サナア

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テンプレート:世界の市 サナア[1]Sana'aテンプレート:Lang-ar; テンプレート:Transl)は、アラビア半島南西にあるイエメン首都である。サナア県の中心ではあるが、行政上はサナア県に属さず、Amanat Al-Asemah(サナア市)を単独で構成している。サナアは標高約2,300mの高原にあり首都としては世界でも高地にある。モンスーンの影響を受け、雨量も多い。市内には粘土で作った煉瓦造りの建物があり、アラブ文化が色濃く残っている。イスラム都市であり、市内にはムスリム大学やモスクが数多く見受けられる。2008年に完成したサーレハ・モスクは4万人を収容する。サナアの人口は1,747,627人、都市圏人口は2,167,961人(2004年)で世界で最も増加率の高い首都の一つである。サヌアとも表記される。

歴史

世界最古の町のひとつとされ、伝説ではノアの息子・セムによって町が創建されたとされる。エベルの息子のヨクタン(イエメンに入植したと言われる)の子孫・ウザルに因んで、サナアは古くは「アザル」と呼ばれた。現在の地名は南アラビアの言葉で「堅牢な要塞」を意味する。シバ王国の王都があったとされるマアリブ(今日のマアリブ県)と紅海を結ぶ十字路に位置し重要な町であり続けた。「ユダヤ教王朝」として知られるテンプレート:仮リンク紀元前110年 - 525年)の最後の王・テンプレート:仮リンクは都をサナアに移した。アクスム王国では総督府が置かれた。イスラム教がこの地に入りカリフ制国家の支配下に入ってもサナアは中心都市として揺ぎ無いものがあった。マムルーク1517年にイエメンに侵入するもマムルーク朝オスマン帝国に滅ぼされると、サナアはその支配下に置かれた。1538年から1635年の第一次支配下ではウィラーヤの中心となり、1872年から1918年のオスマン帝国の第二次支配下でもウィラーヤの都であった。

1918年イエメン王国が成立すると首都となり、1962年イマームが放逐されイエメン・アラブ共和国が成立されるとその首都となった。南北イエメンが統一された1990年からは現在のイエメン共和国の首都である。

市民

人口
1911 18,000[2]
1921 25,000[3]
1931 25,000
1940 80,000
1963 100,000
1965 110,000
1975 134,600[4]
1981 280,000
1986 427,505
1994 954,448
2001 1,590,624
2004 1,748,000 (Census-Metro[5])
2005 1,937,451[6]

ユダヤ人社会

ソロモンの時代からサナアには多くのユダヤ人が暮らし、世界でも最古のディアスポラのひとつを形成してきた。イスラエル建国後はおよそ5万人とされるイエメン・ユダヤ人がイスラエルに移民したが、そのうちの1万人はサナアからである。ユダヤ人がアリー・アブドッラー・サーレハ政権に協力してきたため、反ユダヤ暴動が2004年以降にサアダ県などで頻発し、ユダヤ人はサナアに避難、2010年現在、サナアには政府の保護下にある70人のユダヤ人がいる。

地理

気候

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経済

交通

国営航空イエメニアがあり、サヌア国際空港が主要空港である。鉄道はなく、路線バスとダッパーブとよばれる乗り合いミニバスやタクシーが市民の足である。アデンなど地方都市を結ぶバスもある。

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世界遺産

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サナアの旧市街地は、1986年、世界遺産に登録された。

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

姉妹都市

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister


テンプレート:Yemen-stub テンプレート:イエメンの県 テンプレート:アジアの首都 テンプレート:イエメンの世界遺産

  1. テンプレート:Cite web
  2. Wavell, p.245.
  3. Statesman's Year Book, 1922, p.1367.
  4. Hestler, p.56.
  5. Aldosari, p.134.
  6. Bosworth, p.463.