ザラスシュトラ

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ラファエロ作『アテナイの学堂』(部分)。左端で天空儀を持っている人物がザラスシュトラ

ザラスシュトラアヴェスター語Zaraθuštraテンプレート:Lang-fa紀元前13世紀?~紀元前7世紀?)は、ゾロアスター教の開祖である。近年の研究では、前10世紀から前11世紀にかけて活躍したといわれるが、研究者によって異なる。たとえば、前1750年から前1500年にかけて、また前1400年から前1200年にかけて、イランの伝統では前570年頃、パールシー教では前6000年より以前ともされる[1]一神教を最初に提唱したともいわれるが、ゾロアスター経典の中には、古代アーリア人に共通する多くの神々が登場する。したがって、正確には「数多くの神々の中から、崇拝に値する神をアフラ・マズダーだけとした」人物である。その教えは、ユダヤ教キリスト教に影響を及ぼし、またテンプレート:要出典範囲。ただしその影響力を絶対視する向きから、かなり限定的に見たり、時にまったく皆無であったとする見方まで、さまざまである。

ニーチェの著作『ツァラトゥストラはかく語りき』の影響から「ツァラトゥストラ」として有名だが、これはペルシア語での呼称をドイツ語読みしたものである。日本語では英語名の転写ゾロアスターZoroaster)の名で知られるが、これは古代ギリシア語での呼称であるゾーロアストレースΖωροάστρης, Zōroastrēs)に由来する。

歴史上のザラスシュトラ

テンプレート:Zoroastrianism ザラスシュトラの本来の教えは、イランの神話的聖典である『アヴェスター』内の「テンプレート:仮リンク(韻文讃歌)」部分の記述がそれに相当すると考えられる。インドの『リグ・ヴェーダ』などとの言語学的比較から、ガーサー[2]紀元前15世紀頃から紀元前13世紀頃に成立したと考えられる。ここからテンプレート:仮リンクなどは、ザラスシュトラの生存した年代をこの期間のいずれかに比定している。

伝承は、スピタマ家(Spitamids)のポウルシャスパ(Pourušaspa)の子がザラスシュトラであるとする点では一致し、その生涯のエピソードなどもほぼ一致して詳細が語られる。

古代ギリシア人は、アケメネス朝ペルシアの知識人を通じてザラスシュトラの名を知り、彼らの歴史にザラスシュトラについての記録を残したが、その中では、彼らの時代よりも5千年以上過去の人物であるとか、神話的に把握されていた。従って、古代ギリシアの文献記録の記述は歴史上のザラスシュトラについて正確とは言い難い。ただし、紀元前4世紀頃には既にこのような伝承が存在していたことを確認できるという点では史料価値がある。

教え

テンプレート:See also ザラスシュトラの教えは、後にゾロアスター教としてまとまった宗教体系となるが、ザラスシュトラの教えが述べられているとされる聖典『アヴェスター』が文字で記録されたのは後3世紀サーサーン朝ペルシアの時代である。この時代には、ペルシア語は中世ペルシア語となっており、アヴェスター語とも呼ばれる古代ペルシア語はこの当時すでに解読が困難であった。特にその最古層に属するガーサー部分は、今日でも解釈に異論があり確かなことが分からない。ザラスシュトラ自身の教えの言葉が含まれるとされるガーサーは古代ペルシア語の方言で記されており、一層解読に問題がある。

ザラスシュトラの教え自体は生前すでに大きな影響力を持ち、口伝で『アヴェスター』及びその教えや儀式は伝わっていった。アケメネス朝ペルシアの王たちはザラスシュトラの教えに帰依していたが、その帝国の住民にザラスシュトラの教えを「国教」として強制することはしなかった。このような状態は、アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス大王の後のギリシア人の王朝であるセレウコス朝シリア、そして再びペルシア人自身の王国となったアルサケス朝ペルシア(パルティア)においても同様であった。ただ、アルサケス朝では、国教化への準備とも言える、『アヴェスター』の文字化や儀式・祭礼の文書化などが試みられていた。

アルダシール1世による突然のアルサケス朝の転覆と、それに続くサーサーン朝ペルシアの成立においてマニ教を弾圧した大神官キルディール(カルティール)などの活躍により、3世紀半ばになってゾロアスター教はサーサーン朝の国教となった。400年後、イスラム教の成立とイスラム帝国の勢力拡大によりサーサーン朝は滅び、ゾロアスター教はイスラム教に取って代わられる。しかし、ザラスシュトラの教えはイスラム教内部にも浸透しており、シーア派などにもザラスシュトラの教えとされる思想が認められる。

ニーチェの時代、ヨーロッパではザラスシュトラの思想は一つの流行となっていた。ニーチェがどこから資料を得たのか不明であるが、後年の研究成果と比較しても、かなり正確な知識を持っていたと思える。ただ、その著作『ツァラトゥストラはかく語りき』は、ニーチェ自身の思想をザラスシュトラに仮託して述べたものであり、ゾロアスター教との相関はほとんどない。ザラスシュトラの教えには、「永劫回帰」などはない。恐らくは、リグ・ヴェーダ中の記述と混同した結果のニーチェの誤認である(永劫回帰に近い、全ては無から生じ無に還るの記述は、ヴェーダのガーターなどヒンドゥー起源の書物に繰返し引用されている。しかし、基本的にガーターはニーチェほどのラディカルな回帰性にない。)

脚注

  1. Boyce, Mary (1975), History of Zoroastrianism, Vol. I, Leiden: Brill Publishers
  2. サンスクリット語では、「ガーター」(諷頌)がこれに対応する

関連項目

参考文献