バグワン・シュリ・ラジニーシ

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ファイル:Osho (Bhagwan Shree Rajneesh) - Mug shot Multnomah County, Oregon, USA 1985.jpg
1985年にアメリカで逮捕された際に撮影されたラジニーシのマグショット

バグワン・シュリ・ラジニーシBhagwan Shree Rajneesh、 和尚/オショウ;Osho)、1931年12月11日 - 1990年1月19日)は、インドの宗教家、神秘思想家。

呼称の変遷

チャンドラ・モハン・ジャインとして、インドのクチワダに生まれる。1960年代にインド各地で講演するようになると、アチャリヤ・ラジニーシ(ラジニーシ)として知られるようになる。「ラジニーシ」は「月の王」を意味し、生来の名前である「チャンドラ」(月)に由来する。1970年代からは、バグワン・シュリ・ラジニーシとして知られる[1]。1988年、ラジニーシの名前を廃し、その後はたんにOshoとして知られることを望む。日本語では漢字による表記を望んだが、本項では一般名詞の「和尚」との混同を避けるために「ラジニーシ」と表記する。

概略

一般には宗教家または精神的指導者と見なされるが、従来的な通念をもって語ることは難しく、みずからは特定のカテゴリに分類されることを望まなかった。

数々の講話のなかで、を含め古今東西の宗教性の源流や注目すべき人物について語りながらも、因習的もしくは組織的な宗教についてはその弊害を強調し、それらを純粋な宗教性の追求と区別した。

初期においてはヒンディ語、のちには英語によって行われた講話の数々は、録音と録画によって記録されるとともに、多様な言語に翻訳され、膨大な数の本として出版された。法句経/般若心経/金剛般若経をはじめとする仏典、碧巌録などを出典とするの逸話、ティローパやアティーシャなどチベット仏教の比較的に知られざる源流を創始した人物の言葉、インドに伝わる112の瞑想的技法の精髄を詩文として伝える「ヴィギャン・バイラーヴ・タントラ」、ウパニシャッドパタンジャリのヨーガ・スートラ、老子荘子の言葉、スーフィーの物語や逸話、聖トーマスによるものを含む福音書ピタゴラスの金言集、ニーチェの『ツァラストラはかく語りき』などを取り上げた講話のシリーズのほか、弟子たちや報道陣からの質問に答えた講話のシリーズ、初期における弟子たちとの間での親密な対話を収めたシリーズなどがある。講話は多大なユーモアを伴い、たくさんのジョークが含まれている。

これらの講話によって多様なトピックを扱うが、その多面性ゆえに、その内容を簡単にまとめたり、固定した教義を引き出したりするのが難しい。便宜的な要約として、ラジニーシは、頭または心の機械的な動きや条件付けに縛られた「マインド」(mind)からの解放と意識の「目覚め」(awakening)を説き、「瞑想」(meditation)の道を示したというように言うこともできるが、これらの言葉が意味するところを理解するには体験もまた必要である。ラジニーシは同一のトピックを異なる観点や文脈をもって扱い、表面的に矛盾した見解を提示することも多く、聞き手の注意が求められる。

ラジニーシは、古来から伝わる瞑想的な技法について紹介および解説するとともに、現代人に向けて新しい瞑想の技法を編み出し、西洋的なセラピーのテクニックも導入した。ラジニーシの周辺には、彼を慕う人たちのコミューン的な状況が生まれ、その状況のなかで、各種の瞑想的な技法、心身統合的セラピー、音楽をはじめとする多彩な芸術活動が営まれた。ラジニーシの講話の多様性を反映して、ラジニーシの周辺で起きた精神的な追求の背景も多様であり、東洋に伝わる古来の技法に基づくもの、タオイズムタントラスーフィーなどの流れをくむもの、西洋的なセラピーやヒーリングのアプローチに瞑想的な性格を加えたものなどが含まれる。

このコミューン的なムーヴメントとそのなかで展開された多彩な活動の特徴として、それはラジニーシから内的に触発された多様な人々の創造性の爆発として生じた。コミューンの運営や出版に関わる領域では一定の組織体制を整えることが必要とされたが、これは精神的な権威とは見なされず、組織または団体としてのひとつにまとまった体制を備えることはなかった。ラジニーシの周辺で生じた多彩な活動は、こうした集合的なダイナミズムのなかで、発展あるいは衰退した。その中心となったのは、ラジニーシがみずから拠点とした場所としてのインドプネー(1974~1981および1986~1990)、およびアメリカのオレゴン州に建設されたラジニーシプーラム(1981~1985)だが、ラジニーシを慕う人たちの活動は世界的な広がりを見せた。

ラジニーシは、因習的な宗教や社会的な条件付けに対する批判と既存の価値観をくつがえす発言により、多くの人たちを惹きつけると同時に多くの反発を招いた。ラジニーシの周辺で生じたコミューン的な志向の強いムーヴメントも同様である。

ラジニーシは、ラマナ・マハルシ(ラマナ・マハリシ)、ラーマクリシュナジッドゥ・クリシュナムルティゲオルギイ・グルジエフとの比較において、みずからの姿勢について、次のように語った。

テンプレート:Quotation

略歴

1931年12月11日インド北部の小さな田舎町クチワダに生まれた。生後に作られたインド式占星術のチャートによると7歳で死ぬ可能性が強いということで、これを避けるため、両親はこの子を母方の祖父母のところに7歳になるまで預けた。この祖母はこの子の可能性を認め、しつけられ教育されるべき子供としてではなく、独立した尊敬されるべき個人として、この子の成長を見守った。後にラジニーシはこの祖母に対する感謝の気持を数多く語っている。

生来の反逆的な精神の持ち主として、4歳のころから祖父を含めた大人と議論をし、みずからの主張を通した。納得できないことを受け入れることはなかったと言われる。「どうして小さな子供の時からそんなに勇気があったのですか?」という質問に対して、のちにラジニーシは「イノセンス(無垢)であれば勇気はいらない」と答えている。

ラジニーシは、反逆的な少年時代と学生時代を送った後、大学で哲学を学ぶ。決定的な意識の目覚めもしくは悟り(enlightenment)に至ったのは1953年3月21日とされる。

ラジニーシはジャバルプール大学の哲学教授となり、1960年代にはインド各地で講演をし、宗教性に対する斬新な洞察とともに、インドの因習的伝統や組織宗教に対する批判が賛否両論をまきおこした。社会的な条件付けや心理的な抑圧の弊害に関する指摘や性に対するオープンな姿勢は、既存の価値観に対する脅威とも受け取られ、「セックス・グル」というような異名をもってマスコミに取り上げられるようにもなった。

1970年代より、ラジニーシは、弟子もしくは親密な関わり合いのなかで探求することを求める者たちを受け入れるようになり、一定の意思を表明し、こうして集まってきた者たちは、「サニヤシン」と呼ばれるようになった。インドで伝統的には世間を捨てた求道者を指して使われる言葉であるが、ラジニーシはこれを生からの離脱ではなく、生への全面的な関与に向けての姿勢として定義しなおし、伝統的な「サニヤシン」と区別するときには「ネオ・サニヤシン」という言葉を用いた。

ラジニーシは、古来から伝わる瞑想の技法の紹介にあたるとともに、もっぱら静的なものである伝統的な技法のほとんどは現代人がいきなりするには適さないものであるとし、呼吸への働きかけや身体の自由な動きや発声などを伴い、心理的な解放を志向した動的な技法(アクティブ・メディテーション)を編み出し、インド各地の「瞑想キャンプ」にてそれらを紹介した。

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ムンバイ時代の誕生祭を記録した動画

ムンバイでの一時期を経て、1974年、ラジニーシはプネーに拠点を定める。国外からの多くの訪問者を集め、ラジニーシの周辺にはコミューン的な状況が生まれた。ラジニーシはヒンディ語に加えて英語でも講話をするようになり、古今東西の宗教的または精神的な師や神秘家、あるいは注目すべき創始的な人物について語った。

当時広がりを見せていたヒューマン・ポテンシャル・ムーヴメントを背景に西洋からの訪問者のなかには、東洋の瞑想的な技法を追求するセラピストが多く、コミューンは、心身統合的な各種のセラピーと瞑想的技法、各種の芸術活動を、コミューンの日常的な運営にかかわる仕事とともに追求する多彩な活動の場となった。そのありさまは、伝統的なアシュラム(道場)、あるいは師と弟子との関係をめぐるインドの伝統的な通念の枠内には収まらず、世界的にも他に類例のないものであったため、ラジニーシのまわりに生まれたこのコミューン的な動きは、多くの関心を集め、多くの人々を惹きつけると同時にセンセーショナルな報道や反発を招いた。このころからラジニーシは日本でも知られるようになり、1976年に最初の邦訳講話録である『存在の詩』がめるくまーる社より出版される。尚、吉福伸逸はラジニーシの思想の広がりについては当初は日本のほうがアメリカなどより先行していたと指摘しており[2]、それがニューエイジ/トランスパーソナルムーブメントにおけるラジニーシの引用の少なさを説明している、と述べている[3](ちなみに吉福伸逸は、実際に会った印象から、鈴木俊隆はふつうの人だったという感想を持った一方で、クリシュナムルティとラジニーシについては、もうまったく自分の手の及ばないレベルであったと認識している[4])。

1981年、ラジニーシはアメリカに移り、彼を慕う人たちは、まもなくオレゴン州に巨大なコミューン、「ラジニーシプーラム」を建設し、ひとつの実験都市として多大な注目を集める。ラジニーシプーラムは正式に市として認められ、5千人の住民を擁する町としての自治体制とインフラを備えるに至った。この時期、ラジニーシは身体的に脆弱な状態にあったとも言われ、以前のように講話をすることはやめており、この巨大なコミューンの建設と運営は、ラジニーシを慕う人たちの自主的な労働と貢献によって進められたものであるが、その過程では、ラジニーシの意図とは無関係のところで、内部的な組織化や確執が生じることは避けがたかった。この時期のラジニーシについて、コミューンを訪れた作家の宮内勝典は、「インド時代とまるで別人で驚いた」と報告している[5]

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コミューン居住の信者を前にロールスロイスを運転するラジニーシ
ラジニーシプーラムの発展とともに、これを脅威と見なす人々との軋轢が生じ、センセーショナルな報道も目立つようになった。とくに幅広く報道されたのは、ラジニーシプーラムに置かれていた多数のロールスロイスであり、精神性とはあいいれない物質的な贅沢さの象徴として喧伝されたが、ラジニーシみずから語るところによれば、彼は貧しさを美徳と見なすような伝統的な宗教家ではなく、これは物質大国アメリカを挑発し、注目を集めるためのアピールとして意図されたものであったという。

ラジニーシプーラムでは、その運営に携わる一派がラジニーシの意図とは無関係に内部的な権力を志向するようになり、1985年、その主導者であるシーラ(Anand Sheela)らは、背任・横領・殺人未遂を犯した後にラジニーシプーラムから姿を消す。ラジニーシはこれを当局に知らせ、正式な調査を求めるが、これはラジニーシの逮捕、裁判、国外追放へとつながる。ものものしい逮捕劇に加え、ラジニーシはその拘留中に理由なくアメリカ各地の複数の拘置所へと次々に動かされるなど、ラジニーシの逮捕の背景には、いわば思想犯としてラジニーシを罰し、あたかも凶暴な集団であるように演出してラジニーシプーラムを崩壊に導くという当局側の意図があったのではないかと疑われる。

アメリカ政府との確執の結果、ラジニーシは、世界各国の政府および既成宗教から危険人物と見なされ、テロリスト同然の扱いを受けるようになる。これはほぼ全面的に、ラジニーシもしくは彼を慕う人々が何らかの危険な犯罪を犯したという理由ではなく、彼もしくは彼らの存在そのものが既成秩序にとって危険であるということを理由にした扱いであった。ラジニーシは、アメリカを去った後、新しい拠点を求めて、ネパール、ギリシア、ポルトガル、ウルグアイなどを訪れているが、この「ワールド・ツアー」の道中では、ただその「滞在」が危険であるという理由から、イギリス、スイス、スウェーデンをはじめとする多くの国の政府が入国を拒み、ギリシアでは武装した警官が乱入して強制退去を迫るという、あたかも凶暴な集団を相手にするかのような異常な手段がとられた。

1986年、インドに戻り、ムンバイにて、朝晩の講話を始める。数ヵ月後、以前のプネーのアシュラムに戻る。世界中からラジニーシを慕う人々がふたたびプネーを訪れるようになり、アシュラムはコミューンとしての活況を帯び、多彩な活動が展開される。ラジニーシは講話にてしばしば禅について語った。

ラジニーシの身体は危うい状態にあり、その症状からは、アメリカでの拘留中に作為的に仕組まれた疑いのある放射能被曝やタリウム毒による影響の可能性が示唆された。

1989年4月12日をもって講話を打ち切るが、9月からは、彼を慕う人たちの前に姿をあらわし、瞑想をともにするようになる。ラジニーシは1990年1月19日に死去した。

商標名”オショウ”の問題

かつてのラジニーシのコミューンは、現在ではそのありかたをかなり変え、「オショウ・メディテーション・リゾート」として知られている。

ラジニーシは最晩年に自らの呼称として「オショウ」の尊称を望んだが、これに由来するものとして、商標名またはそれに類するものとしての「オショウ」(Osho)の使用は、主としてラジニーシの死去した後に慣習化したものである。オショウ・コミューン(リゾート)のマネージメントの方針として、コミューン(リゾート)で提供される各種のセラピー等のアプローチには総じて「オショウ」の名前が冠されるようになり、ラジニーシの版権を管理するオショウ・インターナショナル・ファウンデーションはこれを各国で商標登録するに至ったが、一部の国では、その法的な有効性が問われている。

それらセラピー等のアプローチの多くは、ラジニーシに触発されて生じた上述のようなコミューン的な状況のなかで発展を遂げたものとして、それに由来する独自性を帯びているが、それらに冠された「オショウ」の名前は、必ずしも生前のラジニーシによる個人的な是認を意味しない。「オショウ」の名前の商標登録は、生前のラジニーシの周辺でのムーヴメントに関わった人たちの総意を必ずしも反映したものとは見なしがたく、ラジニーシの死後の版権の扱いをめぐっても一部から抗議の声があがり、訴訟が生じている。米国の訴訟では、オショウ・インターナショナル・ファウンデーションによる「オショウ」の商標登録は、2009年、第一審で無効と判断された。しかし、将来アメリカで認められる可能性もある。

アメリカでの逮捕と裁判

1981年5月にラジニーシはインドからアメリカに移った。ラジニーシは3月から講話を休んでおり、身体の治療がアメリカ行きの目的だったが、その背後には、ラジニーシの秘書としての実務的な権限をめぐる、ふたりの女性の間での競合があった。このアメリカ行きにより、実務的な権限は、マ・ヨガ・ラクシミという女性から、マ・アナンド・シーラという女性に移ることになる。

ラジニーシはそれから1985年6月まで講話をせず、その間、ごく少数の実務的な責任者と話をするだけであった。オレゴン州でのコミューン建設は、1981年の終りごろに始まった。326km²の広さの乾燥した小高い丘陵と谷間の広がる地域にコミューンは建設された。

コミューンの運営はシーラの責任のもとで進められ、ラジニーシはコミューンのゲストという扱いであった。のちに判明したところによると、シーラは「ラジニーシが言った」との説明をもって、ラジニーシが関知しないメッセージをコミューンのメンバーに伝えていた。

コミューンは成功しているように見えた。5000人が暮らす市(City)として認められ、自治的な仕組みを整え、小さな飛行場とバス路線を持ち、夏のセレブレーションには2万人の訪問者を迎え入れていた。

1984年10月、ラジニーシは、長い沈黙を破り、みずから声明を発するようになる。1985年7月には毎日の講話を再開し、さらにはシーラの主導権を否定するかたちで、みずから報道陣のインタビューに応えるようになる。

1985年9月、シーラは側近数名とともにコミューンから姿を消し、彼女らはコミューンの多額の資金をスイスの口座に動かしていたことなどが判明した。その数日後、ラジニーシはシーラとその一味を公開の場で糾弾し、当局による捜査を求めた。捜査の結果、シーラとその一味は、1984年以来、ラジニーシの担当医の暗殺未遂、サルモネラ菌による食中毒の意図的な誘発(ラジニーシによるバイオテロ)、ラジニーシの自室を含むコミューン内での盗聴なども犯していたことが明らかにされた。

押収された盗聴テープの解析などから、シーラとその一味の犯罪はラジニーシや他の多数のサニヤシンが関知していないところで犯されたことが確認されたが、この事件を契機として、ラジニーシムラムを危険視する見方が強まった。1985年10月、シーラとその一味の犯罪とは別件として、ラジニーシおよび数名のサニヤシンについて移民法違反などの比較的に軽微な罪を問う起訴状を連邦大陪審が準備したが、これは非公開のまま却下された。

しかしまもなく、州兵によるラジニーシプーラムの包囲が計画されているという情報が流れ、ラジニーシ側の弁護団は、ラジニーシの自主的な出頭によってコミューンでの惨事を避けるべく交渉を進めたが、これには正式な逮捕状の発行を待つ必要があった。この交渉を無視するかたちで、1985年10月28日、ラジニーシと数名のサニヤシンは、一時的にラジニーシプーラムを離れた際、ノースカロライナ州の空港で搭乗機を武装した警官に包囲され、逮捕状なしに逮捕された。

ものものしい逮捕劇と手足を鎖でつないでの連行は、主として移民法違反を問題とするその後の裁判の内容に見合ったものではなく、これには多分に当局側の演出的な狙いがあったと思われる。その後の10日間に、ラジニーシは、ノースカロライナ州からオクラホマ州へ、そしてポートランドへと、米国各地の留置所を転々と移送された。

裁判では、主として移民法に関わることとして、ラジニーシは初回のビザ申請の時点ですでに長期的な滞在を計画していたのではないか、国外からの弟子たちが偽装結婚によって在留権を得ることを奨励していたのではないのかといった点が争われた。1985年11月、申し立てのあった罪状のうちひとつだけでもそれをめぐる抗弁を放棄したならば5年間の国外追放を言い渡し、裁判を短期で終わらせることにするという検察側からの司法取引を受け、アメリカを退去した。長引く裁判によってラジニーシの健康もしくは生命が脅かされることを懸念した弁護側の判断によるものである。

邦訳された講話録

  • 『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』(めるくまーる、1977年、ISBN 4-8397-0001-X)
  • 『究極の旅―禅の十牛図を語る』(めるくまーる、1978年、ISBN 4-8397-0002-8)
  • 『瞑想―祝祭の芸術』(めるくまーる、1981年、ISBN 4-8397-0009-5)
  • 『マイウェイ―流れ行く白雲の道 質疑応答集〈1974.5.10~5.24〉』(和尚エンタープライズジャパン、1984年、ISBN 4-900612-10-3)
  • 『一休道歌 上』(めるくまーる、1987年、ISBN 4-8397-0036-2)
  • 『一休道歌 下』(めるくまーる、2000年、ISBN 4-8397-0037-0)
  • 『死・終わりなき生―オショー・ラジニーシ講話録』(講談社、1989年、ISBN 4-06-203569-3)
  • 『反逆のスピリット』(めるくまーる、1990年、ISBN 4-8397-0057-5)
  • 『狂人ノート』(和尚エンタープライズジャパン、1991年、SBN 4900612081)
  • 『虚空の舟 上』(和尚エンタープライズジャパン、1992年、ISBN 4-900612-02-2)
  • 『虚空の舟 下』(和尚エンタープライズジャパン、1992年、ISBN 4-900612-03-0)
  • 『般若心経』(めるくまーる、1993年、ISBN 4-8397-0007-9)
  • 『新瞑想法入門―和尚ラジニーシの瞑想法集大成』(瞑想社、1993年、ISBN 4-8397-0070-2)
  • 『空っぽの鏡・馬祖』(壮神社、1992年、ISBN 4-915906-01-9)
  • 『臨済録』(めるくまーる、1993年、ISBN 4-8397-0061-3)
  • 『生・愛・笑い』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0049-4)
  • 『ノーマインド―永遠の花々』(壮神社、1994年、ISBN 4-915906-11-6)
  • 『ボーディダルマ』(めるくまーる、1994年、ISBN 4-8397-0079-6)
  • 『信心銘』(禅文化研究所、1994年、ISBN 4-88182-073-7)
  • 『オレンジ・ブック』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0025-7)
  • 『TAO―老子の道〈上〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0081-8)
  • 『TAO―老子の道〈下〉』(めるくまーる、1995年、ISBN 4-8397-0082-6)
  • 『あなたが死ぬまでは』(和尚エンタープライズジャパン、1997年、ISBN 4-900612-23-5)
  • 『イーシャ・ウパニシャッド―存在の鼓動』(市民出版社、1998年、ISBN 4-88178-165-0)
  • 『知恵の種子』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-171-5)
  • 『無水無月』(市民出版社、1999年、ISBN 4-88178-167-7)
  • 『黄金の華の秘密』(めるくまーる、1999年、ISBN 4-8397-0099-0)
  • 『タントラの変容―サラハの王の歌』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-177-4)
  • 『隠された神秘』(市民出版社、2000年、ISBN 4-88178-174-X)

脚注

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参考文献

  • ヴァサント・ジョシ 『反逆のブッダ バグワン・シュリ・ラジニーシの軌跡』めるくまーる社、1984年
  • マ・プレム・シュンニョ『和尚と過ごしたダイアモンドの日々』和尚エンタープライズ・ジャパン、1994年
  • マックス・ブレッカー『Osho アメリカへの道-砂漠の実験都市ラジニーシプーラムの誕生と崩壊の真相』めるくまーる社、2005年
  • ヒュー・ミルン『ラジニーシ――堕ちた神』第三書館)1991年(再版)
    • ※ヒュー・ミルンの上掲書の内容をめぐっては、ストーリの捏造や事実の歪曲がはなはだしいという指摘が多く、イギリスの訴訟では名誉毀損による賠償命令が裁判所から出されている。ラジニーシはこの著作の背景には元弟子である著者の自己正当化の心理が働いていると述べた。2009年、ヒュー・ミルンは、ラジニーシプーラムでの事件の主犯であるシーラ(Sheela Silverman)とともに、「元秘書と元ボディガードが語るグル・バグワン」Guru - Bhagwan, His Secretary & His Bodyguard)と題された映画作品に出演、複雑な心情をもって過去を物語った。

関連項目

外部リンク

  • 初期は「ラジネーシ」と表記する場合もあった。例えば『精神世界マップ』JICC出版局 1980年
  • 吉福伸逸『トランスパーソナルとは何か』春秋社,1987年
  • 引用例としては、例えばピーター・ラッセル 『グローバル・ブレイン』工作舎,1994年
  • 吉福伸逸『意識の変容』春秋社,1991年
  • 宮内勝典『宇宙的ナンセンスの時代』教育社 (のち新潮文庫) 1986