ディスコ

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ディスコdisco[† 1])、または、ディスコテークdiscothèque[† 2])とは、音楽を流し、アルコールを含む飲料を提供し、客にダンスをさせる店舗である。

時には生バンドが演奏する場合もあるが、語源から言っても、ほとんどの場合はレコードを流す。選曲や曲紹介を行うDJの役割が重要である。

現在のクラブ音楽でディスコと言う場合は、かつてニューヨークに存在した伝説的なゲイ・ディスコパラダイス・ガレージギャラリーなどでプレイされていた様々なジャンルの音楽、またそれらのディスコでのDJの特異なスタイルを指し、現在でも様々なスタイルに変化しつつ進化を続けており、現在ガラージュと呼ばれる音楽の元となったものである。しかし現在の日本では風営法の影響からクラブという名称に変わり、一般的にディスコと言った場合、過去に存在していた飲食店の形態や風俗を指す。ディスコで頻繁にかけられていた個人・グループについては、ディスコアーティスト一覧を参照。

起源

ディスコの語源となったのはフランス語のdiscothèque(ディスコテック)であり、マルセイユの方言で「レコード置き場」の意味であった。形態としては第二次世界大戦中に生バンドの演奏が困難となったナイトクラブでレコードを代わりに掛けるようになったのが始まりであり、第二次大戦後にパリにラ・ディスコテークと呼ばれるクラブが出現したことにより定着した。

この生バンドの代わりにレコードを掛ける「ディスコ」(もしくはクラブという形式)が本格的な発展を遂げたのは1960年代以降のアメリカのニューヨークゲイ・シーンである。客層はゲイの黒人・ヒスパニック系などのマイノリティが主流であり、掛けられる音楽はファンクソウルミュージックや特にフィラデルフィア・ソウルと呼ばれる滑らかなリズム・アンド・ブルースや、それらをベースにした音楽であった。こうしたディスコはゲイ男性のための発展場としての役割とアンダーグランドな黒人音楽の発展の場としての二つの面を持っていた。こうしたディスコとして有名なものにパラダイス・ガレージセイント、フラミンゴ、ギャラリーなどが挙げられる。いずれもゲイの男性を対象としたメンバーズ・オンリー(女性や非メンバーはメンバーのゲストとして入場する事ができた)のディスコであり、ニューヨークでも特に進んだファッショナブルで流行に敏感なゲイの男性たちが集まっていて、流行の発信地でもあった。この中でもっとも有名であり、後世に影響を与えたのパラダイス・ガレージとそのメインDJラリー・レヴァンである。因みに1984年、パラダイス・ガレージと人気を二分したセイントでは、ゲイDJ・中村直が日本人として初めてレジデントとして迎えられた[1]

現在のクラブ音楽の基本的パターンである、DJがヒット曲ではなく自らの個性を発揮した選曲で独特の世界を作り上げて客を躍らせるというスタイル、二枚のレコードをミックスして継ぎ目なくレコードを演奏するスタイル、既にある曲をリミックスしてダンス向きにする手法、家で聞くためではなくクラブで掛けるためだけに製造される12インチのシングル盤といった形式などはこの時期に前記のラリー・レヴァンやエンジニアのウォルター・ギボンズ達によって確立された。やがてラリー・レヴァンフランソワ・ケヴォーキアンなどの有名ディスコDJ達はレコードを発掘するにとどまらず、自らプロデューサーとして、ダンスのためだけに特化したレコードを多数リリースしたり、リミックスを手がけるようになる。ダンスフロアとダンサーの心理やツボを知り尽くした彼らは、それまでの音楽プロデューサーが思いもよらなかったような様々なテクニックやスタイルを導入した。こうしたダンス・レコードをリリースしてディスコ文化を支えたレコードレーベルとしてはサルソウルカサブランカウエスト・エンドなどが挙げられる。

日本へと輸入されたディスコとはこのディスコ・ブームの時の白人大衆向けにコマーシャル化されたものであり、ゲイや黒人音楽の要素は非常に薄いものだった。このため日本ではディスコという言葉はかつての風俗としてのディスコと、現在のクラブ音楽の源流としてのディスコの二つの意味がある。

日本のディスコ

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1960年代-1970年代

日本では1960年代にオープンした渋谷の「クレイジースポット」や新宿の「ジ・アザー」が最初とする説がある。テンプレート:要出典範囲しかし一般的には1968年昭和43年)に赤坂歌舞伎町に出来た「ムゲン」、そして赤坂の「ビブロス」がディスコの走りといわれている。エレキバンドが出す大音響の演奏にあわせて踊るゴーゴークラブゴーゴー喫茶が流行しており、ゴーゴーガール目当てに通う者もいたが、それらの店とは一線を画して主に芸能人やモデル、富裕層や外人客(米兵を含め)を主な客層としたことで、一気に時代を先んじた存在に上りつめた。当時の「ムゲン」は、渋沢龍彦三島由紀夫三宅一生加賀まりこ沢田研二安井かずみ前野曜子グッチ裕三などの時代の先端を行くそうそうたるメンバーで賑わっていたという。この頃は生バンドとレコードの両立だったのが、1971年(昭和46年)六本木にオープンした「メビウス」が日本で最初にレコード演奏のみで営業した。これは生バンドの人件費を抑える為におこなった行為だったが、結果としては現在のディスコやクラブと同じくレコード演奏のみのスタイルとなっている。

1975年-1979年(第一次ディスコブーム)

第一次のディスコブームは、1975年昭和50年)から1976年(昭和51年)ごろにかけての時期であり、DDサウンドなどのディスコ・バンドが日本で商業的なヒットを出した。短い時期の空白があった後、1977年(昭和52年)から1979年(昭和54年)にかけて第二次のディスコブームが巻き起こった。それが1978年(昭和53年)、ジョン・トラボルタ主演の映画 「サタデー・ナイト・フィーバー」が日本公開されて大ヒットしたことによる、新宿渋谷上野池袋などの繁華街に多数のディスコが開業した現象である。当時のディスコは、「ディスコでフィバる(熱狂する、の意)」大勢の若者を生んだ。

また、1970年代終わりから1980年代初めにかけては、ディスコの定番となる曲が数多く生まれた時代でもある。Chicのような、本物のブラック・ミュージックも存在したが、多くはドナ・サマーBee Geesアラベスクジンギスカンなどは、本物とは似ても似つかない踊らせることだけが目的のサウンドだった。ヴィレッジ・ピープルのヒット曲「Y.M.C.A.」は、西城秀樹が若者向けポップス歌謡「YOUNG MAN (Y.M.C.A.)」としてカバーした。

さらに、YMOのもたらしたテクノブームが新宿のディスコにも影響を与え、一時期には、テクノカットと呼ばれる、YMO風にもみ上げを鋭角にカットした刈り上げに、JUNやROPEのモノトーンスーツ姿がフロアのダンサーの大半を占めたこともあった。また後には、マッドネススペシャルズなどのツートンスカも小流行した。原宿歩行者天国(ホコ天)でラジカセを囲み奇抜な衣装で踊る竹の子族が流行ったのもこの頃である。

この頃の東京を代表するディスコは、新宿の「ツバキハウス」、「ワンプラスワン」、上野の「ブラックシープ」、浅草の「シャトー」などであった。しかしながら1982年(昭和57年)に新宿ディスコ殺人事件刑事事件が発生したことから、深夜営業の禁止・未成年者の入店規制など取締りが強化され、新宿のディスコは衰退した。

1981年-1984年(サーファーディスコブーム)

この頃のディスコブームを象徴するのが六本木スクエアビルである。地下2階から10階までの12階中、1Fと4Fを除く全てのフロアがディスコになった。中でもNASAグループの「ネペンタ」「ギゼ」が人気店となる。六本木スクエアビル以外では、六本木「エリア」の前身である日拓系列の「マジック」、伝説的な存在となった六本木「キサナドゥ」「ナバーナ」、外人顧客が中心の老舗「レキシントンクイーン」などが、JJ誌やFine誌などの雑誌メディアに紹介された。新宿ディスコでは「ゼノン」でお馴染みのジョイパックグループの渋谷「ラ・スカーラ」が人気店となった。これらディスコに共通するのがサーファーブームに乗った「サーファーディスコ」である。そしてこの頃のディスコの主役は女子大生であった。田中康夫の「なんとなく、クリスタル」や深夜番組「オールナイトフジ」が大きな影響力を及ぼした時期であった。ファッションはスポーツ系のブランド服を基本としてレイヤードのヘアースタイルが特徴である。具体的には、女子高生を中心に流行したデイパックのキーホルダーアクセサリや、ファーラのパンツ、裏地アロハペインターパンツなどが例に挙げられる。六本木を震源地に広がったサーファーディスコブームであったが、当時の流行発信性の高かった六本木地域から、徐々に渋谷、新宿へと文化が移転するにあたり、大衆化が進み、そのパワーは次第に廃れていった。新宿の「PUKA PUKA」はそんなサーファーディスコの最後の砦であった。 サーファーディスコはカフェバーやプールバーの人気と共に終焉を迎えた。

1985年-1988年(第二次ディスコブーム=第一次ユーロブーム)

1980年代中期からハイエナジー(ユーロビート)ブームが起こり、全国的に人気となり第2次ディスコブームが発生する。 当時のディスコの曲は、よりポップス調を強める一方で、デッド・オア・アライヴリック・アストリーカイリー・ミノーグバナナラマに代表されるストック・エイトキン・ウォーターマン(PWLサウンド)によるプロデュース作品や、マイケル・フォーチュナティなどのイタリアからのユーロビートに代表されるような、コンピュータを用いた打ち込み系の音楽が多く使用され始めるようになる。日本の歌謡曲に似たメロディータッチに単調なリズムとビートを強調した超アップテンポなこれらの曲が日本人にマッチし大人気となり、これがいわゆる第一次ユーロビートブームで邦楽でも荻野目洋子BaBeWinkなどがユーロビートの曲をカバーし大ヒットする。そしてこのユーロビートから生まれた振り付けダンスがパラパラである。 このブームは全国的に波及し、大阪マハラジャ、福岡マリアクラブ、金沢サムライなど、都内では、比較的大規模な店や豪華な内装を売り物にしたディスコも展開され、NOVA21グループの麻布十番マハラジャ」、青山「キング&クイーン」、日拓系列の六本木「エリア」「シパンゴ」大和実業グループの日比谷「ラジオシティ」などが人気店になった。 しかし1988年昭和63年)、鳴り物入りで登場したばかりの六本木「トゥーリア」で、電動で上下する巨大照明装置(バリライト)が吹き抜けの天井から落下し、死者3名、負傷者14名を出すという六本木ディスコ照明落下事故が発生し、都内のディスコブームは衰退し出した。

この第2次ディスコブーム・第一次ユーロブームに乗って濫立された六本木界隈のディスコは1989年平成元年)から減少に転じる。次にディスコが息を吹き返すのは、ジュリアナ東京ブームが始まってからである。

1988年-1991年(ウォーターフロントブーム)

バブル期においては、東京では、それまで倉庫街流通関連施設が立地しているに過ぎなかった湾岸地区が「ウォーターフロント」と呼ばれ、六本木周辺の地価高騰から新たな再開発地区として、またプレー・スポットとして注目を集めるようになっていた。

同地区では、比較的大規模な施設の建設が可能だったこともあり、1988年(昭和63年)に開業した総合施設、MZA有明(江東区有明)に始まり、「オーバー2218」、「サイカ」、「ゴールド(1989年)」、「横浜ベイサイドクラブ(1987年)」などのナイトクラブやディスコが次々誕生した。

当時のウォーターフロント地区には、レストランバーなども多く立地し、「ウォーターフロント・ブーム」とも呼ばれる盛り上がりをみせた。これら飲食店や風俗店の多くは、一見普通の倉庫にしか見えない外見を持ちながら、中に入ると非現実世界を思わせるお洒落な空間であるというミスマッチを特徴としていた。また、自家用車タクシーでしか訪れることの出来ない不便な立地が、翻って差別化やステータスに繋がっていた。

音楽的には、ディスコ=ユーロビートだった音楽がハウスニュージャックスウィングブラックなど店のコンセプトに合わせてジャンルが枝分かれ始めたのがこの頃であった。

1991-1994年(ジュリアナ東京ブーム)

バブル経済期の1991年平成3年)5月、巨大ディスコ「ジュリアナ東京」が、東京・芝浦に開業した。アイルランドDJ・ジョン・ロビンソンが本格的なMCを行い、ユーロビートに代わって人気となったテクノサウンド(レイヴテクノ)が流された。 同ディスコが開業して程なく、ボディコンの女性たちが、羽根付き扇子を振り回し、高さ約130cmの巨大お立ち台で踊るといった現象がみられるようになった。「ボディコン」とは、体のラインを意識したボディ・コンシャス(body-conscious)の略称。主にノースリーブの丈の短いワンピースで体にフィットするものを指す。女性客のなかには、水着や下着、手作りしたボディコンを着用してセクシーさを争う者も現れた。また、女性たちが振り回していた扇子は「ジュリ扇(じゅりせん)」と呼ばれた。

水着・Tバック下着等過度の露出はジュリアナ東京は禁止していたものの、他店のお立ち台でTバック着用で狂喜乱舞する女性客らの姿は注目を集め、マスメディアでも盛んに報じられた光景がジュリアナ東京と思われた。[2]人気が衰えていた他のディスコもこのジュリアナ東京ブームに便乗、「マハラジャ祇園」(京都市)では、「スーパーお立ち台」が設置されたほか、東京の赤坂「ロンドクラブ」や、六本木「エリア」では「Tバックナイト」、「Oバックナイト」、「水着ナイト」、「日拓舞踊宴」などと称して、露出度の高い服装で来店する女性客を優待する企画を打ち出した。このようなブームのなか、荒木久美子(荒木師匠)、飯島愛、きしめんダンサーズといった、これらの流れを汲む女性タレントも登場した。

使われていた音楽は、「ジュリテク」や「ハイパーテクノ」と呼ばれたもので、ハードコアテクノをユーロビート風にアレンジしたサウンドであった。初めはT99「Anasthasia」、LAスタイル「James Brown is Dead」、2アンリミテッド「Twilight Zone」などに代表されるインスト的な楽曲が中心であったが、後にはエイベックスによる「Explosion」、「Can't Undo This!!」などの和製ジュリテクが生まれ、さらに、DJ・ジョン・ロビンソンは自ら、「Tokyo Go!」を歌った。また、エイベックスから発売されたCD、「Juliana's Tokyo」シリーズは驚異的なセールスを記録した。

このブームは東京から地方都市にも飛び火し、女性客による肌の露出競争が露骨になった名古屋や京都などでは、ついにニップレスや下着のみだけで踊る女性まで現れ、その光景はもはやストリップであると揶揄された。またジュリアナ東京でも、それまでダンスや雰囲気を楽しんでいた常連客らの足が遠のいていく一方、他店と混同された世論の批判や警察の指導などを受けて、名物だったお立ち台が撤去された。代わってクリスタルサイドステージが設置されたものの、以前のような集客と盛り上がりは得られず、1994年(平成6年)、遂に閉店となった。閉店日は感謝と称し入場料が無料となったこともあって全国から客が詰めかけた。数千人入る巨大ディスコにも入りきらない訪問客らによって田町駅から行列ができ、アンコールの声は閉店翌日の昼過ぎまで続いたという。

1992年-1998年(第二次ユーロブームとクラブの台頭)

ジュリアナ東京のレイヴテクノの影響により冬の時代を迎えていたユーロビートが復活した。1992年平成4年)-1994年(平成6年)まで第二次ユーロブームが神楽坂「ツインスター」や上野「ARX(アルクス)」そして六本木「エリア」中心に起こった。この頃のユーロビートを湾岸系ユーロと呼ぶこともある。これはNOVA21グループの浦安「エデンロック」船橋の「ロイヤルトン」がジュリアナ東京ブームの最中でも独自にユーロビートを押し続け、両店の店名に「TOKYO BAY(湾岸)」が冠していたことから湾岸系ユーロと呼ばれるようになった。(ただし、この2店舗の集客状況は千葉県であったためかなりシビアであった)この第二次ユーロブームの特徴は何と言っても「パラパラ」である。店ごとに振り付けが違ったり、サビの部分しかパラパラがなかった第一次ユーロブーム時とは違いパラパラビデオの普及により振り付けが統一され、曲の最初から最後まで複雑な振り付けが付いたのが特徴である。さらにエイベックスからリリースされたCD『スーパーユーロビート』シリーズが順調なセールスを出し、極めつきはエイベックス主催の東京ドームイベントで全国から集結したパラパラ愛好者でドームが満杯に成る程であった。この頃のファッションはルナマティーノや「ヴェルサーチ」が人気で、中でもこの「ルナマティーノ」を着たカリスマダンサー「ルナ軍団」が話題となる。

しかしジュリアナ東京が閉店した1994年(平成6年)、六本木に最後の大型ディスコと呼ばれた「ヴェルファーレ」がオープンするも、この頃から自分に合った音を求めるコアな常連客だけで営業が成り立つクラブが主流を占めるようになり、またドレスコードの高級スーツやボディコンから、カジュアルなファッションが人気となり、いわゆる「ディスコ」から「クラブ」に変化した時でもある。集客スタイルも豪華な店や黒服からDJオーガナイザーに変わり、1999年頃に全国的に大型店の閉店が相次ぎディスコ時代の終焉となる。

1999年-2003年(第三次ユーロブーム)

1999年(平成11年)頃から、日本のダンスシーンの主体はディスコからクラブ に移行したが、SMAPがバックダンサーにパラパラダンサーを起用しTVで露出が増えた事をきっかけに、1980年代から 1990年代前半のパラパラが一世代下のギャルの人気を集め、1999年(平成11年)から2003年(平成15年)にかけて第三次ユーロブーム(いわゆるパラパラブーム)が巻き起こった。 しかし、現在のトランスシーンの荒廃と同様、低年齢層・大衆層でのブームは両刃の剣であった。特に2000年以降、エイベックス社と「TwinStar」の極端な商業主義によりミッキーマウスマーチにまでパラパラが付く有様になると、1980年代から続けていたコア層の反発を招いた。更にスーパーフリー事件に於いて同サークルが当時流行していたパラパラをイベント集客に利用していたためにパラパラのイメージの悪化は決定的となり、ギャル層がパラパラからトランスに移動すると商業的にも壊滅的状況に陥り、最後に残った大箱「TwinStar」は2003年(平成15年)に閉店した。

なお、第三次ブームの時期に、台湾及び香港でも、日本のアニメ等と並んで日本のディスコ文化・ストリートダンスとしてパラパラが注目され流行するに至った。都市圏人口3000万の東京が発展途上国の都市と同様、自分より小規模な都市でしかないニューヨークやロンドンのダンス文化を一方的に受信して真似ていたのに対して、新しい音楽形態を海外に輸出できたのはエイベックス社の業績の功績面といえるが、アニメ等と異なり日本本国の第三次ユーロブームは腰砕けになってしまい、香港・台湾でも風化しつつある。

また、2000年(平成12年)以降、24時(東京都では条例により商業地の場合午前1時)閉店が義務づけられる「ディスコ」に代わって、風営法の網をくぐった飲食店でのDJイベント「クラブ」が流行した。 現在、ディスコは風営法により24時(東京は条例により午前1時)までの営業しか認められていない。このため、開店当時はアルコールだけでなく、食事も提供し、表向きは飲食店として届け出をする店舗も多い。4月に閉店するディスコやクラブが多いのは、人事の月でもあり新任の警察本部保安部長や署長の方針(ノルマ)で、違法営業を摘発される店舗が増えるからである。

一般的に、店舗面積が広く、オール・ジャンルの音楽をかけ、スーツにネクタイ着用を義務付ける(女性客は贔屓して甘くする)ドレス・コードのディスコに対して、カジュアルな服装でも入場可、音楽ジャンルが明確にされている箱をクラブと呼ぶ場合が多い。法的な相違点は、風適法3号営業のいわゆるディスコ登録店は原則24時(東京は条例により午前1時)の閉店が義務付けられているのに対し、クラブは飲食店登録(深夜酒類提供飲食店営業)のため終夜営業が可能な点である。本来24時閉店を義務づけられているディスコが、営業時間を延ばすために、飲食店で行われていたDJイベントを模したことがクラブの始まりである。日本の風営法によるものなので、海外ではディスコと特に区別していない。2010年代に入るともはや「ディスコ」という呼称は消滅[† 3] し、店舗形態に関わらず「クラブ」と呼ばれるのが一般的になっている。クラブで遊ぶことをクラビングともいう。

2005年以降(オールディーズライブハウスとの融合)

2005年(平成17年)以降、一部のディスコは、団塊の世代の憩いの場としてその方向性を模索してきたオールディーズライブハウスと融合し、懐古的な社会、文化潮流を興隆しつつある。それまで1950年代から1970年代のオールディーズを中心に生バンド演奏を行ってきた店が、主要な顧客層の老齢化から、新たなターゲット層を模索してきた中で、ダンスフロアのスペースを広げ、1980年代のファンクを生バンドで聴かせ、躍らせる店が出現してきている。チークタイムの伝統さえも守っている店舗もある。これらの主流は六本木、銀座、新宿、横浜等にあるKENTO'S(ケントス)である。 また2005年(平成17年)、東京六本木で最大級のディスコ「ヴェルファーレ」を経営するエイベックスは、「六本木のディスコ営業を明け方まで許可してほしい」と要望。「ロンドンやニューヨークのディスコは明け方まで営業している。近年、六本木地区のディスコは半減しているが、明け方まで営業すれば衰退に歯止めがかかる」と説明。いわゆる「ディスコ特区」を都に要望したが2006年(平成18年)2月、警察庁が「犯罪の温床になる可能性がある」として見送りになった。エイベックスは「ディスコは文化的なレジャー施設」とし、同年6月に再申請したが認められなかった。

その後「ヴェルファーレ」は12年の定期借地権満了で2007年(平成19年)1月1日を持って閉店された[3]

クラブとして現存するスペースとして、店舗面積が広い東京都新木場にあるSTUDIO COASTのクラブイベント、ageHaなどが有名。

一方、ディスコ文化の中心でもあった六本木では2006年(平成18年)-2008年(平成20年)に、Vanilla、Core、Yellowなど老舗の大型店舗が相次いで閉店し、ディスコ時代の完全終焉となった。

チークタイム

ディスコ、特に1970年代-1980年代初期の特徴の1つに、チークタイム(「チーク」はの意味)がある。店のボルテージが最高潮を迎え、全力を出し切って踊った後に設けられる、チークダンスの時間である。様々な色をきらめき放ち、空間を鮮やかな光線でみたしていたミラーボールが一転、メローな曲とともに、穏やかな光を投げ始めると、男女が頬を寄せ合って抱き合わんばかりに密着して体を前後に揺らし始める。実に粋で、素敵な計らいの文化だが、ディスコの衰退とともに、今では昔話になりつつある。

当時としては、つのだ☆ひろの「メリージェーン」が非常に有名であった。この曲は当初の発売枚数6000枚と、ヒットはしていないものの、ディスコのチークタイムで流されることで有名となった、珍しい楽曲である。

日本のゲイディスコ

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風営法違反による「クラブ」の問題

ディスコ営業は、「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律」において風俗娯楽施設であり、「『ナイトクラブその他設備を設けて客にダンスをさせ、かつ、客に飲食をさせる営業(第一号に該当する営業を除く。)』とする第二条第一項第三号・ナイトクラブ」に分類される。飲食店は深夜営業を認められているが、ダンスをさせると日の出から深夜12時までの営業(商業地は午前1時まで)しか認められていない。エイベックスは、六本木の「ディスコ特区」を2005年(平成17年)に都に要望したが、2006年(平成18年)2月、警察庁が「犯罪の温床になる可能性がある」として見送りになった。同年6月に再申請するも、認められず。

1984年(昭和59年)の風営法改正により「ディスコ」は深夜営業ができなくなる。その際に風営法を申請せずに小規模で営業する店が便宜上日本では「クラブ」と呼称されるようになる。アクセントは「ブ」で、高級クラブなどとはイントネーションで区別した。実態は脱法ディスコである。風営法を遵守している「ディスコ」と脱法の「クラブ」と2者が存在する。また、この2者、特に後者は客に違いがわかるように風営法に関して明示しているものではなく区別がつかないという問題がある。また風営法を遵守していても流行から「クラブ」と自称する店もある。

2010年(平成22年)より、警察による「クラブ」の風営法違反での営業方法自体の摘発が頻繁になった。

発端は大阪心斎橋のクラブ「AZURE」で起こった未成年による傷害致死事件であり、重大事件を期に見逃されてきた客や周辺地域の安全を確保しない上に風営法の許可を得ずに深夜まで客を踊らせることによって利益を得る業態自体を摘発するに至り大阪を中心に東京そして全国に一斉摘発の動きは広まった。同店は近隣から迷惑として警察への通報が事件前からあった。 (東京新聞は、他誌のモブ・ノリオによる大阪クラブ摘発事情を掲載したが、政治家、橋下徹らの取り締まりへの関与を、強くにじませる内容であった。しかし、掲載時橋下徹は大阪市長であり、また大阪府知事であっても府警を指示する実権はなく越権行為にあたる。また大阪府以外の摘発も全く説明がつかないため事実とは異なる。また、日本維新の会は大阪心斎橋のクラブ「TRIANGLE」で幾度か遊説活動を行なっており、その折に橋下徹はクラブ文化に賛同していた。)

2012年(平成24年)4月5日、大阪梅田のクラブ「NOON」が22時以前に客を踊らせたとして、21時50分に経営者など8人が逮捕される。(この店舗は23時半に店を閉める予定であった)いままでの深夜営業に対しての取締ではなく「営利目的で踊らせる」行為に対しての摘発と一部主張するものがいるが、実際は2010年(平成22年)より同容疑で摘発されている。(無許可営業なので、時間に関係なく取り締まられるのは、現行法下では当たり前である。逆に、無許可営業でも深夜零時まで黙認されたとしたら、それも警察の恣意的な取り締まりであり、騒音等に悩まされている近隣住民には受け入れられないことと言える。)。「営利目的で踊らせる」行為が摘発対象になる場合、一部の主張では、ライブハウスや飲食店で音楽に合わせて体を揺らす行為も、警察の一裁量で摘発の対象に出来るとされているが、業態の主目的が違法と知り、ディスコの存在を認識しておきながら無許可で「営利目的で踊らせる」ことで集客し営業をする悪質性とは前述した2つは大きく異る。

2012年(平成24年)5月29日、「NOON」の摘発後坂本龍一らの呼びかけで、風営法の規制から「ダンス」を削除するように求める署名を集め始める。主張によると「風営法ができた当時は、ダンスホールで売買春が行われていたとされたため『ダンス』が規制対象になった。現状にはそぐわない」としている。

この頃、大阪市下の風営法違反「クラブ」は閉店、ライブハウスに移行、風営法申請後再開、バーに移行など、ほぼ一掃される。

同年5月、東京都港区西麻布のクラブ「alife(エーライフ) 」の経営者と責任者を風営法違反で逮捕。

同年9月2日、東京都港区六本木のクラブ「フラワー」で六本木クラブ襲撃事件が起きる。殺人事件後、風営法違反で同店は摘発され閉店。

2013年(平成25年)、5月27日までに東京都港区六本木のクラブ「VANITY RESTAURANT TOKYO(ヴァニティ)」を風営法違反で摘発、経営者ら3人を現行犯逮捕。

同年7月20日、東京都港区六本木のクラブ「GPbar」「GASPANIC」を風営法違反で摘発、経営者とDJらを現行犯逮捕。

クラブとドラッグ

厚生労働省の回答が得られた307人への調査によるとうち75人クラブ来場者の約4人に1人の割合で危険ドラッグの使用経験があると話している。[4]

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

関連項目


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  1. 2014年1月20日gladxx「【訃報】DJの中村直さんが急逝」。
  2. http://archive.is/bETGd
  3. テンプレート:Cite web
  4. [http://www.yomiuri.co.jp/national/20140809-OYT1T50016.html 「クラブ」来場者4人に1人、危険ドラッグ経験読売新聞 2014年08月09日 11時39分]