グレープ (ユニット)

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テンプレート:Infobox Musician グレープは、さだまさし(ヴォーカル・ギター・ヴァイオリン)と吉田正美(現・吉田政美、ギター)による日本のフォークデュオ1972年結成、1976年解散。

解散から15周年の1991年に一時的に再結成した時には、解散から年月が経ってしまったことを示す洒落心から、「レーズン」の名を用いた。最近ではさだのコンサートに吉田政美がゲストとして招かれ、しばしば二人で歌を披露している。

概要

結成からデビューまで

さだまさし吉田正美(現・政美)の二人は1969年、当時高校2年生のときに共通の友人の紹介で知り合った。当時さだはアマチュア・バンド「フライング・ファンタジー」のリーダであり、吉田はアマチュア・バンド「レディ・バーズ」のリーダーであった[1]。翌1970年の春にさだ、吉田ともうひとりのメンバー3人でヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト(現ヤマハポピュラーソングコンテスト)に応募するが予選落ちしている。さだと吉田はその後も他にメンバーを集めてバンド活動を行っているが、プロになることは考えていなかったという。さだは國學院高等学校を卒業後、國學院大學法学部に入学。在学中、大学にはほとんど行かず数々のアルバイトをしながらアマチュア・バンド活動の生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに1972年10月初旬長崎に帰郷し大学を中退する。同年10月28日、吉田が東京から長崎にいるさだを訪ね、そのままさだ家に住むこととなった。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て咄嗟に「おい! よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することが出来なくなったという。以後二人は意気投合し同年11月3日、デュオバンドを結成する。ただし、実情は「とりあえず」二人だけでやるという結成であった。コンサートの開催を考えコンサートの興業団体に掛け合うが、いずれの団体とも話はつかず、結局はファースト・コンサートを自主開催することとなった。コンサート開催に際してグループ名が必要になったため、吉田政美が楽譜のトレードマークにしていた"Grape"でどうかとさだに提案。さだは「ああ、そうしよう」と答え、1分でグループ名が決まったという。のちに「グレープ」の名で全国に知られるようになるが、さだはデュオの正式表記は"Grape"であるとしている。

初めてのコンサートを前にグレープは、島原市の著名人でさだの父親の友人でもあった宮崎康平を訪ねた。その際グレープは宮崎に後、『わすれもの』に収録される歌「紫陽花の詩」を披露している。これを聴いた宮崎は「これは面白い。このような歌は今まで聴いたことがない。」と感心し、長崎新聞社の学芸部・宮川密義に紹介する。宮川は二人を面接して歌を聴きヒット性を予見、長崎新聞のヤング欄に写真入りでグレープを紹介し、ファースト・コンサートの案内を記載した。しかし11月25日、NBCビデオホールにおける初めてのコンサートは定員304席のところ250人程度の聴衆しか集まらず、さだの弟の繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(さだはこのことをして「キャバレー方式」と呼んだ。)。このファースト・コンサートに長崎放送ラジオのディレクターが臨席したことからラジオ出演へとつながる。宮崎康平はグレープを長崎放送テレビにも紹介し、グレープはローカル番組「テレビ・ニュータウン」のレギュラーに起用される。やがて音楽プロデューサー川又明博によってスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属プロダクションはユイ音楽工房ヤングジャパングループ[2]などを当たるが不採用となり、最終的にはザ・バードコーポレーションからの採用を受け、デビューに至った。

人気フォークデュオに

デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず[3]、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったため、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオ深夜番組ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞受賞することとなった[4]

1974年10月25日に3枚目の「追伸」をリリース。4枚目の「ほおずき」(1975年3月25日リリース)は二人が考えていたほどのヒットには至らず、5枚目の「朝刊」(1975年8月25日リリース)は、それまでの暗いイメージの払拭を狙ってのリリースであったが、彼らが考えていたほどのヒットにはならなかった。しかしクラフトのセカンド・シングルのために提供した「僕にまかせてください」(1975年4月10日リリース)は大ヒットし、さだはソングライターとしの手腕を発揮している。また「朝刊」の制作時に議論の末、リリース先送りになった楽曲が後にクラフトがヒットさせた「さよならコンサート」(サード・シングル。1975年11月25日リリース)である。1975年11月25日、6枚目にしてグレープ名義ではラスト・シングルとなる「無縁坂」をリリースし、「精霊流し」以来の大ヒットとなる。さらに、アルバム『コミュニケーション』に収録された「縁切寺」は収録曲の中でもとりわけ人気を博し、グレープ解散後の1976年8月21日にはバンバンがシングルとしてカヴァー・リリースし、ヒットさせている。

今ではフォークデュオとして記憶されているが、後にさだまさしが語るには「ロックをやりたかった」のだと言う。さだのヴァイオリンと吉田のジャズ・ギターを活かしたサウンドを目指していたらしい。確かに無国籍な印象のあるデビュー曲「雪の朝」や「精霊流し」のB面に収録されたフレンチ・ポップス風の「哀しみの白い影」など、いわゆるフォークの枠に収まらない楽曲も多い。また、セカンド・アルバム『せせらぎ』収録の「ラウドネス」や『グレープ・ライブ 三年坂』に収録されている吉田の「バンコ」、さだの「第一印象」[5]といった楽曲は明らかにフォークソングではなく、彼らが本当にやりたかった音楽の片鱗がうかがえる。

なお、さだは後年「男性二人のデュオは当たらないという当時のジンクスを自分たちが打ち破った」と語っている。なお、同時期(1974年)にデビューし、その後大人気となったデュオとしてふきのとうがいる[6]

解散

1975年ごろからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また世間的には「精霊流し」のヒットにより、精霊流し=暗い=グレープというイメージがつき、さらに「精霊流し」と同傾向の「無縁坂」がヒット曲となった。さらに、雰囲気を変えるために出された「朝刊」が思うようにヒットしなかったことや、「精霊流し」・「無縁坂」と同傾向のアルバム曲「縁切寺」が好評を博したことなどが重なってしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)を感じるようになった。このような経緯から1976年春にグレープは解散に至った[7]。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。

なお、解散時期については、1976年3月とする資料と、4月に解散コンサートを長崎県で行ったとする資料があり、さだまさしの公式WEBサイトでは「3月」となっていた(現在は修正済み)が、後にさだ企画社長の佐田繁理(さだの実弟)が当時の所属事務所であるバードコーポレーションの社長から入手したグレープ時代のスケジュール表によると、1976年4月9日放送の文化放送グレープのセイ!ヤング』最終回が、グレープとしての最後の仕事となっているとのことである。

解散後の二人

さだまさしは解散の後、長崎放送などへ就職活動を行ったが上手くいかず、結局解散した年の秋にシングル「線香花火」でソロ・デビューした。その後、シンガーソングライターとして1970年代後半から80年代前半にかけて「関白宣言」、「親父の一番長い日」、「道化師のソネット」、「防人の詩」などのヒット作を連発。現在に至るまで活躍を続け、近年では小説家としても活動している。

吉田は「吉田正美と茶坊主」などの音楽活動を経て1981年にレコードディレクター/プロデューサーに転身。名前も正美から政美へと改める。SMSレコードで制作部に勤務した後、バップに入社し所ジョージなどのアルバム制作を担当。プロデューサー職を経て、現在は管理部門に勤務している。

復活

解散から15周年目の1991年には一度「レーズン」の名で再結成し、アルバムをリリースしている。なお、レーズン名義になった理由は、もう新鮮なグレープ(葡萄)ではなく、年月を経てしなびた葡萄、すなわちレーズン干し葡萄)になったというさだの洒落からである。

また、2002年には、東名阪で行われた「さだまさしデビュー30周年記念コンサート」で、グレープとしてステージに登場した(それ以前にも、さだのデビュー10周年記念コンサートや、1991年8月6日に行なわれたさだのチャリティーコンサート「夏・長崎から'91」にグレープで出演している)。これ以降、ここ数年は以下のように毎年、何らかの形でグレープとしての活動を行っている。

楽曲とヴォーカル

グレープ時代の楽曲は基本的にさだまさしが作詞・作曲している[8]が、数曲吉田の作品もある。なお、グレープ時代は作者がヴォーカルを務める、というシステムをとっており、吉田作品はヴォーカルも吉田である[9]。シングル曲はすべてさだが歌っているが、レーズンとして再結成した際にリリースした「糸電話」は主部を吉田が歌いサビをさだが歌っている。当初二人ともヴォーカルを嫌がり、どちらが歌うかをジャンケンで決めることにしたところ、さだが負けたためにさだがヴォーカルに決まったという。

ディスコグラフィー

シングル

  1. 雪の朝/虹がかかったら(1973.10.25.)
  2. 精霊流し/哀しみの白い影 (1974.4.25)
  3. 追伸/ひとり占い (1974.10.)
  4. ほおずき/残像 (1975.03.25)
  5. 朝刊/交響楽 (1975.08.25)
  6. 無縁坂/雲にらくがき (1975.11.25)
  7. 糸電話/新ふるさと物語(再結成・レーズン名義) (1991.10.10)

EP

  1. GRAPE-1 蝉時雨、紫陽花の詩/雪の朝、恋は馬車に乗って (1973.3.17)
  2. グレープ 精霊流し、雪の朝/哀しみの白い影、ひとり占い (1974.9)
  3. グレープ ほおずき、追伸/精霊流し、雪の朝 (1975.6)
  4. グレープ 無縁坂、朝刊/縁切寺、精霊流し (1976.1)

アルバム

  1. わすれもの (1974.08.25)
  2. せせらぎ (1975.05.25)
  3. コミュニケーション (1975.11.25)
  4. グレープ・ライブ 三年坂 (1976.02.25)
  5. あの頃について -シーズン・オブ・レーズン-(レーズン) (1991.11.10)
  6. グレープラストコンサート・伝説の神田共立ライブ(1976年3月収録の放送録音によるライヴ・アルバム) (2006.03.22)

脚注

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テンプレート:グレープ (ユニット)

テンプレート:さだまさし
  1. 2つのバンドはどちらもエレキ・バンドであった。「グレープが目指していた音楽は元来ロックであった」というさだの談が理解されるところである。
  2. その際、ヤングジャパングループ所属だったアリスの谷村新司はヤングジャパングループ代表の細川健に採用を薦めるが、細川はプロフィール写真を見て「貧乏神のようだ」という理由から採用を見送っている。谷村は「その際に細川が『貧乏神』と譬えたのは吉田正美ではなくお前の方だった。」とさだに語っている。
  3. 富澤一誠『フォーク名曲事典300曲〜「バラが咲いた」から「悪女」まで誕生秘話〜』ヤマハミュージックメディア、2007年、268頁。ISBN 978-4-636-82548-0
  4. この受賞に対して「幼いころから音楽教育を受けていたので作曲賞を受けるのはわかる気がするが、我流で始めた作詞で賞を受けるのは意外であり、その分うれしさも大きい」という主旨の発言をしている。
  5. 「バンコ」、「第一印象」はいずれもインストゥルメンタル曲である。
  6. ただし、前例として1969年デビューのビリーバンバンなどがある。
  7. ただし、グレープ解散後もさだまさしは暗いという世評は続いた。
  8. このことをして「吉田のことをぴんからの兄のように思っている向きもあるが、とんでもない間違いであり、吉田がいなければ「精霊流し」は生まれなかっただろう」と語っている。
  9. ただし、『わすれもの』収録の「告悔」は主部を吉田が歌いサビをさだが歌っている。