パナマ市

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テンプレート:Redirect テンプレート:世界の市 パナマ市スペイン語Ciudad de Panamá シウダ・デ・パナマ、英語:Panama City)は、パナマ共和国首都。国名と同一名称のため、各言語で「市」に該当する単語を付けて区別するのが通例となっており、パナマ共和国の公用語であるスペイン語でもそうされている。また、パナマシティとも呼ばれる。以下の解説では「パナマ市」とする。

太平洋に面しパナマ運河の入り口である。人口は708,738人。北緯8度58分、西経79度32分にある。国の政治経済文化の中心であり、中米有数の世界都市。現在の市長フアン・カルロス・ナバーロ

歴史

パナマ市は、1519年8月15日テンプレート:仮リンク(スペイン語:Pedro Arias de Avila)により建設されたことから始まる。昔も今もこの都市は、地峡を利用した国際貿易金融業で繁栄している。かつては、南米ペルーへの探検と、黄金スペインへ運ぶための拠点であった。1671年1月28日には、1400人の海賊を率いてやってきたイギリス人ヘンリー・モーガンが都市を攻撃、黄金を略奪後、火を使い破壊した。このときの遺跡はパナマ・ビエホ (en:Panamá Viejo) と呼ばれ、今日では国内有数の観光名所となっている。ヘンリー・モーガンによる破壊の後、1673年に町は全て約11km西南のカスコ・ビエホ (en:Casco Viejo) に移転した。

1848年カリフォルニアで金が発見され、地峡を渡りアメリカ西海岸へ行く人々が増加した。金の発見の前年、パナマ鉄道会社が設立されたが、1855年まで運行はなかった。1848年から1869年の間に、約375,000人が大西洋から太平洋へ、約225,000人が太平洋から大西洋へ、地峡を利用して渡った。この移動がパナマ市を再び繁栄へ導いた。

交通量の増大がパナマ運河建設へと向かわせ、フランス人技師フェルディナン・ド・レセップス主導で1880年1月1日に建設を開始したが、工事の技術的問題と資金調達の両面で難航し、1889年に計画を放棄した。しかし計画は頓挫したわけでなく、1902年アメリカ合衆国が連邦議会でパナマ地峡運河を建設することを決定した。1903年から工事を始め、3億ドル以上の資金を投入し、1914年8月15日に開通した。

パナマ運河の建設は、パナマ市のインフラ整備を促進した(例:市内全域への上水道付設)。

交通

姉妹都市

脚注

  1. テンプレート:Cite web

外部リンク

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