パーニニ

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パーニニIAST: Pāṇini, デーヴァナーガリー: पाणिनि; "パーニの子孫"の意)は、紀元前4世紀頃のインド文法学者である。ガンダーラ(今日のパキスタン)出身。

パーニニはサンスクリット文法学者であり、ヴェーダの補助学(ヴェーダンガ)のひとつとして生まれた文法学(ヴャーカラーナ)の体系を確立した。パーニニはアシュターディヤーイーअष्टाध्यायी、"八つの章"の意 "パーニニ文典"とも)として知られる文法体系の中でサンスクリット形態論を3959個の規則にまとめたことで名高い。

アシュターディヤーイーは母音子音の文字表から語根からの語幹の派生法や複合語の分類及び品詞の活用などについて略記号を用いて古典サンスクリット語文法について詳解している。アシュターディヤーイーはサンスクリット文法についての最古のもののひとつとされているが、パーニニ自身はさらに古い3つの書(ウナディストラ、ダツパサ、ガナパサ)について言及している。アシュターディヤーイーは共時的言語学、生成言語学としての最古の研究として知られ、またそれとほぼ同じころの、ニルクタ語源学)、ニガンツ(類語辞典のようなもの)、シクシャー(音声学音韻論)とともに言語学の歴史の始まりに位置する。

パーニニによる、広範囲かつ科学的な文法理論は、伝統的に続いて来たヴェーダサンスクリットの終わりを記しづけ、同時に今日までに至るサンスクリットの始まりを告げるものである。

2004年8月30日月曜日、インドの郵政省はパーニニをたたえる5ルピーの切手を発行した。

時代と背景

パーニニの生涯についてはほとんどわかっていない。何世紀に生きたかも明らかでないが、学説としては前4世紀ごろとするものが支持されている。アケメネス朝ガンダーラがインド平原(ヒンドスタン平野北インド一帯)を支配していたころと考えられているが、前5世紀なのかはたまた前6世紀後半なのか、はっきりしない。

パーニニの文法が古典サンスクリット語(ヴェーダサンスクリットでなく)について定めていることから、ヴェーダ時代の終わりごろと考えられる。つまり彼がヴェーダサンスクリットが古くなり廃れているが、まだ口語として使われていることを示し、いくつかの特別な規則(チャンダスィー、"聖典のもとに"の意)について言及しているためである。

彼がいつ生きたのかを知る重要な手がかりとは、古代ペルシア語"ヤウナ"に起源をもつと考えられる"ヤバナーニー(ギリシア女性、ギリシア文字の意)"という言葉が現れることに注目し、前330年代のアレクサンダー大王による支配以前、ガンダーラ地方にギリシアについての直接的な知識がなかったであれば、ペルシアダレイオス1世の支配したころの前520年ごろであろうというものである。

パーニニが著作を残したかということについてもよくわかっていないが、アシュターディヤーイーに"文字"、"書記"などの言葉についての言及があることから、なんらかの形で書き物をしたという説は支持されている。何も書かずにアシュターディヤーイーのような複雑な書を編纂するのは難しいと考えられるが、パーニニは彼の弟子たちの頭を「ノート代わり」にしたという説をとなえるものもいる。アシュターディヤーイーの思想は前6世紀ごろ、初めてブラーフミー文字でまとめられた。この文字はガンダーラから遠く離れている南インドのタミル・ナードゥ州ものであるから驚くべきことである。

パーニニの業績は純粋に文法書、語彙編纂である。がまた、彼が用いた語彙や仲間への言及により文化的、地理的知識もそこから知ることができる。ヴァスデーヴァのような神についての言及もある。ダルマの概念も次のような文に登場する。dharmam carati "彼は法を司る"。

アシュターディヤーイー "パーニニ文典"

アシュターディヤーイー(Aṣṭādhyāyī (अष्टाध्यायी))はパーニニ文法の中心的な部分をなす。またそれゆえもっとも複雑な部分でもある。ダツパサ、ガナパサなどのサンスクリット語彙集に題材をとり、正しく構成された語を作り出すためのアルゴリズムについて書いている。アシュターディヤーイーは非常に体系的であり、技術的なものである。アシュターディヤーイーによる音素形態素語根などの概念、今日の生成文法的アプローチの重要性が西欧の言語学者たちに認識されたのは二千年の後のことである。パーニニがまとめたものは冗長なところがなく、サンスクリットの形態論について余すところなく書かれているため、その完成度によって名高い。簡潔にあらわされたパーニニの文法は高度に客観的体系であり、それは今日の機械語(可読性のあるプログラミング言語に対し)を思わせる。彼の論理的で洗練された規則とテクニックは古代の言語学、そして現代言語学に大きな影響を与えた。

アシュターディヤーイーは3959個の規則を8章に分けて説明している。この8つの章はまたそれぞれパダスと呼ばれる4つの部分に分かれている。例えばある箇所では話法とそのコンテクストについてのいくつかの規則について述べられており、同時にパーニニの地理的、文化的、歴史的な背景も窺い知ることができる。

パーニニ文法の規則

冒頭の二つの規則は次のようなものである。

   1.1.1 vṛddhir ādaiC
   1.1.2 adeṆ guṇaḥ

ここで大文字であらわされている文字は特別なメタ言語的シンボルであり、ITマーカーと呼ばれる。これらのメタ文字は、後のサンスクリット文法学者カータヤーヤナ(前3世紀)やパタンジャリがアヌバンドハと呼んだものである。このCとNの文字はシヴァスートラ(後述)のそれぞれ4番目の規則("ai, au, C") と3番目の規則 ("e, o, Ṇ")と符合する。これらの文字はそれぞれ{ai, au}と{e, o}という音素のリストを指す。Tの文字もあらわれるがこれもITマーカーと呼ばれ、1.1.70で定義されている。このTはそれに先立つ音素が音素リストにあらわれず、アクセント鼻音化をしめすメタ文節的特徴を含む単一の音素である。例えばāTとaTはそれぞれ{ā}、{a}をあらわしている。 上の2つの規則を音素リストの用語とともにまとめると、最終的に次のような解釈になる。

   1.1.1: 用語vṛ́ddhiは{ā, ai, au}という音素を示す。
   1.1.2: 用語guṇaは{a, e, o}という音素を示す。

ここで用語guṇaとvṛ́ddhiがそれぞれ母音交替の度合いをあらわしていることもみてとれる。

補助的なテキスト

パーニニによるアシュターディヤーイーは3つの補助的な書が知られている。シヴァスートラは簡潔であるが、高度にまとめられた音素のリストである。ダツパサとガナパサはサンスクリットの語彙リストであり、前者は語根を分類したものであり、後者は名詞の語幹について分類したものである。

シヴァスートラはアシュターディヤーイーに先立ち、14の規則で音素表記システムについて記したものである。シヴァスートラは、サンスクリットの形態論において特別の役割を果たす個別の音素群について説明している。それぞれの群はプラタヤーハラと呼ばれる。

ダツパサはアシュターディヤーイーに副次的に含まれる、サンスクリットの語彙集。

注釈

パーニニの後、パタンジャリによるものと考えられるマハーバーシャ(偉大な注釈書)が、サンスクリット文法における三大文法経典のひとつに数えられる。パタンジャリをして古代サンスクリット言語学は、その限界にまで達した。それゆえシクシャー(音韻論)、ヴャーカラーナ(形態論)の体系は極度に詳細である。統語論についてはほとんど触れられていないが、ニルクタ(語源学)において検討されており、これらの語源学から意味論的な説明が導かれている。パタンジャリはパーニニの重要な仕事を評価し擁護していると考えられる。むしろ彼はカータヤーヤナに対していくらか批判的である。

パーニニと現代言語学

パーニニや後のサンスクリット言語学者であるバリトリハリ(6、7世紀)は、現代構造言語学の父といわれるソシュールによる先駆的アイデアに明確な影響を与えたと考えられている。しかしまた、1998年に出たパーニニのドイツ語訳の前書きでプレム・シンハ(Prem Singh)がこの見方を擁護する一方、ジョージ・カルドナ George Cardona(ペンシルベニア大学)は過大評価に対して警告している。「私がソシュールの論文を再読した限り、パーニニの文法の直接的な影響をみとめられなかった。時折、パーニニの方法とまったく反対のやりかたを採用しているようにさえみえた」(Journal of the American Oriental Society, Vol. 120)。

ノーム・チョムスキー自身は、生成文法がパーニニによるところが大きいと認めている。最適性理論は"パーニニの制約順位定理"としても知られている。パーニニの文法理論はサンスクリット以外の言語にも工夫されてきた。パーニニは形式言語理論と形式文法の先駆者であり、コンピューターの先駆けでもあったと考える向きもある。彼が用いたメタ規則、(数学における)変換、再帰は、彼の文法にチューリングマシンのような厳密さを与えている。今日、プログラミング言語を記述するために用いられるバッカス・ナウア記法はパーニニの文法と顕著な類似性を持っている。19世紀のフレーゲとそれに続く数理論理学の発展以前、パーニニの文法が世界最古の形式体系と考えることもできるだろう。パーニニはその文法を作り上げるために「補助的シンボル」を用いた。このテクニックは論理学者のエミール・ポストによって再発見されたものであり、現在プログラミング言語をデザインする際の標準的な方法となっている。

日本への影響

パーニニの文法体系が仏教伝来とともに日本に伝えられ、空海の『声字実相義』などにもその影響が見られる。

外部リンク

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