コソボ

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コソボ共和国
Republika e Kosovës(アルバニア語)
Република Косово(セルビア語)
コソボの国旗 コソボの国章
国旗国章
</dd>

国の標語:不明
国歌ヨーロッパ
コソボの位置

公用語 アルバニア語セルビア語
首都 プリシュティナ
最大の都市 プリシュティナ
政府

大統領 アティフェテ・ヤヒヤガ
首相 ハシム・サチ

面積

総計 10,908km2???位
水面積率 不明

人口

総計(2011年 1,794,000人(???位
人口密度 165.46人/km2
GDP(自国通貨表示)

合計(2007年34億1,100万ユーロ (€)
</dd>
GDP(MER

合計(2007年46億7,600万ドル(???位
</dd>
GDP(PPP

合計(xxxx年xxx,xxxドル(???位
1人あたり xxxドル
</dd></dl>

<tr> <th>独立宣言<td>2008年2月17日 </tr>

通貨 ユーロ (€)(EUR
時間帯 UTC +1(DST:+2)
ISO 3166-1 不明
ccTLD 不明
国際電話番号 381

</dd> </dl> コソボ共和国(コソボきょうわこく)、あるいはコソボ・メトヒヤは、バルカン半島中部の内陸部に位置する地域である。北東をセルビア、南東をマケドニア共和国、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。

ユーゴスラビアのセルビアに属する自治州のひとつであったが、2008年2月17日コソボ議会は独立を宣言し、コソボ共和国を名乗っている。2014年2月中旬の時点で独立を承認しているのは、国連加盟193国のうち106ヶ国と、台湾およびマルタ騎士団である。独立を承認していない国では、セルビア領土の一部(コソボ・メトヒヤ自治州)とみなされている。

呼称

「コソボ」という地名は、ブルガリア語クロウタドリを意味する「コス」(ブルガリア語: Кос / Kos)に由来している。アルバニア語ではKosovaもしくはKosovë、セルビア語のキリル文字表記ではКосовоラテン文字表記ではKosovoである。

特にセルビア人の間で、この地域の西部はメトヒヤ(セルビア語: Метохија / Metohija)と呼ばれており、この地域全体を指す呼称としては「コソボとメトヒヤ」(セルビア語: Косово и Метохија / Kosovo i Metohija、コソヴォ・イ・メトヒヤ)が使われている。他方、アルバニア人の間ではメトヒヤの名前は使われず、この地域全体を指してコソヴァと呼ぶ。

2008年2月に独立を宣言した際の憲法上の国名は、アルバニア語Republika e Kosovësセルビア語Република Косово / Republika Kosovoである。その他の言語での表記としては、英語ではRepublic of Kosovoトルコ語ではKosova Cumhuriyetiボスニア語ではRepublika Kosovoである。日本語表記はコソボ共和国、通称コソボである。コソヴォとも表記する。アルバニア語名に沿ったコソバないしコソヴァという表記はあまり使用されていない。

セルビアは、コソボを自国の一部と規定しており、コソボ・メトヒヤ自治州セルビア語: Аутономна Покрајина Косово и Метохија / Autonomna Pokrajina Kosovo i Metohija)と呼んでいる。コソボの独立を承認していない国々は、コソボを国連の管理下にあるセルビアの一部として取り扱っている。

歴史

テンプレート:Main

ファイル:Dardania kingdom.png
紀元前3世紀〜紀元前1世紀頃のダルダニア王国(黄色)

6-7世紀以前のコソボの歴史は、現在でもあまり明らかではない。6-7世紀以前には、古代トラキア人やイリュリア人が住んでいたであろうといわれている。古代トラキア人は多くの氏族に分かれており、そのうちのコソボの地域に住んでいたある氏族は、テンプレート:仮リンクと呼ばれた。このため、この地方は当時テンプレート:仮リンクDardania)と呼ばれていた。

東ヨーロッパから侵入したスラヴ人の定住に続いて、6-7世紀以降には、古ブルガリアからブルガール人(現在のブルガリア人の祖先)がやってきて、ダルダニアを征服した。681年にアスパルフによって建国された、ブルガール人を主体とする第一次ブルガリア帝国は、やがてこの地方をその支配下に置くようになった。ブルガリア帝国ではブルガール人とスラヴ人の融合が進み、現在のブルガリア人の祖となった。コソボや隣のマケドニアの地域はブルガール帝国の重要な一部であった。

12-13世紀、セルビア人の居住地域は、諸侯により群雄割拠される状態が続いていたが、セルビア人の指導者だったステファン・ネマニャは、コソボを含む現在の南部セルビア地方を中心としてセルビア諸侯国を統一し、セルビア王国を建国した。これによってコソボはセルビア誕生の地域となった。

オスマン帝国がバルカン半島を征服しようとした時、セルビア人は自分たちの土地を守るために戦い抜き、最終的に「コソボの戦い」へ至った。コソボの戦いで、セルビア人はオスマン帝国の4万人の兵士と激しく戦い、オスマン帝国の皇帝ムラト1世を殺すことに成功した。皇子バヤズィト1世は、コソボの戦いの中で新皇帝となった。最後の戦いが行われた平原には、ムラト1世の墓地が今でも残されている。セルビア人はコソボの戦いでムラト1世を戦死させたが結局オスマン帝国に敗北し、セルビアの貴族も、指導者のセルビア侯ラザルもすべて殺されてしまった。それ以来バルカン半島の国々は皆オスマン帝国に征服され、5世紀もの間自分たちの国を持つことができなかった。

コソボの地で初のセルビア人の統一王国が誕生したことと、コソボの戦いでの敗北によってセルビアは最終的にオスマン帝国に併呑されるに至ったことから、セルビア人からはコソボは民族にとって重要な土地とみなされている。コソボの戦いは伝説化され、民族的悲劇として後世に語り継がれることとなった。

ファイル:Kosovo02.png
オスマン帝国1875〜1878年のコソボ行政区(黄色)

コソボの最も多くの人口をアルバニア人が占めるようになったのは、17世紀後半から18世紀前半にかけて、ハプスブルク皇帝の呼びかけに応じ、ペーチのセルビア正教総主教に率いられたセルビア正教徒がドナウ川対岸へ移動したことが背景にあるとされる。これを受けてオスマン帝国側はアルバニア人ムスリムをコソボに入植させていった。

19世紀に入りアルバニア人の民族意識が高揚してくると、4つの県、テンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンクをひとつにまとめたテンプレート:仮リンク1871年 - 1877年)を設置し、すぐにテンプレート:仮リンク1877年 - 1913年)となった。1878年にはコソボの都市・プリズレンで民族主義者の団体・プリズレン連盟(アルバニア国民連盟)が結成され、民族運動が展開された。20世紀初頭のバルカン戦争の後、1912年にアルバニアの独立が宣言されると、その国土にコソボも組み込まれた。しかし、列強が介入した1913年の国境画定でコソボはアルバニア国土から削られ、セルビア王国に組み込まれる。第一次世界大戦中はオーストリア・ハンガリー帝国ブルガリア王国の占領下にあった。

第一次世界大戦後にユーゴスラビア王国が成立し、第二次世界大戦では枢軸国の侵攻を受けコソボにあたる領域はブルガリア王国アルバニア王国の一部に併合された。戦後、第二のユーゴとなるユーゴスラビア連邦人民共和国が成立すると、コソボ一帯はアルバニア人が多数を占めていたことから、1946年セルビア共和国内の自治州(コソボ・メトヒヤ自治州)とされた。これがコソボとセルビアの行政的な境となって今日に至っている。1950年代になるとコソボ独立運動が展開されるようになり、ユーゴ政府は独立運動を抑えつつ、1964年に民族分権化政策によってコソボ・メトヒヤ自治州をコソボ自治州に改称した。1968年、自治権拡大を求めるアルバニア人の暴動が発生し、1974年のユーゴスラビア連邦の憲法改正により、コソボ自治州はコソボ社会主義自治州に改組され自治権も連邦構成共和国並みに拡大された。しかし、アルバニア人は更なる自治権拡大を目指し、一方でコソボをセルビアの一部と見なすセルビア人の民族主義者は自治権拡大に苛立ちを強めた。この双方の利害対立が、チトー大統領の死後大きく表面化することとなる。 テンプレート:Clearleft

独立運動

端緒

1981年の3月から4月にかけてプリシュティナのアルバニア人学生が抗議活動を開始し、6都市で2万人が参加するコソボ抗議活動に膨れ上がったが、ユーゴスラビア政府に厳しく弾圧された。1982年、スイスに在住していたアルバニア人が「コソボ共和国社会主義運動」という左翼的な組織を設立した。彼らの目的はコソボをユーゴスラビアから分離し、独立した国を創ることだった。80年代にこの組織は世界中に分散しているアルバニア人を集め、水面下でネットワークを張り巡らし、武装勢力を結成している。この組織を大きくするために左翼ばかりでなく、イスラーム教原理主義やアルバニア国粋主義もイデオロギーとして掲げた。そして彼らは組織の名前を、「コソボ解放軍」(アルバニア語名: UÇK、英語名: KLA)と改名した。

セルビア人の民族主義者でセルビア大統領のスロボダン・ミロシェヴィッチは、ユーゴスラビアの各共和国が対等の立場を持つ体制を改め、セルビア人によるヘゲモニーを確立することを目指していた。ミロシェヴィッチはセルビア内の自治州であったコソボ、ヴォイヴォディナの両社会主義自治州の自治権を大幅に減らし、コソボ・メトヒヤ自治州へと改称した。

1995年にセルビアの一部だったコソボの数か所で、警察官やセルビア人が殺される事件が起きた。これが、「コソボ解放軍」の実力行動の始まりだった。1997年から1999年の間に「コソボ解放軍」のメンバー数は大幅に増加し、ユーゴスラビアの警察官やセルビア人の一般国民を攻撃、殺害したり、セルビア人女性を強姦したりした。また、ドイツの新聞「Berliner Zeitung」(1999年3月4日付け)が入手した秘密文書によると、「コソボ解放軍」が資金を集めるためにアフガニスタン産のヘロインなどの違法麻薬の販売を行ったとされる[1]。コソボ地方の4分の1の地域では、ユーゴスラビア政府が統治できず、「コソボ解放軍」が完全に支配するようになった。その結果、コソボのセルビア住民がそれらの地域から逃げ始めた。アルバニア人による、コソボに住んでいたセルビア人を殺害したり、強制移送したり、恐怖などを利用して国外脱出を余儀なくしたことは「民族浄化」であると考えられる。さらに、コソボ解放軍などによる迫害はセルビア人以外の少数民族に対しても及び、クロアチア人アッシュカリーロマなどが迫害の対象となった。

「コソボ解放軍」による様々な犯罪が最も悪化したのは、1998年の夏だった。そのとき、彼らはテンプレート:仮リンクの町を攻撃しようとした。ユーゴスラビア政府はこの状況にどのように対応すべきかを長く思案していたが、このコソボ解放軍の挑発に対し何らかの対策をとるべきだと判断した。スロボダン・ミロシェヴィッチ政権は英米とその同盟国とは関係が悪く、もしユーゴスラビア政府が「コソボ解放軍」を攻撃すれば英米にアルバニア人を迫害していると非難される危険性があった。スロボダン・ミロシェヴィッチ大統領は英米及びその同盟国との衝突を回避するか、それとも国民と国土の一体性を守るかというジレンマに陥っていたが、最終的には後者を選択した。そして、ユーゴスラビア軍は「コソボ解放軍」への攻撃を強化した。

紛争

コソボの独立を阻止したいセルビアはクロアチア、ボスニアでの紛争の結果大量に発生したセルビア人難民の居住地としてコソボを指定した。この結果コソボの民族バランスは大きくセルビア人側に偏ることになった。これに対してイブラヒム・ルゴヴァの非暴力主義に対し懐疑的な意見が出されるようになり、デイトン合意によってクロアチア、ボスニア紛争が一旦落ち着いた後の90年代後半に入ると実力をもってセルビアから独立することを主張するコソボ解放軍(UÇK、英語名: KLA)が台頭するようになった。一方隣国のアルバニアでは1997年に全国的な規模で拡大したネズミ講が破綻して社会的な混乱に陥った。このような情勢でコソボ解放軍は混乱したアルバニアに自由に出入りし、セルビア側の追っ手を回避、戻って来る時にはアルバニア国内で流出した武器やアルバニアでリクルートした兵士を連れて帰ってくることができた。コソボ解放軍の指導者の一人で後に首相となったハシム・サチは、アルバニア領内で兵員と武器を確保する活動をしていた。翌1998年になるとセルビアとしてもコソボのゲリラ活動に対して対応をせざるを得なくなってきた。セルビアは大規模なゲリラ掃討作戦を展開し、セルビア警察特殊部隊によってコソボ解放軍幹部が暗殺されるなどコソボ全土にわたって武力衝突が拡大することになった。これがコソボ紛争の始まりである。


戦闘員ではないアルバニア人が攻撃を受け、多くのアルバニア人が隣接するマケドニア共和国アルバニアモンテネグロなどに流出し、再びセルビア側の「非人道的行為」がクローズアップされるようになった。国連EUは、セルビアとコソボの間に立って調停活動を行うことになった。1999年3月からは、NATOが国際世論に押されてセルビアに対する大規模な空爆を実施するに至った。この空爆は約3か月続き、国際社会からの圧力に対抗しきれなくなったセルビアはコソボからの撤退を開始、翌年までに全ての連邦軍を撤退させた。これによってコソボはセルビア政府からの実効支配から完全に脱することになった。代わって国連の暫定統治機構である国際連合コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo、UNMIK)が置かれ、軍事部門としてNATO主体の国際部隊 (KFOR) が駐留を開始した。それ以降、主にセルビア系住民が多数を占める限られた一部の地域と一部の出先機関を除いて、セルビア政府による実効支配は及ばなくなった。

しかし、セルビア側が撤退しUNMIKの管理下に入った後も、コソボ解放軍の元構成員によって非アルバニア人に対する殺害や拉致、人身売買が行われたり、何者かによって爆発物が仕掛けられたりといった迫害を受けており、人権が守られているとはいえない。加えて、多くのセルビア正教会の聖堂が破壊され、迫害を恐れた非アルバニア人がコソボを後にする事例が多く発生している。

地位問題

テンプレート:Main 1991年に行われたコソボの独立宣言を国際的に承認した国は隣国のアルバニアしか存在しない。このためコソボの独立は国際的に承認を得たものとは認識されず、あくまでも「セルビアの自治州」であるというのが国際的な建前になっている。一方で1999年のコソボ紛争以降コソボがセルビアの実効支配から完全に脱しているのも事実である。したがってコソボは1999年以降、「独立国ではないものの、他の国の支配下にあるものでもない」という非常に微妙な地位に留め置かれていた。現状で微妙な地位に置かれているコソボを将来的にどのような地位に置くか、という議論がコソボの地位に関する問題である。

コソボの独立

ファイル:Kosovo relations.svg
コソボの国家承認の状況。青・水色は承認賛成、赤・オレンジは反対、薄黄は曖昧、灰色は立場が不明な国家・地域。

テンプレート:Main 2007年の11月の選挙では、コソボのセルビアからの即時独立を主張するハシム・サチ率いるコソボ民主党が第一党となり、翌2008年にはサチが首相に選出された。主にアルバニア系住民に支持されたサチが率いるコソボ暫定政府は、独立の方針を強く訴えた。地位問題において欧州連合及びアメリカ合衆国の支持を得たコソボは、2008年2月のセルビア大統領選挙の確定以降における独立の方針を明確化し、2008年2月17日、コソボ自治州議会はセルビアからの独立宣言を採択した。また同時に「国旗」が発表された[2]。4月に議会で批准されたコソボ憲法は、6月15日から正式に発効した。

セルビアの反発

この独立宣言に対して、セルビアでは大きな反発が起こり、17日未明からベオグラードノヴィ・サドで、米国大使館や米系商店、当時のEU議長国であるスロベニア系商店への投石騒動が起きた[3][4]。この他にも、迫害を恐れてコソボを脱出したセルビア人住民が出ていると伝えられている[5]

コソボの承認

国家承認のプロセスについては、翌18日にアメリカ合衆国が承認を公表し、ヨーロッパの安保理常任理事国であるイギリスフランスも翌日に承認している。この他中欧地域の主導権を握るドイツも2月20日に承認した[6]。一方でEU加盟国を個々に見た場合、国内に民族問題を抱えるスペインキプロススロバキアルーマニアギリシャなど独立承認に慎重な姿勢を示している国もある。このためEUによる機関承認は見送られている[7]

独立宣言が打ち出された当初、即座に承認しなかった国々においても承認が広まりつつある[8]。セルビアの周辺国では、2008年3月にクロアチアハンガリーそしてブルガリアがコソボの独立を承認した。2008年10月には大アルバニアの利害国(コソボの独立に際して、大アルバニア主義の拡大が憂慮されていた)で国内に一定数のアルバニア人を抱えるモンテネグロマケドニア共和国(特にマケドニアはマケドニア紛争の当事国である)がコソボを承認した[9]。人口の3割以上をセルビア人が占めるモンテネグロでは激しい反発が起こり、首都ポドゴリツァでは大規模な抗議集会が行われた[10]

その一方で、セルビア政府はコソボの分離独立を「永遠に認めない」と明言しており、2008年の国連総会では、同国の要請を受けて国際司法裁判所に独立の是非の判断を求めた。ロシアもコソボの独立をセルビア政府の合意なしには承認しない意向で[11]、中国もこれに同調しており、国連安全保障理事会で拒否権を持つ両国の反対により、国際連合安全保障理事会での承認は困難となっている。またインドやスペインなどの少数民族の独立運動の問題を抱えている国々も承認しない意向を表明している。大アルバニアの利害国としてはギリシャが承認を行っていない。

2014年2月中旬現在、コソボはアメリカ合衆国イギリスドイツフランス日本など106か国から承認を受けているが、セルビア、ロシア中国に加え、国内に独立問題を抱えるスペインキプロスは承認を拒否している。そのため、将来的に国際社会から一致した承認を得られるかどうかは未だ不透明な状況である。

2010年7月22日には、国際司法裁判所がコソボのセルビアからの独立宣言を国際法違反にはあたらないと判断した。国際司法裁判所の判断は勧告的意見とされ、法的な拘束力はないものの、承認するか否かを決めかねていた国際社会には大きな判断材料になると同時に、民族自決を掲げる少数民族の分離独立に大きな影響を与えるとされる[12]

地方行政区画

テンプレート:Main article コソボは全体で7つの郡(ラヨーニ (Rajoni) / オクルグ (Okrug) )に分けられている。1999年にUNMIKの保護下に入った後の2000年に、UNMIKによってセルビア統治時代の5郡から7郡へと再編された。それぞれの郡の下には、コソボで最小の行政区画である基礎自治体(コムーナ (Komuna) / オプシュティナ (Opština) )が置かれ、全国で30の基礎自治体がある。

経済

経済的にはヨーロッパの後進地域である。主要産業は農業で、土地が肥沃な盆地部では大麦小麦トウモロコシタバコが生産される。鉱物資源が豊かで、トレプチャの亜鉛鉱山はヨーロッパでも最大級の規模を誇る。その他にも、石炭アンチモンボーキサイトクロムなどが産出される。近年は3-5%程度の経済成長が安定的に続いている。

しかし貧しい者も多く、ヨーロッパの最貧国の1つである。国連の調査では、2013年時点でGDPの16%が、国外に住む国民縁者からの送金である。自分達の稼ぎでは生活が成り立たない者も多く、全世帯の25%は、この国外からの送金に頼って生活している[13]テンプレート:Clearleft

政治

国連安保理決議1244により国際連合コソボ暫定行政ミッション (UNMIK) の暫定統治下にあり、出入国管理、国境警備も当初はUNMIKが行っていた。UNMIKの下にコソボ住民による暫定自治諸機構(Provisional Institutions of Self Gouvernment、PISG)が2001年から置かれている。

独立後は国連コソボ暫定行政ミッションに代わって、EUを中心に組織される文民行政団「国際文民事務所」を派遣し、一定の行政的役割を担わせる意向をEUが示している[14]。ただし、安保理決議によって派遣されている国連コソボ暫定行政ミッションを撤退または大幅に縮小させるには安保理の決議を経る必要があるとの見解もあり、独立そのものに慎重な姿勢を示しているロシアの承認を得る必要がある。

2008年2月、コソボは一方的に独立を宣言した。アメリカ・イギリス・フランス・ドイツをはじめ日本も独立を承認したが、セルビア・ロシア・中国などは独立を承認していない。UNMIKの役割は大幅に縮小され、警察・関税・司法の分野における任務をEUのCFSPミッション(European Union Rule of Law Mission in Kosovo、EULEX)が引き継いだ。

軍事

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住民

民族構成は以下の通りである。

元々コソボのアルバニア人の比率は高かったが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終了後セルビアがコソボの分離運動を抑えるために、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争難民となったセルビア人をコソボに入植させた。これによって一時的にコソボ内のセルビア人の割合は高くなったが、逆にアルバニア人の反感を招き、本格的な紛争に発展した。結局コソボ紛争によりコソボ内のセルビア人は、約20万人がコソボ外に国内避難民として退去、紛争終了後も治安問題、就職困難などの理由で難民帰還はほとんど進んでいない。現在、セルビア人はミトロヴィツァ市北側をはじめコソボの北部に多く住んでいる他、中・南部にもセルビア人が住む居住地が飛び地状に点在している。コソボの独立を良しとしないセルビア系住民は、2008年6月28日に独自議会の設立を宣言した。

言語

コソボの公用語アルバニア語セルビア語で、法律は英語でも翻訳が作られている[15]。大多数を占めるアルバニア人はアルバニア語を使い、日常生活ではアルバニア語の2大方言のうちの、地続きのアルバニア北部で使われるゲグ方言に分類される言葉を使う。

宗教

アルバニア人住民の大半がイスラム教を信仰している。ローマ・カトリック信者も存在する。セルビア人住民はセルビア正教を信仰している。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

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  1. Berliner Zeitung "UCK finanziert sich aus Drogengeldern"
  2. テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
  3. コソボが独立宣言 セルビア・ロシアは猛反発 CNN.co.jp 2008年2月18日
  4. コソボ独立反対、セルビア各地で暴動 YOMIURI ONLINE 2008年2月18日
  5. 暴徒2000人、65人以上負傷 コソボで衝突相次ぐ MSN産経 2008年2月18日
  6. ドイツがコソボを承認 時事ドットコム2008年2月20日 2008年2月21日閲覧
  7. セルビアが駐米大使召還 コソボ独立承認で措置 CNN.co.jp 2008年2月19日
  8. コソボ独立:宣言から1カ月 承認、欧州バラバラ 毎日jp 2008年03月18日閲覧
  9. テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite web
  11. コソボ、独立を宣言 欧米は国家承認へ ロシアは反対 asahi.com 2008年2月18日
  12. コソボ:「独立は合法」国際司法裁が勧告的意見 毎日jp 2010年7月23日
  13. テンプレート:Cite news
  14. コソボ:独立の成否は国際社会の支援がカギ 反対・慎重も 毎日.jp 2008年2月18日
  15. コソヴォの憲法 (英語翻訳)