コロンビア革命軍

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テンプレート:Infobox War Faction コロンビア革命軍(コロンビアかくめいぐん、西Fuerzas Armadas Revolucionarias de Colombia)は、コロンビアの反政府左翼ゲリラである。スペイン語の正式名称から通称はFARC中南米最大の反政府武装組織であり、活動地域はコロンビア国内のみならず、ベネズエラパナマペルーブラジルエクアドルなど[1]の周辺国へも広がっている。農民主体のゲリラであるにもかかわらず、幹部にはインテリも含まれ、組織のホームページを運用(現在は閉鎖中)し情報収集活動も行っている。

沿革

19世紀の中頃、コロンビアでは自由党保守党による議会政治が行われてきた。しかし、それは民主政治とはかけ離れたものであり、大地主教会資本家といったブルジョワ層を支持する政治組織以外は排除されていたため、農民をはじめとしたコロンビア一般市民は非常に貧しい生活を強いられてきた。

1959年キューバ革命が起きると、コロンビアでもその影響を大きく受けた組織が次々と旗揚げした。FARCもその1つであり、1964年5月27日に結成された。自由党系の武装農民運動から出発し、1966年、伝説的な指導者マヌエル・マルランダが最高司令官に就任。コロンビアの寡頭制の打倒、農地改革、富の再分配を掲げ、マルクス・レーニン主義社会主義革命政権樹立を目的とした。

勢力の拡大

1980年代初頭までは勢力1,000人規模だったが、80年代半ばより麻薬密売組織と協力関係を結び、コカイン原料のコカ栽培地やコカイン精製工場、コカイン密輸ルートを保護することで多額の軍資金を獲得。政府軍より高性能の兵器を備えることで急速に勢力を拡大させた。その規模は1995年にコロンビア政府が麻薬組織を壊滅させてからFARCがコカイン取引に直接関与することで急成長し、95年当時6,000人規模だったのが2000年代には3倍の18,000人に膨れ上がった。一時はコロンビアの3分の1を実効支配下に置き、支配地域でのコカ栽培への課税、住民からの徴税、要人誘拐による身代金やコカイン取引で毎年推定8億ドルもの活動資金を得ていた。

和平交渉の失敗

1984年に政府との和平交渉に応じ、翌年愛国同盟という合法政党を創設。国会議員を送り込んだが、議員や関係者は3,000人も暗殺され、1994年には政党資格を消失し国政から離脱した。

誘拐は日本人も何度も標的になっており、1991年8月には東芝の技術者2人が誘拐(同年12月解放)。1998年2001年には元山梨県議が2度誘拐され、いずれも無事解放されたが、2001年2月に誘拐された矢崎総業の現地法人副社長は2003年11月に殺害された(コロンビア邦人副社長誘拐事件)。また、2010年3月には、南西部カリ在住の日本人男性が誘拐されたが、約4ヵ月半後にコロンビア軍特殊部隊により無事救出された。

1998年に就任したアンドレス・パストラーナ大統領は反政府左翼ゲリラとの対話による和平実現を公約に掲げ、1999年1月からFARCと和平交渉を再開し、政府は交渉のためコロンビア南部の広大な地域から国軍警察部隊を撤退させ非武装地帯を設けたが、交渉は不調に終わった。FARCは首都ボゴタ南部のサン・ビセンテ・デル・カグアンに事実上の首都を置き、一時は武力で政権を奪取するのではないかという話も現実味を帯びるほど勢力は強大で活動は活発だったが、2001年9月11日アメリカ同時多発テロ事件以降は国際社会がテロに対して非常に厳しい姿勢を示すようになり、コロンビア政府も米国に同調する形でFARCに対し強硬な態度で臨むようになった。

2002年2月20日、南部のネイバからボゴタへ向かう国内線プロペラ機がFARC構成員にハイジャックされ、和平交渉担当の上院議員が拉致される事件が発生すると、これを契機に政府は最終的に交渉を打ち切り、国軍を展開させ事実上FARCの支配下にあった非武装地帯を奪回した。

対話から対決へ

2002年8月に就任したアルバロ・ウリベ大統領は1983年に父親をFARCに殺害されており「力による内戦終結」を掲げ、対FARC強硬策を選択した。「Plan Patriota(愛国計画)」と呼ばれるウリベ政権下での徹底的な掃討作戦の結果、FARCは勢力を減退させ、ベネズエラ国境地帯やコロンビア南西部のジャングル地帯に追い込まれた。相次ぐ幹部の逮捕や殺害、兵士の脱走、大量投降で現在の兵力は10,000人を切るなど弱体化が進んでいるとされる。

2007年8月からベネズエラのウゴ・チャベス大統領を仲介役にして人質解放交渉が始まり、同年末から2008年2月にかけて750人の誘拐した人質のうち6人を解放したが、交渉に当たっていたNo.2のラウル・レジェス3月1日早朝にエクアドル領内で他の23名とともにコロンビア空軍の空爆を受けて殺害された。その際コロンビア当局が押収したパソコンの記録などから、FARCが核物質のウラン50キロを入手していた可能性が強まった。また7日には最高幹部の1人であるイバン・リオスが部下の護衛に殺害された。これで最高幹部7人のうち2人を短期間に失ったことになり、FARCにとっては大きな打撃となった。

2008年5月24日、コロンビア政府当局者はFARC最高幹部のマヌエル・マルランダが同年3月26日夕方に死亡していたと発表した。死因は心臓発作だった。

人質救出作戦の成功

2008年7月2日、コロンビア軍は、誘拐後、約6年間拘束されていたイングリッド・ベタンクール元大統領候補ら人質15人を救うべく救出作戦を実行した。作戦は、民間人を偽装した軍人が行い、まず偽の人質移送計画を幹部に信じ込ませ、民間機に偽装した軍のヘリに人質を乗せた。その後、同乗したゲリラ兵2人を拘束し、機内で「我々は国軍です。皆さんは解放されました」と告げた。機内では歓声が上がった。作戦は一発も発砲することなく終了した。なお、フランス国籍も持つベタンクールのため、フランス政府が作戦を支援した可能性が指摘されている。また、後に作戦に参加した兵士の1人が、国際法で濫用を禁止されている赤十字の標章を、無断で身につけていたことが判明し、非難を受けた。これを受けて大統領は演説で謝罪した。

幹部の死と和平交渉再開

2010年9月23日、コロンビア軍はFARC司令官のホルヘ・ブリセーニョ(通称モノ・ホホイ)を軍事作戦の末に殺害したと発表した。コロンビアのフアン・マヌエル・サントス大統領は「FARCに対する大きな勝利だ」と語った。

2011年11月4日、コロンビア政府はFARC最高幹部アルフォンソ・カノを南西部カウカ県の山岳地帯で10時間以上にわたる戦闘の末に殺害した[2]。カノの死によりFARCは壊滅的打撃を受けるのは必至。カノは2008年3月に死亡したマルランダの後継者としてFARCを率いていた。FARCはカノの死後、新たにロドリゴ・ロンドーニョ・エチェベリ(通称ティモチェンコ司令官)を指導者に選出し、武装闘争の継続を宣言した。

2012年2月26日、FARCは拉致後10年以上拘束していた軍・警察関係者の人質10名を解放するとともに、「今後身代金目的の民間人の誘拐は行なわない」とする声明を発表した。

2012年9月4日、コロンビア政府とFARCの和平交渉が10月からノルウェーオスロで行なわれることが発表された。8月に政府がFARCと予備交渉を行ない、公式交渉をオスロで行なった後、キューバハバナで交渉が継続される[3]

他の組織との関わり

上記のように、麻薬カルテル(コロンビア系マフィア)との関係が深い。特に、コロンビアの2大マフィアと呼ばれるメデジン・カルテルカリ・カルテルとは非常に深い関係にあり、彼らマフィアはゲリラの圧倒的な武力と引き換えに、FARCを支援[4]、ゲリラが大統領候補の暗殺をする一方でマフィアは多くの議員にヤミ献金を送るなどしていた[1]

それ以外は、FARCはロシアン・マフィアからロシア製の武器を供給してもらう代わりに、麻薬カルテルから得た麻薬や、自分たちで栽培した麻薬をマフィアに提供している[1]ヨーロッパに運ばれるコロンビア産のコカインの3割以上はロシアン・マフィアが運んでいるとされる[1]

また、FARCやELNなどの左翼ゲリラが国土の3分の1近くまで勢力を伸ばしている中で、1997年にそれら左翼ゲリラに対抗するため、極右私兵組織「AUC(コロンビア自警軍連合)」なども現れている。

使用する武器は、ロシア製が中心だが、アメリカ製の銃火器も好んで使用する。

関連書籍

参考・脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 世界情勢を読む会『「タブー」の世界地図』日本文芸社 ISBN 4537251891
  2. コロンビア左翼ゲリラ「FARC」最高幹部を軍が殺害AFP、2011年11月5日
  3. コロンビア政府と左翼ゲリラ、10月にオスロで和平交渉CNN、2012年9月5日
  4. FARC以外にもELN(民族解放戦線)なども支援している。

関連項目

外部リンク

ビデオ

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