タイ・カッブ

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テンプレート:Infobox baseball player タイラス・レイモンド・カッブTyrus Raymond Cobb, 1886年12月18日 - 1961年7月17日)は、アメリカ合衆国ジョージア州ナロウズ出身のプロ野球選手外野手)。右投げ左打ち。アメリカ野球殿堂入りの第一号選手である。

1920年以前の本塁打が少なかった頃の代表的な選手で、「The Georgia Peach(ジョージア・ピーチ)」のニックネームで呼ばれた。1909年にはMLB史上唯一の打撃全タイトル制覇を達成。ピート・ローズに破られるまでメジャーリーグ歴代1位の4191本の安打を打ち(現在は歴代2位)、通算打率.366で首位打者に12度も輝くなど数々のMLB記録を保持している。選手の権利というものを最初に訴えた選手でもある一方、悪評も有名な人物であり、「最高の技術と最低の人格」「メジャーリーグ史上、最も偉大かつ最も嫌われた選手」とも評された。

経歴

生い立ち

1886年12月、ジョージア州ナロウズで3人兄弟の長男として生まれ、ロイストンで育つ。母親であるアマンダは12歳で結婚し、15歳でカッブを出産した。父親のウィリアム・カッブは教師(数学者)から校長、市長、上院議員、牧師を務めるなど厳格な教育者で、土地の名士として有名な人物であった。

カッブ家は名家として知られ、有名な人物を多数輩出していた(アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンとも姻戚関係があった)。そういった特別な目で見られることをひどく嫌ったカッブは、14歳頃から父親とは一切関係のないスポーツである野球に興味を持ち、熱中するようになった。父親は、息子がごろつきになるのではないかと心配し、野球をしていたカッブに、「偽りの道は地獄に通じる。だから、常に正義をふまえ、正直に謙虚にふるまいなさい」と口癖のように言い聞かせていた。カッブは、その言葉通り大きなトラブルもなく成長していった。

1904年、カッブは自らの実力を過剰に評価した手紙を新聞社に送り、マイナーリーグであるオーガスタ・ツーリスツと契約した。この際、野球をすることに反対していた父親を、夜中の3時までかけて説得した。契約し、家を出て行くとき、父親から「失敗して戻ってくるな。自分が信じた道なんだ、必ず成功しろ」と言われたという。

オーガスタでの2年目の1905年、18歳にしてマイナーリーグトップとなる打率.326を残し、頭角を現していたのだが、同年8月、寮生活中に父親が母親にライフルで銃撃されて死亡する事件が起こる(詳細は後述)。父親の葬儀を終えた10日後にデトロイト・タイガースのメジャーに昇格したカッブだが、そこでの恒例の新人歓迎(現在はいたずら程度のものであるが、当時は嫌がらせだったとも)でいきなり暴力沙汰の騒ぎを起こした。8月30日ニューヨーク・ヤンキース前身のハイランダーズ戦でMLBデビュー。同年の成績は打率.240で終わっている。

現役時代

デトロイト・タイガース

2年目の1906年は体調不良などで98試合に出場しただけだったが、後半戦からレギュラーに定着し、打率.316という好成績を残して飛躍のきっかけを掴んだ。翌1907年には打率.350で当時史上最年少で首位打者になる。更に、最多安打、打点王、盗塁王にもなり、3年目にしてブレークを果たす。また、この年は本塁打もリーグ2位である。同年以降、24年間の現役生活で打率.323を下回る事はなかった。翌1908年にも最多安打、打点王、首位打者の三冠を獲得した。カッブの登場により、それまで優勝とは縁のない目立たないチームだったタイガースは大きく飛躍した。

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1908年、契約書にサインするカッブ
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タイ・カッブのバッティング

1909年には3年連続の最多安打、打点王、首位打者に加え、本塁打王、盗塁王を獲得。現在に至るまで唯一の打撃全タイトル制覇(当時はタイトルでなかったものを含む)を達成。さらに得点数、塁打数、出塁率、長打率、OPSを含め合計10部門でリーグトップであり、得点以外はMLB全体でもトップとなっている。また、本塁打は全てランニング本塁打で、これは三冠王唯一の記録であり、さらに史上最年少での三冠王達成となった。7月15日には一日に2本のランニング本塁打を放っている。この年のカッブ以降、タイガースからは三冠王がでなかったが、2012年ミゲル・カブレラが103年ぶりの三冠王となった。

1910年、最終日を残して首位打者を確信していたカッブは、眼の病気などもあり.385の打率を維持するために残り試合を欠場した。しかし打率.376だったナップ・ラジョイセントルイス・ブラウンズとのダブルヘッダーに8安打し打率.384とカッブを猛追した。ところがそのうちの7本は三塁へのバント安打で、これは相手チームのジャック・オコナー監督がカッブを強く嫌っていたのと、当時人気の高かったラジョイにタイトルを勝ち取らせるために、三塁手へ後ろに下がってプレーするよう命じた結果のものだった。この露骨な八百長行為から、シーズン後にオコナーは監督を解雇され、コーチと共に永久追放されている。1981年、スポーティング・ニューズ社によりこの年の集計に誤りが指摘され、509打数196安打ではなく、506打数194安打であるとし、カッブの打率は.383に下方修正された。しかし、コミッショナー特別委員会は八百長の影響などもあってか首位打者の変更を認めず、MLB公式記録でも509打数196安打のままである。

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ナップ・ラジョイ(右)との写真

1911年、146試合の出場で当時のMLB新記録となる248安打し、自己最高の打率.420を達成。4回目の打点王も獲得し、この年は投票数満票でのMVP選出となった。また、近代野球以降でのMLB新記録となる40試合連続安打を記録。自己最多の127打点を残し、本塁打もリーグ2位だった。

1912年5月15日、ニューヨーク・ヒルトップパークでのハイランダース(現在のニューヨーク・ヤンキース)戦でカッブは観客(事故で片腕を失い、もう片方の手も不自由な人)の野次に逆上してスタンドに殴りこみ、出場停止処分となった。殴られた観客によると、「その男を蹴るんじゃない!両手がないんだぞ!」と止められても「両足が無くたって知るもんか!」と怒鳴り返したという[1]。5月18日、この処分を不服としたチームメートはフィラデルフィアでの試合をボイコット。チームは臨時で大学生らのアマチュア選手を集め、コーチ2人と合わせて試合を行うも24対2で大敗した。結局カッブ自身がチームメートを説得して事態は収拾し、カッブは50ドルの罰金と10日間の出場停止の処分となった。 また、この乱闘事件以降、カッブに対する観客の暴言がほとんどなくなり、カッブはプレーに集中できるようになったというテンプレート:要出典。シーズンでは1911年に続いて近代野球では史上初、19世紀を含めてもジェシー・バーケット以来となる2年連続打率4割(.409)を達成した。

1914年シーズンは肋骨を骨折し、その後右親指も骨折。怪我に苦しみながらも.368で首位打者に輝いている(公式ではカッブが首位打者であるが、出場不足で首位打者ではないとする指摘もある)。

1915年、9年連続の首位打者に輝き、近代野球以降、当時新記録となる96盗塁を記録。1916年には.371の高打率を記録するも、トリス・スピーカーの.386には届かなかった。しかし、翌1917年から1919年まで3年連続首位打者を獲得し、通算12度に及んだ。1917年には35試合連続安打も記録している。1918年には初登板を果たし、合計2試合に登板。防御率は4.50だった。また、同年10月に徴兵されてフランスショーモンに拠点を置く陸軍化学作戦部隊に所属して約67日間務めた後に名誉除隊で帰国した。

1920年、外野守備時に打球を追い、チームメイトと激突してしまい右膝靱帯を断裂する大怪我を負った。様々な治療法を用いながら無理に復帰するも、更に右膝を痛めてしまい、現役続行は不可能と思われた。しかし、奇跡的に怪我を治し.368の打率を残した。 1921年、選手兼任でタイガースの監督に就任した。同年のワシントン・セネタースとの一戦で審判の判定に激高し、試合後に観客と息子のジュニアが見守る中で審判のビリー・エバンスと取っ組み合いの大喧嘩を起こした。この年、.389の高打率を残しながらも首位打者は獲得できなかったが、自身初の二桁本塁打を記録している。

1922年には.401の高打率を残すが、首位打者は.420を記録したジョージ・シスラーに譲った。しかし3回目の打率4割は近代野球以降で史上初の記録となり、19世紀を含めてもエド・デラハンティ以来の記録となった。1925年には目を悪くしたことで手術を行ったが、現役にこだわり、.378の高打率を残す。首位打者獲得はならなかったものの、自身2度目の2桁本塁打を記録した。同年にはシスラーと野手同士の登板を演じ[2]、無失点に抑え初セーブを上げている。

1926年、39歳となったカッブは.339を記録するもシーズン終了後、八百長疑惑(後述)などでもあってタイガースを退団し、フィラデルフィア・アスレチックスに移籍。3902安打、2087得点、664二塁打、286三塁打といった記録は、現在でもタイガースの球団記録として残っている。監督としての成績は6年で試合数933、勝利479、敗戦444で勝率.519であり、最高順位は2位。この間にチャーリー・ゲーリンジャーハリー・ハイルマンといった選手を育成している。

八百長疑惑

カッブはこの時のことを「野球界に住み古してその表裏を知り尽くしているはずの私であったが、これほどの暗黒面と対決したのは初めてである」と自伝に記している。1926年10月、フランク・ナヴィン球団社長がカッブの監督解任を発表した。すると1ヶ月後にクリーブランド・インディアンスのトリス・スピーカーも監督を解任された。後日、1919年のタイガース対インディアンスのゲームで八百長があったとして、タイガース元投手ダッチ・レナード、アメリカンリーグ初代会長バン・ジョンソン、タイガース球団社長フランク・ナヴィン、MLB初代コミッショナーであるケネソー・マウンテン・ランディスの4名が、トリス・スピーカー、タイ・カッブ、投手のスモーキー・ジョー・ウッドの3名を告発した。これにより、突然の解任劇は八百長に対する処分であることが判明したが、告発の内容が不自然であったことから、政治家や記者達、さらには審判や解説者、他チームの選手までが一丸となって告発者である4名を非難し始めた。

レナードはかつてはボストン・レッドソックスで防御率0.96、19勝5敗を記録するなど優秀な投手であったが、近年は不振が続いていた。そのためカッブはレナードを1925年にタイガースの名簿からはずし、ウェーバーに出した。しかし、インディアンスの監督であるスピーカーがそのウェーバーを断ったため、レナードは小リーグに属するカリフォルニアのチームにトレードされた。この理由によってレナードはスピーカーとカッブの二人をひどく憎み、必ず仕返しをしてやると公言していた。

また、ジョンソンに送ったレナードの手紙には、「球場のスタンドの下でスピーカーとカッブが、シーズン終盤、1919年9月25日のゲームでタイガースに勝ちを譲ることを取り決め、数百ドルの賭けをしたことを目撃した」と書かれていた。ところが問題のゲームでは9対5でタイガースの勝ちとなっているものの、この日のスピーカーは第一打席でホームラン寸前の大飛球、第二打席でヒット、第三打席で三塁打で一打点をあげ、第四打席でも三塁打を放ち自らホームを踏んでおり、一方のカッブはフライアウト一つ、ゴロアウト三つ、ヒットはわずか一本であった。加えて共謀者とされるウッドは出場もしていなかった[3]。打者二人で八百長を成立させるのも考えづらく、さらにカッブ、スピーカーともに相当な財産家であり、そもそも八百長の動機がないといったことから、告発の不自然さが目立つことになり、告発者4人に対する非難が高まっていった。

コミッショナーのランディスはレナードに対し、シカゴに来て二人と直接対決し告発するように命じたが、レナードはこれを断り自宅に閉じこもり続けた。ランディスはすぐにでも事件を解決すると公表していたにもかかわらず、その兆しが見えないまま、数週間が過ぎていった。カッブはその後、ランディスに対し、早く白黒をつけるようにと迫り、この八百長事件を信じてカッブの監督を解任したと公表していたナヴィンに対しては言うべき言葉さえもないと語っている。

翌年1927年1月8日、バン・ジョンソンは体調不良を理由に辞表を提出した。1月27日、ランディスは「いわゆるカップ、スピーカー事件について。この両名は申し立てられた八百長試合に関し、過去および現在を通じてなんら有罪と認めるべき節はない」と告発を撤回することを発表した。また、フィラデルフィア・ディリー・ニュースは第一面の社説で、「ランディスとジョンソンが八百長のない球界をアピールするために、両ベテラン選手をみせしめにしようとした」という旨の文章を掲載している。

この訴訟の後、騒動を機会に真剣に引退を考えていたカッブは、現場復帰を求める要請にもなかなか良い返事をしなかったが、同年2月、コニー・マックの説得により、アスレチックスへの移籍を決意し、翌日に発表した。カッブはタイガース時代、おびただしい数の脅迫状を送られるなどの経験から、アスレチックスファンには歓迎されないのでは、と不安を感じていた。ところがファンたちはひどく喜び、椅子から立ち上がって熱狂的な拍手を送った。これを受けたカッブは、「私はこの一年に面目をかけて働くつもりです。もう十年若ければと残念に思いますが、体力的に得るかぎりのことをして、マック氏を助ける決意でおります」と挨拶を返した[4]

フィラデルフィア・アスレチックス

兼任監督から一選手へと戻ったカッブは、マックに「自分の監督経験などは問題ではありません。あなたの命令が私の判断と食い違っていたとしても、私は決してあなたに異議を唱えたりしません。あなたは監督なのですから」と話し、一選手としてプレーすることを伝えた[5]。移籍一年目の1927年は打率.357の好成績を残し、史上初の通算4000本安打を達成した。

1928年も.323の打率を記録するが、年々落ち始めた打率と、目の病気のため、「ヒットを打てるうちに引退したい」と41歳で現役引退を決断した。デビューから途切れることのなかった本塁打と盗塁は、24年連続となり、通算4189安打は後にピート・ローズによって更新されるまで、最多通算安打となった。また、引退時には通算安打をはじめとする90ものMLB記録を保持していた。2013年現在も通算打率.366、通算本盗55(54個説もある)など、30を超える記録が健在である。同年シーズンオフには日本に渡り、当時の大毎野球団に加わる形で神宮球場甲子園球場で計12試合を行った。日本に滞在していた際のカッブの様子は、たいへん紳士的であったという。

引退後

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最初に野球殿堂入りを果たした5人、中央がカッブ

引退後はジョー・ディマジオがヤンキースと契約する時に一役買ったエピソードや、困窮した元メジャーリーガー(ミッキー・カクレーンなど)のために自分の財産の一部を寄付し続けた話もあるなど、若手選手を積極的にバックアップしていた。1936年には野球殿堂の殿堂入り選手第一号の栄誉に輝き、「今日は最高の日だ。私はここにいることを光栄に思う」と発言している。得票数はベーブ・ルースホーナス・ワグナークリスティ・マシューソンウォルター・ジョンソンらを上回る最多得票である。また、カッブの現役時代に背番号がなかったために番号は指定されていないものの、デトロイト・タイガースでは永久欠番と同様の扱いになっている。

しかし、その一方で私生活は荒んだもので、護身用に拳銃を携帯し、体の痛みを紛らすためにバーボンを一日に一瓶空ける有様だったという。結婚生活も全て最後は破局し、子供や肉親のために莫大な財産を残し、故郷に豪華なを建てたが、全員から縁を切られ、墓に入ることも拒否されたと言われている。

1961年7月、のため74歳で死去。葬儀に訪れた球界関係者は、たったの3人、もしくは4人だけだったという(事前に家族が断っていたためだったと後に判明している[6])。

タイ・カッブが生んだ野球とプレースタイル

テンプレート:スポーツ選手の出典明記

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野球殿堂のタイ・カッブのブース

握りの部分(グリップエンド)が根元に近づくにつれて円錐状に太くなっているバットを発案し、愛用していた。日本では、そのようなバットを「タイ・カッブ(タイカップ)型バット」と呼ぶことがある。また、1907年からはネクストバッターズサークルで黒いバットを使い始めた。実際に試合で使ったのはシーズンの最初だけだったが、カッブはそのバットを「魔法のバット」と呼んでおり、同年の結婚式でも持ち出している。

右手と左手を離してバットを握り[7]、そのまま構えるという独特のフォームをとり、体調に合わせてバットの重さを変えていた。両手をあけてバットを握るため、「ボールに十分『力』が乗らないのでは」との声もあったが、カッブは「単に『力』のみが強い打球を生み出すものではない」と言い、そのグリップで剛速球をたたいて、奥深く守っていた右翼手のグローブをはじきとばした上に彼の指を折ってしまったこともあったという。

基本的にシングルヒット狙いで、安打では特にバント安打を好んだという。柵越えを狙わないため、通算本塁打の半分近くがランニング本塁打であり、本塁打王を獲得したときも全てがランニング本塁打である。一方でベーブ・ルースの豪打ばかりもてはやすマスコミ陣に対し、「君たちに見せたいものがある」と宣言して、柵越えの本塁打を3本、翌日の試合でも本塁打を2本、フェンス直撃の二塁打を2本放っている。また、その話を聞いた警官が、自動車のスピード違反でカッブを捕まえた際、「今日の試合でホームランを2本打てば違反はなかった事にしよう」と言ったところ、カッブは本当に本塁打を2本打ち、約束どおりに違反は取り消しになったという逸話もある。

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滑り込むカッブ

走塁時、二塁に滑り込む際にタッチを避けるためになるべくベースから遠ざかって爪先をひっかけることでセーフ判定を狙う「フック・スライディング」を考案・実践した。さらに二塁へ進む際、ダブルプレーをとられないよう相手内野手に足を向けて滑り込んでゆく「ゲッツー崩し」を積極的にしかけたのもカッブが初めてである。また、鉛をつめて普通の3倍も重くした靴を履いて走塁の訓練をしていたという。球場にあるカッブの銅像は滑り込んでいる姿やスライディングの姿が非常に多い[6]

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1924年8月16日、カッブの三塁打

相手投手の投球フォームやクセの観察によって弱点を見つけたり、攻撃時や守備時に外野へ吹く風を計算に入れるという戦術を最初に取り入れた。足に関してはそれほど速くはなかったと自身も語っており、クセを見つける戦術によって盗塁数を稼いでいた。1イニングで二盗、三盗、本盗を決めるサイクル・スチールを通算4度、1年に2度達成している。また、安打を放った際、走りながら外野手が利き腕でボールを取っているかを確認し、ボールから眼を離した隙に進塁することでジャッグルを誘うなど、高度な走塁技術を確立していた。

弁護士を介した文書を使った契約を史上始めて導入した選手である。当時の球界はオーナーの意向によって契約が決まることがほとんどで、選手が不利益を被ることが多かった。カップはそれを打破し、選手の権利という概念を主張した最初の選手である。そのためか、オーナー達からは良く思われておらず、この対立から前述の八百長疑惑に発展したとする意見もある。

外野の三つのポジション以外にもファースト、セカンド、サード、さらには投手として3試合に登板している。

逸話

テンプレート:スポーツ選手の出典明記

野球選手として

粗暴な態度と歯に衣着せぬ口の悪さで有名であり、そのため周囲からは忌み嫌われ、疎まれる存在だった[8]。カッブと長い間チームメートだったデイビー・ジョーンズも、「彼(カッブ)がスランプに陥ったときは、話しかける事なんかできなかった。(ただでさえひどい態度が)悪魔よりもひどくなっていたから」と語っている。また、引退後も粗暴な性格は改まらなかった。元捕手だったニッグ・クラークと昔話をしている時、「現にあんたにタッチもしていないのにあんたがアウトになったことは、すくなくとも五回はあるな」とクラークが打ち明けると、怒ったカッブはクラークに殴りかかり、3人がかりでやっと止められたという[9]人種差別主義者としても知られ、あるエキシビジョン・ツアーでは黒人の血が流れているという噂のあったベーブ・ルースとの同室を嫌がった[10]

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1909年、カッブのスライディング

1909年のシーズン終盤、1.5ゲーム差で首位を争うフィラデルフィア・アスレチックスとの試合で、三塁へ盗塁を試みて故意にスパイクで三塁手フランク・ベイカーの腕を狙ったり、試合後半に安打を打つと迷わず二塁を目指してスライディングで二塁手エディ・コリンズに足払いをかけて転倒させたりするなど、強い闘争心と勝つためには手段を選ばない姿勢を持っていた。このことからいくつかのエピソードを残しており、有名なものに「ダッグアウトで相手にわざと見えるようにしてスパイクの歯を研いでいた」というものがある。これは「進塁先の守備を萎縮させるためにスパイクを研いで見せ、ラフプレーを印象付ける」というものであり、足の速くなかったカッブが盗塁を稼げたのはこの行為によるもの、と悪評が全米に知れ渡り「最高の技術と最悪の人格の持ち主」と形容されるようになってしまう。一方、カッブはこれについて「記者が意図的に悪評をでっちあげたもの」と自伝で完全否定している。

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1920年、ベーブ・ルースとカッブ(右)

プレイスタイル、顔つき、体型、言動などベーブ・ルースと対極を成す人物として挙げられることが多い。特にルースは毎日のように好物のビールステーキを平らげ豪遊していたのに対し、カッブは徹底した体調管理を行いお金の使い方に関してもケチであったなど、生活の面でも正反対であったという。ルースが「神様」と敬われているのとは対照的に、カッブは映画や書籍などの様々なメディアで「ヒール(悪役)」として描かれている[6]

メジャーリーグの本塁打至上主義には批判的な見解を示し、「野球本来の面白さは、走塁や単打の応酬にある」と自らの回顧録で語っているように「スモール・ベースボール」の重要性を説いている。ベーブ・ルースの本塁打狙いの打撃スタイルも当初は否定していたが、ルースが.376という高打率を記録したことから、次第にルースを認める評価をするようになる。ルースが打率.393で投票数満票でのMVPを獲得した時には「本塁打狙いの打撃をやめれば、4割を超えるのは間違いない」と述べ、バッティングの考え方の違いを指摘しつつ高い評価を示した。 回顧録で記した『自身の選ぶオールスターチーム』のメンバーにもルースを選び、ルースの死にも「また来世で会えることを願う」という一節を記している。

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左からジョージ・シスラー、ベーブ・ルース、タイ・カッブ1924年

来日した際、中等野球に飛び入り参加して盗塁を試み、当時強肩で鳴らしていた嘉義農林の捕手に刺された。カッブはセカンドから捕手のもとへ駆け寄り、笑顔で「やるな坊主」と言い、捕手の頭を撫でたという。人種差別的な発言で有名だったカッブだが、来日した際には野球を熱心に指導していた。

カッブは野球というスポーツについて、「50cm先に転がしたヒットと、50m先に飛ばしたヒット。この両方が同じヒット一本として扱われることは、野球のルールの最も素晴らしい部分である」と述べている。また、自身のエゴを前面に出すプレースタイルについては、「栄光を望むのは罪ではない」と語っている。選手としての自身については「私は天才ではない」と明言しており、デビューしてすぐに3割を打つような他の選手に対しては天才的だと思ったが、自分はそうではなく、一番の選手になるためにずっと弛まぬ努力をしたと語っている[11]。打撃に関しては「バッターの資質で最も大切なのは、打席で怖がらないことだ。当てられることを恐れなければ、いいバッターになれる」と述べている[12]

足は速くないが相手投手の癖を盗む技術が素晴らしかった理由の一つとして、練習方法に理由があると述べている。カッブの盗塁の秘密の練習場は台所で、妻が台所で料理をしているときに、横から背中を叩いて反対側に逃げる。妻が後ろを向くまでに反対側にいけたら盗塁成功で、妻のほうが先に振り向いたら盗塁失敗。これを繰り返しているうちに、盗塁のスタートのタイミングがうまくなったと語っている。妻からは「あなたは邪魔だから台所に来ないで」と何度も怒られたという[13]

1942年、MLBの監督や引退した名選手らを対象に、「史上最高の選手は誰か」というアンケートが行われた。最終的に回収できた票数は102票で、得票は14人の選手に分かれることとなった。結果は半数を大きく越える60票をカップがひとりで集め、1位を獲得した。投票に参加してカップに1票を投じたエディ・コリンズは、理由を書く欄に「明白である。」とだけ記入していたという[14]

引退後に出場した試合で、捕手に「久し振りにバットを握るので、すっぽ抜けてしまうかもしれない。後ろにさがっていてもらえるか?」と頼み、捕手が後ろにさがると、カッブはすかさずセーフティーバントを試み、見事に成功させた。これを見ていた周りの選手は、「引退してもタイ・カッブという選手はあくまで勝利のみにこだわっている」と感心していたという。

最後のユニフォーム姿は1950年のテキサスリーグ開幕第1戦でダラス・イーグルスのために一役買ったときである。トリス・スピーカー、ダフィー・ルイスとともに1イニングの3分の1だけ外野守備についている[15]

両親の事件について

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野球殿堂にあるカッブの銘刻板

同事件は、妻の浮気の噂にたまりかねた父親が、「数日間巡回に出る」と言いながら、その日の深夜に家に戻り、寝室で浮気をしている妻を確認し、更に浮気相手を確かめようと寝室にのりこんだ所、強盗か暴漢と勘違いした母親に射殺されたというものであったとされる。裁判では母親の正当防衛が認められ、無罪となった。カッブはこの事件以来、母親とは会おうとも話そうともしなかったという。カッブは裁判にて、母親が不利になるような証言はひとつもしなかったが、死の直前に自身の自伝の執筆を担当していた記者にその事について質問された際、カッブは「男はどんなときも母親を守らなければならない」と答えている。また、裁判後に父親を射殺したのは浮気相手だったことを知らされたという。

この両親の事件は、カッブの人格に大きな影響を与えたと言われており、それまでは素直な性格の選手であったが、事件以降、非常に攻撃的な性格になったとされる。前述した通り、事件が起こった直後のメジャー昇格の歓迎会では、初めて暴力事件を起こし、チームメイトを病院送りにした。それからも過激な言動を繰り返し、人格に難のある選手として知られるようになった。実績を残し始めるまでは、チームメイトから嫌がらせを受けることもあったという。

現役時代、過激な発言で知られていたカッブだったが、マスコミから両親の事件の話について聞かれると途端に口をつぐみ、「その話はしたくない」と暗い表情になったという。後年、カッブは両親の事件について、「私は(この事件を)生涯乗り越えることができなかった」と語っている。

前述の1912年5月15日に起こった男性観客との乱闘騒ぎも、両親の事件に関する野次が引き金であった。同観客はこの試合において、試合開始からカッブに対して野次を飛ばしていた。守備につくカッブはこの観客と視線を合わさず無視していたが、段々と野次が過激になり、とうとう「お前は半ニガー野郎だ!」(白人黒人ハーフ。つまり黒人と浮気をしていたとされる母親のことを指しての野次)という罵声を浴びせられた[16]。この暴言にカッブは激怒し、守備に向かう途中に向きを変え、乱闘騒ぎへと向かった。カッブ自身は自伝にて、騒ぎを起こしたことは認めているが、殴る蹴るなどの暴力を振るったことは否定している[17]。また、騒動から3日後に起こったチームメイト全員による試合出場のボイコット理由も、「観客の野次があまりにもひどい」という怒りから、カッブの処分を不服としたことが起因である。

人物像

試合後にホテルのバーに足しげく通い、経済や株式の情報を集め、投資することを楽しみとしていた。カッブが買ったユナイテッド・モータースという小さな会社は、一年後にゼネラル・モータースと合併し、一株180ドルに高騰した。さらに他に先んじてコカ・コーラの大株主の一人になり、莫大な富を得て億万長者となった。その一方でメイドの給料や保険代や牛乳の代金を安く値切ろうとしたり、死の直前に入院した肝臓癌の治療費の支払いまで拒否したりするなど、吝嗇家だった。また、電気代がもったいないと発電機を自主製作するものの、電圧が安定しなかったためにトースターが燃えてしまい、あやうく怪我人を出してしまうところだったという。

引退後の1950年代に、インタビューで記者から「今の野球界でプレーしたら、どのくらいの打率を残せるか」と質問された。カッブは「.310ぐらいだな」と答え、記者が驚き「あなたは4割を3度も記録したじゃないですか」と言うと、カッブは笑顔で「私は今70歳を超えているんだ」と笑いを誘ったという。

カッブがタイガースに入団した当初、チームメイトのサム・クロフォードが面倒を見ており、クロフォードから走塁技術を学ぶなど、技術の伝達を行ってもらっていた。しかし激情家で人望薄いカッブとは次第に決裂してしまい、2人とも話すことは無くなった。そのような2人ではあるがカッブの死後、カッブの親族はクロフォードの殿堂入りを求める手紙を何通もカッブが送っていたことに気付いたという。

あるとき、永久追放になったジョー・ジャクソンが営業していた店を訪れ、ジャクソンが気づかないようなので「ジョー。私だよ」と声をかけると、ジャクソンは「メジャーの連中は、俺のことなんか忘れたいんじゃないかと思ってな」とわざと気づかないふりをしていたことを述べる。それに対してカッブは、「ああ。お前が優れたバッターだったということ以外忘れてしまった」と言い残し、店から帰ったという[18]

故郷のロイストンには、1998年に設立された「タイ・カッブ記念館」がある。館内には、カッブが使用していたバットやグラブのほかに、入れ歯も陳列されており、カッブの肉声が聞けるコーナーもある[6]。故郷への寄付などを積極的に行っており、1950年には大金を寄付し、24のベッドを備えた病院を設立。その病院は現在、16キロほど離れた周辺3市に関連施設をもつ巨大な医療センターとなり、カッブ病院、カッブリハビリセンターなど、カッブの名を冠されている。また、奨学金を支給する基金も設立し、州内の貧しい学生のサポートもしていた。故郷では、上院議員の父親や、自身の私費で病院を建設するなどの親子揃っての貢献度の高さから、英雄として語り継がれている[6]

粗暴なイメージが強いカッブだが、基本的に相手にも原因があるときのみしか乱闘を行わず、相手に大きな怪我をさせるような乱闘は一度もしなかった。これについて「怪我のせいで野球をできなくなるつらさは自分が一番わかっている。たとえ敵でも味わわせたくはなかった」と自身で語っている。

晩年、自らの回顧録が執筆される際、はじめのうちはこと細かに内容の指示をしていたが、執筆者がカッブと行動を共にするうちに、カッブの知られざる人間的な一面を書き留めていたことを知り、「お前の好きに書いてくれ」と言い残して亡くなったとされる。
また、カッブ自身は自分の人生について「私は自分の生涯に一点の悔いも残してはいない。もしも人生をやり直すとしたら、私は同じことを繰り返すに違いない。ただし…多少あちこちに修正を加えはするだろうが…」と残している[19]。その後、1994年にこの自伝を製作する過程がトミー・リー・ジョーンズをカッブ役に迎え、「タイ・カップ(原題:Cobb)」として公開された。

日本語表記について

カッブが日本で初めて紹介されたとき、翻訳・マスコミ関係者が「カッ」というカタカナ表記をあてたため、1990年代頃まで「タイ・カッ」とのカタカナ表記がマスコミや野球評論家の間でも完全に定着していた(例えば、彼の自伝の邦訳が1977年に日本で出版されたときの邦題は「野球王タイ・カッ自伝」であり、1995年映画『COBB』の邦題は「タイ・カッ」である)。現在では発音になるべく忠実に「カッ」とされるのが一般的になっている。

詳細情報

通算打撃成績

※歴代順位は2012年シーズン終了時のもの

※盗塁死は数不明の年がある。





































O
P
S
3033 11429 2246 4191 724 297 117 5854 1937 892 212 1249 94 295 680 .366 .433 .513 .945
5位 5位 2位 2位 4位 2位 - 5位 8位 4位 4位 50位 91位 12位 - 1位 9位 73位 26位

年度別打撃成績











































O
P
S
テンプレート:By2 DET 41 164 150 19 36 6 0 1 45 15 2 - 4 10 0 23 .240 .288 .300 .588
テンプレート:By2 98 394 358 45 113 15 5 1 141 34 23 - 14 19 3 41 .316 .355 .394 .749
テンプレート:By2 150 642 605 97 212 28 14 5 283 119 49 - 12 24 5 54 .350 .380 .468 .848
テンプレート:By2 150 635 581 88 188 36 20 4 276 108 39 - 14 34 6 41 .324 .367 .475 .842
テンプレート:By2 156 651 573 116 216 33 10 9 296 107 76 - 24 48 6 45 .377 .431 .517 .948
テンプレート:By2 140 590 506 106 194 35 13 8 279 91 65 - 16 64 4 45 .383 .456 .551 1.007
テンプレート:By2 146 654 591 147 248 47 24 8 367 127 83 - 11 44 8 43 .420 .467 .621 1.088
テンプレート:By2 140 609 553 120 226 30 23 7 323 83 61 34 8 43 5 31 .409 .456 .584 1.040
テンプレート:By2 122 501 428 70 167 18 16 4 229 67 51 - 11 58 4 31 .390 .467 .535 1.002
テンプレート:By2 98 414 345 69 127 22 11 2 177 57 35 17 6 57 6 22 .368 .466 .513 .979
テンプレート:By2 156 700 563 144 208 31 13 3 274 99 96 38 9 118 10 43 .369 .486 .487 .973
テンプレート:By2 145 636 542 113 201 31 10 5 267 68 68 24 14 78 2 39 .371 .452 .493 .945
テンプレート:By2 152 669 588 107 225 44 24 6 335 102 55 - 16 61 4 34 .383 .444 .570 1.014
テンプレート:By2 111 473 421 83 161 19 14 3 217 64 34 - 9 41 2 21 .382 .440 .515 .955
テンプレート:By2 124 545 497 92 191 36 13 1 256 70 28 - 9 38 1 22 .384 .429 .515 .944
テンプレート:By2 112 495 428 86 143 28 8 2 193 63 15 10 7 58 2 28 .334 .416 .451 .867
テンプレート:By2 128 581 507 124 197 37 16 12 302 101 22 15 15 56 3 19 .389 .452 .596 1.048
テンプレート:By2 137 612 526 99 211 42 16 4 297 99 9 13 27 55 4 24 .401 .462 .565 1.027
テンプレート:By2 145 647 556 103 189 40 7 6 261 88 9 10 22 66 3 14 .340 .413 .469 .882
テンプレート:By2 155 726 625 115 211 38 10 4 281 78 23 14 15 85 1 18 .338 .418 .450 .868
テンプレート:By2 121 490 415 97 157 31 12 12 248 102 13 9 5 65 5 12 .378 .468 .598 1.066
テンプレート:By2 79 273 233 48 79 18 5 4 119 62 9 4 13 26 1 2 .339 .408 .511 .919
テンプレート:By2 PHA 134 574 490 104 175 32 7 5 236 93 22 16 12 67 5 12 .357 .440 .482 .922
テンプレート:By2 95 393 353 54 114 27 4 1 152 40 5 8 2 34 4 16 .323 .389 .431 .820
通算:24年 3035 13068 11434 2246 4191 724 295 117 5854 1937 892 212 295 1249 94 680 テンプレート:Color .433 .512 .945

年度別投手成績










































W
H
I
P
1918年 DET 2 0 0 0 0 0 .000 4.0 6 0 2 0 0 0 0 2 2 4.50 2.00
1925年 1 0 0 0 0 1 .000 1.0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0.00 0.00
通算:2年 3 0 0 0 0 1 .000 5.0 6 0 2 0 0 0 0 2 2 3.60 1.60

年度別監督戦績

※順位は年度最終順位

















1921年 DET AL 154 71 82 .464 6 選手兼任
1922年 AL 155 79 75 .513 3
1923年 AL 155 83 71 .539 2
1924年 AL 156 86 68 .558 3
1925年 AL 156 81 73 .526 4
1926年 AL 157 79 75 .513 6
通算成績 933 479 444 .519 4.0

タイトル・表彰・記録

  • アメリカンリーグMVP:1回(1911年
  • 三冠王:1回(1909年)(史上5人目)
  • 首位打者:12回(1907年(.350)、1908年(.324)、1909年(.377)、1910年(.383)、1911年(.420)、1912年(.409)、1913年(.390)、1914年(.368)、1915年(.369)、1917年(.383)、1918年(.382)、1919年(.384)) (1907年~1915年、1917年~1919年) 
  • 9年連続首位打者(1907年~1915年)
  • 本塁打王:1回(1909年(9))全てランニング本塁打
  • デビューから24年連続本塁打(1905~1928)
  • 打点王:4回(1907年(119)、1908年(108)、1909年(107)、1911年(127))
  • 盗塁王:6回(1907年(49)、1909年(76)、1911年(83)、1915年(96)、1916年(68)、1917年(55))
  • 12年連続30盗塁(1907~1918)
  • 5年連続50盗塁(1909~1913)
  • デビューから24年連続盗塁(1905~1928)
  • シーズン打率4割以上:3回(1911年(.420)、1912年(.409)、1922年(.401))
  • 11年連続打率3割6分以上(1909~1919)
  • シーズン打率3割以上:23回(1906~1928)
  • 23年連続打率3割以上(1906~1928)
  • 40試合連続安打(1911年)、35試合連続安打(1917年)
  • 最多安打:8回
  • 200安打:9回
  • 最高出塁率:7回
  • 19年連続出塁率4割以上(1909~1927)
  • 最多得点:5回
  • 最多二塁打:3回
  • 最多三塁打:4回
  • 最多塁打:6回
  • 最高長打率:8回
  • 最高OPS:10回
  • 二塁打20-三塁打20-盗塁20:4回
  • 二塁打10-三塁打10-本塁打10-盗塁10:2回
  • サイクル・スチール:4回
  • ランニング本塁打:46回(アメリカンリーグ記録)
  • 打撃全タイトル制覇(1909年)(史上唯一)
  • 打撃六冠王(1909年)(史上唯一)
  • ホームスチール:55回(世界記録)
  • 通算打率:.366(世界記録)
  • DHLホームタウン・ヒーローズ選出 2006年

脚注

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外部リンク

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テンプレート:Navboxes テンプレート:3000本安打クラブ テンプレート:アメリカ野球殿堂表彰者 (中堅手) テンプレート:MLBACT テンプレート:Detroit Tigers

テンプレート:Normdatenテンプレート:Link GA
  1. ブルース・ナッシュ、アラン・ズーロ「アメリカ野球珍事件珍記録大全」東京書籍、45~46ページ、1991年
  2. メジャー初!勝ち投手も負け投手も野手 nikkansports.com 2012年5月8日
  3. http://www.baseball-reference.com/boxes/DET/DET191909250.shtml
  4. ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝432~447ページ
  5. ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝448ページ
  6. 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 タイ・カッブ、故郷では心優しき英雄 (2012/06/26)
  7. Wayne Stewart: Hitting Secrets of the Pros, McGraw-Hill (ISBN 978-0071418249), 2004, 30-31ページ.
  8. 映画『フィールド・オブ・ドリームス』の中でジョー・ジャクソンが、「タイ・カッブもプレーしたがってたが、生前みんなあの野郎には愛想が尽きてたから、シカトしてやったさ」という台詞がある。
  9. ブルース・ナッシュ、アラン・ズーロ「アメリカ野球珍事件珍記録大全」東京書籍、46ページ、1991年
  10. ブルース・ナッシュ、アラン・ズーロ「アメリカ野球珍事件珍記録大全」東京書籍、46ページ、1991年
  11. 「ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝
  12. PHP文庫 「トップアスリート」名語録
  13. ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝
  14. 内村祐之著「アメリカ野球物語」(1956年)。また、2位はベーブ・ルースではなく、17票を集めたホーナス・ワグナーであったという。
  15. ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝288ページ
  16. 当時から両親の事件のことはメディアによって報じられており、カッブがメジャーを代表する選手であったため、カッブの生い立ちは一部の野球ファンの間で知られていた。
  17. ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝223ページ
  18. ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝476~477ページ
  19. ベースボール・マガジン社 野球王タイ・カップ自伝501~502ページ