DCブランド
DCブランド(ディーシーブランド)とは1980年代に日本国内で広く社会的なブームとなった、日本の衣服メーカーブランドの総称。DCとはデザイナーズ(Designer's) & キャラクターズ(Character's)の略である。
目次
概要
DCブランドとは、かつて、ファッション雑誌やデパートなどで使われていた用語。この用語がいつ頃から使われ始めたかは明らかではないが、1979年(昭和54年)の新聞に、渋谷PARCO PART2の地下1階メンズフロアの広告として、「デザイナーブランド(ただしアルファベットではDesigner's BrandのちにDesigners' Brand)」の名のもとに、松田光弘・菊池武夫・三宅一生・川久保玲・高橋幸宏(年齢順)の名およびメンズファッションへのコメントを載せたことが、この用語を社会認知させる最初のものであった。これらのデザイナーは、松田光弘・菊池武夫は既に独自の世界を確立し一定のファン層をもつものとして、三宅一生は芸術的側面からファッションにアプローチするものとして、川久保玲は新進の若手デザイナーとして別々であり、デザイナーブランドにカテゴライズされるような同じコンセプトを持っていたのではなかったが、この当時、午後の情報番組に数名のデザイナーが出演しファッションへのコメントをしたり、三宅一生とYMOの生演奏コラボレーションによるファッションショーが特番として組まれるなど、職業人デザイナーとして同じようにみられるようになった。その他「デザイナーブランド」とは別に、例えば、ニットおよびカットソーでトータルコーディネイトを提案した「メルローズ」のような特化的なブランドなども注目されたが、「キャラクターズブランド」とはよばれなかった。なお、当初は「デザイナーズ&キャラクターズブランド」という用語はなかった。結果的に、この用語は広告およびファッション界の中で、確立したジャンルを表す意味のものとして定着しなかった。実際、各ブランドに対して、雑誌編集部の関心により一面的な紹介がされたため、この用語には、各ブランドの特徴は見出せない。現在、ファッション業界の中で、自らをDCブランドとして位置付けする衣服メーカーはほとんどなく、DCブランドという総称は過去の分類用語となっている。なお、ファッション史などで解説される「デザイナーズブランド」と「キャラクターズブランド」の意味は下記のとおりで、講学上の意義にとどまる。2000年代でいうところの広義の意味でのドメスティックブランドに相当する。
デザイナーズブランド
デザイナーがブランドのイメージ作りから商品の企画、制作(多くの場合、春夏と秋冬2回のコレクション)または服の生産まで主導的に関わる。デザイナー自身は会社(大企業に属さない)の経営者または経営権を持つことはあるが、「クリスチャン・ディオール」や「グッチ」のように被用者の立場にあり該当しないものもある。その他、「ジョルジオ・アルマーニ」、「ドルチェ&ガッバーナ」などがある。
日本では、経営権を持つデザイナーには、「コム・デ・ギャルソン」の川久保玲や「アンダーカバー」の高橋盾が該当する。その他、「イッセイ・ミヤケ」の三宅一生や、かつての、「ヨウジ・ヤマモト」の山本耀司,「ケンゾー」の高田賢三などが該当する、高田賢三は現在、ケンゾーブランドの経営、デザインには関わっていない。
キャラクターズブランド
企業の経営戦略として、企業経営者がイメージ作りから商品製作まで主導的に行う。特定のイメージ(=キャラクター)を消費者に打ち出すことが企業戦略となる。基本的に日本の業界用語であり、海外ブランドがこう呼ばれることはほとんどない。
日本でのキャラクターズブランドにはかつての「PERSONS」があげられる。「PERSONS」は現在、「洋服の青山」(大型量販店)で販売されている。なお、プレイ・コム・デ・ギャルソンやクリスチャン・ディオールなどのライセンスを日本で展開する製品は、特定のキャラクターやロゴを用いたワンポイントアイテムが主力商品となりキャラクターブランド(キャラクターズではない)と呼ばれるが意味は異なる。
「DCブランドブーム」
1970年代末、1970年代前半に散見された既製服の画一化傾向が顕在化し、業界の停滞と商機減少に対して、1960年代まで日常的であった家庭での自作服および注文服による多様性と個性とを新たな方法によって復活させ、そこに商機の活路を見出すことが図られた。これには口コミ的なマスコミ媒体が用いられ、「an・an」や「non-no」,「MORE」、また、「DANSEN(男子専科)」などファッション専門誌によって積極的に数社のブランドが紹介されるという方法がとられた。この方法は功を奏し、これらのブランドが認知され始め、その後「週刊女性」や「POPEYE」など一般誌も特集として取り上げ全国の一般層に広まった。そして、ブームの当初は路面店や「PARCO」などに限られていた販売の場は、購買層からのニーズによって、伊勢丹の試行的な特設セールを経て、「丸井(OIOI)」やデパートでもテナントとして常設されて拡張していった。なお、これと同時にこれらDCブランドのショップの販売員が「ハウスマヌカン」という名称で取り上げられ、一時期、人気職種となったこともある。当時、ニコルなど中堅企業の新入社員向け会社説明会は中規模コンサートホールで行われほど希望者があふれ、DCブランド企業は注目されていた。
ブームは1980年頃から1987年頃までで、特にのMEN'S BIGIは、橋本治の青春大河小説『桃尻娘』やコント赤信号のネタの中でその名があげられていたり、また、1983年ごろの絶頂期には、渋谷や原宿また新宿などの繁華街で、そのロゴ入りのスタジアムジャンパーを着る若者が必ず見られるほどの流行であった。ブームのさなか、MEN'S BIGIデザイナーの菊池武夫が大手アパレルブランドのワールドに移籍した。 ブーム初期の特設セールでは、混雑によって会場内の大きなワゴンが通路からズレて売り場担当が壁に挟まれたり、最盛期のセールでは、これらのブランドの店舗が入っていた「丸井(OIOI)」や「PARCO」などのファッションビルやデパートの周辺に前日から行列ができるほどの盛況だった。また、ブランドの商品札を切手帳に収集するほどの執着ぶりを見せる者もいた。しかし、1986年頃から徐々に始まったバブル景気と、それを巻き起こした急激な円高を背景にした「ジョルジオ・アルマーニ」や「ラルフ・ローレン」などの高級輸入ブランドの国内市場への本格的進出や、ボディコンブームなどによって1980年代末に終焉した。
このブームは、当初はドメスティックブランドの1つとして注目され、その後、オリエンタリズムを標榜して世界に一定の活躍の場を持つにいたった「イッセイミヤケ」や「ヨウジヤマモト」、アンチモードを展開した「コム・デ・ギャルソン」などのインターナショナルブランドと、昭和30年代以降IVYブランドとしてショップ紙袋の効用で知名度アップを図るなど、その後の多くのブランドのロゴ戦略の手本となった「VAN」や、ヨーロピアンスタイルへの転向とリチャード・アヴェドン(Richard Avedon)など海外の著名なクリエイターを活用した広告戦略により、特にインターナショナルブランドの非製品的イメージ戦略の先駆けとなった「JUN」と同様な「BIGI」,「COMME CA DU MODE」など、コンセプトの異なる多くのブランドをグループ化したテナント販売戦略だった。現在は、ファッションビルやデパートでデザイナーズ&キャラクターズブランドという売り場エリア名は使われず、より高級でステータスな意味で海外メーカー各社のブランドと合わせてクリエイターズ、また、以前の床売りに対する箱売りな意味でのキャラクターズという総称が使われている。
このDCブランドの特徴についてオーバーシルエットがその代名詞のように言われることはあるが、当初は「イッセイミヤケ」や「コム・デ・ギャルソン」など一部のブランドのみで、大多数はブームの中~後半期であった。また、このブームが終わり次代のイタリアンファッションの流行った時期にも、オーバーシルエットは見られたため、DCブランド特有のスタイルではないことに注意する必要はある。例えば、オーバーシルエットの代表格とされる「ヨウジヤマモト」は、メンズブランド(Y's for men)の立ち上げやコラボレーションの先駆けとなっとA.A.R. Yohji Yamamoto(ダーバン-RENOWNとの共同)では、タイトなシルエットにしていた。
DCブランドブームの初期に、ジャケットやTシャツの袖・ボトムスの裾のロールアップ,シャツの裾をボトムスに入れない,シャツの重ね着,ジャケット上のベルト絞めなど着こなしの様式を破ったコーディネイトが流行ったが、オーバーシルエットの流行った時期には見られなくなった。なお、ジャケット上のベルト絞め以外、ブルゾンやシャツの袖のロールアップはボタン留めとして、他のものはそのまま、ファッションスタイルとして定着し、現在でも見られる。
DCブランドの特徴は、これらの担い手の多くが、当時20代から30代の若い世代であったこと、また、これらのファッションと同時期に活動していたニューミュージック系の歌手やYMOなどの音楽バンドとの同期的なセールス(コラボレーション)であったことである。その多くはマンションの一室に事務所を設立して活動を始めた若手起業家たちであった。また、ファッション雑誌に、中原理恵はBIGI(例:シングル『東京ららばい』のジャケット)、庄野真代はNICOLE(例:アルバム『マスカレード』のジャケット)、山本潤子はコム・デ・ギャルソン、竹内まりやはY's、秋川リサはBUZZ SHOP、を好きなブランドであるとの記事が載せられ、単一ブランドによるトータルアイテムの斬新さと芸能人の洗練された個性をジョイントし以前には見られないセールスを打ち出した。ちなみに、C-C-Bの『ないものねだりのI Want You』には、具体的に多くのブランド名がフレーズとしてあげられていた。なお、YMOの高橋幸宏は、兄の経営するBUZZ SHOPから自らがデザインを手がけたBricks monoという名のブランドを出し、YMOのステージ衣装などもショップ販売していた。なお、現在では、北野武がヨウジヤマモトの服を着ているが、DCブランドブーム当時はイッセイミヤケやFicce uomoの派手なセーターを着ていた。三宅一生は、当時、コメディアンとして名の通っていた北野タケシに着られるのを、その影響を考えて嫌がっていたようである。
DCブランドブームの前半期は、日本国内で独自の百花繚乱と言える多様なファッションが展開された点は特筆すべきことであった。これらDCブランドは、ブーム前のデザイナーブランド時の数社においては、海外有名ブランドに対抗し得る、若年層よりも高い年齢層を購入者として想定していたが、マスコミや百貨店等の販売戦略のために、VANやJUNと同じく若年層を購入者としたが、若年層全般には高額であったことが、一方で、その後の1990年代初期のバブル崩壊に至るイタリアンファッションブーム終焉までの間にその金銭感覚を緩慢に変化させ、また、他方で、文化屋雑貨店に始まる廉価品のブランド化(当時はチープシックとよばれていた)が現在のファストファッションのイメージ戦略のさきがけとなったことに留意しなれけばならない。なお、後半期は、モノトーンブームが、意識的・無意識的に若年層の支持を集め、さらに、チープシックの広がりの影響も加わって、前半期におけるような多様なファッション表現は後退した。なお、DCブランドとVANおよびJUNをブームという面から比較すれば、VANおよびJUNは、その名は直接の購買層でない小学校高学年にまで認知されていたのに対し、DCブランド名の認知度はそれに及ばなかったこと、特に、JUNは、リチャード・アヴェドン(Richard Avedon)による男装をイメージしたCM内容が成人向けにも関わらず、1970年代中頃の少年向け漫画週刊誌に紹介されるほどの反響があったのに対して、DCブランド各社にはそれに相当するものがなかったこと、また、VANではボタンダウンシャツ、JUNではバギートップ(ボトムス)がその代名詞的な商品として認知される傾向にあったのに対し、DCブランドにはそれがなかったことが揚げられる。これらの違いはDCブランドの多様性の特徴の別な面である。
なお、VANは、国内において商材の発掘も行っている。例えば、本来は広告や販売促進のための配布物である大きなロゴがプリントされたTシャツを販売して、その後のJUNやDCブランド各社の大きなロゴ入りアイテムの拡販の基礎をつくった。ただし、DCブランドブーム以前のデザイナーブランドは、1980年初期において、このようなアイテムを販売する従来のブランドと一線を画し、デザイン主体のアイテム展開を行い、その後のDCブランドブームを導いた。現在、大きなロゴ入りTシャツを販売するブランドは少なく、デザイン主体のブランドが大勢を占めるようになった。なお、時計のムーブメントやボタンなどに用いられるブランドロゴは、プロダクトオーナー・プロダクトユーザー向けの高級アイテム用であり、ベストクオリティーの意味合いが強く使い道が異なる。また、チーフなどのアクセサリーや海外ブランドのロゴ入りバッグなども同様である。
現在、DCブランドブームで知名度を上げたブランド各社は、1980年代初期まで持っていたそれぞれの独自性を、ワールドワイドな流行に合わせつつ、どのようにしてアイテムに生かすかにデザインの関心は移ってきている。近時は、景気動向と社内効率化により、他の業種にも広くみられるOEMやODMの活用をどの程度にまで及ぼす必要はあるのかなど困難な課題がある。また、来店者や顧客の求めるイメージに合うものを、店内にあるアイテムから落さず的確に探し出す等トータルコーディネイトの応用力を売場担当に教育したり、また、何より、顧客層、特に若年層の上昇志向をどのように引き出し、そして、アイテムにアサインていくかが、近時、台頭の著しいファストファッションへの対抗力としての課題である。ちなみに、ファストファッションでは、トータルコーディネイト等のサービスは、その価格設定上、困難であり、また、アイテムを契機とする上昇志向はサポートされていない。
「モノトーンブーム」
1980年頃、女性向けファッション雑誌「an・an」に、デザイナーズブランドの1ファンとして現役男子大学生が連載記事として紹介されたことが、DCブランドブームにおけるモノトーンブームと、大学生など非社会人をメインにしたファッションブームの切っ掛けとなった。紹介ページには、毎回、YMOによる「テクノブーム」で流行していた「テクノカット」のヘアスタイルに、レディースのキュロットを穿き、全身を黒と白のコーディネイトで登場し、「美容師さんだと思ったら、現役の文学部の学生さんでした」とその意外性を宣伝文句としてゲスト扱いをされていた。記事内容は、主に、従来のファッションスパイラルと距離を置きつつ独自のファッション哲学を持ち、暖色系を使わなかった「コム・デ・ギャルソン」および「ワイズ」の愛好者として川久保玲氏および山本耀司氏のファッションに対する考え方等のコメントを要望するものだった。なお、この当時、実際には、「ワイズ」は、モノトーンではなくアース・カラーを主体としていた。また、「コム・デ・ギャルソン」は一部のアイテムのみが取り上げられ、川久保玲氏自身は、自らのブランドを「大人のための服」として社会人を対象とすることを明確に していた。この特集的記事は、学生本人と編集者およびスタイリストの好みによるものが大きく、両ブランドのコンセプトをカバーするものではなかったことに注意を要する。ちなみに、これ以降、服飾を専攻しない文学部等の大学生・短大生などの非社会人が、ファッションに強い関心を持つ社会的風潮が生じ、いわゆる大学の、特に文科系のレジャーランド化の一因ともなった。
DCブランドブーム以前に注目されたドメスティックブランド
- VAN
- Kent
- SCENE
- JUN
- JUN(Classical Elegance)
- ROPE
- DOMON(PRODUCE OF ROPE)
- J&R
- GROOVY LIFE
DCブランドブームの切っ掛けとなったデザイナーブランド
- BIGI(TAKEO KIKUCHI)
- NICOLE(MITSUHIRO MATSUDA)
- JUNKO KOSHINO(JUNKO KOSHINO)
- ISSEY MIYAKE(ISSEY MIYAKE)
- COMME des GARCONS(REI KAWAKUBO)
- Y's(YOHJI YAMAMOTO)
DCブランドブーム時に注目されたドメスティックブランド
- 45r.p.m.
- Ingeborg
- BIGI
- MOGA
- MEN'S BIGI
- BARBICHE
- half moon
- MELROSE
- MEN'S MELROSE
- LABREA
- PINK HOUSE
- KARL HELMUT
- COMME CA DU MODE
- COMME CA DU MODE MEN
- Testu COMME CA DU MODE
- KT pure homme
- PEYTONPLACE
- PEYTONPLACE for men
- NICOLE
- boutique NICOLE
- madame NICOLE
- ZELDA
- monsieur NICOLE
- SEDUCTION de NICOLE
- NICOLE CLUB
- NICOLE CLUB for men
- NICOLE CLUB
- FICCE UOMO
- TAKEO KIKUCHI
- Maul Ruck
- BA-TSU
- MEN'S BA-TSU
- BUZZ SHOP
- Bricks
- Bricks Mono
- COZO
- GRASS MEN'S
- J-mago
- Jun Saito
- GRASS LADY'S
- PERSON'S
- PERSON'S FOR MEN
- FRANDLE
- MEN'S FRANDLE
- TENORAS
- K-FACTORY
- VIVA YOU
- ATELIER SAB
- ATELIER SAB FOR MEN
- POSH BOY
- PAZZO
- ABA-HOUSE
- MILK
- MILK BOY
- PASHU
- Shin Hosokawa
- HYSTERIC GLAMOUR
- LINEA FRESCA
- Masayuki Abo
- GALAMOND
- Scoop
- Scoopman
- TOKIO KUMAGAI
- CRAYON
- CRAYON HOMME
- Y's
- Y's for men
- Y-3
- LQ men
- Borther
- ZOUZOU
- Yin&Yang
- INCENSE
- arrston volaju
- Kansai Yamamoto
関連項目
出典
本文記載の新聞および雑誌の該当バックナンバー テンプレート:参照方法
参考文献
アクロス編集室編『STREET FASHION 1945-1995 若者スタイルの50年史』パルコ出版(1995)