ゼノンのパラドックス

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テンプレート:Redirect ゼノンのパラドックスは、エレア派ゼノンの考えたパラドックスで、パルメニデスの「感覚は全て疑わしいものである」こと、特に「一があるのであって多があるのではない、多があるとすれば運動は不可能である」という学説をピタゴラス学派の多を主張する立場を批判して唱えたものであった。

今日、ゼノンのパラドックスと呼ばれるものは、アリストテレスの『自然学』と、それについてテンプレート:仮リンクが著した注釈との中に8つ伝わっている。そのうちのいくつかは、本質的に同じ問題を取り扱ったものである。

パラドックスの概要

ゼノンの論証がパラドクシカルである所以は「それらが導く結論はいかにも非現実的であるにもかかわらず、結論を導く論証過程自体は正しそうに見える」点にある。つまり論証の前提の正しさを受け入れる者にとって、論証の結論を拒否するためには論証過程のどこに誤りが潜んでいるかを指摘する必要があるが、それは容易ではない。結果として後に多くの哲学者がこの課題に挑戦した。

ただしゼノンの意図としては、これらの論証によってその非現実的な結論を主張したかったわけではない。「世界が不可分な要素的な点やアトムからなる」という前提から「運動が不可能となる」という帰結を導き出すことで、運動が可能であるという現実との矛盾を示そうとした、一種の背理法である。その場合「運動自体を否定しよう」というつもりはそもそもゼノンにはなく「否定されるべきはむしろ、そのような非現実的な結論を導く際に前提としてはたらいていた考え方にある」というのがゼノンの考えであった。

以下、ゼノンが提示したとされるパラドックスのうち「運動のパラドックス」としてアリストテレス『自然学』[1]が伝える4つを掲げる。

二分法

地点Aから地点B0へ移動するためには、まずAからの距離がAB0間の距離の半分の地点B1に到達しなければならない。さらにAからB1へ移動するためには、Aからの距離がAB1間の距離の半分の地点B2に到達しなければならない。以下、同様に考えると、地点Aから地点B0へ移動するには無限の点を通過しなければならず、そのためには無限の時間が必要である。よって、有限の時間で地点Aから地点B0へ移動することは不可能である。

アキレスと亀

「走ることの最も遅いものですら最も速いものによって決して追い着かれないであろう。なぜなら、追うものは、追い着く以前に、逃げるものが走りはじめた点に着かなければならず、したがって、より遅いものは常にいくらかずつ先んじていなければならないからである、という議論である。」アリストテレス『自然学』

あるところにアキレスがいて、2人は徒競走をすることとなった。しかしアキレスの方が足が速いのは明らか[2]なので亀がハンディキャップをもらって、いくらか進んだ地点(地点Aとする)からスタートすることとなった。

スタート後、アキレスが地点Aに達した時には、亀はアキレスがそこに達するまでの時間分だけ先に進んでいる(地点B)。アキレスが今度は地点Bに達したときには、亀はまたその時間分だけ先へ進む(地点C)。同様にアキレスが地点Cの時には、亀はさらにその先にいることになる。この考えはいくらでも続けることができ、結果、いつまでたってもアキレスは亀に追いつけない。

ゼノンのパラドックスの中でも最もよく知られたものの一つであり、多数の文献は彼の手に帰しているが、歴史家パボリノスの説によれば、この議論を創始したのはパルメニデスであるという[3]

その議論やキャラクターの面白さから、アキレスと亀という組み合わせは、この論自体とともに多くの作家に引用された。たとえば、ルイス・キャロルの『亀がアキレスに言ったこと』や、ダグラス・ホフスタッターの啓蒙書『ゲーデル、エッシャー、バッハ』に主役として登場する。

飛んでいる矢は止まっている

「もしどんなものもそれ自身と等しいものに対応しているときには常に静止しており、移動するものは今において常にそれ自身と等しいものに対応しているならば、移動する矢は動かない、とかれは言うのである。」アリストテレス『自然学』

アリストテレスは続けて、「この議論は、時間が今から成ると仮定することから生ずる」と述べている。この言から、ゼノンも「時間が瞬間より成る」を前提としていると解される。瞬間においては矢は静止している。どの瞬間においてもそうである。という事は位置を変える瞬間はないのだから、矢は位置を変えることはなく、そこに静止したままである。ゼノンの意が単純にこうであったのかは確定的な事ではない。

競技場

競技場において、一瞬の間に1単位の距離を移動することができる2台の馬車を考える。

 ▲▲▲▲  観客席
 □□□□  馬車・・・移動方向は右(→)
 ■■■■  馬車・・・移動方向は左(←)

それぞれの馬車が移動を開始し、次のように客席に対して1単位だけ移動したとする。

 ▲▲▲▲ 
  □□□□
■■■■

このとき、いずれかの馬車に対してもう一方の馬車がどれだけ移動したかを観察すると、2単位移動している。すなわち「馬車は一瞬のうちに1単位移動しようとすれば2単位移動しなければならない」ことになり、これは不可能である。したがって馬車の運動は不可能である。

数学的な解釈

「アキレスと亀」は、二つの条件(亀がアキレスの前からスタートする、亀はアキレスより遅い)の下において、追付くか否かが問題とされている。純粋に数学的に見れば、この条件下では、それは定まらない。ゼノン式に捉えたとしてもそれは同じである。従って、ゼノンの誤りは、何れとも決せられないことであるのに、一方を断じていることである。そのことは、アリストテレスを始めとする、ゼノン式の捉え方そのものが問題を孕むのだとする論議は、追付かないケースもある事を見ていない限りにおいて、何処かに問題を孕んでいる可能性があることを示唆している。

追付かないケースは、亀がアキレスより遅い事を維持しつつ、両者の速度差が急速に縮まる設定にすれば作ることが出来る。無数に作り得るが、古代ギリシャ時代の数学では困難であったかも知れない。

両者が等速で動くと仮定するならば、以下のように、ゼノン式捉え方で、追付くことを示すことが出来る。

アキレスの走行速度を <math>v</math> m/s、亀の歩行速度を <math>rv</math> m/s とし、亀はアキレスより <math>L</math> m 前方にいるとする(亀の歩行速度はアキレスの走行速度よりも小さいので、 <math>0<r<1</math> である)。両者が同時にスタートして、アキレスが亀の出発点まで到達する時間は <math>\frac{L}{v}</math> s である。その時亀はアキレスより <math>rv\times\frac{L}{v}=rL</math> m 前方にいる。そしてアキレスがその位置まで到達するのはさらに <math>\frac{rL}{v}</math> s 後であり、その時亀はさらに <math>r^2L</math> m 前方に存在する。以下同様にそれを繰り返していくと、アキレスが亀の位置まで到達する時間の合計は

<math>\frac{L}{v}+r^1\frac{L}{v}+r^2\frac{L}{v}+r^3\frac{L}{v}+\cdots</math>

となる。つまり、項が無限に続き、「常にいくらかずつ先んじて」いるかに見える。

だが、項が無限にあっても、「常に」即ち「時間の無限」においてではない。これは初項 <math>\frac{L}{v}</math> 公比 <math>r</math> の等比数列で、 <math>n+1</math> 項までの和は

<math>\frac{L}{v}+r^1\frac{L}{v}+r^2\frac{L}{v}+r^3\frac{L}{v}+\cdots+r^n\frac{L}{v}= \frac{(1-r^{n+1})\frac{L}{v}}{1-r}</math>

となる。ここで <math>n</math> が無限大であるとすると、<math>0<r<1</math> であるので <math>r^{n+1}</math> は0となる。つまり

<math>\frac{L}{v}+r^1\frac{L}{v}+r^2\frac{L}{v}+r^3\frac{L}{v}+\cdots</math>

と無限に加算した場合の総和は <math>\frac{\frac{L}{v}}{1-r}</math> s となる。このように級数収束の問題に還元される。

なお、最後の計算結果は、パラドックスのことを忘れて「アキレスがt秒後に追いつく」として立てられる1次方程式

<math>vt=L+rvt</math>

の解と一致している。

「飛んでいる矢は止まっている」では、アリストテレスは、時間が「不可分割的な今から成るのではない」としてゼノンを否定する一方、「今においては運動も静止もありえない」(第6巻第8章)として、疑似的な論議と見ている風もある。数学的に見れば、瞬間においては運動も静止もないと見ることも可能であるが、同時に、運動方程式は瞬間における速度を示し得るのであって、言葉の定義の問題に過ぎない。しかし、前者の否定は成り立たない。時間が瞬間より成るとしても、運動は否定され得ない。時間が連続体であれば、時間が瞬間=点よりなり、矢が瞬間=点においては静止しているとしたとしても、動くことは出来る。近代解析学においては、ゼノンの結論は否定されるが、アリストテレスの論議も否定される。

哲学的な観点から

哲学的には、数学的な前提に立った場合のように、このパラドックスは「間違っている」とは見なされない。極限や収束をどう理解するかと、特に「仮に有限を無限の回数の加算の結果と『見なしうる』ということから、現にそうした無限個の『加算されたもの』から『構成されている』と言っていいかどうか」が、このパラドックスでは問題になる。

つまり確かにパラドックスの結論は不合理なもののように見えるが、それは「不連続な複数の単位から構成される連続という(原子論者の考えたような『多』の)立場を前提にすると不条理に陥る、ゆえにこの『多』という仮定が間違っており、連続は『一』が基底的な属性であって、より基底的な『多』から「一」が構成されているとはいえない」という背理法の論法なのである。

それが「無限に切り分けられる」ことと「無限に足し合わせられたものからなっている」ことは、一見同じことのように見えるが違う。そして現実の運動や連続について、前者は言えるが、後者はいえない。

「線を無限に分割して、無限にたくさんの点を見い出せる」ことから「線が無限にたくさんの点からなっている」とは言えない。ゼノンやエレア派的にいえば、無をいくら足しても有にはならない。有がある以上、どこかに有の起源が無ければならない。長さゼロの点から長さ一の線を作る事は出来ない。ゼロをいくら加算しても一にはならない。しかし線と線の交点として点を定義する事は出来る。

これは不動の矢のパラドックスにおいてより根本的に現れており、いわゆるこの動かない動く矢は、あくまでも運動の或る瞬間の概念的切片であって、現実に特定の瞬間に特定の位置を占めているそうした要素的断片が実在的に「存在」し、その加算として運動があるわけではない。連続がまずあって、それを切片に切って把握することができるのであって、要素的な断片がまずあって、それが合わさって連続が構成されているのではない。(ピュタゴラス派的「数字」や「点」の議論)運動という連続は「多」からなっているわけではない。

さらにいえば「パラパラマンガやアニメのようなものとして、現実の連続性を理解することはできない」ことが、このパラドックスの、そしてエレア派の問題にしていることなのである。

思想史

アリストテレスは「無限にあるものが現勢的でなく可能的にあるのだとすれば、それらを通過し尽くすことは可能である」としている。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、「点とはありうるかぎりのものよりさらに小さいものであり、線はその点の運動によって作られる。線の極限は点である。次に面は線の運動から生れ、そしてその極限は線である。立体は(面積の)運動によって作られる。(そしてその極限は面である)(「手記」)」と語っている。

バールーフ・デ・スピノザは「持続が瞬間から成るとの主張は、悟性によって把握される不可分な無限の量、表象能力によって把握される可分的な有限の量の両者が区別されないことに基づく」と指摘している。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルはゼノンの議論を認めた上で、そこから帰結するのは、運動が存在しないということでなく、運動は定有する矛盾であるということであるとしている。

アンリ・ベルクソンは、ゼノンの議論は時間や運動を空間に翻訳するものとした上で、運動そのものは持続であって分割不能であるとしている。

その他

量子力学では、放射性崩壊を起こす可能性のあるはずの不安定な原子核は、完全に連続した観測の下では崩壊を起こさない。このことは(ゼノンの議論と直接の関係はないものの)量子ゼノン効果と呼ばれている。

脚注

  1. アリストテレス全集3『自然学』第6巻第9章、訳・出 隆、 岩崎 允胤、岩波書店刊: ISBN-13: 978-4000912839
  2. イリアスにおいてアキレスの枕詞の一つは「駿足の」である
  3. テンプレート:Cite book

参考文献

中村秀吉(1980)『時間のパラドックス』(中公新書

関連項目

外部リンク

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