ケルン大聖堂

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ケルン大聖堂(ケルンだいせいどう、:Kölner Dom)は、ドイツケルンにあるゴシック様式大聖堂。正式名称は、ザンクト・ペーター・ウント・マリア大聖堂Dom St. Peter und Maria。聖ペトロとマリア大聖堂の意)。ゴシック様式の建築物としては世界最大であり、ローマ・カトリック教会ミサがおこなわれている。大聖堂の維持管理は主にケルン大聖堂中央建築協会によって担われている。

歴史

現存の大聖堂は3代目で、初代が完成したのは4世紀のことであった。正方形の建物で、最も古い聖堂として知られていた。

2代目は818年に完成し、12世紀後半に東方三博士聖遺物がおかれたことで多くの巡礼者を集め、ケルンの発展に貢献した。1248年4月30日に火災により焼失した。3代目は2代目が焼失した年である1248年に建設がはじまった。しかし、16世紀に入って宗教改革を発端とする財政難から一度工事が途絶し、正面のファサードの塔がひとつしかない状態が続いた。建設が再開されるのは19世紀に入ってからだった。

ナポレオン戦争の影響によりドイツでナショナリズムが高揚する中、中世ドイツに自民族の伝統を探し求める動きが強まった。建築ではゴシック・リヴァイヴァルの潮流が強まり、建設途中であったケルン大聖堂に注目が集まったため、1842年に建設が再開され、もうひとつの塔の完成が急がれた。全てが完成したのは建設開始から600年以上が経過した1880年のことであり、高さが157mの大聖堂はアメリカワシントン記念塔(高さ169m)が完成する1884年まで建築物としては世界一の高さを誇った。「皇帝の鐘」と称されるが南塔にとりつけられたが、第一次世界大戦の際に接収され、溶かされたのちに武器として用いられた。

大聖堂は第二次世界大戦時のケルン市に対する英米軍の空襲で14発の直撃弾を受けた。内部は激しく破壊されたものの全体は崩れなかったため、1956年まで復旧工事が行われ、元の状態に復元された。この際に周囲の廃墟から再利用した粗悪なレンガで復旧された部分が残っていたが、1990年代に入り空襲前の外観に戻す作業が始まっている。また、修復の一環として破損したステンドグラスの一部はゲルハルト・リヒターによって近代的なモザイク風の市松模様の物に置き換わったのだが、これについては未だに賛否両論がある。

1996年ユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されたものの、周辺の高層建築物計画による景観破壊の危機にさらされた。2004年には危機遺産に指定されたが、大聖堂の周囲に高さ規制を敷くなど市当局の懸命な努力により2006年を以って解除された。

2005年8月18日にはローマ教皇ベネディクト16世が自ら大聖堂を訪問している。

維持、管理

テンプレート:Main ケルン大聖堂の維持管理費用は最近年間約1000万ユーロに達している。ケルン大聖堂中央建築協会が維持管理費用の約60%を負担し、残りの40%はドイツ連邦政府と地元州、教会が担っている。この協会は超党派、超教派であり、ローマ・カトリック教会ケルン大司教区には属さない独立組織である。大きな補修工事が発生した場合、費用はこの協会が主として担うのであり、カトリック教会に大きな負担を強いることはない。したがって、現在のケルン大聖堂は公共的建築物としての性格を強く持っている。

ケルン大聖堂中央建築協会は大聖堂を建設するための公法人として、1840年にプロイセン王 フリードリヒ・ヴィルヘルム4世 によって設立を許可されている。1842年から1880年までケルン大聖堂中央建築協会は約6,5百万ターラーを大聖堂建築費用として負担した(20百万金マルク、今日の価値に直すと11億ユーロ相当になる)。この負担金額はケルン大聖堂建築に要した費用の約75%であった。プロイセン王国によるラインラント地方の併合によって、ケルンは世俗化され、ケルン大聖堂の管理もローマ・カトリック教会ケルン大司教区からプロイセン王国に移行した。ケルン大聖堂の建築再開もプロイセン王の裁可によっておこなわれており、ケルン大聖堂はプロイセンによるドイツ統一を象徴する建物に変化した。ケルン大聖堂中央建築協会に関する政令は、現在のドイツ連邦共和国においても有効であり、ケルン大聖堂に関するプロイセン王国の役割をドイツ連邦政府が引き継いでいる。

建築様式

1248年、カロリング朝のケルン大聖堂が大火で焼失してしまった後、すぐに新大聖堂の定礎が行われた。新しい建築は、それまでアミアン、バリ・ノートル・ダム、ボーヴェなどの大聖堂を見て回り、ゴシックの技術と造形を学んできたゲルハルト・フォン・ライルGerhard von Rile)と呼ばれる工匠によって構想された。彼の集めた各地のゴシック建築の記録は、当時、同時代のフランス人建築家ヴィラール・ド・オンヌクールの画帖に匹敵するものといわれてきたが、今日は残っていない。

石工出身のゲルハルトはその深い知識と観察にもとづき、半円形平面に放射状祭室の設けられた内陣はアミアン大聖堂より、五廊式の平面構成はブールジュやトロワの大聖堂から、そしてトリフォリウムの形状はサン・ドニの会堂からなど、新しい大聖堂にフランスのゴシックの成果を応用した。このように主要な構造技術は、ほとんどフランスのゴシック建築を学んで採用されている。アミアン大聖堂を範として機械的なまでに徹底された正確なレヨナン芸術(建築材料のもつ物質性を取り去り、より上品で優雅な超越的な空間の様式をもつ芸術)を追求した。

ところが大聖堂の工事は遅々として進まず、内陣が完成するのは14世紀に入り、1322年のことであった。他の大聖堂と異なり、この工事においては当初の計画がほぼ継続されており、それゆえゲルハルトの建築観がそのまま実現されることになる。しかし、西側ファサードの塔が完成するのは、前の建築物が焼失してから600年程も経過した19世紀、ゴシック・リバイバルの時代になってからであった[1]

ケルン大聖堂は、平面や様式などの点においてアミアン大聖堂を模範として作られているが、中央の身廊の縦と横の長さの割合が近似的であることなどからも見て取ることができる。また平面的には、ゴシック建築によくある身廊と翼廊が交差した十字架の形をしており、脇には二つの通路が作られ、東奥には回廊が作られている。通路には「シュヴェ」と呼ばれる7つのチャペルが放射状に突き出している。立面的には、ウルム大聖堂やシュテファン大聖堂などのようにドイツ的な性質を持つ、大きく突き出た尖塔がそびえ立っているのがとても特徴的である。

大聖堂において大切であるとされる区画のうちには、「クワイヤ」と呼ばれる礼拝が行われたり、聖歌隊によって聖歌が歌われる場所がある。中世におけるクワイヤは徐々に改変され、細かい部分においてより機能的でなくなっていった。このことはフランス式のとても高いアーケードの配置の仕方や、窓からの光によって照らされる精巧で上品なトリフォリウムの回廊、そのような窓の上部における上品な混ざり合ったトレーサリー模様に見受けられる。クワイヤには偉大な沢山の独自の調度品が置かれ、身廊からは装飾された木によって仕切られていた。

側壁の高部にはクリアストリーと呼ばれる採光用の高窓が並び、低い部分には装飾の多いステンドグラスがはめこまれ、その下にはトリフォリウムと呼ばれる丸いアーチの段があり、全体は高い柱心で結合されている。アーチ型屋根は4つの部分から構成されている。回廊には無数の19世紀に贈られたステンドグラスが窓に飾られているが、中でもバイエルン王ルードウィヒ1世が奉納した「バイエルンの窓」と呼ばれる5枚のステンドグラスが有名である。そのうちの一つには、新約聖書を記したマタイマルコルカヨハネの4人が、福音書を記した順に左窓から並ぶものなどもあり、その当時のドイツの画家の芸術性の高さを象徴している。19世紀までは、聖クリストファーの大きな石像が聖堂への入り口に存在していた。

ゲルハルト・リヒターのステンドグラス

大聖堂の南に位置する窓は、2007年8月26日よりドイツの芸術家ゲルハルト・リヒターのデザインによるものが公開されている。 第二次世界大戦中の爆撃によって大聖堂の南の窓が破壊されると、一旦はWilhelm Teuwen氏がデザインした窓が取り付けられたが、この窓は透過する光の眩しさのため機能不十分だと考えられた。ケルン大聖堂中央建築協会総会は新しいデザインに20世紀のカトリック殉教者の具象的な肖像を希望し、この仕事に2001年に最初に着手したリヒターは国家社会主義の犠牲者の処刑シーンを映した古い写真に基づく2つの小さなデザインを考案した。しかしリヒターはこの非常に残酷なシーンはモチーフとして不適切であり他の歴史的なモチーフは時代にそぐわないと考えはじめた。

新たに考案されたリヒターのデザインは中世の数学的意匠による抽象的な模様と彼自身の用いた幾何学的な構成とを結合するものであった。 新たな窓はそれぞれが9.6平方センチメートルの色のついた正方形のガラス1,1500枚から成り、複雑な直角の格子模様を生み出している。またリヒターが選んだ72色は、大聖堂の中世のガラスにも使われており、新しい窓を教会の内装の配色に調和させると思われた。ステンドグラスの各部分を分けるのに伝統的に用いられたは2mmあまりの黒のシリコーンに置き換えられている。

色の配置はMike Karstens氏の開発したコンピューターの乱数発生プログラムによりランダムに決定された。この配置はランダムでありながら最大限の無秩序を生み出すために慎重に組織されている。それゆえ壮大かつ豊富な色の印象を与えるが、同時に厳格に直角な格子模様がカラフルな混沌に高度な調和を添えている。この色配置の法則は1966年から1974年に製作されたリヒターの商業カラーチャートに基づいた初期のパネル絵にさかのぼる。

彼のデザインはとくにケルンの聖職者たちの間で論争の主題となった。反対派の中では彼のデザインはしばしば過度に現代的、抽象的であり、ゆえに大聖堂には合わないと考えれ、具象的で物語的な描写が推奨された。しかし伝統的にはステンドグラス窓が必ずしも具象的なシンボルを描写をする必要はなかった。

ケルン大聖堂は19世紀20世紀に製作された窓のほかに、1260年から1562年に製作された43のステンドグラス窓を有している。これらは計4100枚のガラスから成り、そのうち1500枚が具象的なモチーフを表現しているが、残りのガラスは程度の差こそあるが装飾的なものであり、植物をモチーフにしたものや抽象的で幾何学的なパターンを用いているものがある。

また注目すべきは、内陣の南と北の3つの採光用窓である。これらの頂点近くにはリヒターのデザインに類似した小さな四角からなる格子模様の丸窓があしらわれているのが見られる。これらは1300年くらいに製作されたものであるが、この点にリヒターは気づいてなかったという[2]

リヒターのデザインした窓について、2006年にケルン大聖堂主席司祭であるNorbert Feldhoff氏は「生命を吹き込み、活気付け、瞑想を促進し、わたしたちに宗教を受容する空気を作る」と述べている[3]

主要寸法

  • 全体の縦幅:144.58 m 、全体の横幅:86.25 m
  • 南塔の高さ:157.31 m 、北塔の高さ:157.38 m
  • 建築面積:7,914 m²

世界遺産

登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/coreテンプレート:世界遺産基準/core

アクセス

ファイル:Koeln RdFlug 1.JPG
中央駅と大聖堂

ドイツ鉄道 (DB:Deutsche Bahn) ケルン中央駅前にある。列車でケルンに近づく際に車窓から見えるケルン大聖堂は壮観。また、同駅での列車停車中に聖堂を仰ぎ見ると、近過ぎるのと駅に屋根があるのとで聖堂上部が見えず、聖堂下部の威容を間近にして、その巨大さを実感することができる。

ギャラリー

関連項目

ファイル:ケルン3999.JPG
ケルン市の姉妹都市である京都市に寄贈された大聖堂飾り破風(京都市左京区 岡崎公園)
  • 『黒のトイフェル』 - ケルン出身の小説家フランク・シェッツィングが書いた、13世紀半ば大聖堂建設時のケルンの街を舞台にしたミステリー(工事中の俯瞰図などの記載あり)。

脚注

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外部リンク

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参考文献

  • Butin, Hubertus et al., Gerhard Richter - Zufall. Berlin: Walther Konig, 2008.
  • Friedel, Helmut. Gerhard Richter Rot|Gelb|Blau. München: Prestel Verlag, 2011.

テンプレート:ドイツの世界遺産

  1. 三宅理一『ドイツ建築史<上> 建築各国史-2』 (1981) より
  2. Gerhard Richter, Acht Grau, Deuche Guggenheim, Berlin 2002より
  3. Kristallspiegel, Band III. Werkübersicht 1962-1993, p.470, 1-2.より