theta
</math>
がまた r < 1 で抑えられるようなもの全体の成す空間として定義される。このハーディ空間上のノルムは
<math>
 \|f\|_2 = \lim_{r\to 1} \sqrt{M_r(f)}
</math>
で与えられる。この円板上のハーディ空間はフーリエ級数と関係があり、正則函数 fH2(U) に属するための必要十分条件は、
<math>
 f(z) =\sum_{n=0}^\infty a_n z^n,\qquad\left(\sum_{n=0}^\infty|a_n|^2 <\infty\right)
</math>
なる形に書けることである。従って、空間 H2(U) は、単位円板上の L2-函数で、負の周波数に対するフーリエ係数が消えているようなもの全体からなる。
ベルグマン空間
正則函数の成すヒルベルト空間の別なクラスにベルグマン空間がある[27]Dガウス平面(または高次元の複素空間)の有界開集合とし、L2,h(D) を D 上の正則函数 f
<math>
 \|f\|^2 = \int_D |f(z)|^2\,d\mu(z) < \infty
</math>
なる意味で L2(D) にも属するようなもの全体の成す集合とする。ただし積分は D におけるルベーグ測度に関してとる。明らかに L2,h(D) は L2(D) の部分空間であり、実は閉部分空間になっているので、それ自身ヒルベルト空間を成す。このことは、Dコンパクト部分集合 K の上で有効な評価
<math>
 \sup_{z\in K} |f(z)| \le C_K \|f\|_2
</math>
からの帰結である。この評価自体はコーシーの積分公式から出る。従って、L2(D) に属する正則函数列の収斂はコンパクト収斂でもあるから、極限函数もまた正則になる。先の評価不等式の別な帰結として、D の一点において函数 f を評価する線型汎函数は、実際には L2,h(D) 上で連続であることがわかる。リースの表現定理によれば、この評価函数を表現する L2,h(D) の元が存在するから、各 z ∈ D に対して函数 ηz ∈ L2,h(D) で
<math>
 f(z) = \int_D f(\zeta)\overline{\eta_z(\zeta)}\,d\mu(\zeta)
</math>
をすべての ƒ ∈ L2,h(D) に対して満たすようなものが取れる。被積分函数の因子
<math>K(\zeta,z) = \overline{\eta_z(\zeta)}</math>
Dベルグマン核と呼ばれる積分核で、再生性
<math>f(z) = \int_D f(\zeta)K(\zeta,z)\,d\mu(\zeta)</math>
を満足する。

ベルグマン空間は再生核ヒルベルト空間(函数からなるヒルベルト空間で、先と同様の再生性を持つ積分核 K(ζ,z) を備えたもの)の例になっている。ハーディ空間 H2(D) にもセゲー核と呼ばれる再生核を持つ[28]。再生核は数学のほかの分野でもよく用いられる。たとえば、調和解析におけるポアソン核単位球体上の自乗可積分調和函数全体の成すヒルベルト空間(これがヒルベルト空間を成すことは調和函数に対する中間値の定理からわかる)に対する再生核である。

応用

ヒルベルト空間の応用の多くは、ヒルベルト空間において射影基底変換といったような単純な幾何学的概念が、ふつうの有限次元の場合に考えられるそれらの自然な一般化になっているという事実に依拠して行われている。特に、ヒルベルト空間上の連続自己随伴線型作用素スペクトル論は、行列のふつうのスペクトル分解の一般化であり、これはヒルベルト空間論を他の数学や物理学の分野に応用する際にしばしば大きな役割を果たす。

スツルム・リウヴィル理論

テンプレート:Main

ファイル:Harmonic partials on strings.svg
振動元の倍音。これらはスツルム・リウヴィル問題の固有函数で、固有値 テンプレート:Math倍音列を成す。

常微分方程式論において、微分方程式の固有函数および固有値の振る舞いを調べるのに適当なヒルベルト空間上のスペクトル法が利用できる。例えば、ヴァイオリンの弦やドラムの調波の研究から生じたスツルム・リウヴィル問題は、常微分方程式論の中心的な問題である[29]。スツルム・リウヴィル問題は区間 [a,b] 上の未知函数 y に対する常微分方程式

<math> -\frac{d}{dx}\left[p(x)\frac{dy}{ dx}\right]+q(x)y=\lambda w(x)y</math>

で、一般斉次ロビン境界条件

<math>\begin{cases}

\alpha y(a)+\alpha' y'(a)=0\\ \beta y(b) + \beta' y'(b)=0. \end{cases}</math> を満足するものである。函数 p, q, および w は所与で、方程式の解となる函数 y および定数 λ を求める。同問題は、この系の固有値と呼ばれる特定の値の λ に対してだけ開を持つのだが、それのことはこの系に対するグリーン函数によって定まる積分作用素コンパクト作用素のスペクトル論を適用した結果として得られる。さらにはこの一般論からの別な帰結として、固有値 λ を無限大に発散する単調増大列に並べることができる[30]

偏微分方程式論

ヒルベルト空間は偏微分方程式を調べる基本的な道具である[22]。即ち、楕円型線型方程式のような偏微分方程式の多くのクラスでは、考える函数のクラスを拡張して弱解と呼ばれる超函数解を考えることができるが、弱解の定式化(弱定式化)の多くはヒルベルト空間を成すソボレフ函数のクラスを含むものになっているのである。解を求めたり、あるいはしばしばより重要な、与えられた境界条件に対する解の存在および一意性を示したりする解析学的な問題が、適当な弱定式化によって幾何学的問題に還元される。楕円型線型方程式に対して、かなりのクラスの問題が一意的に解けることを保証する幾何学的結果の一つがラックス・ミルグラムの定理である。この方法論は、偏微分方程式の数値解法に対するガレルキン法有限要素法の一つ)の基盤をなしている[31]

典型的な例が、R2 の有界領域 Ω におけるポアソン方程式 −Δu = gディリクレ境界問題である。弱定式化は、境界上で消えている Ω 上連続的微分可能な任意の函数 v に対して

<math>\int_\Omega \nabla u\cdot\nabla v = \int_\Omega gv</math>

を満たすような函数 u を求めることからなる。これは、u およびその弱偏導函数がともに境界上で消えている Ω 上の自乗可積分函数となるような函数 u からなるヒルベルト空間 Hテンプレート:Su(Ω) の言葉で書き直すことができて、問題はこの空間 Hテンプレート:Su(Ω) の任意の元 v に対して

<math>a(u,v) = b(v)</math>

を満たすような u を空間 Hテンプレート:Su(Ω) の中で求めることに帰着される。ただし、a および b はそれぞれ

<math>a(u,v) = \int_\Omega \nabla u\cdot\nabla v,\quad b(v)= \int_\Omega gv</math>

で与えられる連続な双線型形式および連続な線型汎函数である。ポアソン方程式は楕円型だから、ポアンカレの不等式から双線型形式 a強圧的 (coercive) であることが従う。故に、ラックス・ミルグラムの定理は、この方程式の解の存在と一意性を保証する。

多くの楕円型偏微分方程式に対して同様のやり方でヒルベルト空間による定式化ができるので、それ故にラックス・ミルグラムの定理はそれらの解析における基本的な道具となる。同様の方法は抛物型偏微分方程式やある種の双曲型偏微分方程式に対しても、適当な修正を施せば通用する。

エルゴード理論

ファイル:BunimovichStadium.png
ブニモヴィチスタジアムにおける力学的ビリヤード球の軌道は、エルゴード力学系で記述される。

エルゴード理論の分野では、カオス力学系の長期的振る舞いを研究する。エルゴード理論が有効な原型的な場合というのは、熱力学における系である。この系の微視的な状態は(微粒子の間の個々の衝突の集まりとしては理解できないという意味で)極めて複雑であるにも拘らず、十分長期間にわたるその平均的振る舞いは素直であり、熱力学の法則が主張するのはこのような平均的挙動である。特に、熱力学の第0法則は「十分長い時間スケールを経れば平衡状態にある熱力学系の、その機能的に独立な測度は、温度の形でのその全エネルギーのみである」などと定式化できる。

エルゴート力学系は、(ハミルトニアンで測られる)エネルギーを除けば、相空間上の機能的に独立な保存量を持たないような系である。詳しく述べれば、エネルギー E を固定して、ΩE をエネルギーが E となる状態すべてからなる相空間の部分集合(エネルギー面)とし、Tt で相空間上の発展演算子を表せば、力学系がエルゴードとなるのは、ΩE 上の定数でない連続函数で、ΩE の任意の w と任意の時間 t において

<math>f(T_tw) = f(w)</math>

を満たすものがない場合に限る。リウヴィルの定理によれば、エネルギー面上の測度 μ で時間並進不変なものが存在する。結果として時間並進は、エネルギー面 ΩE 上の自乗可積分函数に内積を

<math>\langle f,g\rangle_{L^2(\Omega_E,\mu)} = \int_E f\bar{g}\,d\mu</math>

で入れたヒルベルト空間 L2E,μ) のユニタリ変換になる。

フォンノイマンの平均エルゴード定理[19]の主張は次のようなものである。

 Px = \lim_{T\to\infty}\frac{1}{T}\int_0^TU_tx\,dt
</math>