ザンジバル

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テンプレート:基礎情報 行政区画

ファイル:ZanzibarBeach.jpg
ザンジバルの浜辺。
ファイル:Zanzibar Stone Town06.jpg
ストーンタウンの家屋の。ザンジバルにはこのようなザンジバルドアが取り付けられた建築物が多数存在する。
ファイル:Zanzibar east coast pristine beach.JPG
ザンジバル東岸の浜辺。
ファイル:Monument to slaves in Zanzibar.jpg
ザンジバルにある奴隷のモニュメント。

ザンジバルZanzibar)は、アフリカ東海岸のインド洋上にあるザンジバル諸島の地域名。現在はタンザニア連合共和国に属する。人口は約107万人(2004年度)。1963年12月のザンジバル王国イギリスからの独立と、翌1964年1月のザンジバル革命を経て同年4月にタンザニアに合流した後、アフリカ本土のタンガニーカから強い自治権を確保したザンジバル革命政府によって統治されている。

白い珊瑚礁アラブスワヒリヨーロッパの石造建築遺跡が多数残る。かつては奴隷貿易香辛料貿易象牙貿易の拠点でもあった。2000年ザンジバル島のストーン・タウン国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産文化遺産)に登録された。現在は夕陽の名所として有名になっている。面積は日本沖縄県よりも少し大きい程度である[註釈 1]

歴史

テンプレート:Main 1499年ポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマインドからの帰路にザンジバルを訪れた後、16世紀初頭にキルワマリンディなどのスワヒリ諸都市と同様にザンジバルもポルトガルによって征服され、ポルトガル人が入植した。しかし、ポルトガル人は1698年オマーン人に追い出された。以後オマーン出身のアラブ人が象牙や奴隷の売買を始め、更に1832年にオマーンのスルターンサイイド・サイードがザンジバルに王宮ストーン・タウンを建設し、以後オマーン帝国の本拠地となった。1856年にサイイド・サイード王が死去するとマジド・ビン・サイードがザンジバル独自のスルターンに即位し、オマーン本土と分離した独立国であるザンジバル・スルタン国が成立した。1870年にマジド王の後を弟のバルガッシュ・ビン・サイードが襲った後、ティップー・ティプをはじめとするザンジバルのイスラーム商人は奴隷を求めてアフリカ大陸東岸から内陸部のタンガニーカ湖周辺まで勢力を拡大し、この奴隷貿易によって現在のタンザニア、ケニアコンゴ民主共和国東部などアフリカ大陸内陸部のスワヒリ語化の基礎を築いた。

19世紀末のヨーロッパ列強によるアフリカ分割の文脈の中でザンジバルの領土はドイツ帝国イギリスによって分割され、1890年ヘルゴランド=ザンジバル条約によってイギリスの保護領となった。更に1896年、当時のスルターンの甥ハリド・ビン・バルガシュが王位を簒奪、英国の退位要求を拒否したが、駐留していたイギリス艦隊の艦砲射撃により、わずか37分23秒で宮殿は破壊され、ハリドは対岸のドイツ領タンガニーカに亡命した。このイギリス・ザンジバル戦争は「史上もっとも短時間の戦争」としてギネスブックに掲載されている。戦争後、翌1897年奴隷制度が廃止された。

1963年12月10日にザンジバルはブーサイード家の国王を戴いたまま、イギリス連邦の一員たるザンジバル王国として独立したが、翌1964年1月12日にアラブ系スルターンの長年の支配に不満をもっていたアフリカ人クーデターを起こし、アラブ人インド人が排斥される流血の中でザンジバル人民共和国が樹立された(ザンジバル革命)。東西冷戦の文脈の中での紆余曲折の後、同年4月に西側諸国の支持を得て、ジュリウス・ニエレレ大統領率いる大陸部のタンガニーカと合併してタンガニーカ・ザンジバル連合共和国を結成し、現在のタンザニア連合共和国が成立した。

以上の歴史的背景により、タンザニアの大陸側からザンジバル島に入るためには、出入国手続きが必要となっている。

政治

ザンジバルには大陸部から独立して広範囲な自治権が認められており、独自の自治政府であるザンジバル革命政府が組織されている。ザンジバル革命政府大統領は、連合共和国第一副大統領を兼任することになっている。現在のザンジバル革命政府大統領は、タンザニア革命党(CCM)のテンプレート:仮リンクである。

タンガニーカ同様、ザンジバルでも圧倒的な力を持つ政党は、かつて一党制を敷いていたタンザニア革命党(CCM)である。しかしザンジバルを支持基盤とする市民統一戦線(CUF)は、連合共和国議会ザンジバル議会において常に議席を獲得し、CCMに対抗する数少ない有力野党の1つとなっている。

2010年7月31日、新憲法が住民投票で3分2の多数で承認された。新憲法は、自治政府を複数政党で構成すること、自治政府副大統領は自治議会第一・第二政党が1人ずつ選出すること、自治政府閣僚も議席に応じて配分することを義務づけている。10月に、自治政府大統領・自治議会選挙が行われる。この新憲法のための住民投票は、大陸部で支配力を持つタンザニア革命党(CCM)と地方政党の野党市民統一戦線(CUF)が交渉して決めたものである。

地方行政区分

ザンジバル革命政府の統治下にはタンザニアの地方行政区分全30州の内、5州が存在する。

地理

ザンジバル諸島ウングジャ島(ザンジバル島)とペンバ島の二つの主要な島と、ザンジバル革命政府の行政権の及ばないマフィア島などの周辺の小さな島々から構成されている。

交通手段

  • ダルエスサラームより船が出ている。
  • ダルエスサラームなど、各地からザンジバルへの航空便も出ている。

文化

ザンジバルにはテンプレート:仮リンクタアラブ音楽などの文化が存在する。

ザンジバルの建築には独特の彫刻が施された木彫の(ザンジバルドア)が存在する。現存するザンジバル最古のザンジバルドアは1700年-1701年ヒジュラ暦1112年)に製作されたものであり、19世紀のサイイド・サイード王による王宮建設以後、貴族や商人をパトロンに扉製作の文化が栄え、オマーンの影響を受けたアラブ様式の扉が製作されるようになった[1]。1870年に即位したバルガッシュ・ビン・サイード王が1883年にインド人の職人に迎賓館の扉の製作を発注したことを契機にインド様式の扉が製作されるようになり、インドのグジャラート地方の扉製作技術が伝わった[2]。1964年のザンジバル革命によってそれまでザンジバルドアのパトロンだった富裕なアラブ貴族やインド商人が大量に殺害され、或いはザンジバルから亡命した後、ザンジバルドアの製作技術の継承は廃れたが、1979年に政府がダルエスサラームに移住していたアラブ様式の扉職人のマアリム・ヤハヤ(Maalim Yahya)をミクングニ技術中等学校(Mikunguni Technical Secondary School)の教師として呼び戻し、また、農村部に伝えられていたアラブ様式、インド様式以前のシャンバ様式の職人の伝統が革命後も生き残っていたこともあって、1980年代よりアラブ、インド、シャンバの各様式を折衷した扉政策の技術が徐々に復興されつつある[3]。現在、扉製作の技術を教授しているのは公立のミクングニ技術中等学校(Mikunguni Technical Secondary School)のみだが、ザンジバルの人々はそれぞれの趣向に応じてザンジバルドアを買い求めている[4]

著名な出身者

脚註

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註釈

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出典

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参考文献

関連項目

外部リンク

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  1. 榊原(2009:22-23)
  2. 榊原(2009:24)
  3. 榊原(2009:20,24-32)
  4. 榊原(2009:20-22,25-26)