ジョン・コルトレーン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:参照方法 テンプレート:Infobox Musician ジョン・コルトレーン(John Coltrane, 1926年9月23日 - 1967年7月17日)は、アメリカノースカロライナ州生まれのモダンジャズサックスプレーヤー。愛称はトレーン(Trane)。

長い間無名のままでいたため、第一線で活躍した期間は10年余りであったが、自己の音楽に満足せずに絶えず前進を続け、20世紀のジャズ最大のカリスマとなった。

人物

主にテナー・サックスを演奏したが、活動最初期はアルト・サックス、1960年代よりソプラノ・サックス、最晩年にはフルートの演奏も残している。活動時期は、1950年代のハード・バップの黄金時代から1960年代のモード・ジャズの時代、さらにフリー・ジャズの時代にわたり、それぞれの時代に大きな足跡「ジャイアントステップ」を残した。

1940年代にチャーリー・パーカーらが確立した4ビート・バップ・ジャズのアドリブ方法論を、現代的に再構築した功績は大きい。コルトレーンの構築したアドリブ方法論は4ビート・ジャズだけでなく、ロックフュージョンなど、他ジャンルのサウンドにもそのまま通用するものだった。このため、コルトレーンの影響は、他のプレーヤにも及んでいる。

短い活動期間にも関わらず、アルバムに換算して200枚を超える多数の録音を残した。2012年現在でも多くのジャズ愛好家たちに愛され続けており、彼の残したレコードはほとんどが廃盤にはならずに(あるいは一旦廃盤になっても再発売される形で)、2012年現在でも流通し続けている。さらに、死後40年以上経過した現在でも未発表テープが発掘され、新譜として発表される状況が続いている。

略歴

前期(1958年まで)

13歳でクラリネットを始める。後にアルト・サックスに転向し、1946年よりプロとして活動開始。1949年ディジー・ガレスピーのバンドに参加し、その後テナー・サックスに転向。ほとんど無名のままいくつかのバンドを転々とした。レコーディングの機会にもあまり恵まれず、この時期のコルトレーンの録音はごくわずかしか残っていない。

1955年に、マイルス・デイヴィスのグループに入る。マイルスはすでに[1]ジャズの大スターであったため、マイルスバンドに抜擢[2]されたコルトレーンもその名前が知られるようになり、マイルスバンド以外のレコーディングの機会も多くなる。しかしこの時期のコルトレーンの演奏は決して評判[3]の良いものではなかった。

1957年に、一旦マイルスバンドを退団[4]。その後はセロニアス・モンクのバンドに加入し、モンクから楽理の知識を授かる[5]と共に音楽的修業に一層打ち込む。また、同時期に麻薬中毒も克服。同年3月に、マイルスバンド時代の同僚であったピアニストのレッド・ガーランドの紹介でプレスティッジ・レコードと契約[6]。5月には、初リーダー・アルバム『コルトレーン』の吹き込みを行っている。

同年7月に、ニューヨークのライブハウス「ファイブ・スポット」にモンクバンドとして出演。コルトレーンはこの月「神の啓示」を得たと語っている[7]。「神の啓示」が本当に意味するところは本人にしか分からないが、この月以前に録音されたトレーンの演奏はどこか不安定でぎこちなさが残っていたのに対し、この月以降に録音された演奏はどれもが自信に満ちたものに変わっており、本人の内面に何らかの大きな精神的変化[8]が訪れたものと考えられる。いずれにせよ、1957年7月は20世紀を代表する一人のジャズの巨人が誕生した月として記憶されるべき月となる。9月にはブルーノート・レコードにて初期の代表作『ブルー・トレイン[9]を吹き込んでいる。

1958年、モンクの元を離れ[10]、マイルスバンドに再加入。マイルスはこの時期、コルトレーンをソニー・ロリンズと並ぶ2大テナー奏者として高く評価した。また、音楽評論家のアイラ・ギトラーは、同年『ダウン・ビート』誌において、音を敷き詰めたようなコルトレーンの演奏スタイルを「シーツ・オブ・サウンド[11]と形容。以後、この形容は初期コルトレーンの奏法の代名詞となる。一方、コルトレーンのソロはいつも長かった[12]。また、常にフォルテッシモで速いパッセージばかり吹き続けたため、彼の演奏はぶっきらぼうで怒っているように聴こえたことから、Angry Young Tenor Man(怒れる若きテナーマン)と揶揄されることもあった。

中期(1959年から1961年)

1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』収録に参加。またアトランティック・レコードに移籍し、中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音。この頃から、単なるハード・バップ・テナー奏者から脱却すべく独自の音楽性を模索する試みが始まる。自作自演の曲が増え、また同じ曲の録音でありながら、異なるサイドメンを起用してテイクを重ねる[13]などの実験を行っている。

1960年春、マイルスバンドを脱退。その後マッコイ・タイナーエルビン・ジョーンズを中心に自身のレギュラー・バンドを結成しツアーに出ている。10月には、自身のレギュラー・バンドで大規模なレコーディングを敢行。このときのセッションからは『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド(邦題:「夜は千の目を持つ」)』などのアルバムが発表されている[14]。アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』のタイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、コルトレーンの最初のヒット曲となった。この演奏に現れる「3拍子+マイナー・メロディ+ソプラノ・サックス[15]」という組み合わせは、以後コルトレーンの定型パターンとしてを繰り返し用いられている[16]。またソプラノ・サックスは、コルトレーンに採り上げられたことを契機[17]に楽器としての魅力が広く認知され、以後ジャズ・フュージョン系のサックス奏者達の"必修科目"として盛んに用いられるようになる。

1961年、アトランティックを離れ、インパルス!レコードに移籍。3月にはマイルスのアルバム『サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(邦題:「いつか王子様が」)』の録音にゲストとして参加[18]。その後、新進気鋭のリード奏者エリック・ドルフィーを自己のバンドに加えるとともに、アレンジャーとしても起用し、大型ブラスセクションによる録音に取り組む。一方でその直後に、アルバム『オーレ!コルトレーン』も録音している。前者の録音からはインパルス最初のアルバムとして『アフリカ・ブラス』『アフリカ・ブラス・セッション vol. 2』の2枚が発売。後者はアトランティックから発売された。 また秋には、ニューヨークのライブハウス「ヴィレッジ・ヴァンガード」にほぼ連日出演したり、ヨーロッパツアーにも出ている。これらの演奏の様子は、後年『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を初めとする数多くのライブ・アルバムで聴くことができるようになってきている。

後期(1962年から1964年)

1962年、エリック・ドルフィー退団。以後コルトレーンは、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソンベース)、エルヴィン・ジョーンズというほぼ不動のメンバー[19]によるカルテットと共に活動、バンド全体が一体となって演奏を繰り広げるという表現方法を確立。コンサートでは、1曲の演奏時間が30分から1時間に及ぶこともざらであった。

このように、ステージでの演奏は激烈を極める一方だったが、レコーディング・スタジオではインパルス!レコードの看板アーティストとしてレコードの売り上げにも関心を示し、デューク・エリントンとの共演(『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、1962年録音)、スローバラードばかり取り上げた『バラード』(1962年録音)、ジャズ・ボーカルをメインに据えた『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』(1963年録音)のような企画物レコードの作製にも取り組んだ。

1964年末、『至上の愛』を録音。また1965年に入ると、コルトレーンのモード・ジャズは極限にまで達し、特定の調性にとらわれず、あらゆるスケールを縦横無尽に使うことによって「無調性音楽」の色彩が強くなっていく。

フリー・ジャズ期(1965年から1967年)

1965年6月、コルトレーンはついにアルバム『アセンション』を発表し、フリー・ジャズに転向する。コルトレーンはこの時期、マイルスと並んでジャズの指導者的地位にいたが、そのような権威ある人物がフリー・ジャズを支持したことは、それまでフリー・ジャズの音楽的意義を理解せず、その価値を認めようとしてこなかった保守的ジャズ・ファンに大きな衝撃を与えた。またコルトレーンは、同じテナー奏者の ファラオ・サンダースを加入させ、動のサンダースに対して静のコルトレーンという対比をうまく作り出すことに成功。コルトレーンのフリー・ジャズは激烈さの中に静謐さが同居するもので、瞑想的と表現されることが多い。

1965年頃まで、コルトレーンはサックスを吹く際ほとんどビブラートを用いなかったが、晩年になると強烈なビブラートを用いる奏法に変化していく。同年12月にマッコイ・タイナーがバンドを離れ、アリス・マクレオド(1966年にジョンと結婚)が加入。1966年3月にはエルヴィン・ジョーンズも退団し、ラシッド・アリをドラマーとして加入させる。

1966年7月に来日。9都市を回るという大がかりなツアーであった。記者会見で「10年後のあなたはどんな人間でありたいと思いますか?」という質問に対し「私は聖者になりたい」と答えたというエピソードがある。 また、同記者会見にて「最も尊敬する音楽家は?」という質問に対し、オーネット・コールマンの名前を挙げたといわれる。

1967年5月7日ボルチモアで最後のコンサートを行う。1967年7月17日、肝臓癌で亡くなる。

私生活

ファイル:ColtraneH.jpg
コルトレーンが住んでいた家

アルバム

プレスティッジ、ブルーノート・レコード

アトランティック・レコード

インパルス!レコード

などがある。サイドマンとしてのものを含めたものは英語版のディスコグラフィを参照。

参考文献

  • 『コルトレーンの生涯―モダンジャズ・伝説の巨人』J.C.トーマス、学習研究社 (学研M文庫)、2002年。ISBN 4059020729。
  • 『新・コルトレーンを聴け!』原田 和典、ゴマブックス (ゴマ文庫)、2008年。ISBN 4777150348。
  • 『コルトレーン ジャズの殉教者』藤岡 靖洋、岩波書店 (岩波新書)、2011年。ISBN 4004313031。
  • 『コルトレーン・ア・バイオグラフィー』 カスバート・O・シンプキンス。
  • 『コルトレーン・クロニクル / 写真でたどる生涯』藤岡 靖洋、菊田有一 DU BOOKS、2011年。ISBN 9784925064460。

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:Link GA
  1. マイルスとコルトレーンは共に1926年生まれ
  2. ソニー・ロリンズキャノンボール・アダレイに参加を打診するも実現できず、コルトレーンの起用は窮余の策だった。
  3. この当時のコルトレーンの演奏はどこか風変わりではあるものの、テナー奏者としては不安定で標準以上の実力があるとはとてもいえず、実力者揃いのマイルスバンドには不釣り合いで、ファンからはあいつをクビにしろと言われる始末だった。一方、ぎこちないコルトレーンのテナーは、スムーズでクールなマイルスのトランペットを引き立てる効果があることを評価した評論家もいた。
  4. コルトレーンは、麻薬中毒の禁断症状を抑えるために深酒をあおって泥酔、そのために出演予定のステージをすっぽかすという失態を何度か演じたため、マイルスは激怒しコルトレーンを殴った上、バンドから彼をクビにした。
  5. コルトレーンは質問魔であり、無口なマイルスはコルトレーンから質問をされるのを嫌ったが、モンクは嫌な顔をすることなく、実際にピアノを弾きながらコルトレーンの質問に丁寧に答えた。
  6. プレスティッジ・レコードとの契約条件は、アルバム1枚あたりの録音のギャラがたったの300ドルで、版権もすべてプレスティッジ・レコードに帰属することになっていた。
  7. 1964年に録音されたアルバム『至上の愛』にコルトレーン自身が寄せたライナーノーツにて記述
  8. 記録によれば、コルトレーンの当時の妻ナイーマは、夫のために連日コンサートの演奏をテープに録音していたといわれているが、この年の7月に行われたファイブ・スポットでの演奏を収録したテープは、今のところ見つかっていない。1990年代に入ってモンクとコルトレーンとの共演による『ライブ・アット・ファイブ・スポット・ディスカバリー』というアルバムが発売されたが、これは翌年の演奏が録音されたものである。モンクが契約していたリヴァーサイド・レコードのプロデューサーオリン・キープニュースは、評判のよい「ファイブ・スポット」でのライヴをレコード化しようと考えるが、コルトレーンが所属するプレスティッジ・レコードのボブ・ワインストックとの交渉がうまくいかなかった。
  9. プレスティッジでの録音はほとんどがオール・スター・ジャム・セッション形式で、あまり周到な準備をせずに、ミュージシャンが思い思いに行う即興演奏を録音するというスタイルだった。これに対してブルー・ノートは、リーダーの音楽的魅力を最大限引き出すように共演者の組み合わせにも気を配った上、ギャラまで払ってミュージシャン達にリハーサルをさせるという手の込んだものだった。
  10. モンクは、当時売り出し中の新人テナー奏者ジョニー・グリフィンを大いに気に入り、コルトレーンの後任として雇っている。
  11. コルトレーンはハーモニー(和声)に異常な関心を示したと言われる。コルトレーンは、単音楽器であるサックスでコードの構成音を高速に吹き分ける技法をモンクから学んだ、と語っている。これが1958年になって、シーツ・オブ・サウンドという奏法のもとになったとされる。また、アルバムコルトレーン・ジャズではサックスに倍音を発生させることで同時に複数の音を鳴らす奏法を試している。この奏法は、マイルスとの最後のツアーの中の1960年春のコンサートの録音テープでもしばしば聴かれる。
  12. コルトレーンはインタビューの中で、なぜあんなに長いソロをとるのかという質問に対して「自分は一つのソロの中でいろいろなことを試そうとしている」と答えたことがある。
  13. コルトレーン自身の作による「ジャイアント・ステップス」は高速テンポで長3度(B→G→E♭…など)を繰り返すため、アドリブをとるのが困難なジャズ稀代の難曲として知られる。コルトレーン自身はこの難曲をいとも簡単に吹いているのだが、問題は共演者で、当初LPにはピアニストのトミー・フラナガンが途中でアドリブをとれなくなってしまったテイクが収録された。CD時代になってシダー・ウォルトンがピアノを弾いているが、ソロはコルトレーンだけがとっているテイクも発表されている。フラナガン自身は、後に自らのアルバムで「ジャイアント・ステップス」に再挑戦している。
  14. この頃からコルトレーンはバップ・イディオムから完全に脱却、モード・ジャズ的なリズム感覚によるフレーズが数多く聴かれるようになる。
  15. コルトレーンがソプラノ・サックスを最初に用いたのは同年6月録音のアルバム『アヴァンギャルド』においてだった。
  16. 「3拍子+マイナー・メロディ+ソプラノ・サックス」というパターンの曲には「グリーン・スリーヴス」(『アフリカ・ブラス1961年録音)、「アフロ・ブルー」(『ライヴ・アット・バードランド1962年録音)、「チム・チム・チェリー」(『ジョン・コルトレーン・カルテット・プレイズ1965年録音)などがある。
  17. コルトレーン以前にもシドニー・ベシェスティーブ・レイシーらがジャズにおいてソプラノ・サックスを用いている。
  18. マイルスは、どうしてもコルトレーンのテナーソロをアルバムに収録したい、と考えた。しかしマイルスバンドには、コルトレーンの後任テナー奏者としてハンク・モブレーが在籍していた。マイルスからの求めに応ずるとモブレーの顔をつぶすことになると考えたコルトレーンは、録音への参加を渋った。しかし、マイルスはそのようなことを全く意に介さず、録音の日時と場所を告げて電話を切り、コルトレーンを強引に呼びつけて共演させる。結果的にこのセッションは、モード・ジャズ奏法を完成させつつあったコルトレーンの先進性ばかりが目立つものとなり、コルトレーンの懸念した通り、この出来事は始終モブレーについてまわる悲劇的逸話になってしまった。なお、このアルバムは、コルトレーンが共演者として他人のリーダー作の録音に参加した最後のアルバムとなった。
  19. 不定期ながらロイ・ヘインズ(ドラムス)が起用されることもあり。