サム・ペキンパー

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テンプレート:ActorActress サム・ペキンパーSam Peckinpah, 1925年2月21日 - 1984年12月28日)は、アメリカ合衆国映画監督。代表作に『ワイルドバンチ』、『わらの犬』、『ゲッタウェイ』、『ガルシアの首』、『戦争のはらわた』など。

本国アメリカではその残酷な作風から「血まみれのサム」(原文:Bloody Sam)と呼ばれた。日本では最後の西部劇監督、もしくはバイオレンス映画の巨匠として知られる。暴力描写とそれを写し出す映像技法は映画界に留まらず、ジャンルを超えて多くの人々へ影響を与えた。

経歴

サム・ペキンパーは1925年2月21日カリフォルニア州フレズノで生まれた。本名はデヴィッド・サミュエル・ペキンパー。本人はインディアンの血を引いていると自慢していたが、実際はドイツ移民の子孫で、一族の本来の苗字はベッケンバッハ(Beckenbach)だったが、米国に移民してからペキンパー(Peckinpaugh)と改め、曾祖父の代からPeckinpahとなった。少年時代は読書好きで繊細な性格だったという。

第二次世界大戦では海兵隊として従軍する。戦後南カリフォルニア大学に入学し、そこで演劇を学んだ。卒業後しばらく舞台演出家として活動する。その後テレビ局の裏方としてスタジオに入り、ドン・シーゲルのもとに弟子入りする。『ガンスモーク』、『ライフルマン』、『風雲クロンダイク』といった脚本がテレビ局に買われ、西部劇のテレビシリーズのディレクターになった。

ペキンパーが初めて監督した劇場映画は、『荒野のガンマン』(1961年)である。翌年に公開された『昼下りの決斗』(1962年)で監督としての力量を認められたものの、『ダンディー少佐』(1965年)では編集権をめぐりプロデューサーと衝突、以後しばらく映画界から干されてしまった。しかしテレビ映画『昼酒』(1966年)での優れた演出が認められ、無事復帰することになる。

ワイルドバンチ』(1969年)では、スローモーション撮影を多用とした独特のバイオレンス描写でアクション映画に新境地を切り開いた。その反面一般客や保守的な批評家からは、その過激な暴力表現に対する批判を招いた。『砂漠の流れ者/ケーブル・ホーグのバラード』(1970年)はペキンパーによってベスト・フィルムであることを宣言された作品であり、彼の穏やかな一面が見られる。『わらの犬』(1971年)はペキンパー作品でも特に暴力描写が激しい作品で、公開後物議を醸した。『ゲッタウェイ』(1972年)は人気俳優スティーブ・マックイーンを主役に迎え初の大ヒットを記録。ペキンパー監督作品としては最も娯楽色の強い映画である。

ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』(1973年)はボブ・ディランが音楽を担当していることで話題になった。ペキンパー本人も棺桶屋の役で出演している。『ガルシアの首』(1974年) はアメリカでは惨敗したが、日本ではヒットした。しかしその次の監督作品『キラー・エリート』(1975年)は作中の奇妙な日本描写が日本人の顰蹙を買い、興行的には失敗した。『戦争のはらわた』(1977年)もアメリカでは興行的にも批評的にもいまひとつだったが、ヨーロッパや日本では高い評価を受けた。オーソン・ウェルズマーティン・スコセッシらに絶賛された作品でもある。

監督として精力的に活動を続ける半面、ペキンパーの体は徐々にアルコールや麻薬で蝕まれていた。『コンボイ』(1978年)はペキンパーのキャリアで最大のヒット作となったものの、撮影中にスタジオで見せた狂態が映画会社に嫌われてしばらく監督業から遠ざけられてしまう。結局その5年後の『バイオレント・サタデー』(1983年)が最後の監督作品となった。

1984年12月28日に59歳で死去。死因は心不全だった。

監督としての特徴

バイオレンス映画、アクション映画の原点にして頂点とも言える作品を数多く世に送り出した。また、滅びゆく西部の男たちを哀切の込もった視線で描き続けたことから、「最後の西部劇監督」、もしくは「西部劇の破壊者」と呼ばれる。同時期のマカロニ・ウェスタンの巨匠セルジオ・レオーネと同様、西部に対する深い愛と、失われてゆく西部への哀愁が漂う作品が多かった。

予算やスケジュールを度外視してまで作品の完成度を追求し、気に入らないことがあれば関係者を容赦なく叱咤した。そのため製作者や出演者と事あるごとに衝突し、特に晩年は会社側からは扱いづらい監督として冷遇され続けた。また、私生活でも過度の飲酒や麻薬常用などの問題を抱えていた。それは誰にも自分の感情を理解してもらえない孤独な寂しさゆえの表れであったとも言える。実生活での過剰なストレスゆえか、晩年は実年齢と比べてかなり老け込んだ風貌だった。ペキンパーの作品は、トラブルメーカーだった本人自身の経験や人生が色濃く反映したものである。ペキンパー映画の常連俳優であるL・Q・ジョーンズは、同じ作品を14本も撮ったと語った。それぐらいペキンパーの作品は、彼自身の性格を表したような作品が多いということである。

ペキンパーはスローモーションや細かいカットを自在に編集するセンスで、映画中に過激な暴力描写を生み出した。ペキンパー独自の演出は、マカロニ・ウェスタンや同じ暴力派のドン・シーゲルの影響を受けたと言われた。また、斬新な映像表現はジョン・ウークエンティン・タランティーノに代表されるフィルム・ノワール的な作品やウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』など、今日に至るまでのアクション映画における表現手法に多大な影響を及ぼした。

日本では黒沢清青山真治井筒和幸森達也大林宣彦崔洋一野沢尚君塚良一といった映像作家がペキンパーに対するリスペクトを表明している。彼らは皆一様に(特に森は)『ワイルドバンチ』を高く評価している。また黒沢は『砂漠の流れ者』を(彼の『ニンゲン合格』は『砂漠の流れ者』がモチーフとなっている)、井筒は『ゲッタウェイ』と『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』を、崔は『ガルシアの首』を、野沢と君塚は『わらの犬』をそれぞれ賞賛している。また、直接のつながりはないものの、石井輝男作品との類似性を指摘する評者(福間健二)もいる。

ペキンパー曰く、映画人生を通じて影響を受けた監督はドン・シーゲル、ジョン・フォード黒澤明とのことである。特に黒澤の『羅生門』はこれまで作られた映画の中で最も優れた作品、とインタビューの中で語っている。

評価

テンプレート:独自研究 日本の評論家では蓮實重彦川本三郎町山智浩石上三登志などがペキンパーを高く評価している。町山は『戦争のはらわた』を「生涯のベストムービー」と自身の著書などで発言している[1]

逆にジョン・フォードなどの正統派西部劇を愛した黒澤明やハワード・ホークスといった映画監督、淀川長治双葉十三郎といった評論家はペキンパーの西部劇を嫌っていた。淀川と双葉は『ワイルドバンチ』を酷評し、更に淀川は『ビリー・ザ・キッド 21歳の生涯』を「何て汚い映画なんだ」と扱き下ろした。ただし彼らが積極的に評価したペキンパー作品も存在する。双葉は『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』をその年のキネマ旬報ベスト・テン第1位にし、淀川も同じく『ジュニア・ボナー 華麗なる挑戦』と『戦争のはらわた』に票を投じた。

ペキンパーの作品は日本やヨーロッパでの評価は高く、アメリカでは非常に低いという説がある。興行収入で比べると、ペキンパーの自信作である『ワイルドバンチ』や『戦争のはらわた』よりも、テンプレート:要出典範囲『ゲッタウェイ』の方が上であった。

作品

参考文献

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  • ガーナー・シモンズ著、遠藤壽美子・鈴木玲子訳『サム・ペキンパー』、河出書房新社、1998年6月、ISBN 4-309-26340-2
    • 原著:Garner Simmons (1982). Peckinpah: A Portrait in Montage. University of Texas Press. ISBN 087910273X.
  • 遠山純生編『e/m ブックス vol.10 サム・ペキンパー』、エスクァイア・マガジン・ジャパン、2001年9月、ISBN 4-87295-078-X

外部リンク

テンプレート:サム・ペキンパー監督作品

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