ノーマン・シュワルツコフ

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テンプレート:Infobox 軍人 ハーバート・ノーマン・シュワルツコフ(Herbert Norman Schwarzkopf Jr., 1934年8月22日 - 2012年12月27日)は、アメリカ合衆国軍人陸軍大将

湾岸戦争時にはアメリカ中央軍司令官を務め、事実上、多国籍軍の総指揮を取った。IQは170といわれる。家系ドイツ語をはじめ、フランス語ペルシャ語に堪能である。

経歴

ニュージャージー州トレントン生まれ。父テンプレート:仮リンク准将イラン政府の軍事顧問を務めたこともあるアメリカ軍人で、1953年にクーデターでモサッデク政権を打倒する立役者の1人であり、1932年に発生したリンドバーグ愛児誘拐事件の捜査を管轄するニュージャ-ジー州警察長官を務めていた。母親はトーマス・ジェファーソンと姻戚関係にあった。1956年に厳しいエリート教育で知られるウェストポイント陸軍士官学校を卒業し、1964年南カリフォルニア大学より誘導ミサイルに関する論文で修士号を修得する。

ウェストポイント陸軍士官学校卒業後、空挺師団将校に任官しアメリカとドイツに駐留する。大学院修了後、ウェストポイントで教授職に就く。その後ベトナム戦争ベトナム共和国陸軍(南ベトナム陸軍)の空挺部隊の軍事顧問となり、2度の戦闘で負傷し、パープルハート章を与えられる。

1976年10月には准将に昇進し、1983年グレナダ侵攻作戦では地上軍部隊の指揮を執った。1988年に大将に昇進すると、シュワルツコフはアメリカ中央軍司令官に任命された。NATO軍参謀。

1990年の湾岸戦争開戦後、「砂漠の嵐」作戦を指揮し、クウェート側に集中していたイラク軍の裏をかき、イラク領内を攻撃するという「左フック」戦略により、わずか4日で地上戦を勝利に導く。戦時中シュワルツコフは、前線で指揮を取るだけでなく、プレス発表をも自ら行い、「嵐のノーマン」と呼ばれた。

湾岸戦争後、当時のブッシュ大統領より、陸軍元帥への昇進と陸軍参謀総長への就任を打診されるが、固辞して1991年8月に退役する。

1991年8月9日の退官式ではチェイニー国防長官が「危機にあっては、一人の人間が命運を左右する。司令官こそその人間であり我々に勝利をもたらした。」とスピーチした。

退役後は余生をフロリダ州タンパで過ごしていたが、2012年12月27日、同地で肺炎による合併症のために死去[1][2]テンプレート:没年齢[3]

栄典

参考文献

H・ノーマン・シュワルツコフ『シュワーツコフ回想録―少年時代・ヴェトナム最前線・湾岸戦争』新潮社、1994年

脚注

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テンプレート:Reflistテンプレート:Link GA
  1. WASHINGTON: Desert Storm commander Norman Schwarzkopf dies MiamiHerald 2012年(平成24年)12月28日閲覧
  2. ノーマン・シュワルツコフさん死去 湾岸戦争を指揮 朝日新聞 2012年(平成24年)12月28日閲覧
  3. テンプレート:Cite news