ニコシア

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かつての聖ソフィア大聖堂、現在はモスク

ニコシアテンプレート:Lang-en-short)は、キプロス共和国首都北キプロス・トルコ共和国[1]の政庁所在地でもある。地元では、ギリシャ語でレフコシア(Lefkosia, テンプレート:Lang-el)、トルコ語でレフコシャテンプレート:Lang-tr)と呼ばれている。

歴史

古代にはレドラ(Ledra、Ledrae)と呼ばれた都市国家であった。その王が紀元前672年アッシリア王国の王エサルハドンに朝貢した記録がある。プトレマイオス1世の息子レフコスによって街は再建されるも、さほど重要な都市ではなかった。10世紀には、レフコシャとして都となり、パフォスサラミスなど海岸線にある都市からの避難民で、この内陸都市の人口が増す。フランク人によって建国されたキプロス王国1489年ヴェネツィアの支配下に入り、次いで1571年にはオスマン帝国の版図となる。ニコシアという外名は、十字軍によって用いられたものである。

1570年のオスマン帝国の侵攻では20,000人の犠牲者を出した。19世紀は、1821年のオスマン帝国の弾圧、1835年コレラ1857年の大火などを経験した。1878年大英帝国がキプロスを傘下に収めると、その首都として成長した。

1960年の独立前には反イギリス闘争の過程で、血で血を洗う惨事が続いた。ギリシャ併合強硬派によるクーデターを支援するギリシャに対抗して1974年、トルコ系住民の保護を目的としたトルコ軍のキプロス出兵の結果、町の北側を支配するトルコ系の北キプロス・トルコ共和国と、南側を支配するギリシャ系のキプロス共和国(独立以来のギリシャ系主導のキプロス政府であり国際的に承認されたキプロス国家を代表する)に分断された形になっており、北キプロスもニコシアを首都としている。複数の国によって同じ都市が首都とされる唯一の例となっている。

グリーンライン(南北分断線)は国際連合によってひかれた緩衝地帯となっており、南側のキプロス共和国側からに限り北側への通行が可能であったが、2004年より南北間の通行については、検問所の増設ならびに自由化がなされた。南北キプロスに駐留する国連軍部隊の姿もしばしば目にする。

地理

キプロス島中北部にあり、付近に肥えたメッサオリア平野がある。小麦ブドウオリーブ、牛、羊などの農畜産物の集散加工がおこなわれ、また皮革、繊維タバコなどの工業もおこなわれる。

気候

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交通

市内交通はバスが主体で、鉄道は現在はない。

観光

  • 旧市街を囲んでいる城壁(en:Venetian walls of Nicosia)と、かつての主な城門であったファマグスタ門、パフォス門、キレニア門(en:Kyrenia Gate)(先の2つがギリシャ側地区、後のものがトルコ側地区)。城壁上にある自由の記念像やBayraktarモスク(ギリシャ側地区)。
  • 旧市街中心部のファネロメニ広場(en:Faneromeni Square)とファネロメニ教会(ギリシャ側地区)。
  • 大主教館(en:Archbishop's Palace)に併設されたビザンティン美術館、聖ヨハネ教会と民族博物館(ギリシャ側地区)。
  • ライキ・キドニア地区の古い町並みとレベンティス博物館(en:Leventio Museum)(ギリシャ側地区)。
  • ギリシャ側地区の繁華街リドラス通り(en:Ledra Street)と、リドラス通りの終端にあるトルコ側地区との間の検問所。
  • かつては聖ソフィア大聖堂であった、ゴシック建築のセリミエ・モスクen:Selimiye Mosque)(トルコ側地区)。
  • 隊商宿跡のビュユック・ハンen:Büyük Han)(トルコ側地区)。

教育

スポーツ

友好都市

脚注

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テンプレート:Sister

テンプレート:アジアの首都

テンプレート:欧州連合加盟国の首都
  1. ニコシア北部分を含むキプロス島の北部を実質支配し、トルコ共和国のみが承認。