ザ・リバティーンズ

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ザ・リバティーンズ (The Libertines) は、イギリスロンドン出身のインディー・ロックバンド

概要

ガレージロック・リバイバル・ムーブメントにおけるバンドの1つ。バンドの中心人物は、作詞・作曲を共同で行っていたカール・バラーピート・ドハーティ。当初は目立った成功を収められずにいたが、2000年代前半からしだいに注目を集め、ついにはイギリスチャートでアルバム1位、シングル2位を獲得するバンドとなった。2004年12月にリリースされた2ndアルバム『リバティーンズ革命』は、NMEの年間ベストアルバムで2位に選ばれた。なお、彼らの2枚のアルバムプロデューサーは、イギリスのパンク・ロックバンド、ザ・クラッシュミック・ジョーンズが担当した。

成功の一方で、バンド内部ではドハーティのドラッグ中毒クラック・コカインヘロイン)を原因とするトラブルが絶えず、結果的にこれが2004年の解散につながった。その後、リバティーンズのメンバーはそれぞれの新しいバンド(ベイビーシャンブルズおよびダーティ・プリティ・シングス)で音楽活動を継続した。

2010年8月には一時的に再結成を果たし[1]レディング・フェスティバルを含むいくつかのライヴを行った。継続的な活動も期待されたが、2011年のインタビューでカール・バラーは将来的な活動を否定した[2]

メンバー

旧メンバー

来歴

1997年 - 2001年:初期

ザ・リバティーンズの設立メンバーはカール・バラーピート・ドハーティ。2人が出会ったのは、バラーが大学で演劇を学び、ドハーティの姉エイミー・ジョーとロンドンのリッチモンドでフラットをシェアしていた時。ドハーティは別の大学で英文学を学んでいた。この時ドハーティは17歳であった[3]。2人は互いの才能と音楽への情熱に気づき、大学を辞め北部ロンドンのカムデン・ロードで共同生活を送るようになる。[4]当初ドハーティはバラーとザ・スミスモリッシー/マーのような歌手とギタリストの関係になろうとしていた[3]。2人が住んでいた家は、家賃は週60ポンド(約1万2000)で壊れた裏窓から入り込むしかなく、ドハーティとバラーはシングルのマットレスで一緒に寝ていた[5]

隣人のスティーブ・バーロウ (Steve Bedlow〈一般的には、Scarborough Steveと呼ばれる〉) とバンドを結成した。バンド名をはじめ「ザ・ストランド (The Strand)」とし、のちに「ザ・リバティーンズ」とした。由来は、マルキ・ド・サドの『ラスト・オブ・ザ・リバティーンズ (Lust of the Libertines)』から(「ジ・アルビオンズ〈The Albions〉」も検討されたが取り下げされた)。ジョン・ハッサールジョニー・ボーレルと出会い練習を行った。ボーレルが練習に現れなくなり、ハッサールがベーシストとしてバンドに加わった(ボーレルは、のちにレイザーライトのメンバーとなった)。この時点では、まだ固定的なドラマーがいなかった。バンドはギグを行うようになり、多くはドハーティとバラーのフラットが開催地となった。

3曲レコーディングするために、プロデューサーにセックス・ピストルズの作品を手掛けたことのあるグウィン・マシアス(Gwyn Mathias)を迎え、オデッサ・スタジオへ入った。しかし、バンドは自分たちが用意してきたドラマーに落胆し、 マシアスはポール・デュフール (Paul Dufour、別名:ミスター・ラズコックス〈Mr. Razzcocks〉) をヘルプとしてバンドに入れた。デュフールは、50ポンドでレコーディングに加わることを同意した。彼は54歳であり、他のメンバーよりかなり年上だった。年齢差は大きかったものの、デュフールはバンドに加わったことで十分感動していた。バンドは、より多くのレコーディングをし始め、さらに遠くの開催地でギグをするようになった。

2000年5月、バンドはワーナー・ミュージック・グループの弁護士であったペルシャ人女性のバニー (Banny Poostchi) と出会った。バニーはバンドの潜在的な才能を認識して、マネージャーを引き受けた。『Legs 11』のレコーディングを行う。しかし、2000年12月になっても契約が決まらず、デュフール、ハッサール、バニーがバンドを離れていく。[6]バニーは同じようなスタイルで成功しているザ・ストロークスを見て、ラフ・トレード・レコードと6か月以内に契約を交わす計画を立てる。この期間にバンドは多くの曲を書き上げ、結果的に1stアルバムに収録されることになった。バニーはポール・デュフールの年齢が高すぎると考え、ゲイリー・パウエルをドラマーとして加入させた。2001年12月、ラフ・トレードと契約を交わした。[7]

バンドはベーシストが必要となり、ジョン・ハッサールが再度加入した。しかし、バンドの中心はドハーティとバラーであるため、ハッサールはバックグラウンドに留まることを通告される。ドハーティとバラーは、ティーズデール通り112aにあったフラットを一緒に賃借し、アルビオン・ルームズ (The Albion Rooms) と名付けた(彼らのゲリラ・ギグの多くの開催地になった)。

2002年 - 2003年:『リバティーンズ宣言』

ラインナップが固まったバンドは、より多くのギグをし始め、ザ・ストロークスザ・ヴァインズスーパーグラスオープニングアクトを務めた[8]。ミュージックプレス中へ名前が広がり、NMEは特にリバティーンズへの関心を持った。

2002年、両A面シングルホワット・ア・ウェイスター/アイ・ゲット・ アロング」をリリースしてデビューを果たす。プロデューサーは元スウェードバーナード・バトラー。シングル発売日と同日、エリザベス女王即位50周年記念の祝典が開催されており、バッキンガム宮殿内ではロック・スター参加のコンサートが行なわれ、大々的にテレビ中継されていた。彼等はこれに対抗し、宮殿の道挟んだ向かい側でギグを決行。さらにこのシングルをヴァージン・メガストアで万引きする(その模様は後にシングルとなる「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」のPV中に挿入されている)。こうしてバンドは反体制派のヒーローとしての立場を確立した。シングルは放送禁止処分となったが、全英37位を記録。[9]

ザ・クラッシュミック・ジョーンズをプロデューサーに迎え、1stアルバムのレコーディングを行った[10]。レコーディング中もバンドは可能な限り多くのギグを行なっていた(セックス・ピストルズモリッシーオープニングアクトを含め、2002年だけで100回以上)。

2002年8月、サマーソニックに出演し、初めて日本でライブを行った。ライブはたったの20分程度だったが、ベストアクトの1つに挙げられた。ドハーティは、「日本にいた時はアルカディアにいるようだった」とコメント[7]

セカンドシングル「アップ・ザ・ブラケット」を9月30日にリリースし、全英29位を記録。続いて10月21日に、1stアルバム『リバティーンズ宣言』をリリース。全英で最高35位どまりだったが世界中の音楽誌から高い評価を得た。NMEアワーズで「ベスト・ニュー・バンド」に選ばれた。バラーがアルビオン・ルームズから独立していく[11]

2003年4月、日本ツアーを敢行した。約2週間の滞在期間の中で、10回のギグを行うという過密なスケジュールのせいもあってか、札幌公演ではドハーティが2曲目で機材を全て破壊する事件を起こす[9]。ギター1本とツイン・ヴォーカルで札幌の公演を終えた[12]

2003年:問題

『リバティーンズ宣言』のレコーディングとリリース後のツアー中、ドハーティのドラッグ使用量が大幅に増加していき、他のメンバーとの関係が悪くなっていく。バンドは気難しくなり、パフォーマンスの中にも緊張状態が見て取れるようになった。

2003年5月、ニューヨークで『Babyshambles Sessions』のレコーディングを行う。 バンドへの決意の印として、ドハーティとバラーは腕にタトゥー "Libertine" を入れた。しかし、バラーはドハーティのドラッグとその関係者に嫌気がさし、セッションを途中でやめ、ドハーティはひとりでレコーディングを終えた。セッションはヘレン・スーと呼ばれるファンに与えられ、インターネットで無料公開された(ドハーティが命令したとされている)。

イギリスに戻ると2人の関係はさらに悪くなり、ドハーティはひとりでゲリラ・ギグを行うようになった。バーナード・バトラーをプロデューサーに迎えて「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」のレコーディングを行うが、ドハーティとバトラーの関係がうまくいかず、ドハーティはめったにレコーディングに現れなかった。

バラーの誕生日が近づいてきた時、ドハーティはバラーとの間の緊張を和らげようと、誕生日を祝う特別なギグを企画した。しかし、バラーはすでに他の友人が開いてくれたパーティへ出席しており、ギグに行くことができなかった。ギグでは、ひとり演奏するドハーティが残された。

バラーがシークレット・ギグに現れなかった後、ドハーティはバンドのヨーロッパ・ツアーへの出発時間に姿を現さなかった[13]。ドハーティはこの時、裏切られたと感じ、バラーと接触するのを拒んでいた。バンドはニックという代わりのギタリストを迎え、ドハーティ抜きでツアーを敢行した。ドイツのライブでは、ザ・クーパー・テンプル・クロースのディズ・ハモンドがボーカルとしてバンドをサポートした[9]。途中ドハーティがパリのギグから合流しようとするが、ドラッグ問題を理由にバンドへ戻ることを拒否される[14]。その間、ドハーティはベイビーシャンブルズとして活動を続けた。7月、バンドはフジ・ロック・フェスティバル出演のために日本へ向かった。バンドが日本に滞在中、怒り取り乱したドハーティがバラーのフラットに機材等を盗みに侵入し、逮捕されるという事件を起こした[15][16]

混乱の中、シングル「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」がリリースされる。ドハーティ逮捕の話題もあいまって全英11位にまで登りつめた。ドハーティの代役にアンソニー・ロッソマンドを迎えてレディング・フェスティバルに出演。9月、ドハーティが住居侵入罪で、2か月の実刑に処せられる。ドハーティの保証人にバラーがならなかったことに、ファンが非難を浴びせた。

2003年 - 2004年:セカンドアルバム、ザ・リバティーンズの終末

ドハーティ釈放の日、バラーが門の前まで迎えに行き、2人は熱い抱擁を交わした。この晩、来ないと思われていたハッサールとパウエルも加わり、チャタムのクラブ「タップ・アンド・ティン」でドハーティ復活記念のギグを行った[17]。NMEギグ・オブ・ザ・イヤーに選ばれる[11]。2003年12月の中頃、ロンドン・フォーラムで3日連続ギグを行い、全てソールド・アウトとなった。最終日の夜には、大勢のファンがステージへ上がってきた[18][19]。続けて2004年3月、UKツアーを行う。

バニーに代わり、クリエイション・レコーズ創立者のアラン・マッギーがマネージャーとなった(のちにアラン・マッギーは、ダーティ・プリティ・シングスのマネージャーになった)。2ndアルバム制作のためにバーナード・バトラーとスタジオ入りするが、ドハーティとバトラーの関係がうまくいかず、すぐにやめてしまう。前年に公式リリースされたのは「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」だけであったにもかかわらず、NMEアワーズでベスト・ブリティッシュ・バンドに選ばれた。授賞式で「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」を披露。また、式でドハーティとバラーは、ジークフリート・サスーンの詩「Suicide in the Trenches」を共に暗唱した[20]

ミック・ジョーンズがプロデューサーに復帰し、スタジオ入りする。しかし、ドハーティのドラッグ癖が戻り、バラーとの関係が張り詰めたものになる。レコーディング初日に2人は大喧嘩をし、2人を喧嘩から引き離すためにセキュリティーが雇われた[21]。ドハーティはリバティーンズの傍ら、友人のウルフマンとコラボレートし、シングル「フォー・ラヴァーズ」をリリース。全英7位を記録。バラーは、ウルフマンとドハーティのドラッグ癖を快く思わなかったが、B面にギターで参加した。アルバムのレコーディングを終えるとドハーティはミキシングとアフレコを他の者に任せて、スタジオから去ってしまう。ドハーティがまともな状態ではなく、レコーディングできたのはわずか10日間であった[22]。2004年5月14日、ドハーティはドラッグ中毒を絶つため、プライオリーへ入る[23][24]。しかし、すぐにドハーティはプライオリーから抜け出し[25]、1度戻るが、1週間後の6月7日に再び抜け出した[26]

この間、バラーはウエスト・エンドで開く予定のクラブナイト「ダーティ・プリティ・シングス」の準備をしていた[27]。ドハーティは、プライオリーを2回目に抜け出した日に、クラブナイトのオープニング・パーティーへ顔を出した。バンドメンバーに薬物治療のためタイワット・タムクラボークへリハビリに行く決意を語った[28]。この晩、楽器を周りから借りながら短いセットのギグを行った[29][30]。そして、これがリバティーンズ全員揃っての最後のパフォーマンスとなった。

リハビリは再び失敗に終わり、ドハーティは寺院を3日間で去り、ドラッグを求めてバンコクへ向かった[31]。契約上、これ以上ギグをキャンセルするわけにはいかないバンドは、再びロッソマンドを代役に迎え活動を再開。6月17日、ドハーティがイングランドへ帰国したその日に、刃物の不法所持で逮捕される[32]。9月1日、ドハーティはロンドンの裁判所に出廷し、無実を主張。4か月の実刑になる可能性があったが、執行猶予12か月になり実刑を免れた[33]。バラーは、ドハーティをすぐにはバンドへ戻さなかったが、「ドハーティがドラッグ問題を解決すれば、すぐにでもバンドへの復帰を歓迎する」という声明文を出す[34]。しかし、ドハーティは新しく始めたベイビーシャンブルズとしてツアーを敢行、成功し、バンドとの和解の可能性を遠ざけた[35]

2004年7月、フジ・ロック・フェスティバル出演のために、薬物問題が解決しないドハーティ抜きで日本へ向かった。8月、サマーソニックに飛び入り出演。コメディ・ステージでのライブであったが多くの観客を集めた。

2ndアルバムからの1stシングル「キャント・スタンド・ミー・ナウ」をリリースし、全英2位を記録。末に満を持して2ndアルバム『リバティーンズ革命』をリリースし、全英1位を記録。11月、ラストシングル「ホワット・ビケイム・オブ・ザ・ライクリー・ラッズ」をリリースし、全英9位を記録。バンドは最後の日本公演を行い、全国7か所を周った。

12月17日、ドハーティ不在のままパリで最後のギグを行った。無期限活動停止(事実上の解散)を宣言し、活動にピリオドを打つ[36]

2005年2月、NMEアワーズで2年連続でベスト・ブリティッシュ・バンドに選ばれた。授賞式でバラーは「ピートに会えなかったのは残念。キスして仲直りするはずだったのに」と、コメント。

その後、ドハーティはベイビーシャンブルズ、バラーとパウエルはダーティ・プリティ・シングス、ハッサールはイエティでそれぞれ活動している。

再結成

ドハーティとバラーの2人は、リバティーンズ解散後、数か月間連絡を絶っていた。しかし、2005年4月18日午後11時30分頃、2人は北部ロンドン・ハイゲイトのザ・ブーガールー・バーで再会した。この再会は友好的なものと言われている。2人が再会したのは、ドハーティがタイへ行く直前に会って以来、約10か月ぶりであった。2人は最初神経質になっていたが、抱擁で互いを迎え合い、ソファーに座って会話をした。[37][38]

次の再会は、2006年7月18日、カムデンのダブリン・キャッスル・パブで行われた[39][40]

NMEアワーズ2007で、ドハーティとバラーは再会し、バーへ行く前にテーブルでしばらく話をした[41]。2人が会うのはダブリン・キャッスルの時以来だったが、本当にうまくやっている様子だったとNMEは報告している[42]

2007年4月12日、ハックニー・エンパイア劇場でドハーティのソロ・パフォーマンスにバラーが参加。その場でドハーティとバラーによるリユニオンが行われ、「タイム・フォー・ヒーローズ」など、リバティーンズのトラックが合計13曲演奏された。コンサートが終わりバックステージの窓から即興ギグも行われ、外で待ち構えていたファンを熱狂させた[43]

しかし、ドハーティ、バラー共に共演は1回限りだと発言している。バラーはダーティ・プリティ・シングスのニューアルバムに専念しているとインタビューに答えた。一方、ドハーティはソロ・アコースティック・アルバムに加え、ニューアルバム制作の為にスタジオへ入ることを明らかにした。[44][45]

2007年6月、ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』40周年記念カヴァー・アルバムのために、ドハーティとバラーが「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」をレコーディングした。2人が一緒にレコーディングするのは、2004年4月以来であった。[46][47]

グラストンベリー・フェスティバルの日曜日のドハーティのソロ・アコースティック・ショーにバラーが参加するのではないかという噂が流れた。ベイビーシャンブルズ、ダーティ・プリティ・シングス共に、土曜日のステージへは出演したが、日曜日の共演は行われなかった。しかし、ドハーティはリバティーンズのトラックでアコースティック・ショーをスタートさせるなど、思いがけないセットを披露した。[48]

ドハーティとバラーが、ロンドンのドンマー・ウエアハウスのためにロックンロール・ミュージカルをコラボレーションする予定だと報道された[49]。しかし、のちにバラーは、ドハーティと新曲を制作しているという噂を否定した[50]

2008年7月のインタビューで、バラーはリバティーンズについて「やりかけの仕事」と話した。また、ドハーティと一緒にいた時の純粋さを忘れることができないとも話した。リバティーンズ再結成の質問には「たぶん」と答えている。[51][52]

2008年9月17日、ドハーティはカムデンのプリンス・オブ・ウェールズ・パブでプライベート・ギグを行っていた。終盤に差し掛かったところ、かつてのバンドメイトのギグに参加するために、バラーがセキュリティに導かれてステージへ上がった。このリユニオンは突発的に行われたものと思われる。「ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン」や「タイム・フォー・ヒーローズ」、オアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」などを演奏した。2人が公で一緒に演奏するのは2007年4月のリユニオン以来であった。また、バラーは新しくタトゥー「let's put our futures behind us」を前腕に入れたことを話した。[53][54]

2008年10月1日、カール・バラー率いるダーティ・プリティ・シングスが2週間のUKツアーの後、解散することが発表された。声明によると、バンドは新しいことを始める時期がきたということ。しかし、新しいこととは、リバティーンズのことではないと付け加えている。[55][56]

2009年2月、ドハーティはレディング・フェスティバルから数億円で再結成のオファーを受けていたことを明かした。しかしながら、バラーが乗り気でなかったため断っていた。[57]バラーはインタビューに「バンドを解散し自由になれたばかりで、再結成のことで頭をいっぱいにするのは嫌だ。今はダメだ。」と答えている[58]

2009年2月、NMEアワーズでのインタビューで、バラーは2人はまだリバティーンズのままであると答えている。ドハーティは、2010年にはバラーを説得できるとの予想を話した。また、バラーはソロ・アルバムをリリースする可能性を仄めかした。[59][60]

2009年5月15日、ロンドンのリズム・ファクトリーで、バラー、ドハーティ、パウエルの3人がライブを行った。これは生前バンドが世話になっていたジョニー・セダッシーの追悼イベントであった。ハッサールは参加せず、ベイビーシャンブルズのドリュー・マコーネルが代役を務めた。演奏された曲は「ホワット・ア・ウェイスター」「アップ・ザ・ブラケット」「キャント・スタンド・ミー・ナウ」など。[61][62]

音楽性

ドハーティとバラーは異なった音楽的影響を受けてきた。ドハーティは主にザ・ジャムザ・スミスチャス・アンド・デイヴ、ジ・オンリーワンズから、バラーはヴェルヴェット・アンダーグラウンド[63]ジャンゴ・ラインハルトザ・クラッシュドアーズから影響を受けている。本では、ドハーティはウィリアム・ブレイクエミリー・ディキンソントーマス・チャタートンなどを好み、バラーはサキエドワード時代の機知に富んだものを好んだ。

レコーディングは、かなりローファイに行われた。ミキシングアフレコは最小限に抑えられ、最終的にレコーディングされた音は生に近く、洗練されていないものとなった。リバティーンズの登場により、それまでアメリカ一辺倒だったUKチャートへ、多くのイギリス新人バンドが現れるようになった[21]ザ・ビュー[64]ザ・ピジョン・ディテクティヴズ[65]ザ・メトロス[66]など、後進のバンドへ影響を与えている。

ディスコグラフィ

ザ・リバティーンズの作品も参照の事。

アルバム

発売年 タイトル UKチャート
2002年 リバティーンズ宣言 (Up The Bracket) 35
2004年 リバティーンズ革命 (The Libertines) 1
2007年 ベスト・オブ・ザ・リバティーンズ〜TIME FOR HEROES
(Time for Heroes - The Best of The Libertines)
23

シングル

発売年 タイトル UKチャート
2002年 ホワット・ア・ウェイスター (What A Waster) 37
アップ・ザ・ブラケット (Up The Bracket) 29
2003年 タイム・フォー・ヒーローズ (Time For Heroes) 20
ドント・ルック・バック・イントゥ・ザ・サン
(Don't Look Back Into The Sun)
11
2004年 キャント・スタンド・ミー・ナウ (Can't Stand Me Now) 2
ホワット・ビケイム・オブ・ザ・ライクリー・ラッズ
(What Became Of The Likely Lads)
9

脚注

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外部リンク

テンプレート:ザ・リバティーンズ
  1. リバティーンズ、再結成ギグ
  2. カール・バラー、ザ・リバティーンズに「未来はない」と断言
  3. 3.0 3.1 Pete Doherty meets Paul McCartney」 guardian.co.uk、2007年10月14日。
  4. Toby L 「The Libertines - Various, UK, Throughout 2002」 rockfeedback.com、2004年2月9日。
  5. カール、ピートとの共同生活を語る」 BARKS、2006年9月27日。
  6. Free Williamsburg 「Free Williamsburg」 2004年9月。
  7. 7.0 7.1 The Libertines - bounce.com 連載」 bounce.com、2002年12月19日。
  8. The Libertines Interview」 BBC New、2002年10月28日。
  9. 9.0 9.1 9.2 Biography」 RESERVOIR RECORDS。
  10. The Libertines M.ジョーンズがデビュー作をプロデュース」 VIBE、2002年8月23日。
  11. 11.0 11.1 ピーター・ドハーティ ライヴ伝説」 2007年11月。
  12. ピーター・ドハーティ 目撃談」 2007年10月。
  13. The Libertines ピート脱走で解散の危機!?」 VIBE、2003年6月19日。
  14. ザ・リバティーンズ、ドハーティ脱退? バンド存続の危機!?」 BARKS、2003年6月27日。
  15. ザ・リバティーンズのピーター、住居侵入窃盗罪で逮捕」 BARKS、2003年7月30日。
  16. The Libertines 窃盗の罪で服役していたピートが釈放される」 VIBE、2003年10月9日。
  17. 刑期を終えたピーターがザ・リバティーンズに復帰」 BARKS、2003年10月10日。
  18. Masters and commanders」 The Observer、2003年12月21日。
  19. The Libertines ロンドンでの3日間連続コンサートに幕を閉じる」 VIBE、2003年12月22日。
  20. The Libertines ピートがラジオで詩の朗読を披露!」 VIBE、2005年02月28日。
  21. 21.0 21.1 妹沢奈美 「『リバティーンズ革命』日本盤ライナーノーツ」
  22. The Libertines - bounce.com インタビュー」 bounce.com、2004年9月24日。
  23. Peter Doherty Admitted To The Priory」 xfm.co.uk、2004年5月17日。
  24. The Libertines ピートが薬物中毒克服のためリハビリ・センターに入所」 VIBE、2004年5月18日。
  25. Pete Libertines leaves drug rehab」 NME.com、2004年5月24日。
  26. The Libertines ピート、またもや失踪」 VIBE、2004年6月8日。
  27. The Libertines クラブ・イベントに助っ人を交えて登場!」 VIBE、2004年6月7日。
  28. ピート、早くもリバティーンズに復活」 BARKS、2004年6月9日。
  29. Pete rejoins The Libertines」 NME.com、2004年6月8日。
  30. The Libertines ピートがバンドに復帰!」 VIBE、2004年6月9日。
  31. リバティーンズのピート、早くもリハビリを拒絶」 BARKS、2004年6月15日。
  32. ザ・リバティーンズのピート、凶器所有で逮捕」 BARKS、2004年6月21日。
  33. リバティーンズのピート、実刑を免れる」 BARKS、2004年9月2日。
  34. リバティーンズ、ピート抜きでショウを続行」 BARKS、2004年7月1日。
  35. リバティーンズのピート、ソロでUKツアーを」 BARKS、2004年7月21日。
  36. カール、リバティーンズの将来について語る」 BARKS、2005年1月6日。
  37. Libertines Reunion」 NME.com、2005年4月18日。
  38. リバティーンズ、カールとピートが再会」 BARKS、2005年4月20日。
  39. リバティーンズ、カールとピートがパブで再会」 BARKS、2006年7月21日。
  40. Libertines reunion」 NME.com、2006年7月20日。
  41. カール、ピートと共演のきっかけを語る」 BARKS、2007年4月17日。
  42. NME 2007年3月10日、page 39
  43. ついに、ピートとカールがステージで共演」 BARKS、2007年4月16日。
  44. The Libertines speak about reunion」 NME.com、2007年4月25日。
  45. ピート&カール、『リバティーンズの再結成はない』」 BARKS、2007年4月26日。
  46. Libertines Pete and Carl reunite for Beatles recording」 NME.com、2007年6月15日。
  47. カールとピート、『Sgt. Pepper's』でデュエット」 BARKS、2007年6月18日。
  48. カール、グラストンでピートとの共演はないが結婚?」 BARKS、2007年6月25 日。
  49. ピートとカール、ミュージカルを制作」 BARKS、2008年3月4日。
  50. Pete Doherty and Carl Barat 'not working together again'」 NME.com、2008年6月3日。
  51. Carl Barat: 'The Libertines have unfinished business'」 NME.com、2008年7月6日。
  52. リバティーンズに再結成の光!」 TSUTAYA online、2008年07月08日。
  53. MTV UK: Pete & Carl Together Again
  54. 元ザ・リバティーンズのピート・ドハーティーとカール・バラー、ロンドンでライブ共演」 RO69、2008年9月20日。
  55. Dirty Pretty Things Official Announcement」 Dirty Pretty Things | Official website、2008年10月1日。
  56. ダーティ・プリティ・シングス、解散」 BARKS、2008年10月2日。
  57. ザ・リバティーンズ、レディングから再結成の依頼を受ける」 BARKS、2009年2月11日。
  58. カール『リバティーンズの再結成より俳優への道』」 BARKS、2009年2月13日。
  59. ピート・ドハーティ、『リバティーンズ再結成は2010年』?!」 RO69、2009年3月2日。
  60. ピート・ドハーティ『リバティーンズを再結成するようカールを説得する』」 BARKS、2009年2月27日。
  61. リバティーンズ、再結成(のようなもの)」 BARKS、2009年5月20日。
  62. ザ・リバティーンズ再結成? カール・バラー、今後のライブ予定を語る」 RO69、2009年5月20日。
  63. リバティーンズ節健在! 抜群のメロディと切なさの2nd登場!」 BARKS、2004年8月31日。
  64. HARD TO EXPLAIN
  65. マンスリープッシュ」 VIBE、2007年5月18日。
  66. インタビュー」 VIBE、2008年8月26日。