バハードゥル・シャー2世

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テンプレート:基礎情報 君主

バハードゥル・シャー2世Bahadur Shah II, 1775年10月24日 - 1862年11月7日)は、北インドムガル帝国の第17代(最後の)君主(在位:1837年 - 1858年)。アクバル2世の息子。

生涯

イギリスの介入の本格化

1837年、バハードゥル・シャー2世は62歳の高齢で帝位を継承した[1]。だが、この頃すでにムガル王朝の権力はデリー周辺にしか及ばず、インド内部はそれ以外の各地で地方勢力や欧州列強が入り乱れる沈滞した社会となっていた[2]

特に、1757年プラッシーの戦いフランスからインド植民の権利を勝ち取ったイギリス東インド会社の勢力は、18世紀後半以降インド半島全域で大幅に拡大してきていた。

そんな情勢の中、イギリス東インド会社は1845年から1849年にかけてシク戦争を起こしてシク王国を滅ぼし、いよいよイギリスがインド全体の支配者になろうとしていた。

インド大反乱

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ファイル:"Capture of the King of Delhi by Captain Hodson".jpg
降伏するバハードゥル・シャー2世

こうした沈滞した社会の中、東インド会社の抱える傭兵(セポイ)の間では、奇妙な噂が流れた。イギリス軍では新たにエンフィールド銃が導入され、その銃が彼らにも配給されるというのである。

これだけならばどうということもないが、そうはいかなかった。そのエンフィールド銃の薬莢の紙袋には、インドの気候でも最低3年は乾ききらないといわれていた牛と豚の脂が濃厚に塗ってあったのである。当時の弾薬は薬莢を口で噛み切らなければつかえなかったので、もしこのような銃を用いるとしたら、セポイ達は戦闘時に宗教的禁忌を犯すことになる。

セポイ達は、牛を神聖な動物とするヒンドゥー教徒と、豚を不浄な動物とするイスラーム教徒が多数を占める集団であり、牛や豚の油に塗れた物を口に含むという行為は、到底容認できるものではなかった。

1857年5月10日に彼らはついに怒って反乱ののろしを上げ、インド大反乱という緊急事態に至った[3]

蜂起したセポイたちは、翌11日にデリー城を占拠して、有名無実となっていた82歳の老帝バハードゥル・シャー2世を反乱軍最高指導者に擁立し、ムガル帝国の統治復活を宣言した[4]。ただし、バハードゥル・シャー2世自身は最初からムガル帝国の再建を企図していたではなく、反乱軍にはあまり協力的では無かった。

セポイの蜂起は、一時はその勢力はインドの3分の2を巻き込む大きなものとなったが、セポイたちには統一目標も軍隊組織も無かったため、軍事組織のたて直しを行ったイギリス東インド会社によって反乱はほどなく鎮圧された。

また、9月デリーの攻防戦の最中、バハードゥル・シャー2世はデリーを脱出しイギリスに降伏している[5][6]

ビルマ追放とムガル帝国の滅亡

ファイル:Bahadur Shah Zafar.jpg
老帝バハードゥル・シャー2世

1858年、反乱を鎮圧したイギリスは、バハードゥル・シャー2世を退位させ、裁判にかけて有罪としミャンマーへ流刑に処した[7]

こうして、バーブルパーニーパットの戦いローディー朝を倒してムガル帝国を創始してから332年、またティムールが中央アジアで大帝国を築いてから488年が経っていたこの年、かくしてムガル帝国は滅亡した[8]

なお、白髭をたくわえ、流謫地へ送られる83歳の廃帝の姿が白黒写真にて残されている。それから4年後の1862年、バハードゥル・シャー2世は流謫地ヤンゴンで死去した[9][10]

老帝が追放先で詠んだ詩は、こんな詩だった[11]

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一方、イギリスはムガル帝国を滅亡させると東インド会社を解散させ、ヴィクトリア女王の直接統治によるインド帝国の成立を宣言し、1877年には正式にインド帝国が成立した。このような経緯から、インド国民という概念を誕生させたのは、皮肉にもイギリスの統治であったと解する説もみられる。

子女

ファイル:Prince Fakhr-ud Din Mirza, eldest son of Bahadur Shah II, 1856.jpg
ミールザー・ファトフ・アルムルク(皇帝の息子の一人)

バハードゥル・シャー2世には16人の息子と、31人あるいは32人の娘がいた。

脚注

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参考文献

  • フランシス・ロビンソン著、小名康之監修・月森左知訳『ムガル皇帝歴代誌 インド、イラン、中央アジアのイスラーム諸王国の興亡(1206 - 1925)』創元社、2009年

関連項目

外部リンク

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  1. Delhi 20
  2. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p267
  3. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p268
  4. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p268
  5. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p268
  6. Delhi 20
  7. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p269
  8. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p269
  9. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p269
  10. Delhi 20
  11. ロビンソン『ムガル皇帝歴代誌』、p269より引用