エリコ

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テンプレート:Redirect2 テンプレート:世界の市 エリコイェリコジェリコ、アラビア語ではアリーハーテンプレート:Lang-arテンプレート:Lang-heJericho)は、パレスチナ

概略

死海の北西部にある町。古代オリエントの中でも古い町で、紀元前8000年紀には周囲を壁で囲った集落が出現した。世界最古の町と評されることもある。世界で最も標高の低い町でもある。

エリコは、死海に注ぐヨルダン川河口から北西約15kmにあり、現在はヨルダン川西岸地区に含まれる。海抜マイナス250mの低地にある。「スルタンの泉」と呼ばれるオアシスがあり、人々が住み着いた。エリコの名前は『旧約聖書』にも繰り返し現れ、「棕櫚(しゅろ)の町」として知られていた。

エリコには、異なる時代に形成されたいくつかの町があり、古代~『旧約聖書』時代のテル・エッ・スルタン(Tell es-Sultan)、紀元前後のトゥルール・アブー・エル・アラーイク(Tulul Abu el-'Alayiq)、現在の町があるテル・ハリ(er-Riha)に分かれる。テル・エッ・スルタンは、テル・ハリから2kmほど離れたところにあり、トゥルール・アブー・エル・アラーイクはテル・ハリから西へ約2kmのところにある。

沿革

初期の町は小規模な定住集落で、時代区分上は新石器時代にあたる。最古の町と評されることもあるが、後に現れるメソポタミア文明などの文明とは区別される。

1868年からヨーロッパの考古学者によって何度か調査が行われ、1952年にイギリスのキャスリーン・ケニヨン(Kathleen Kenyon)らが行った調査では前8000年紀のものと思われる周囲を濠と石積みの防壁で囲った集落跡が発掘された。日本弥生時代環濠集落に似ているが、そうではなく、洪水を防ぐための防壁と解釈されている。

ファイル:Tell es-sultan.jpg
テル・エッ・スルタンの遺丘

初期の痕跡はテル・エッ・スルタンにあり、紀元前約1万年前~前9000年前まで遡る。テルは丘を意味するアラビア語で、人間の長期にわたる営みの積み重ねによって形成されたものと考えられている。の規模は南北350m・東西150m・高さ2.5mである。紀元前9000年頃の痕跡ではまだ住居跡はまだ現れないが、ナトゥフ期(Natufian)の石器・骨器や、祭壇と思われる基壇が現れた。

ナトゥフ期の次にケニヨンが「原新石器」と呼んだ時代を経て、「先土器新石器A」(Pre-Pottery Neolithic A)と呼ばれる層(前8350年頃~前7370年頃)からは、広さ約4ヘクタール・高さ約4m・厚さ約2mの石の壁で囲まれた集落が形成された。この壁の1面には高さ8.5mの石の塔も建てられた。この町は前7370年頃に放棄され、それまでとは異なる文化をもつ人々がエリコに定住した。

先土器新石器B(Pre-Pottery Neolithic B)と呼ばれる層は、前7220年頃から前5850年頃まで続く。これは前5850年頃に放棄され、しばらく無人の町となった。

前3300年頃には周壁を備えた都市が形成される。前2300年頃に異民族の来襲によるものと思われる火災にあい、しばらく空白期間となる。

前1900年頃に再び町が建設され、町の領域は初期の壁の外にも拡大し、さらに外側により高い周壁が建設された。前1560年頃にヒクソスの侵入にあい、大火災に見舞われて廃墟となった。『旧約聖書』に記されたヨシュアによる破壊が史実に基づくものならば、この頃の話ではないかという推測もある。

前1550年頃~前1150年頃には、古代エジプトの圧迫を受けた。

『旧約聖書』では、預言者ヨシュアが人々に命じて一斉に吹かせたラッパの音により、エリコの城壁が崩れ落ちたと伝えられている。

ヘレニズム時代から『新約聖書』の時代になると、トゥルール・アブー・エル・アラーイクに町が形成された。

現代

第一次中東戦争以降ヨルダンの占領下にあったが、第三次中東戦争後はイスラエルの主権下となった。現在、この地は、ヨルダン川西岸地区と呼ばれる一帯にある。

最も親イスラエル的な町として知られ、イスラエル人からも信頼されている。パレスチナ自治区の自治がいち早く始まったのもエリコであった。

古代のシナゴーグの遺跡がある。近隣には入植地も多い。

考古学史

関連項目

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