ティコ・ブラーエ

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ティコの考案した太陽系
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Mauerquadrant (Tycho Brahe 1598)

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ティコ・ブラーエTycho Brahe da-Tycho Brahe.ogg [tˢyko ˈb̥ʁɑːɑ][ヘルプ/ファイル]</span>、1546年12月14日 - 1601年10月24日)は、デンマーク天文学者、占星術師。膨大な天体観測記録を残し、ケプラーの法則を生む基礎を作った。

生涯

デンマークの貴族の出身に生まれる。生まれたときの姓名はTyge Ottesen Brahe。1572年カシオペヤ座超新星SN 1572:通称「ティコの新星」)を発見し、肉眼で確認できなくなるまでの14ヶ月間観察を続け、記録を残した。その才能を認めたデンマーク王フレゼリク2世の支援を受け、ヴェン島にウラニボリ天文台、ステルネボリ天文台を建設し大量かつ精密な観測記録を残した。フレゼリク2世(1588年)が没すると、1596年には、ほとんどの観測装置と天体の記録を持ってプラハに移住した。1599年には、神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ2世の皇室付帝国数学官に迎えられ仕えた。自身の作業を補佐するために、何人かの数学者と天文学者を雇い、そのうちの一人が、ヨハネス・ケプラーだった。[1]

ティコ・ブラーエは、1577年に出現した彗星についても多くの観測結果を残し、その現象がよりも遠方で起きていることを証明した。この彗星の観測結果と、さきの新星の発見は、月より遠方ではいかなる変化も起きないと考える天動説を覆す重要な証拠ともなった。彼の残した膨大な天体の観測結果は、望遠鏡が使用される以前の肉眼による天体観測としては、最高の精度を誇るものであった。

ただし彼自身は、地動説が正しければ当然観測されるであろう年周視差が観測できなかった事から、地動説には否定的な立場をとり、「太陽は地球の周りを公転し、その太陽の周りを惑星が公転している」という「修正天動説」を提唱した。

ティコ・ブラーエは1601年、ある貴族の館で倒れた、それから11日後、ティコは死ぬ前に、ヨハネス・ケプラーを皇室数学者とするようにルドルフ2世に要請した。[2]

ティコ・ブラーエの最期については、晩餐会でトイレに立つのを我慢しすぎて膀胱破裂で死んだという話がよく知られている。だが、1990年代、遺髭を調べたところ水銀が大量に検出されたことから、水銀中毒が死因であるとの説が新たに唱えられている[3]。彼の最後の願いは、「歴史に名を残したい」であった。

本人は自身の観測記録をまとめる前に病死したが、弟子であり共同研究者でもあったヨハネス・ケプラーがその記録を解析し、ケプラーの法則を発見した。ブラーエは願い通り天文学史に名を残すことができた。 一説によれば、ブラーエはケプラーが自分より有名になることを恐れ、生前は膨大な観察記録を見せるのを拒んでいたという。また、死因が水銀中毒であることなどからもブラーエの死は何者かによる毒殺説が根強く残っている。

参考文献

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関連項目

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  1. 最新天文百科 宇宙・惑星・生命をつなぐサイエンス HORIZONS Exploring the Universe p58 ISBN978-4-621-08278-2
  2. 最新天文百科 宇宙・惑星・生命をつなぐサイエンス HORIZONS Exploring the Universe p58 ISBN978-4-621-08278-2
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