セシル・フィルダー

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テンプレート:Infobox baseball player セシル・フィルダーCecil Grant Fielder , 1963年9月21日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス出身の元プロ野球選手内野手)。

息子は現役メジャーリーガープリンス・フィルダー

来歴・人物

テンプレート:ByMLBドラフト4巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに指名され契約。テンプレート:Byトロント・ブルージェイズメジャー初昇格。しかし、同時期にブルージェイズには、ウィリー・アップショー(後に福岡ダイエーホークスでプレー)およびフレッド・マグリフが競合する一塁及びDHにいたことから、左投手専門のDH、一塁手および代打要員で、なかなか出場機会に恵まれなかったため、日本を含めてレギュラーを確約できる球団を求めていたところ、阪神タイガースから4番打者としてオファーがあったこともあり、初めてアメリカ国外でプレーすることとなる。

テンプレート:By阪神タイガースに入団し、来日。そのスイングの豪快さから、「荒熊」というニックネームが付けられる。特に対大洋戦には滅法強く、横浜スタジアムでは1試合で場外本塁打を含む3打席連続本塁打を放つなど、対大洋戦だけで本塁打16本を記録する。逆に、対巨人戦は本塁打3本と弱かった。

同年9月14日の対巨人戦(東京ドーム)で、水野雄仁から三振を喫した際、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折。そのままシーズンを棒に振り、本塁打王のタイトルを逃す。それでも、長打率.6276は、その年両リーグ最多の49本塁打を放ったラルフ・ブライアントの.6275を上回って両リーグ1位であった。オフは契約更新を望む阪神に対して、年俸の大幅アップと5年契約を要求するが、合意に達せず1年で退団となった[1]。その後、デトロイト・タイガースと契約する。

メジャー復帰後1年目のテンプレート:Byに、ジョージ・フォスターが1977年に記録して以来、メジャーにおいて13年ぶりとなる50本塁打以上を記録する。また、翌年のテンプレート:Byとあわせて本塁打王打点王のタイトル二冠を2年連続で獲得する。テンプレート:Byにも打点王を獲得し、ベーブ・ルース以来のアメリカンリーグにおける3年連続の打点王となる。MVP級の活躍であったが、1990年は、リッキー・ヘンダーソン(1位投票数28のうち14票、フィルダーは10票)に、1991年は、カル・リプケン(1位投票数28のうち15票、フィルダーは9票)に僅差で敗れ、それぞれ2位に終わっている。

当時のタイガースの監督であったスパーキー・アンダーソンは、同じく日本からの出戻り組のビル・ガリクソンがチームに在籍して活躍していたこともあって、「日本製品は素晴らしい!!」と形容したこともあった。また、タイガースの本拠地があるデトロイトでは、地元の新聞に「デトロイトが受け入れた唯一の日本製品」と称されたこともあった(当時日本とは貿易摩擦が問題となっており、デトロイトの主要産業である車が日本からの輸入車で苦戦を強いられていたため、特にデトロイトでは日本に対する反感が強かった)。

日本帰りであったことから、その肥満体型を揶揄してスモーレスラーなどと呼ばれることもあった。不振が続いた時のブーイングでは、必ずこの名称で呼ばれていた。阪神からメジャーに復帰した際にも、「なぜあのような肥満をとった?」とチーム関係者及びファンからの非難があったが、本塁打を量産することによりそれらの声を打ち消した。その肥満体型故にメジャーリーグでも屈指の鈍足として知られ、1996年に初めて盗塁を成功させた翌日には新聞の一面を飾ったほどである。この初盗塁を決めるまでに1096試合も要しているが、これは盗塁を記録しなかったメジャー最多連続試合数である。また、この年はもう一つ盗塁を成功させているが、フィルダーが盗塁を成功させたのは後にも先のもこのシーズンだけである。

テンプレート:Byには、ロブ・ディアー(後に阪神でプレー)およびミッキー・テトルトンと30発トリオを結成したが、それは同時に130三振トリオでもあり、打率が低く、三振が多く、しかも投手力が弱かったため、チームの成績は振るわなかった。

テンプレート:By途中にルーベン・シエラとのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、ワールドシリーズを制して世界一となった。テンプレート:Byにはアナハイム・エンゼルスに移籍するもシーズン途中に解雇され、同シーズン中にクリーブランド・インディアンスへ移籍。同年引退。

引退後は、かねてから長距離砲として注目されていた、長男プリンス・フィルダー代理人に専念する。

2004年になって突然、「セシル・フィルダーがギャンブル癖で莫大な借金を抱えて自己破産した上に蒸発した」というニュースが流れた。妻とも離婚、フロリダの豪邸はゴミが散らかり放題と悲惨な状況であった。プリンス・フィルダーは父に代わる新たな代理人を雇うこととなった。以後、疎遠となったが、その後フィルダーの消息は判明し、事なきを得た。そして社会復帰を果たし、テンプレート:Byはアメリカ独立リーグサウス・コースト・リーグに加盟するシャーロット・カントリー・レッドフィッシュの監督を務め、テンプレート:Byは当時アメリカ独立リーグのカナディアン・アメリカン・リーグに加盟していたアトランティックシティ・サーフの監督を務めた。 テンプレート:Byには、独立リーグの相談役に就任。

テンプレート:ByのMLBオールスターゲームでは、確執が噂されていた息子プリンスと同席し、関係改善が明らかになった。

詳細情報

年度別打撃成績

テンプレート:By2 TOR 30 81 74 6 23 4 0 4 39 16 0 0 0 1 6 0 0 16 2 .311 .358 .527 .885
テンプレート:By2 34 90 83 7 13 2 0 4 27 13 0 0 0 0 6 0 1 27 3 .157 .222 .325 .548
テンプレート:By2 82 197 175 30 47 7 1 14 98 32 0 1 0 1 20 2 1 48 6 .269 .345 .560 .905
テンプレート:By2 74 190 174 24 40 6 1 9 75 23 0 1 0 1 14 0 1 53 6 .230 .289 .431 .721
テンプレート:By2 阪神 106 454 384 60 116 11 0 38 241 81 0 0 0 3 65 7 2 107 13 .302 .403 .628 1.031
テンプレート:By2 DET 159 673 573 104 159 25 1 51 339 132 0 1 0 5 90 11 5 182 15 .277 .377 .592 .969
テンプレート:By2 162 712 624 102 163 25 0 44 320 133 0 0 0 4 78 12 6 151 17 .261 .347 .513 .860
テンプレート:By2 155 676 594 80 145 22 0 35 272 124 0 0 0 7 73 8 2 151 14 .244 .325 .458 .783
テンプレート:By2 154 672 573 80 153 23 0 30 266 117 0 1 0 5 90 15 4 125 22 .267 .368 .464 .832
テンプレート:By2 109 481 425 67 110 16 2 28 214 90 0 0 0 4 50 4 2 110 17 .259 .337 .504 .840
テンプレート:By2 136 578 494 70 120 18 1 31 233 82 0 1 0 4 75 8 5 116 17 .243 .346 .472 .818
テンプレート:By2 107 460 391 55 97 12 0 26 187 80 2 0 0 3 63 8 3 91 11 .248 .354 .478 .833
NYY 53 228 200 30 52 8 0 13 99 37 0 0 0 2 24 4 2 48 7 .260 .342 .495 .837
'96計 160 688 591 85 149 20 0 39 286 117 2 0 0 5 87 12 5 139 18 .252 .350 .484 .834
テンプレート:By2 98 425 361 40 94 15 0 13 148 61 0 0 0 6 51 3 7 87 14 .260 .358 .410 .768
テンプレート:By2 ANA 103 439 381 48 92 16 1 17 161 68 0 1 0 3 52 1 3 98 17 .241 .335 .423 .757
CLE 14 37 35 1 5 1 0 0 6 0 0 0 0 0 1 0 1 13 1 .143 .189 .171 .361
'98計 117 476 416 49 97 17 1 17 167 68 0 1 0 3 53 1 4 111 18 .233 .324 .401 .725
MLB:13年 1470 5939 5157 744 1313 200 7 319 2484 1008 2 6 0 46 693 76 43 1316 169 .255 .345 .482 .827
NPB:1年 106 454 384 60 116 11 0 38 241 81 0 0 0 3 65 7 2 107 13 .302 .403 .628 1.031
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

MLB

表彰

MLB
NPB

記録

MLB
NPB
  • 初出場:1989年4月8日広島戦(広島) 3番一塁で先発
  • 初安打:同上 北別府から単打
  • 初本塁打・初打点:同上 8回長冨から左越3点本塁打
  • 同一カード最多連続試合本塁打 5月21日大洋6回戦 - 7月20日大洋13回戦(日本新)[2]

背番号

  • 23 (1985年 - 1988年)
  • 44 (1989年)
  • 45 (1990年 - 1998年途中)[3]
  • 33 (1998年途中 - 同年終了)

脚注

  1. http://sankei.jp.msn.com/west/west_sports/news/120106/wsp12010611010002-n4.htm
  2. ベースボールレコードブック1990 p43
  3. 1996年のヤンキース移籍直後の背番号は25だったが、すぐに45に変更

関連項目

外部リンク

テンプレート:MLBstats

テンプレート:Navboxes テンプレート:1996 ニューヨーク・ヤンキース