パリ・コミューン

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テンプレート:政府 テンプレート:フランスの歴史 パリ・コミューンテンプレート:Lang-fr-shortテンプレート:Lang-en-shortまたはFourth French Revolution)は、パリ市の自治市会(革命自治体)のことであるが、ここでは国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し、同時期にフランス各地で蜂起したコミューン(la Commune)のうち普仏戦争後の1871年3月26日に、史上初の「プロレタリアート独裁」(マルクス)による自治政府を宣言したパリのコミューン(la Commune de Paris 1871)について説明する。

このパリ・コミューンは約2ヶ月でヴェルサイユ政府軍によって鎮圧されたが、後の社会主義共産主義の運動に大きな影響を及ぼし、短期間のうちに実行に移された数々の社会民主主義政策は、今日の世界に影響を与えた。

マルセイユ(1870年9月5日宣言)、リヨン(1870年9月4日宣言)、サン・テティエンヌ(1871年3月26日宣言)、トゥールーズナルボンヌ(1871年3月30日宣言)、グルノーブルリモージュなどの、7つの地方都市でも同様のコミューンの結成が宣言されたが、いずれも短期間で鎮圧された[1]

経過

第二帝政の崩壊

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ペール・ラシェーズ墓地に残るパリ・コミューンの記念碑

1789年大革命以来、1871年まで、フランスでは共和政体が2度(第一共和制および第二共和制)見られたが、いずれも短命に終わり、残りの長い年月は第一帝政復古王政7月王政第二帝政といった君主制が続いていた。しかし、第2帝政下の1870年7月に皇帝ナポレオン3世プロイセンとの戦争(普仏戦争)で敗北を喫し、そのうえセダンの戦いにおいて皇帝自身も捕虜となったことが伝わった。 過激派の跳躍に危機感を抱いた穏健的共和派の議員が1870年9月4日、共和国宣言を行い臨時の国防政府が設けられることとなり、ここに第二帝政は崩壊した。

臨時政府の成立

国防政府下で戦争は続行。急遽国民衛兵が召集されパリ防衛にあたることとなった。1870年9月19日から翌71年にかけての132日間、パリはプロイセン軍によって包囲された。包囲下においても劇場クラブは繁盛し、「パリはさながら田舎町のようになった。見知らぬもの同士、盛り場で挨拶を交しあった」[2]

その年の冬は寒波が発生し、燃料と食糧不足が深刻となった。パリ市内のガス灯は消え、街路樹を切り倒し薪とし、馬車の馬を喰い、犬、猫、鼠が肉屋に並んだ。厳しい状況下に市民は資材の寄付を募り、資材を溶かしたものを原料として元込式大砲を鋳造した[3]。そんな中、とどめを刺すようにプロイセン軍は市内への砲撃をはじめた。パリ市民はドイツ人に憎悪を抱くようになる。1871年1月28日、国防政府は極秘にすすめていたプロイセンとの三週間の休戦協定に調印した[4]

2月8日国民議会選挙がおこなわれた。ユーゴーガリバルディガンベッタを含むパリをはじめとした都市選出の議員は抗戦を主張する急進的共和派がほとんどだったが、議員の大半をしめる地方議員は、講和を主張する王党派が投票の多数をしめた。2月12日国民議会がパリを避けるようにボルドーで招集され、降伏後の和平交渉を担う穏健的共和派のティエールを首相とする臨時政府が誕生した[5]

議会はアルザス=ロレーヌの割譲、および50億フランの賠償金という条件を講和派の多数決により承認した。ティエールは、この賠償金の貸付の融資先をフランスの金融家に与え、加えて「パリの悪党ども」を処理することを条件に、第二帝政下で肥大した金融家の支持をとりつけた[6]。パリ包囲に対して多大な犠牲を払った抗戦派は、この決定に憤慨し議席を去った。

議会は反パリ政策(国民衛兵への給与停止、家賃支払猶予の撤廃[7])を次々と決定し、パリ市民と政府との亀裂は決定的となった。

1871年3月1日、プロイセン軍は祝勝パレードのためにパリに入市した。 ヴェルサイユ政府はパリ市民を逆なでするこの行為を避けるよう画策したが、プロイセン軍は強行しパリ市民は屈辱に甘んじた。 このときビスマルクは「おそらく腹黒いマキャベリズム[8]から武装解除を行わなかった。

パリ市民の蜂起

1871年3月18日ティエールはパリの治安回復を目的とする武装解除の先端として、パリ防衛の重要な堡塁であったモンマルトルの丘から、国民衛兵が所持するパリ市民の寄付による大砲200門余を取り除く指示を下した。 ルコント将軍とパチュレル将軍指揮の下大砲の撤去を実施するが、これを偶然目撃した女性兵士の一群が撤去に抵抗した。将軍は配下の兵に発砲を命じたが命令は無視され、 ルコント将軍は国民衛兵により捕虜となった。軍の一部はコミューンに合流し、ティエールは軍と政府関係者をひきつれ、ヴェルサイユに待避した。 捉えられた将軍のなかに以前1848年6月のパリ蜂起で労働者の弾圧を行ったクレマン・トマ将軍がいたため、ルコント将軍ともども猛る群集によって殺害された[9]。 この事件は反乱した暴徒による非道としてヴェルサイユ政府のプロパガンダに使われ、議会とヴェルサイユ政府軍のコミューンへの憎悪を掻き立てた。

これがきっかけとなり、一時的に国家機構が停止し無政府状態が生じた。その空白を国民衛兵中央委員会が埋めることとなった。

コミューンの宣言

国家機構から放棄されたパリ市民は、国民衛兵中央委員会の下でコミュニティを通じて、自発的に行政組織を再稼動させた[10]。 国民衛兵中央委員会は自らの権力基盤を正当化するために3月26日パリ市民による代表制普通選挙が行われた[11]。その後1871年3月28日パリ市庁舎前でパリ・コミューンが宣言され、以後5月20日までパリを統治することとなる。その間、教育改革、行政の民主化集会の自由労働組合の設立、女性参政権言論の自由信教の自由政教分離常備軍の廃止、失業や破産などによる社会保障などの革新的な政策が打ち出され、共和暦が用いられた。[12]

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コミューンによってパリ市内に築かれたバリケード

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コミューンの終焉

ティエールのヴェルサイユ退却後国民衛兵を指揮していた中央委員会の興味は普通選挙と愛国心からの対プロイセン徹底抗戦であり、ヴェルサイユ政府の打倒はその範囲ではなかった。 また、議会成立後も議会と中央委員会間の内部対立は絶えなかった。 ヴェルサイユ政府はコミューンが手中にした自由と対立を謳歌している間を利用してプロイセンのビスマルクと交渉し、捕虜となっていたフランス正規兵17万人を返還させコミューンの国民衛兵4万に対して数的優位を築くことに成功した。

4月2日、普仏戦争での敗北の将という汚名返上に燃えるマクマオン元帥率いるヴェルサイユ政府軍による攻撃が開始された(パリの東部と北部はプロイセン軍により封鎖)。コミューン側はパリ周辺の要塞を次々と失い、 5月21日ヴェルサイユ政府軍がスパイの手引きにより、サン・クルー市門からパリ市内に突入しバリケードによる市街戦に突入した。1848年のパリ蜂起の経験から市街戦を熟知していたヴェルサイユ政府軍は焼夷弾と榴弾により、次第に国民衛兵を追い詰めた。 ヴェルサイユ政府軍は捕虜をとらず銃殺していたため、コミューン議会は報復として人質となっていたパリ司祭一団を処刑した。 戦闘のさなか、5月24日パリ市役所に火災が発生し、続いてパリ全土が火災につつまれた。建物のなかには、国民衛兵により戦略的に燃やされたものがあった。 火災は女性の放火魔「石油女」(petroleuse)による仕業というデマがヴェルサイユ新聞によって流布され[13]、ヴェルサイユ政府軍により身なりの汚れた女性が多数銃殺された[14]

この「血の1週間」と呼ばれる戦闘により3万人にのぼるといわれる戦死者を出してパリコミューンは瓦解、ペール・ラシェーズ墓地での抵抗と殺戮を最後に5月28日パリは鎮圧された[15]。 戦闘終了後も、ヴェルサイユ政府軍の白色テロは収まらず、多数の国民衛兵および市民が即決裁判により老若男女を問わず銃殺された。ヴェルサイユ政府は国民衛兵の死体を葬ることを許さなかった(結局悪臭で迷惑になったため禁令が解かれる)。 銃殺をまぬがれた捕虜、外国人、密告により通報された市民など約5万人がヴェルサイユに連行された。[16] 亡命したコミューン活動家にも追及の手がおよんだ。

第三共和制の成立

パリ・コミューンの制圧は、穏健的共和派や王党派にとっては「危険な過激思想を吹聴する叛徒」を排除する絶好の機会であった。 逆説的に、この「功績」によりティエール率いる共和派は、農民、ブルジョワジ、王党派から第三共和政という政治形態の支持を得られることとなった。

国民衛兵中央委員会の一部に第一インターナショナルが参加していたことから、カール・マルクスはコミューン崩壊の2日後、『フランスの内乱』を執筆し、コミューン戦士の名誉を擁護するとともに、コミューンの事業からプロレタリア革命理論を抽出した。この著作の中でマルクスはコミューンを労働者階級のための国家と規定し、共産主義革命におけるプロレタリア独裁の歴史的必然性を説いた。

なお、血の一週間においては「叛徒」の放火によりパリ市庁舎が焼失し、パリ改造前に作成されていたパリの地図を含む数多くの歴史的文書が失われた[17]

コミューンとその政策

普通選挙によって選ばれた議員には、労働者ばかりではなく、法律家医師教員、ジャーナリストなど、職業も思想もさまざまなな人びとが含まれていた。 [18]

パリ・コミューンの政権は72日間という短命で終わったが、教会と国家の政教分離、無償の義務教育に関してはコミューン崩壊後の第三共和政に受けつがれた。世界に先がけて実現した女性参政権が、国家レベルで実現するのは1893年ニュージーランドを待たなければならなかった。

脚注

  1. 長谷川(1991) p.10
  2. ヴァルノ(1999) p.267
  3. ヴァルノ(1999) p.265
  4. 長谷川(1991) p.62
  5. 王党派は、不名誉な講和協定にサインする責任を回避したとされる。ハーヴェイ(2006) p.408
  6. ハーヴェイ(2006) p.408
  7. パリ包囲中のなかで唯一の収入源であり、そのなかでの家賃支払猶予は零細企業や庶民にとって死活問題だった。輪をかけるように休戦を利用してブルジョワ層はパリを抜け出し、農村へ脱出していた。
  8. ヴァルノ(1999) p.264
  9. 長谷川(1991) p.70
  10. ハーヴェイ(2006) p.410
  11. この選挙では反動派の立候補者が十数名当選している長谷川(1991) p.89
  12. 選ばれた議員の中には写実主義の画家であるクールベも名を連ねている。
  13. ハーヴェイ(2006) p.414
  14. 長谷川(1991) p.138
  15. ヴェルサイユ政府軍側の犠牲は死者約400人、負傷者約1100人といわれる。
  16. 長谷川(1991) p.141
  17. 鹿島茂「失われたパリの復元」第10回、芸術新潮2012年10月号 p.163
  18. 90議席のうち労働者は25、インターナショナル派が13 長谷川(1991) p.88

関連項目

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参考文献

  • 長谷川正安『コミューン物語1870-1871』日本評論社(1991.05) ISBN 4535579520
  • アンドレ・ヴァルノ『パリ風俗史』(講談社学術文庫、1999年)ISBN 4061594052
  • 福井憲彦編『フランス史』(山川出版、2001年8月) ISBN 4634414201
  • 柴田三千雄編『フランス史 2』(山川出版、1996年7月) ISBN 4634461005
  • デヴィッド・ハーヴェイ『パリ―モダニティの首都』(青土社、2006年4月) ISBN 4791762681テンプレート:Asbox

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