バイロイト音楽祭

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バイロイト音楽祭のメイン会場となるバイロイト祝祭劇場
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バイロイト祝祭劇場(1882年)
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バイロイト祝祭劇場の内部

テンプレート:Portal テンプレート:Portal バイロイト音楽祭テンプレート:Lang-de-short)は、ドイツ連邦バイエルン州北部フランケン地方にある小都市バイロイトバイロイト祝祭劇場で毎年7月から8月にかけて行われる、ワーグナー歌劇楽劇を演目とする音楽祭である。別名リヒャルト・ワーグナー音楽祭Richard-Wagner-Festspiele)。

概要

バイロイト音楽祭は、ワーグナー自らが『ニーベルングの指環』を上演する為に創設した音楽祭であり、ここで上演されるのはワーグナーのオペラ作品に限られる。ただし『リエンツィ』までの初期の作品は習作と見なされ取り上げられる事は無く、上演されるのは『さまよえるオランダ人』(1842年完成)から『パルジファル』(1882年完成)までの7作品10演目である。音楽祭では、毎年夏の音楽界のオフシーズンにあたる7月下旬~8月にかけて、合計約30公演が行われている。バイロイトは、ワーグナー自ら創設した故事と長い伝統により、多くのオペラファンからは今なおワーグナー上演の総本山と見なされ、ワグネリアンの間ではこの音楽祭に行く事を『バイロイト詣』などと称されている。ただし、その人気ゆえに、数ある音楽祭の中でもチケットがかなり取りにくい部類に入る。

音楽祭の最高責任者である総監督は、代々ワーグナーの子孫およびその係累によってのみ受け継がれてきた。現在はリヒャルト・ワーグナーのひ孫にあたる、カタリーナ・ワーグナーエファ・ワーグナー・パスキエの二人が総監督を務めている。

これまでにリヒャルト・シュトラウスアルトゥーロ・トスカニーニヴィルヘルム・フルトヴェングラーハンス・クナッパーツブッシュカール・ベームヘルベルト・フォン・カラヤンピエール・ブーレーズカルロス・クライバーダニエル・バレンボイムジェームズ・レヴァインなど、その時代において高名な指揮者が招かれている。日本人では、2005年大植英次が『トリスタンとイゾルデ』を指揮したのが最初。

楽劇『ニーベルングの指環』4部作(『ラインの黄金』『ワルキューレ』『ジークフリート』『神々の黄昏』)が上演される年は他に3演目、合わせて7演目が上演される。通常、5年連続して『ニーベルングの指環』が上演され、1年おいて新演出の『指環』が上演されるというスケジュールだが、『指環』が上演されない年は『さまよえるオランダ人』『タンホイザー』『ローエングリン』『トリスタンとイゾルデ』『ニュルンベルクのマイスタージンガー』『パルジファル』の中から5演目が上演される。

ただし、例外的にかつて祝祭劇場の定礎式にリヒャルト・ワグナー自身の指揮によってベートーヴェン第九がこけら落としとして演奏された由来に基づき、ワーグナー以外の作品では唯一この交響曲が(主に節目の年に)特別に演奏される事がある。第二次大戦で音楽祭がしばらく中断した後、1951年に再開の時、最初の演奏もワグナーのこけら落としにならって、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮によるベートーヴェンの交響曲第9番で再開してる。(この時の演奏はライブ録音されて、レコード、CDとして発売されている)

歴史

第1回から第二次大戦終結まで

ワーグナーはかねてから、己の楽劇を、他人の手に触れさせず己の理想的な形で上演することを夢見て、劇場用の土地を捜し求めていた。しかしなかなか理想的な場所は見つからず、苦心して捜し出した土地も、政治的な理由などで追い出されたりした。やがて親しくしていたバイエルン国王ルートヴィヒ2世により、バイロイト辺境伯夫人ヴィルヘルミーネプロイセンフリードリヒ2世の姉)が建築した辺境伯劇場があった、バイロイトの地を提供された。だがそこにあった劇場にも満足できなかったワーグナーは、自ら劇場を建築することを決心する。ルートヴィヒ2世からの資金提供を受け、定礎式の収入なども建築費用に充てた。あくまで「仮住まい」として建築されたため、建築費用は抑えられた。余った費用は、別荘であるヴァンフリート館建築などに充てられた。しかし、それ以外の費用(上演用など)は全然足りなかったので、ルートヴィヒ2世に懇願してさらに借金をしている。

1876年、ルートヴィヒ2世やドイツ皇帝ヴィルヘルム1世ブラジル皇帝ペドロ2世などの国賓や、フランツ・リストアントン・ブルックナーピョートル・チャイコフスキーなど音楽家らの観衆を集め、ハンス・リヒター指揮『ニーベルングの指環』で第1回の音楽祭が開かれた。結果としては大赤字となり、舞台評もあまり芳しくなく、ワーグナー自身もひどいになるほどの落ち込みようだった。また、大赤字が尾を引いたせいで1882年まで音楽祭は開かれず、『指環』も1896年まで上演されなかった。第2回の1882年以降は休みの年を挟みながらなんとか開催されたが、第一次世界大戦と、戦後の凄まじい混乱の影響で、1915年から1923年までは開催されなかった。

再開後のエポックは1930年アルトゥーロ・トスカニーニ初出演であった。それまではドイツ人・ドイツ系指揮者しか指揮台に立たなかったが、リヒャルトの息子ジークフリート・ワーグナーとその妻ウィニフレッド・ウィリアムズの尽力で、初の外国人指揮者として招聘されたのであった。しかし、トスカニーニは忍び寄ってきたナチスの影響(ウィニフレッドは猛烈なヒトラー崇拝者だった)や、ヨーロッパの歌劇場特有の主導権争い(1930年にジークフリートが急死し、バイロイトでもこの手の騒動が起こっていた)に嫌気がさし、1931年限りでバイロイト出演を終えた。どさくさに紛れて、1931年初出演のヴィルヘルム・フルトヴェングラーも一時バイロイトを離れた。以降の音楽祭はナチスによる国家的援助を受け続け、第二次世界大戦中の1944年にも辛うじて(『マイスタージンガー』のみであったが)開催された。が、それが限界で、翌1945年にはバイロイトも連合軍機の空襲を受け、劇場は無事だったものの、ヴァンフリート館やリスト(バイロイトで亡くなった)の墓廟が破壊された。この年以降、音楽祭は1951年まで開催されなかった。

「バイロイトの第九」から現在まで

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祝祭劇場でのヴォルフガング・ワーグナー(2004年)

戦後、ヒトラー崇拝を止めなかったウィニフレッドを追放し、ヴィーラント・ワーグナーヴォルフガング・ワーグナーの兄弟が音楽祭を支えることとなり、バイロイトの民主化が一応なされた。1951年7月29日フルトヴェングラー指揮の「第九」(そのライヴ録音が名盤として名高い)で音楽祭は再開された。再開後初出演したのはクナッパーツブッシュ(クナ)とカラヤンであった。再開されたとはいえ、音楽祭はなお資金不足が深刻であった。苦肉の策でヴィーラントらは、最低限の簡素なセットに照明を巧みに当てて暗示的に舞台背景を表現するという、新機軸の舞台を考案する。舞台稽古初日、舞台を見回したクナは愕然とする事になる。いまだにセットが準備されていないのだと思い込み、「何だ、舞台がまだ空っぽじゃないか!」と怒鳴ったという。しかしこの資金不足の賜物であった「空っぽ」な舞台こそが、カール・ベーム新即物主義的な演奏とともに戦後のヨーロッパ・オペラ界を長らく席巻する事になる「新バイロイト様式」の始まりであった。

事情が事情であったが、指揮者のクナやカラヤンはこの演出に大いに不満であり、カラヤンは翌1952年限りでバイロイトを去ってしまった。クナもそうするつもりであったが、1953年の音楽祭に出演し、以降の出演も約束されていたクレメンス・クラウス1954年に急死してしまった。慌てたヴィーラントとヴォルフガングはクナに詫びを入れ、音楽祭に呼び戻した。以降、亡くなる前年の1964年までクナはバイロイトの音楽面での主柱となった。「新バイロイト様式」の舞台は、ヴィーラントとヴォルフガングが交互に演出しながら1973年まで続いた。1955年には初のベルギー人指揮者として、ドイツ物も巧みに指揮したアンドレ・クリュイタンスが初出演。また、同年ヨーゼフ・カイルベルトが指揮した『ニーベルングの指輪』は英デッカにより全曲録音され、これが、世界初のステレオ全曲録音となった。1957年にはヴォルフガング・サヴァリッシュが当時の最年少記録(34歳)を打ち立てた。1960年には初のアメリカ人指揮者ロリン・マゼールが、史上最年少記録の更新(30歳)を果たして初出演した。1962年には巨匠カール・ベームが、1966年にはブーレーズが、1974年にはカルロス・クライバーがそれぞれ初出演した。演出の方も、1966年にヴィーラントが亡くなってからは弟のヴォルフガングが総監督の職を引き継いだ。ヴィーラント亡き後、ヴィーラントの遺族とヴォルフガング一家が互いの取り巻きを交えての内紛に明け暮れ、そのスキャンダルも相まって、同族運営が大きな批判に晒されるようになったことから、1973年、リヒャルト・ワーグナー財団に運営が移管された。同財団の運営権はドイツ連邦政府、バイエルン州政府に最大の権限があり、次いでワーグナー家、バイロイト市、ワーグナー協会の順になっている。

1976年、ヴォルフガングは革新的な上演をもくろみ、音楽祭創立100周年の記念すべき『指環』の上演を、指揮者ピエール・ブーレーズと演出家パトリス・シェローのフランス人コンビに委ねた。シェローは気心知れた舞台担当や衣装担当を引き連れて、「ワーグナー上演の新しい一里塚」を打ち建てるつもりだったが、その斬新な読み替え演出は物議を醸した。しかし初年度はブーレーズのフォルテを忌避するフランス的音楽作りともども、激しいブーイングと批判中傷にさらされてしまい、警備のために警察まで出動するという未曾有のスキャンダルになった。だがシェローは年毎に演出へ微修正を施し、ブーレーズの指揮も見る見る熟練していったおかげもあり、最終年の1980年には非常に洗練された画期的舞台として、絶賛を浴びることとなった。

その後指揮者の顔ぶれは、レヴァインやジュゼッペ・シノーポリダニエル・バレンボイムなどの若手や初のロシア人指揮者ヴァルデマル・ネルソンなど新しい顔ぶれに様変わりした。 2005年には東洋人として初めて大植英次が初出演を果たす。しかし、オペラ経験に乏しい大植の指揮は観客の不興を買い、1年で契約を打ち切られることとなった。翌年から『トリスタン』の指揮はベテランのペーター・シュナイダーに委ねられる。大植の降板劇は特に人種差別的なものではなく、過去の幾人かの指揮者にも起こった事態でもある。ヴィーラントと決裂してバイロイトを去ったカラヤンや、マゼールの先例もあり、ショルティエッシェンバッハらも1年で降板している。バイロイトに限らず音楽祭での降板や変更は日常茶飯事であるものの、近年のバイロイトでは(かつてのブーレーズの頃とは違い)指揮者が激しい批判を浴びた場合、守るよりも手っ取り早く熟練した指揮者と交代させられるケースが増えてきている。

そのような中、2000年に『マイスタージンガー』を振ったクリスティアン・ティーレマンは久々の大型ワーグナー指揮者の登場として高い評価を獲得した。2006年からは『指環』の指揮を任され、音楽祭の音楽面の中核的存在となっている。

演出面では、シェロー演出の成功以降、ゲッツ・フリードリヒハリー・クプファーらが舞台に現代社会の政治状況を投影する手法で新風を吹き込んだ。だが以降はこれといった新機軸を確立するまでには至っておらず、逆に目新しい演出へいたずらに走る傾向を「商業的」として非難する向きもある。近年ではキース・ウォーナーユルゲン・フリムらが一定の評価を得た反面、クリストフ・シュリンゲンズィーフによる『パルジファル』のように否定一方の不評のままで終わる演出もある。

なお視覚面では、劇作家ハイナー・ミュラー演出の『トリスタンとイゾルデ』で、日本人デザイナー山本耀司が衣装を担当し、大きな話題になった。

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総監督のカタリーナ・ワーグナー(左)とエファ・ワーグナー(右)(2009年)

戦後、長年に渡って音楽祭を独裁的に切り盛りしてきたヴォルフガング・ワーグナーがついに引退を表明し、後任を巡ってその去就が注目されていたが、先のように2009年からは彼の二人の娘が総監督の座を引き継ぐ事になった。現在はカタリーナ・ワーグナーエファ・ワーグナーの二頭体制に移行した。

ただし、二人は姉妹とはいうもののヴォルフガングの前妻の娘と後妻の娘という腹違いの複雑な関係であり、しかも33歳差という年齢差ゆえに必ずしも親密な関係とは言いがたいようだ。当初2001年にヴォルフガングが引退を表明し、後継者として指名されたのは長年『影の支配者』と云われていた後妻のグドルンだったがワーグナー財団によって否決され、ヴォルフガングは引退を撤回したという経緯があった。そして後継者レースの中で経験が少なく、若さやルックスのような話題などメディアを意識した挑発行為が目立つカタリーナへの疑問や、グドルンによってバイロイトを前妻とともに追われたエファがヴォルフガングによって追放されたヴィーラントの娘ニーケ・ワーグナーと組んで、カタリーナと舌戦を繰り広げるという格好のスキャンダルをメディアに提供するなど、非常に険悪だったかつてのヴィーラントとヴォルフガング兄弟の骨肉の争いの再来ぶりに、先行きを危ぶむ声も多い。早速カタリーナは、2007年の新演出の『マイスタージンガー』の演出を自ら手掛け存在感をアピールした。しかし、その挑発的な舞台は一部の観客からブーイングを浴び、批評家やマスコミの間でも物議を醸した。

翌年の2008年からは、舞台中継のネットでの映像ストリーミング配信や会場外でのパブリックビューイングがカタリーナの肝入りにより始められた(2008年は『マイスタージンガー』、2009年は『トリスタンとイゾルデ』が生中継された)。これにより、会場外の観客や世界各国のインターネット・ワグネリアンたちにもこれまで以上に音楽祭の雰囲気を楽しむことが出来るようになり、代変わりしたバイロイトらしい新機軸として評判になった。

そしてヴォルフガングが死去してから初めての音楽祭となる2010年、ついにテレビでの生中継が実現する運びとなる(後述)。翌2011年の第100回目の開催では、ユダヤとの関係改善を目論むカタリーナの計らいでイスラエル室内管弦楽団がバイロイトを訪れ、市内のホールにてロベルト・パーテルノストロの指揮によりジークフリート牧歌を演奏した。この年の初日の演目は新演出の『タンホイザー』。メルケル独首相トリシェ欧州中央銀行(ECB)総裁夫妻ら、著名人が訪れた。

出演指揮者一覧

初出演順

19世紀

ハンス・リヒターヘルマン・レーヴィフランツ・フィッシャーフェリックス・モットルリヒャルト・シュトラウスジークフリート・ワーグナーアントン・ザイドル

20世紀・前半

リヒター、モットル、ジークフリート・ワーグナーカール・ムック、フランツ・ヴァイドラー、ミヒャエル・バリング、ヴィリバルト・ケーラー、フリッツ・ブッシュフランツ・フォン・ヘスリンカール・エルメンドルフアルトゥーロ・トスカニーニヴィルヘルム・フルトヴェングラーリヒャルト・シュトラウスハインツ・ティーチェンヴィクトル・デ・サバタリヒャルト・クラウスヘルマン・アーベントロート

20世紀・後半

ハンス・クナッパーツブッシュヘルベルト・フォン・カラヤンヨゼフ・カイルベルトオイゲン・ヨッフムクレメンス・クラウスアンドレ・クリュイタンスヴォルフガング・サヴァリッシュハインツ・ティーチェンエーリヒ・ラインスドルフロヴロ・フォン・マタチッチルドルフ・ケンペロリン・マゼールフェルディナント・ライトナーヨーゼフ・クリップスカール・ベームトーマス・シッパーズオトマール・スウィトナーロベルト・ヘーガーベリスラフ・クロヴチャールピエール・ブーレーズカール・メレシュクリストフ・フォン・ドホナーニアルベルト・エレーデホルスト・シュタインシルヴィオ・ヴァルヴィーゾハンス・ヴァーラットハインリヒ・ホルライザーカルロス・クライバーハンス・ツェンダーサー・コリン・デイヴィスデニス・ラッセル・デイヴィスエド・デ・ワールトヴァルデマール・ネルソンマーク・エルダーダニエル・バレンボイムペーター・シュナイダージェームズ・レヴァインサー・ゲオルク・ショルティジュゼッペ・シノーポリミヒャエル・シェーンヴァントドナルド・ラニクルズアントニオ・パッパーノクリストフ・エッシェンバッハクリスティアン・ティーレマン

21世紀

アダム・フィッシャーアンドルー・デイヴィスマルク・アルブレヒト大植英次セバスチャン・ヴァイグレクリストフ・ウルリッヒ・マイアーダニエレ・ガッティアンドリス・ネルソンスキリル・ペトレンコアクセル・コーバー

主な記録

  • 初の外国人指揮者(非ドイツ系指揮者) - アルトゥーロ・トスカニーニ
  • 初のフランス系指揮者 - アンドレ・クリュイタンス
  • 初のアメリカ人指揮者&史上最年少指揮者 - ロリン・マゼール
  • 初の東洋人指揮者 - 大植英次

音楽祭の雰囲気

劇場にはロビーがないため、幕間には、観客は自席へ座っているのでなければ、建物の外へ出ることになる。休憩は1時間で、開演前にはファンファーレ隊がバルコニーに立ち、その日に上演される楽劇から引用したモチーフを3回(15分前、10分前、5分前)演奏する。

観客は基本的に正装であることが望ましいとされ、男性はタキシード、女性はイブニングドレスが多数派を占めるが、これは強制の“ドレスコード”ではないので、タータン・チェックキルトをまとったスコットランド紳士やシックな和装の日本人女性を見かけることも珍しいことではない。開演前や休憩時の前庭は、各国のファッションを披露する場であるとも言える。特に初日はバイロイト音楽祭のファンであるアンゲラ・メルケル首相をはじめとした内外の政治家や芸術関係者など著名人を招待することが第1回から行われており、厳戒態勢の警備が敷かれる。

劇場内に冷房の設備がないので、晴天の日にはかなりの室温になることもしばしばである。したがって会場が暗くなると上着を脱いだり、最初から上着を着ない男性もいる。体調を崩す観客が珍しくないため、建物の中にはそうした人々のための休憩所があり、そこでは巨大なモニターで舞台の様子が中継されている。また、建物の外では救急車が待機している。劇場内に冷房装置はないが、近年送風装置が設置されて、休憩時には新鮮な空気を送り込んでいる。

座席に肘掛けはなく、背当てのみに薄いクッションはあるが、腰を下ろす部分はいまだに木製である。これは、座り心地の良い椅子で観客が眠ってしまうことを嫌ったワーグナー自身のアイデアである。こうした事情を知っている常連客のなかには、自らクッションを持ち込む者もいる。

出演者とスタッフ

バイロイト祝祭劇場は常設の歌劇場ではない。出演者(オペラ、管弦楽団、合唱団)やスタッフの多くはドイツを中心に世界中から集められた臨時編成である。しかし、合唱団員をヨーロッパ各地からオーディションによって集め、オーケストラのメンバーはドイツのプロ・オーケストラを中心に募っているゆえに個々の演奏家は非常に優秀である。ヴォルフガング時代は、ソロ歌手は主に総監督自ら世界中の歌劇場に情報網を広げ有望な歌手をピックアップしていたという。バイロイト音楽祭はワーグナー歌手の登竜門ともいわれている。ワーグナー家はドイツでは音楽界のみならず一般マスコミからも常に注目されている事もあり、非常に安い出演料にも拘らず出演したがる歌手は多い。かつては『三大テノール』の一人、プラシド・ドミンゴですら、格安のギャラにも甘んじて出演を快諾したという(ただしドミンゴは、ちょっとした義理で地方の小歌劇場に出演することも少なくなく、基本的にギャラの多寡だけで動くタイプではない)。

オーケストラ・ピット

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バイロイト祝祭劇場の内部(1870年代)
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バイロイト祝祭劇場の設計図

バイロイト祝祭劇場の大きな特徴の一つが、この劇場のオーケストラ・ピットにある。ピットは指揮台から階段状に舞台の下に下っていく構造になっており、客席からオーケストラはまったく見えない。これには、客席へオーケストラからの音が直接届かないため、歌手の言葉がよく聞こえるという利点と、譜面台のライトを隠して完全な暗闇を作れるという二つの利点がある。しかも通常の歌劇場とは違い客席からは指揮者すら見る事が出来ない。つまり指揮者の入場の拍手すらなく暗闇の中から音楽が鳴り始まる為、観客は視覚に惑わされる事無く音楽だけに集中する事になる。また歌手にオーケストラのメロディーをよく聞こえるようにする工夫として、第1ヴァイオリンが普通とは逆の、客席から見て右側に座る。

先述のように上演中の劇場内はかなりの高温になる場合があるため、オーケストラのメンバーはTシャツや短パンといったラフな姿が多く、ピット最下段にいる打楽器奏者にいたっては半裸に近い姿になることもある。指揮者も同様にくだけた服装のままの事が多いが、彼らは終演後舞台挨拶に出る為に急いで正装に着替えなければならない(ただし最近は指揮者のみが正装で挨拶に出ている)。

ヴァイオリニストの眞峯紀一郎は、その独特な形状と音響について、演奏家の立場から次のように説明している。 「祝祭歌劇場のピットでは、オーケストラの音がまず「反響板」にぶつかり(この反響板が、聴衆からオーケストラと指揮者を隠す“覆い”にもなっています)、そこに反射した音が舞台に届きます。ですから、歌手たちが舞台で聞く音は、我々が弾いたタイミングよりワンテンポ遅れているのです。そのためオーケストラは、舞台から聞こえてくる声に合わせるのではなく、指揮者の棒に対して忠実に演奏しなければなりません」[1]

海外公演

バイロイト音楽祭は、2度の海外公演を実施している。いずれも日本。

1度目は1967年フェスティバルホールで開催された大阪国際フェスティバルでの「バイロイト・ワーグナー・フェスティバル」である。オーケストラと合唱以外はすべてバイロイトのスタッフで占められていた(オーケストラ:NHK交響楽団、合唱:大阪国際フェスティバル合唱団)。

2度目は、1989年9月バイロイトでの公演が終わった後の、Bunkamuraでの開館公演である。この時はソリスト、コーラス&オーケストラ、スタッフも含めた、ほぼ完全に近い公演形態であった。同時に演奏会形式での公演も行われた。

公演の中継について

バイロイト音楽祭の第1チクルス(1回目の公演。音楽祭では各公演=チクルスが複数回行われる)は公演の放送の主管局であるバイエルン放送を含むドイツのARD加盟各局をはじめとしたヨーロッパの多くの国のラジオ局(多くはクラシック専門のFMラジオ局)で全演目が生中継されている。またARD加盟各局などが提供するインターネットラジオストリーミングにより全世界で生中継を聴くことも出来る。

日本でのラジオ放送としてはNHK-FM放送が本放送開始初期から毎年全演目を放送している。一時期『パルジファル』のみ復活祭の時期に放送した事があったが、バイロイト音楽祭125周年の2001年からはNHK-FMの年末特番編成(12月下旬、『ニーベルンクの指輪』がある場合は7日間、ない場合は5日間)での連夜放送に固定された。放送日は編成の都合により例年若干の変動がある。

放送は毎晩21時頃から開始され、一回の放送時間は2時間半~5時間と長いものになるため、通常午前1時から始まるラジオ深夜便ラジオ第1とのサイマル放送開始時刻に影響することがある。

2010年にはバイロイト音楽祭のテレビでの生中継が実現した。同年8月21日のクリスティアン・ティーレマン指揮『ニーベルンクの指輪』第1日『ワルキューレ』第3チクルスがNHK衛星ハイビジョンにて生中継された。これはバイロイト音楽祭におけるティーレマン指揮の最後の『ワルキューレ』公演であり、日本からは藤村実穂子がフリッカ役で出演した。 2011年8月14日にはBSプレミアムにてアンドリス・ネルソンズ指揮の『ローエングリン』が生中継された。2012年以降はプレミアムシアター枠での事前収録の放送となる。

脚注

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関連項目

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外部リンク

全てドイツ語

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  1. http://www.tokyo-harusai.com/news/news_741.html