バブル時代

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テンプレート:出典の明記 バブル時代(バブルじだい)とは、日本における1980年代後半から1990年代初頭の好況期のこと。バブル期とも言う。1986年12月から1991年2月までのバブル景気第11循環の拡張局面)の時期。

本項では、当時の日本の文化・流行・社会現象などについて記述する。

概要

テンプレート:要概要 2014年現在イメージされる、ワンレンボディコンの若い女性たちがジュリアナ東京で羽根付扇子を振って踊り、日本中に札束が乱舞し金満社会になっていたという、極端にステレオタイプ化されたバブル景気のイメージがしばしばテレビや雑誌で流されるが、ジュリアナ東京が開店したのはバブル崩壊後の1991年5月のことであった[1](但しその頃はまだバブルの余韻はあった[2])。また後者の金満社会のイメージは1988年ころにかたちづくられたものであるテンプレート:要出典

ビジネス

地上げ

潤沢な資金を背景に大都市の再開発の動きが活発になった。1980年代後半、東京原宿の「原宿セントラルアパート」のビルは、大規模な地上げの舞台となった[3]

都心の優良地区には、地権が細分化された上に借地借家が多数混在し、権利関係が複雑に絡んでいるケースがあった。日本においては、借地借家法によって借主の権利が保護されていたため、土地をまとめて大規模開発をするプロジェクトは必然的に推進が困難となった。そのため、大都市周辺の土地取得のため、大手不動産会社を代表したり、依頼を受けた地上げ屋(主に暴力団員)の強引な手口による「地上げ」が行われるようになり、社会問題となった。東京都内では、暴力団も含んだ地上げ屋による土地所有者への嫌がらせが横行し、放火なども相次いだ[4]

しかし、計画を完遂できないままにプロジェクトが中止されるケースも多数生じ、バブル崩壊後には往々虫食い状態の利用しにくい空き地が残されることとなった。これらの空き地は「バブルの爪あと」などとも呼ばれる。

財テクブームと消費の過熱

ファイル:Van Gogh Vase with Fifteen Sunflowers.jpg
1987年、安田火災(当時)が約57億円で購入した絵画「ひまわり

バブル経済下では金融・資産運用で大幅な利益を上げる例が強調され、企業においても本業で細々と着実に利益を上げたり、保有株式の配当金等よる利益(インカムゲイン)を上げるのでなく、所有する土地や金融資産を運用して大きな収益(キャピタルゲイン)を上げる「財テク(○○転がし)」に腐心する例もあった。

潤沢な資金による買い漁りの対象は、NTT株の公開に伴う一般投資家による投資や、フェラーリロールス・ロイスベントレーなどの高級輸入車サザビーズなどが開催したオークションによるゴッホルノワールなどの絵画や骨董品、にまで及ぶなど、企業や富裕層のみならず、一般人まで巻き込んだ一大消費ブームが起きた。

これらの背景には、中小企業主に対する融資が緩くなったことや、企業に勤めて新居購入のために貯金をしていた世帯が、土地価格の急激な上昇のため新居取得を諦め、新車購入や旅行、消費に走ったことが原因として挙げられる。

就職

テンプレート:See also

就職売り手市場

民間企業が好景気を受けた好業績を糧に、更に営業規模を拡大したり経営多角化を行うために募集人数を拡大し、学生の獲得競争が激しくなった。多く企業が学生の目を惹き付けることを目的にテレビで企業広告を行い、立派な企業パンフレットを作成・配布して学生の確保に走った他、青田買いの一環として、都市部の大学生が主宰するイベント系サークルやそれらが企画するイベントへの協賛を行った。

学生の確保に成功した企業が内定者を他社に取られないようにするため、研修等と称して国内旅行や海外旅行に連れ出し他社と連絡ができないような隔離状態に置く、いわゆる「隔離旅行」を行った[5]他、「内定を辞退した学生に人事担当者が暴行した」というような都市伝説まで囁かれるようになった(都市伝説一覧を参照)。

これらの背景には急激な経済膨張・業務拡大のため夜中2時過ぎまでの残業などがざらになるなどの深刻な人手不足があり、早急に人員を確保することが急務だった。体育会系の学生は我慢強く体力があり、上下関係による人脈で後輩学生を入社させやすいというので企業からは人気があった。特に証券等は、現場が人手不足だったので、OBを通じて学生に食事を振る舞うなどしてまで入社させた。

ただし注意を要するのは、この時代には全ての大学生が誰しも一流企業への就職が楽であったわけではなく、就職人気上位30社程度の一流企業に限定すると「指定校制度」の存在と短期大学を含め大学進学率が同世代の3割程度であったことに留意する必要がある。すなわち主に恩恵を得たのは東京圏の国立・上位私立大学、及び京阪神圏の国立大学である。したがって一流企業は満遍なくあらゆる大学からの採用を増加させたのではなく、バブル景気以前より長年にわたって存在していた指定校に在学する学生の採用を大幅に増加させたことがこの時期の売り手市場の傾向である。その意味でインターネット等でのエントリー制度が主流となった現在のほうが、従来の指定校漏れ大学からの一流企業就職にも少ないながら可能性が出てきたともいえる。もっとも当時の指定校制度に漏れていた首都圏の一般的な私立大学、及び地方の大学に所属する学生も業界2-4番手の大企業に就職できたことから、当時の方が総じて就職活動は容易であった。

有効求人倍率は、1991年に1.40倍を記録。リクルートの調査では、同年の大卒最高値は2.86倍になった。この時代に大量に採用された社員を指してバブル就職世代とも言われる。社内では同世代の人数が多く、社内での競争が激しくなり、一方で、就職直後にバブル崩壊を受けて業務が削減され、それぞれの社員が切磋琢磨する機会も減った。また、以後の採用が細ったことから「後輩」「部下」が居らず、長く現場の最前線に立たされ昇進もままならない者も多かった。

民間企業の業績・給与がうなぎ上りだったことに比べ、景気の動向に左右されにくい公務員はバブル景気の恩恵をさほどには受けなかった。このため「公務員の給料は安い、良くて平均的」といった風評が大学生の間で蔓延して、「公務員はバカがなるもの」と見下されがちだった。とりわけ地方公共団体には優秀な新卒が集まりにくく、各団体は公務員の堅実性のPRを積極的に行った。

文系就職

農林水産業や製造業などの分野と比較して、銀行や証券といった金融分野が大幅に収益を伸ばし、これらの業界は、さらに高度な金融商品の開発に充てる人材の確保を意図して、理系の学生の獲得に動いた。また、バブル景気の浮かれた雰囲気の中で、電通やサントリー、カネボウフジテレビなどの、広告出稿量の多い、もしくはマスコミ広告代理店、外資系企業などの華やかなイメージの企業の人気も高まり、文系学生のみならず理系の学生もがこれらの企業に殺到した。

好業績で注目を浴び高い給料を提示する金融業や華やかな業界への就職希望が増えたのに対し、製造業では学生の確保に苦労することになった。理系の学生が、産業界以外の分野、殊に金融業やサービス業へ就職することを指して文系就職とも言われた。これに対応するため多くの製造業が初任給を引き上げる動きに出たが、場合によっては既に在籍している社員よりも高い俸給が提示されることもあり、不公平であるとの批判も起こった。

文化・流行・社会現象

テンプレート:出典の明記

マスメディア

放送局では大量のスポンサーが付いたことで莫大な収入が入るようになり、番組にはジャンルを問わず多額の制作費が惜しみなく投入された。この時期はファッションモデル出身の若手俳優や女優を主役に据え、生活感が皆無な毎日の暮らしを描いた「トレンディドラマ」が若い女性にブームとなっていて、特にフジテレビ月9ドラマがその牽引役となっていた。経済学者田中秀臣は「経済状況が好転すると、物質的消費が特徴のトレンディドラマが流行する」と指摘している[6]

また、アメリカに多いジャンル別FMラジオ局に倣い・またスタイルを真似た、英語アナウンスを多用する「お洒落な音楽だけを流すFM放送局」が登場したのもこの当時(J-WAVE など JAPAN FM LEAGUE 参加局や、平成新局の各社)のことであるが、これらのFM局の多くはその後、方針を修正することとなる。

テレビコマーシャルも従来の商品宣伝型の CM は下火になり、それに変わって企業イメージを向上させることを目的としたCM(たとえばJR東海シンデレラエクスプレス等)が多く製作された。

また、この頃は男女雇用均等法の施行とそれに伴う女性労働者の収入向上に伴って、結婚率の低下やそれに伴う出生率低下が話題になり始めた。そして男女双方が結婚難だったにも拘わらず、「男性結婚難時代」などと男性のみが結婚難であるかのようにいわれたり、結婚難に悩む男性を揶揄する根拠に欠ける報道(例:朝日新聞1992年7月19日付朝刊)が溢れたりした。また同性愛者は男性の方が多く生まれてくることを無視して「男余り時代」といわれたり、先の「アッシーくん」等の流行語に見られるように男性を貶める論調も目立ち始めた(「現代用語の基礎知識」1991年版)。テレビ朝日系の深夜クイズ番組の中には、「賞品として」数十人の男性をスタジオに待機させ、3人の女性解答者(回答者は女性のみ)が一問正解するごとに、その中から一人ずつ気に入った男性を「のように」獲得していき、優勝者は一人の男性を「賞品としてもらえる」というものもあった。このようにバブル期のメディアでは男性をもてあそび、商品化するなどの極端な男性蔑視報道が日常的に罷り通っていた。

流行語

バブル景気直前の1984年には、金持ちと貧乏人の生活や価値観を対比させた 渡辺和博 の著書『金魂巻 現代人気職業三十一の金持ビンボー人の表層と力と構造』で使用された「○金○ビ(まるきん・まるび)」が第1回流行語大賞となり、バブル景気時にもそのまま使用される。『金魂巻』はバブル期にベストセラーとなった[7]。またこの年、前年に『構造と力―記号論を超えて』がベストセラーになっていた浅田彰が、第二著『逃走論 スキゾキッズの冒険』で、人間のタイプを「スキゾ・パラノ」に分類し、同新語部門銅賞を受賞した。

この頃は空前の好景気で国内外・昼夜を分かたず猛烈に働くことが時代の趨勢となり、「24時間戦えますか」のCMコピー(栄養ドリンクのCM曲「勇気のしるし」参照)が流行した。

新たな価値観・感性を持った若者は「新人類」と称された。但し「いまどきの新人類は~」などと若者をなじる時に使われ、決して肯定的な意味で使われていた訳ではない。ファッションでは「DCブランド」が持て囃され、その販売員は「マヌカン(ハウスマヌカン)」と呼ばれた。「ワンレン・ボディコン」の女性の一部が求める結婚相手は「三高」だとメディアは報じ、若手エリート・「ヤンエグ」(ヤング・エグゼクティブ。青年実業家や起業家)の服装はジョルジオ・アルマーニに代表されるソフトスーツであった。

また一部の男性は女性の気を引くべくプレゼントを贈ったり、高級レストランで接待したり、彼女たちを乗せる乗用車にお金を注ぎ込んだりしているとメディアでは伝えられ、このような一部男性は「アッシーくん」、「メッシーくん」、「ミツグくん」、「キープくん」などと蔑んで呼ばれた。そして彼らに対する正式な“彼氏”は「本命くん」とメディアは呼んだ。このように男性を類型化・商品化し、男性の人格をもてあそんだ男性差別又は女尊男卑的な流行語が溢れたのもバブル時代だが、約20年後に登場した草食男子という言葉と同じく、アッシーや三高などはメディアや社会学者、評論家らが面白可笑しくいっていたに過ぎず、実際にどれだけの男性がアッシーをしていたのか、どれだけの女性がアッシー扱いしていたのかは検証されていない。

そのほか男性を「CD」(ATM)や「キャッシュカード」(キャッシュカード君)に喩えてみたり、働き盛りの男性を「亭主元気で留守がいい」と言ったり、定年退職を迎えた中年男性を「濡れ落ち葉」と呼んで揶揄するなど、前述のアッシーなどの流行語と合わせ、兎にも角にも激しい男性蔑視、マン・バッシングが吹き荒れたのがバブル時代のもう一つの顔だった。

一方で、一部の羞恥心を欠いた中年女性を「オバタリアン」、品がなくて、帰宅したら母親に「風呂、飯、寝る」しかいわないような若い女性を「おやじギャル」と呼んだりもした。

セゾン文化後述)の発信地だった「渋谷公園通り」や、港区芝浦などの「ウォーターフロント」地区が「トレンディ」で「ナウい」場所とされ、松井雅美や山本コテツなどの「空間プロデューサー」がデザインした飲食店は「カフェバー」と呼ばれた。

ネクラ・ネアカ、オタク

バブルの手前、フジテレビが「母と子のフジテレビ」から「楽しくなければテレビじゃない」に旗印に改め、「軽チャー路線」を打ち出した1980年代前半頃から、「ネクラ」・「ネアカ」という言葉が世を席巻した。そして物や人間の価値をも「明暗」を基準に判断する風潮が生まれたテンプレート:要出典。その当時の若年層の世代の人間の間では「ネクラ」な性格は忌み嫌われ、いじめの格好のターゲットにされたため、多くの人は暗いと思われることを恐怖し、努めてネアカに振舞おうとしたテンプレート:要出典

『笑っていいとも』が一大ブームになり、「いいとも!」が流行語になった。第一次漫才ブームツービートなどのブラック漫才が流行り、新たなコメディのジャンルを確立したものの、それらに安易に影響をうけてしまい、相方の頭を叩いたり、悪口や人の弱みに付け入ることをいって笑いをとる風潮も生まれた。この頃から学校で「葬式ごっこ」などのいじめ問題がエスカレートした[8]

「まじめ」も崩壊し[9]、その当時の人々の間では愛や正義などの尤もらしいことを語ると「クラい」「ダサい」と馬鹿にされ、恋愛や友人関係、青春期の悩みなどを友人に相談しようとしても、相手にされずせせら笑われたことも多かったというテンプレート:誰。一方で、そんなネアカ・軽薄短小といわれた時代に違和感や息苦しさを感じていた人も多く、彼らは天才ロッカーと後に呼ばれる「尾崎豊」を聴いたりしていたテンプレート:要出典。尾崎は1980年代という時代が生み出した必然ともされるテンプレート:要出典

1989年には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が起き、その容疑者(当時)がネアカと呼ばれる前述のような当時若年層に求められた青年像とは対極に位置する外見であったこと、アニメ・マニアだったことから、似たタイプの若者は「オタク族」といわれだした。この頃の「オタク」は、2014年から見た近年と違ってネガティブな意味でのみ用いられ、精神科医小田晋はメディアで「オタッキーの犯罪」を連呼していた[10]。このことが当時メディアの間で多く取り上げられたことや当時の日本ではアニメに関する土壌や理解が発展途上であったため、幼児・児童層より上の年齢の人間がアニメが好きということを公言すればそれだけで犯罪者予備軍のような目で見られる風潮もまだまだ多かったというテンプレート:要出典

娯楽・消費

バブル時代には、「クリスマスは大学生が高級ホテルのスイートルームでパーティ」「赤坂・六本木では万札を振りかざさないとタクシーが拾えない」といった事象が起きた[7]

海外旅行

格安航空券の流通拡大にあわせて、日本人の海外旅行者が増加したのもこの時期からである。1986年には550万人程度だった日本の海外旅行者が、わずか4年後の1990年には1000万人を突破した。

家庭用ゲーム機

家庭用ゲーム機業界においてもファミコンの次世代を担う次世代機の競争が各社で始まっていたが、なかでもNECホームエレクトロニクスが開発したPCエンジンの周辺機器で当時最新鋭だったCD-ROM2システム、SEGAが開発したメガドライブの周辺機器であるメガCDをゲーム機に組み込ませた製品が4-5万円で発売されるなど、ゲームにおいても高級志向が浸透しつつあった。1990年にSNKからリリースされたNEOGEOのように高級ゲームとしての市場を開拓すべく発売されたゲーム機もある。スーパーファミコンのソフトの価格が一部を除き八千円、九千円台であったことも、当時の好景気を象徴している。

ポケットベル

1980年代後半頃からポケットベル(略称:ポケベル)で数字送信が可能になり、通信自由化による低料金化や技術革新による高速化などが追い風となり、若者の間でポケベルが普及し始めた。日本ではポケベル事業自体は1968年に開始されていたが、音響通知だけで業務用途が多く、一般レベルでは普及していなかった。それがポケベルが個人の生活に入り込むことで、(業務用途や自動車電話、1989年に普及し始めたノートPCなどを除いては)固定電話公衆電話が主たる通信手段の時代から、個人で通信手段を持ち歩くのが当たり前の時代へと移り変わった。この頃は高校生-20代前半の若者の間で、数字の語呂合わせでメッセージを送り合う言葉遊びが流行り、恋人同士でも連絡し合うようになった。

クリスマス・ホテル

ファイル:Hilton Tokyo Bay.JPG
東京ベイヒルトン
ファイル:Naepri.JPG
苗場プリンスホテル

バレンタインデーにチョコを贈る慣行はオイルショックによる景気低迷の時代にデパート業界がより積極的に仕掛けたように、クリスマス・イヴにカップルで夜景の見えるレストランで食事し、ホテルに宿泊するというスタイルは、円高不況期にホテル・外食産業やメディアなどによって仕掛けられた。

赤坂プリンスホテルシェラトン・グランデ・トーキョーベイ・ホテル東京ベイヒルトンなどの高級シティホテルに宿泊することが流行し、3か月前の予約受付開始直後に予約が一杯になる状況が続いた。

スキーリゾート

また前述の通りスキー場の開発が相次いでなされたことと、1987年に映画『私をスキーに連れてって』が大ヒットしたこともあってスキーブームが起こり、苗場プリンスホテルなどが人気となり、リフト待ちに数時間かかるような事態も起きるほどであった。

さらに都心至近距離の千葉県船橋市に屋内スキー場「ザウス」ができたりもした。「ザウス」はバブル崩壊後の1993年のオープンであるが、スキー人口のピークの年でもあった。

音楽市場

楽器メーカーでは、ヤマハが前述のスキーブームに便乗して「スキーバスの中に持ち込んで手軽に作曲が楽しめるもの」をコンセプトに設計された音源内蔵シーケンサーQY10を開発している。また、世の中のバンドブームの流れに乗り、シンセサイザーをバンド系ミュージシャンとのタイアップやCM放送を通じて盛んに売り出した[11]

豪華列車

一方、鉄道についても従来では考えられなかった超豪華列車(「北斗星」「トワイライトエクスプレス」等、またオリエント急行の来日もこの時期)やリゾートに特化した車両(「スーパービュー踊り子」等)が登場し、これらの列車はバブル崩壊後も根強い人気を保っている。

盛り場・ディスコ

消費の過熱は六本木や銀座新宿渋谷などの盛り場にも影響し、これらの盛り場では大金を手にしたいわゆる「バブル紳士」から、学生ビジネスのみならずアルバイトで遊ぶための金を手にした学生までが大金をつぎ込んだ。1980年代後半にかけて、六本木では雑居ビル「スクエアビル」の殆どがディスコになった他、六本木駅界隈には50店舗以上もディスコが乱立しその多くが盛況になるなど、第2次ディスコ・ブームが起こった。また、カラオケパブが流行するなど、この頃のバブル景気の象徴として「ジュリアナ東京」取り上げられることが多い。

また、都会に在住する裕福な大学生を中心に組織されたイベント系サークルがこれらのディスコを数十店舗単位で同時に貸し切り、ミズノ日産自動車、スバルやサントリーなどの大企業のスポンサーを付けた上で全国規模で数千人を動員するパーティーも行われた。

モータースポーツブーム

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レイトンハウスF1チームのマーチ901・イルモア

こうした熱狂のなか、1987年の中嶋悟F1への参戦とホンダエンジンの活躍、フジテレビジョンによるF1全戦中継開始を機にモータースポーツブームが巻き起こった。

F1

F1を中心とした空前のモータースポーツブームに、宣伝効果を狙った様々な企業が群がった。フットワークアロウズを買収)やレイトンハウスマーチを買収)、エスポラルースを買収)、ミドルブリッジ(ブラバムを買収)など多くの日本企業がF1チームの買収を行った。また、三洋電機東芝セイコーエプソン三越セガなどの多くの日本企業がチームのスポンサーに名乗りを上げた。

さらにヤマハ(ザクスピードに1989年から供給)やスバルコローニに1991年に供給)がエンジンサプライヤーとして参戦したほか、鈴木亜久里(1988年-)や服部尚貴(1991年)が日本企業のスポンサーを受けて新たに参戦した。

海外レース

F1のみならず、ル・マン24時間レースパリ・ダカールラリーをはじめとする世界各国のレースに参加する日本の自動車会社や日本人レーシングドライバーに対し、大企業から中小企業まで様々な日本企業がスポンサーを行った。

国内レース

また、当時日本国内のモータースポーツのトップカテゴリーだった全日本F3000選手権全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 (JSPC)・全日本ツーリングカー選手権 (JTC) 等には、サントリー日本たばこミノルタワコールなどの大手企業から、CHERENAや三和都市開発、VIPバケーションなど、不動産取引で大金を手にした不動産業者をはじめとする中小企業、さらに武富士プロミスアコムなどの消費者金融業者まで多くの企業がスポンサーに名乗りを上げ、豊富な資金を得たことを背景に、1990年の全日本F3000選手権には40台近くがエントリーするなど空前の参戦台数を記録した。

さらに不動産投機を目的としたリゾート開発の過熱とあわせて、国内におけるサーキットの建設計画が多数立ち上がり、実際に計画され完成に至っただけでもオートポリスTIサーキット英田十勝インターナショナルスピードウェイなどがあるが、上記の3つともにバブル崩壊後に運営法人が破産した。

高級車ブーム

「シーマ現象」

1988年1月に日産自動車が発売した500万円以上の高級車「日産・シーマ」が大ヒットを記録、日本銀行の支店長会議では、日本の豊かさを表しているとしてこの事例を「シーマ現象」と名付けた[12]

シーマやトヨタ・ソアラトヨタ・クラウンなどの「ハイソカー」と呼ばれた3ナンバーの国産高級車への人気集中が起きた。とくに1989年に税制改正され、3ナンバー車に以前のような重い課税がされなくなってからは、各メーカーがこぞって対象車種を出したことから、これらの3ナンバー車の販売台数が飛躍的に増加した。

また、1989年にアメリカで先行販売されたトヨタ・セルシオ日産・インフィニティQ45などを、日本での販売開始前にアメリカから「逆輸入」し、高値で販売する業者や、1990年に発売され納車まで1年以上待つこととなったホンダ・NSXを「即納可能」として高値で転売する業者も現れた。

外国車

それまでは一部の富裕層のステータスシンボルとされていた外国車も、その販売台数の急増から、東京都や神奈川県などの都心部ではメルセデス・ベンツ 190Eが「コ(子)ベンツ」「赤坂サニー」、BMW3シリーズが「六本木カローラ」などと揶揄されるほどに普及した。

特に高級外車は、東京都心や大阪市内などの大都市の道路でメルセデス・ベンツSクラスケーニッヒやキャラットコンプリートなどのチューン版も多かった)やポルシェ・911ジャガー・XJなどが走っているのが全く日常の光景の一部となり、フェラーリやランボルギーニマセラティデイムラー、さらにはロールス・ロイスなどの、これまで輸入台数の極端に少なかった高級車が走っていることでさえ、大都市近郊においては特に珍しい存在ではなくなったのはこの頃以降のことである。

またこの当時、ヤナセ(メルセデス・ベンツ)やBMWジャパンBMW)などの正規輸入販売代理店経由でこれらの車を購入する場合、車種によっては注文してから納車されるまで1年以上かかるケースがあったため、輸入車専門店がドイツやアメリカ、ドバイなどから新車(時には中古車)を並行輸入し、「即納車可能」として正規輸入販売代理店の販売価格に上乗せしたプレミアム価格で販売し、その広告を全国紙に掲載しているケースもあった。

フェラーリ

ファイル:Ferrari F40.JPG
フェラーリF40
ファイル:Rolls-Royce Silver Spur.jpg
ロールス・ロイス・シルヴァースピリット

この頃フェラーリは、1988年に創設者のエンツォ・フェラーリが死去したことや、同時期にヨーロッパの自動車バイヤーによって中古販売価格を吊り上げるために買占めが行われたこともあり、新車のみならず中古車価格も世界的に高騰していた。

さらにこのような世界的な供給不足を受けて、人気車種の「テスタロッサ」を当時の正規輸入販売代理店のコーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドで新車を注文してから納車されるまで2-3年待ちという状況であった。

そのせいもあり、限定で生産された「F40」は、コーンズ・アンド・カンパニー・リミテッドでの新車価格が4,650万円のところを並行輸入された新車(即時納車可能)が輸入車専門店で2億5,000万円で、「テスタロッサ」が新車価格が2,300万円のところを5,000万円近くで、「348」が同じく新車価格が1,650万円のところを4,500万円近くで販売されていたという記録が残っている[13]

ロールス・ロイス

バブル景気絶頂期の1990年にはロールス・ロイスの全生産台数の約3分の1強が日本で販売された。その後バブル景気が崩壊し、これらのロールス・ロイスが持ち主の手から離れたために、日本におけるロールス・ロイスやベントレーの中古車市場が大暴落し、その結果、これらの多くが1990年代中盤に海外の自動車バイヤーに買い取られていった。

ポルシェ

1986年に発表され、1987年に日本国内でも発売された限定車のポルシェ・959が、当時の正規輸入販売代理店のミツワ自動車からは数台しか輸入されない(総生産台数は当初200台とされていた)というその希少性から並行輸入車が高値で取引され、1億円近い価格をつけるものも存在した。なお、ランボルギーニ・カウンタックもその例である。

セゾン文化

バブル期は堤清二が率いる西武百貨店パルコを中核としたセゾングループが、セゾン文化と呼ばれる消費文化を牽引した。そして大人は西武で、若者はパルコで買い物をするのが一種のステイタスになっていた。西武とパルコのほかには、セゾン美術館、銀座セゾン劇場、パルコ劇場ロフト無印良品アール・ヴィヴァンなどがあり、単にモノを売るだけではなく、文化やイメージを売るというスタイルは「イメージ戦略」と呼ばれ、当時は斬新とされた。渋谷公園通りがオシャレで、この通りに近い西武やパルコは、当時の修学旅行生の観光地にもなっていた。

シブヤ西武(現・西武渋谷店)SEED館には伝説のシュップ『カプセル』を設置し、デビュー間もない川久保玲コム・デ・ギャルソン)、山本寛斎イッセイミヤケタケオキクチら、新進のデザイナーズブランドを展示した。糸井重里の「じぶん、新発見。」「不思議大好き。」「おいしい生活。」などのキャッチコピーや、ハドソン川内田裕也がスーツ姿で泳ぐバージョンなど、パルコの斬新なCMはしばしば話題になった。ただし、「カプセル」がオープンしたのは1970年、糸井重里のキャッチコピーはは1981〜1983年、内田裕也のCMは1985年で、いずれもバブル景気以前のことである。石岡瑛子長沢岳夫などを起用したインパクトのあるイメージと挑発的なコピーのポスター・CMの多くも1970年代〜1980年代前半のものである。美術館、劇場、出版事業等も1970年代から手がけており、堤清二はセゾングループの文化戦略のピークは1975年〜1982年頃だと語っている[14]。バブル期のセゾン文化はラディカルなものではなくなっていた。

2014年現在六本木ヒルズメトロハットがある場所には、CD・レコード専門店「WAVE」があり、コンテンポラリー・アートと音楽の店で、青山ブックセンターと並び称された「アール・ヴィヴァン」と共に若者や文化人に定評だった。また過剰なまでに消費が旺盛だったバブル期にあって、過剰な意味や装飾性を削ぎ落した「無印良品」は却って新鮮だった。元は同じグループだった西武鉄道グループプリンスホテルやスキーリゾート、そして「としまえん」のCMも脚光を浴びた。

一方、セゾンのライバルだった東急では東急ハンズが脚光を浴びた。

バブルを象徴する企業、事件など

事件

人物

その他

バブルを描いた娯楽作品など

当時制作され、時代の空気を反映している作品

映画
テレビドラマ
テレビの情報番組
漫画
  • 美味しんぼ雁屋哲原作、花咲アキラ作画)- 連載は現在も続いているが、バブル景気時代にはアニメ化も実現し、人気のピークであった。
  • りびんぐゲーム(漫画・星里もちる)- バブル景気の厳しい住宅事情を描いたコメディ漫画。雑誌連載中にバブルが崩壊したので、作者はストーリーを大幅に修正しなければならなくなった。
小説
  • 極東セレナーデ小林信彦) - 朝日新聞連載小説(1986年1月〜1987年1月)。平凡な20歳の女性(失業中)が、幸運を掴みショービジネスの仕事でニューヨークに進出する。当時は1ドルが150〜200円だったので[15]、好景気ではあっても海外旅行は今よりも高嶺の花であった。1992年に「ウーマンドリーム」としてドラマ化。
楽曲

バブル崩壊後の時代に製作されたもの

バブルを描いた書籍

脚注

  1. バブル時代を象徴するディスコは1989年11月オープンの芝浦ゴールドと、その頃の高級ディスコブームを牽引していたマハラジャだった。
  2. 「バブル崩壊と失われた10年」(奈良産業大学経済学部講師 山本英司)によると、地価のピークは1991年9月であり、同年5月の段階ではまだはっきりバブルが崩壊したとは言い切れない[1]
  3. 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、78頁。
  4. 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、148頁。
  5. 携帯電話は当時殆ど普及しておらず、まともな収入がない学生が手にすることは不可能であった。
  6. 田中秀臣 『日本経済復活が引き起こすAKB48の終焉』 主婦の友社、2013年、91頁。
  7. 7.0 7.1 アベノミクスに要注意! バブル時代の貧乏人の扱いがヒドすぎる!ダ・ヴィンチニュース 2013年5月17日
  8. 1986年に遺書を残して生徒が自殺した中野富士見中学いじめ自殺事件が起きた。葬式ごっこを行い教師3人も色紙に寄せ書きしていたことから、メディアが注目した最初のいじめ自殺事件になった。
  9. 『「まじめ」の崩壊―平成日本の若者たち』(サイマル出版会、1991年)テンプレート:要ページ番号
  10. 噂の真相」は「タカ派精神科医小田晋」(1997年7月号)において、「小学生時代はいじめられっ子で、青春時代は精神医学研究に明け暮れ、初体験は40過ぎまで叶わなかった。」などの小田氏の生育歴に触れた上で、「そういう小田氏は自分のことを何て診断するのだろうか。」「甲高い声でこういうだろう。『オタッキーの典型的なパターンです。』と。」として、そんな彼もオタクの枠に入るのではと疑問を呈した。テンプレート:要ページ番号
  11. TM NETWORK小室哲哉がプロデュースしたヤマハ・EOSシリーズなど。
  12. 日本経済新聞社編 『検証バブル 犯意なき過ち』 日本経済新聞社〈日経ビジネス人文庫〉、2001年、70頁。
  13. 『フェラーリを1000台売った男』榎本修・著 清水草一・編 ロコモーションパブリッシング刊
  14. 辻井喬、上野千鶴子『ポスト消費社会のゆくえ』文春新書、文藝春秋、2008年 ISBN 9784166606337
  15. プラザ合意と円高、バブル景気 財務省広報誌「ファイナンス」2011年10月

関連項目