ジョン・ディーコン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox Musician ジョン・リチャード・ディーコン(John Richard Deacon、1951年8月19日 -)は、イギリスミュージシャンロックバンドクイーンの元ベーシスト血液型はO型。「マイ・ベスト・フレンド」、「地獄へ道づれ」、「ブレイク・フリー (自由への旅立ち)」などのヒット曲を作詞・作曲した。

2013年現在は音楽活動からは事実上引退している。

人物

クイーンのボーカルであるフレディー・マーキュリーを一人のアーティストとして尊敬しており、「クイーンのヴォーカルはフレディーしかいない」と発言している。また彼自身が歌うことやコーラスをとることは少なく「自分は音痴だ」とも語っている。

温厚な人柄であり、メンバー間の衝突によりたびたび訪れたバンド解散の危機を幾度も救った。ベース以外にもピアノなどの演奏も出来るマルチプレイヤーである。またドラムも少々たしなむ。クイーンのメンバー中では一番多くの子供をもうけた。

電子系の大学を卒業しており機械関係に強かったため、ブライアン・メイや自身のエフェクターやアンプをたびたび作製したり改造するなど、演奏や作曲以外でもサウンド面でバンドに貢献していた。中でもブライアンが使用していたジョン作製のオリジナル・アンプ、通称DEAKY AMP(ディッキー・アンプ)は、ギターレッド・スペシャルとエフェクターとギターテクニックの組み合わせにより七色のサウンドを出すことが可能だった。

経歴

幼少期からクイーン参加まで

レスターシャーオードビーに生まれ育つ。7歳の時に両親から買い与えられたおもちゃのギターから音楽に興味を持ちだす。音楽と並行して機械いじりにも興味があり、無線装置などで遊んでいたという。この機械に対する興味が後々、彼の進路と音楽活動に影響を与えることになる。新聞配達で稼いだお金でアコースティック・ギターを購入したのが本格的な音楽活動の第一歩。14歳からジ・オプジションというバンドにリズムギターで加入するが、そこにいたベーシストがバンドのレベルに次第についていけなくなったため脱退。ジョンがベースに転向することになる。後に同じ名前のバンドが現れたため、ザ・ニュー・オプジション、さらにジ・アートという名前に改名することになる。このバンドはジョンがロンドン大学分校、チェルシー・カレッジテンプレート:Enlink電子工学科に入学するまで続けられた。大学に入ってからは学業に専念し、チェルシー・カレッジを首席で卒業、名誉学位を与えられる。

ジョンは大学在籍時から友達と趣味程度のバンドを組むようになるが、数回の活動で終わってしまう。その後いくつかのバンドのオーディションを受けるがすべて落選。そうした中、1971年1月に友人のクリスティン・ファーネルと行ったディスコで、ブライアン・メイロジャー・テイラー(この2人もクリスティンの友人であった)に会い、ベーシストが定着していなかったクイーンのオーディションを知らされる。その後面接を受け、採用されることになるのだが、採用の決め手はベースの腕前もさることながらジョンが謙虚な人柄で(脱退したベーシストたちは自己主張が強かったという)、機械に強かったからと言われている。

クイーン内での役割

ファイル:Bass player queen.jpg
ジョン・ディーコン(ダブリンのステージにて、1979年

ボーカルをしなかったこととクイーン内では最年少だったこともあってか、当初ジョンの存在感は薄く、また他の3人に比べると作曲を始めるのが遅かったが、3枚目のアルバム『シアー・ハート・アタック』収録の「ミスファイアー」で初めて自作曲が採用される。4枚目のアルバム『オペラ座の夜』では2曲目の自作曲「マイ・ベスト・フレンド」が収録され、全英7位、全米16位のヒットとなった。この曲ではフレディが生ピアノでなくては弾きたくないと拒んだため、ジョン自身がエレクトリックピアノを弾いている。

その後、アルバム毎に自作曲1、2曲をコンスタントに提供するようになり、全世界で700万枚セールスを挙げたクイーン最大のヒット曲「地獄へ道づれ」(全米1位、全英7位)、全英3位の他世界数カ国でナンバーワンヒットとなった「ブレイク・フリー(自由への旅立ち)」など、寡作ながらもクイーンの代表作となる曲を発表し、バンド内での存在感を増していった。

また、ブライアンのために小さなギターアンプ「Deacy(ディーキー)」を自作、ブライアンはレコーディング時にこれを重宝し、あの独特なサウンドを次々と生み出していった。

クイーンのファーストアルバム『戦慄の王女』のクレジットでは、「ディーコン・ジョン」とクレジットされているが、これはそのほうが響きがいいからという理由で、メンバーから逆にするように勧められたことによる。実際に初期の音源では、司会者にディーコン・ジョンと紹介されていることから、誤植などではなく意図的なものだということがわかる。なお、セカンドアルバム以降は普通の表記に戻っている。

ソロ活動

ジョンはボーカルはしなかったため、クイーンの他のメンバーのようにソロアルバムは発表することはなかった。しかし、クイーン以外のミュージシャンとコラボレートして発表した作品はいくつか存在する。まず1983年シン・リジィスコット・ゴーハムバッド・カンパニーのサイモン・カークとミック・ラルフス、プリテンダーズのマーティン・チェンバースらと「MAN FRIDAY and JIVE JUNIOUR」名義で、ジャム・セッションから生まれた「Picking Up Sounds」を、また1986年には、イギリス映画『Biggles』のための即席ユニット「The Immortals」名義で、ジョンが作曲に携わった「No Turning Back」をそれぞれシングル発表している。しかしどちらも、商業的に成功することはなかった。

ちなみに、後者の「No Turning Back」は、後に本田美奈子が「ルーレット」と改題して日本語カバーしている。

フレディ・マーキュリー死後の音楽活動

マーキュリーの死後は音楽活動には消極的になったようで、フレディ・マーキュリー追悼コンサートの参加にも当初は否定的で、メイとテイラーの説得によってようやく参加を決めたという。「フレディの声以外でクイーンの曲を演奏するのは考えられない」として、下記の数回以外に参加はしていない。

フレディ抜きのクイーンに彼が参加した企画は以下の通り。

引退

1997年以降表舞台に出る機会が減少したため、引退の真相は不明だったが、2004年にはテイラーが「ジョンは事実上引退している」と発言したほか、クイーンと付き合いの長い東郷かおる子が寄稿したクイーン+ポール・ロジャース日本公演(2005年)のパンフレットには「音楽業界から引退」と記載された。

テイラーによると、もともとジョンは表舞台に出るのが苦手であり、音楽業界の慌ただしさや狂騒をストレスだと感じていたようで、特にフレディが亡くなったことでさらに内にこもるようになってしまったという。それでも「今でも俺達と同じクイーンの一員であることに変わりはないよ」と話している。

また、イギリスのリッチリストによると、「ジョン・ディーコンはツアーには参加しなかったが、著作権使用料と『ウィ・ウィル・ロック・ユー』の長きにわたる成功により、利益を得た」とされている。最近ではMySpace上に自分のページを設けたり(すぐに閉鎖)、時折自分のファンサイトに書き込みをするなどしている。

ディスコグラフィー

テンプレート:Main

ジョン・ディーコン作曲のクイーンのシングル:

その他のアルバム収録曲:

ソロ作品:

  • ジャイブ・ジュニア・アンド・マン・フライデイ (Jive Junior And Man Friday):ピッキング・アップ・サウンズ (Picking Up Sounds)(1983年)
  • ザ・イモータルズ (The Immortals):ノー・ターニング・バック (No Turning Back)(1986年、『Biggles: Adventures in Time』のサウンドトラック)

出典

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Commons category

テンプレート:Queen