グダニスク

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グダンスクから転送)
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テンプレート:Redirectlist テンプレート:世界の市 グダニスクテンプレート:Lang-pl グダーィンスクテンプレート:IPA-pl)は、ポーランドの都市。バルト海南部に面するポモージェ(ポメラニア)地方東部に位置し、グダニスク湾を擁するポーランド最大の港湾都市であり、ポモージェ県の県都である。ポーランド語名の発音は片仮名転写が難しく、グダンスクと表記されることがある。ドイツ語名のダンツィヒテンプレート:Deダンチヒとも)でもよく知られている。

歴史

「グダニスク」という地名は、ここを流れるモトワヴァ川の古名であるグダニャ川から来ている。これはインド・ヨーロッパ祖語で「滔々と流れる水(すなわち河)」が原義となる語幹deh'nuから成り立つ語。近代から現代にかけて「グダンスク」の地名が、紀元前後にゴート人が北のゴットランド島からやってきて住みついたことに由来するという説がスウェーデンドイツなどによって盛んに喧伝されたが、グダニスクという町の名称に関するこの説には根拠と呼べるほどのものがない。ゴート人がゴトランド島から来たという説(ゴート起源説)さえも現代では疑問視されており、近年の研究ではゴート人はグダンスクからシュチェチンの間のポメラニア地方に古くポメラニア文化時代やそれ以前からいた人々を起源とする可能性が指摘されている(オクシヴィエ文化)。

中世

都市としての起源

考古学者によると、グダニスクの砦は980年ごろポーランドのミェシュコ1世が原住民との戦いを終えてから建設したものである。997年プラハのアダルベルトが、ボレスワフ1世に代わって市民に洗礼をほどこしたこと記念して、1997年に1000周年記念祭がとり行われた。

グダニスクはまもなく、ポメレリアとして知られる分裂した公国の中心地となった。ポメレリアとは「海のそばの土地」という意味である。このうち最も有名なシフィエントペウク2世は1235年ごろ、グダニスクに自治権を与えた。当時のグダニスクの人口は2000人ほどであった。この11年前の1224年、グダニスクはすでにリューベックのものと似た都市法を確立していた。リューベックは1226年に都市基本法を制定した。ポメレリアの統治者は徐々に権力を強め半ば独立した侯となり、ポメレリア公国を1294年までそれぞれ分割して統治した。

ドイツ騎士団との確執

1308年までにグダニスクは1万人を超える人口を抱える繁栄した貿易港となっていたが、1308年11月13日ドイツ騎士団に占領された。この結果ドイツ騎士団とポーランド王国との間で戦争となった。1343年テンプレート:仮リンクが結ばれ、騎士団がポーランド王国に賃料を支払うことでポーランド王からポメラニア地方がドイツ騎士団に貸与されることとなった。この地方の帰属問題はまだ残っていたが、カリシュの和約によって1343年にグダニスクが自治体としての基礎を確立し、穀物(特に小麦)、木材、炭酸カリウムタールその他ポーランドの森から産出されヴィスワ川の運送網を経由してやってくるさまざまな品物の輸出の促進がなされることになった。

グダニスクはドイツ騎士団の支配下で成長し、ドイツからの移民が増加し、 1361年ハンザ同盟の正式な加盟都市となった。グダニスク市民は徴税権や裁判権を濫用するドイツ騎士団の支配を嫌っており、グダニスクを含むポメラニア地方やリトアニア大公国などに関する一連のトラブルが発端で1409年に勃発したポーランドとドイツ騎士団との戦争では、グダニスク市民はポーランド側に就いた。この戦争は1410年グルンヴァルトの戦いにおけるポーランド王国の勝利によって終結した。グダニスクは以前からドイツ騎士団の支配を廃してポーランド王国へ帰属することを望んでおり、その望みがかなうことになった。しかし翌年に締結した第一次トルンの和約では、行政上の技術的理由によりポーランド王国は再びドイツ騎士団にグダニスクを賃貸しすることに決め、グダニスクは騎士団の支配下に戻った。

近世

黄金時代

1440年、グダニスクはドイツ騎士団に対抗してポーランド王国の庇護を求めるプロシア連合の設立に参加し、ドイツ騎士団の利権の排除を目指してポーランド王国と同盟し、13年戦争を起こした。13年戦争は1457年5月25日にポーランド側の勝利によって終結し、ポーランド王カジミェシュ4世によってグダニスクはポーランド王国の自治都市としての特権を与えられた。グダニスクはハンザ同盟の他の諸都市との貿易に加えて、ポーランド国内の市場への参加も認められるようになり、以後大いに繁栄することになった。1466年にポーランド王国とドイツ騎士団との間で締結された第二次トルンの和約と、ポーランド王領プロシアの確立によって、ポーランド王国とドイツ騎士団との戦争は完全に終結した。これによってグダニスクはドイツ騎士団の利権を完全に排除して大幅な自治権を実質的にも確立することになり、これは1577年に再確認された。

こうしてポーランド王国の直接の庇護を得た16世紀17世紀は、グダニスクの貿易と文化にとってまさに「黄金時代」であった。市民はドイツ人が比較的多かったが、ポーランド人ユダヤ人オランダ人、も多数住んでいた。さらにスコットランド人難民もやってきて市民権を得た。有名な天文学者ヨハネス・ヘヴェリウスが業績を残したのもこの時代であるが、彼の父親はチェコ人移民でグダニスクでビール醸造業を営んでいた。これら多民族の住民が混住することにより、街は繁栄を極めた。宗教改革の時代には多くの市民がルーテル派(主にドイツ系やポーランド系の中産階級)やカルヴァン派(主にオランダ系やスコットランド系の中産階級やポーランド人貴族)を受け入れた。しかしカトリック教徒との深刻な対立はみられなかった。これは時代によって程度の違いこそあれ、ポーランド王国には一貫して民族・人種・宗派・宗教の違いを受け入れる寛容な風土があったからである。

ポーランド王国の消滅と街の運命

ファイル:Siege of Danzig 1807.PNG
プロイセンからグダンスクを奪取するナポレオン軍(1807年)

18世紀、度重なる戦争によってグダニスクの経済は徐々に衰退していった。1734年にはロシアに占領された。1793年には第2次ポーランド分割が行われ、グダニスクはポーランド王国から奪われてプロイセン王国に併合され、公式な名称を「ダンツィヒ」に変更された。1807年から1815年にかけてのナポレオン戦争の期間は、ナポレオンの政策によって自治都市としての地位を取り戻した。ナポレオン戦争が終結すると、ダンツィヒは再びプロイセン王国の支配下に置かれ、西プロイセンのダンツィヒ地方の行政中心地とされた。ダンツィヒでは住民のドイツ文化への同化政策が徹底的に行われ、住民の多くはドイツ人(バルト・ドイツ人)となっていった。

近代

ドイツ民族主義の過激化

ファイル:Bundesarchiv Bild 102-14649, Danzig, Verhaftung am Wahltag.jpg
ドイツ民族主義の過激化に反対する活動家を逮捕するダンツィヒ警察(1933年)

第一次世界大戦後はヴェルサイユ条約によりドイツ領から切り離され、どの国にも属さない国際連盟保護下の「自由都市ダンツィヒ」となった。住民はドイツ人(バルト・ドイツ人)が主体でありながらポーランドが市の外交権を得た。河川についてドイツ帝国は複雑だが劣悪な堤防を作り、ポーランドの優れた技術による堤防の建築を妨げていた。ポーランドは新規立て替えをし易くするため放置すると、思いもよらぬほどの僅か数年で堤防は破損し、氾濫が頻発した。ドイツ人達はドイツではなくポーランドのせいと見なし反ポーランド主義を高めたために、堤防の再建は停滞した。地元経済の活性のため、水揚げしやすいように大きな砂州が作られると、裕福な少数のドイツ系商人は商品運行を遮られるとして敵意を抱いた。また同様の理由から、30kmに設けられた関税に対しても敵意を抱いた。ドイツは本土からダンツィヒに向けて大量の反ポーランド主義的ドイツ人を移住者として送り込んだ。さらにダンツィヒ港はポーランドの製品に対して高い関税をかけた。ポーランドはこの敵対的政策に対抗して、ダンチヒの西方のポーランド領に当時では世界最高水準の港湾施設を備える(それでいながらポーランドの国庫に大きな負担をかけず、経済的な)グディニャ港を建設した。ポーランドからの製品のうち、高付加価値のものは最新のグディニャ港から輸出され、木材などかさばる割りにあまり価値のない品物の輸出にのみダンツィヒ港が使われるようになった。これによってダンツィヒの経済は停滞した。これはダンツィヒのドイツ系住民の民族主義を強く刺激した。ドイツはさらに多くの反ポーランド主義的ドイツ人をダンツィヒに送り込んだ。この結果、市の議会では1933年ナチスが第一党となりポーランド系住民やカシューブ系住民に対する弾圧が行われた。ナチスが支配したダンツィヒの市民は自衛団をはじめとした民兵組織に参加し、これら民兵組織の構成員をドイツ本土に送って軍事訓練をさせ対ポーランド戦争を準備した。ダンツィヒ港にはドイツ本土から大量の武器弾薬が次々と送り込まれた。ナチス親衛隊の構成員が、一般市民を装いダンツィヒに大量に潜入した。

第二次世界大戦

1939年ポーランド侵攻に際して、同市に潜入していた親衛隊の一部や友好訪問を名目に港内に停泊していたドイツ海軍練習艦シュレスヴィヒ・ホルシュタインの海軍陸戦隊が同市を制圧した。郊外にヴェステルプラッテに駐屯していた180人ポーランド守備隊は3500人のドイツ兵を相手に勇敢に戦ったが、ドイツ側の物量には勝てず、7日間の激戦の後に弾薬と医薬品が尽きたため降伏した。ダンツィヒはドイツに占領された。ナチスの秘密警察は、戦争が始まる前の1936年からポーランド系住民の内偵調査をしてリストを作成しており、この占領によって数千人のポーランド人がリストに則って一斉に逮捕され、強制収容所に送られるか、近くの森で射殺された。第二次世界大戦末期、多くのドイツ人がソ連軍の進撃を逃れ西に避難、残っていたドイツ系住民もヤルタ協定により戦後ドイツへと強制移住させされた。グダニスクはドイツ軍連合国軍との激しい戦闘により大半が破壊された。

現代

街並みの復元と民主化運動

1952年にポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒはもとの「グダニスク」を公式名称としてポーランド領に編入された。実に159年ぶりのポーランド領への復帰であった。旧市街など、戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料をもとにポーランド人の手によって完全に復元された[1]。新生グダニスクは造船業と貿易を主要な産業として大いに発展したが、1970年代のオイルショックによって経済が低迷し、ソビエト連邦が支配するコメコンの経済体制に対する不信から民主化運動と労働運動が始まるようになった。

民主化、経済・文化の発展 ― 第二の黄金時代へ

1980年代初め、ポーランドを民主化に導く「連帯」の指導によるグダニスク造船所労働者ストライキが行われ、こうした運動が1989年のポーランド民主化につながった。1990年には「連帯」指導者だったレフ・ヴァウェンサ(ワレサ)がポーランド大統領になった。2007年にはグダニスク出身の若き政治家ドナルド・トゥスクがポーランド首相となった。現在のグダニスクはポーランド最大の観光地の一つで、内外の多くの観光客でにぎわい、また主要貿易港の一つでもある。ポーランド北部の文化の中心地でもあり、一年を通じて多くの文化的催しが行われている。ポーランド市民が精密に復元したグダニスク旧市街はその文化的価値が認められ、ユネスコ世界遺産の暫定リストに載っており、そう遠くないうちに世界遺産として正式登録される見込みである。

地理

ファイル:Karte Danziger Bucht.png
グダニスク湾とヘル半島

グダニスクの町はグダニスク湾に面しており、市の北部には、第二次世界大戦開戦のきっかけとなったヴェステルプラッテという小さな半島がある。また外海に臨む一帯には長大な砂洲であるヘル半島があり、鉄道や道路が通り漁村も点在していて、景勝の地となっている。グダンスクの運河やヴェステルプラッテの桟橋からはヘル半島の中間地点の漁港のヤスタルニア(Jastarnia)や半島突端のリゾート村のヘル(Hel)までフェリーが出ている。また、グダニスクからはヘル半島を通って突端のヘルまで鉄道も道路も通っている。グダニスクの近くにはグディニャソポトがあり、これら3つの都市はまとめて「三連都市(Trójmiasto)」と呼ばれる。また近郊の町オリーヴァ教会には、世界的に有名なパイプオルガンがある。市の中心部はヴィスワ川の一支流レニフカ川(Leniwka)に注ぐモトワヴァ川(Motława)の河口に位置し、一般にグダニスクという都市名はグディニャともども、モトワヴァ川の古名グダニャ川(Gdania)に由来するとされ、これはインド・ヨーロッパ祖語で「河」を意味するdan(u)という語幹を持っている。

気候

バルト海に面しているため、ポーランド内陸部に比べると、夏は暑くなく、冬も比較的暖かい海洋性の温和な気候である。夏は雷雨が起こりやすく、年に数日程度は30度を超えることもある。冬は積雪となることもあり、時に気温が-15度を下回ることもある。 テンプレート:Weather box

教育

グダニスクはグダニスク大学グダニスク工科大学など全部で14の大学があり、約60,000人の生徒が学んでいる。

グダニスク出身の有名人

ギャラリー

姉妹都市

関連項目

外部リンク

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