クラクフ

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クラクフKraków(テンプレート:Audio-IPA), Krakau クラカウ)はポーランド南部にある都市で、マウォポルスカ県の県都。ポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都であった。ポーランドの工業文化の主要な中心地でもある。ヴィスワ川の上流に位置し、市街地はテンプレート:仮リンクを中心としてヴィスワ川両岸に広がっている。人口は約75万で、これはワルシャワウッチに続く第3の規模。日本ではクラコーと呼ばれた。

歴史

クラクフの歴史は、ポーランド王国の成立以前にまでさかのぼり、伝承によれば8世紀には成立していたと推測される。10世紀にはアンダルスイベリア後ウマイヤ朝イスラム帝国)のユダヤ人記録家テンプレート:仮リンクテンプレート:Lang-en-short)がこの地方を訪れ、ボヘミアの版図にある交易都市としてクラクフに言及している。その後正式にクラクフにおけるポーランド王国(ピアスト朝)の主権が確立し、首都機能がポズナンからクラクフに移ってからはポーランド最大の都市として発展していった。

13世紀モンゴルの襲撃でいったん破壊された。しかし復興は順調に進み、14世紀よりクラクフは最盛期を迎え、1364年カジミェシュ3世によってヤギェウォ大学(クラクフ大学 - コペルニクスが大学生として通った大学として知られる。ポーランド最古の大学)が創設され、それからも織物取引所、聖マリア教会などが建てられていった。西欧での迫害を逃れてやってきた何万人ものユダヤ人が喜んで受け入れられた。現在でも街のカジミェシュ地区に多くのシナゴーグがみられるように、中世よりユダヤ人コミュニティーが存在した。14世紀のカジミェシュ大王は最も積極的にユダヤ人を受け入れ、当時はヴィスワ川の中洲だった、河川を利用した運送に適した広い土地を彼らの自治都市として提供した。このカジミェシュ地区はゲットーとは異なり、ユダヤ人が閉じ込められたわけではなく基本的にユダヤ人であってもクラクフではどこでも自由に住むことができたが、ユダヤ人たち自身による行政の自治権が与えられたのがこの地区だということである(第二次世界大戦でドイツによる占領政策が行われるまで、ポーランドにはゲットーというものが存在しなかった)。後にユダヤ人たちが豊かになるにつれて自治区は対岸にも広がっていった。

しかし、16世紀後半にヤギェウォ朝が断絶すると、ポーランドでは貴族らによって運営される身分制議会(セイム)の勢力が強まり、王権の弱体化が進んだ。16世紀より徐々に王国の中心はワルシャワへと移行していき、17世紀初頭には正式に都がクラクフからワルシャワへと遷された。そうした中、17世紀前半の三十年戦争18世紀前半の大北方戦争に巻き込まれ国土は荒廃し、クラクフもこの混乱に巻き込まれた。18世紀後半には3度のポーランド分割によって国家自体が消滅し、クラクフはオーストリアガリツィアへと組み込まれることになった。

1815年ウィーン議定書で、クラクフは自治共和国・クラクフ共和国の地位を認められた。しかし、オーストリアによる干渉は強まる一方であり、1846年2月にクラクフ市民が反オーストリア蜂起・クラクフ蜂起を起こしたが鎮圧され、オーストリアに併合されてクラクフ大公国となり自治特権は失われた。この蜂起は2年後に起こる1848年ヨーロッパ革命の先駆的運動とも評価される。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ポーランド文化振興の中心地として重要な役割を果たした。第一次世界大戦を経て、1918年にポーランドが独立を果たしポーランド第二共和国となった。第二次世界大戦に際してドイツ軍の占領を受けた。ポーランド総督に任命されたハンス・フランクはクラクフのテンプレート:仮リンクからポーランド総督府の統治にあたった。1945年に代わってソ連軍が支配下においた。

第二次世界大戦中は占領者のナチス・ドイツにより、カジミェシュ地区から見てヴィスワ川対岸にあるポドグジェ地区にクラクフ・ゲットーが創設された。オスカー・シンドラー(映画「シンドラーのリスト」の題材となった人物)が経営していた工場は、カジミェシュ地区の南東にあり、クラクフ・ゲットーのユダヤ人を労働者として雇っていた(工場は現在も現存)。工場のユダヤ人労働者が強制収容所に連行されようという時、彼らを連れ戻してモラヴィア地方のツヴィッタウ(テンプレート:Lang-de-short、現テンプレート:仮リンク)-ブリュンリッツ(テンプレート:Lang-de-short、現テンプレート:仮リンク)にある自分の工場へと送った。結果として数千人のユダヤ人が命を救われた。現代のカジミェシュ地区では毎年7月初旬に大規模なユダヤ文化祭り「シャローム」が開催され[1]アメリカイスラエルなど、ポーランドから移住していったユダヤ教徒もやってきて様々な催しを繰り広げ、ユダヤ教徒もキリスト教徒もみな集まって歌ったり踊ったり食べたり飲んだりと、和気あいあいの賑わいとなる。このシャローム祭りの期間にこのカジミェシュ地区のシェロカ通りで行われるユダヤ音楽祭りは、世界最大のユダヤ音楽祭。

戦後は文化都市としての伝統を受け継ぎ、特に1989年民主化後は商業が急速に発達してヨーロッパ有数の観光都市となっている。欧米では最も人気のある観光都市のひとつで、その評判はすでに定着し、欧米の旅行雑誌や旅行サイトで「世界一すばらしい観光地」の称号を与えられることが多い[2]

地理

近隣の都市としては、約70キロ西にカトヴィツェ、100キロ北東にキエルツェ、75キロ東にタルヌフ、85キロ南にザコパネが位置している。

気候

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文化

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ダ・ヴィンチ
『白テンを抱く貴婦人』
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織物取引所と中央広場

クラクフはポーランド文化の中心地であるといわれる。また第二次世界大戦であまり被害を受けなかったこともあり、世界遺産に登録されている旧市街には、歴史的な建造物が多く残っている。なかでも旧王宮であるテンプレート:仮リンクテンプレート:仮リンク、織物会館などは有名で、観光客にも人気がある。築700年程度のアパートが代々手入れされて現代でもそのままアパートとして使われていることがある。

またクラクフには国立美術館を筆頭に、各種博物館や美術館など数多くの文化施設が存在する。レオナルド・ダ・ヴィンチの「白テンを抱く貴婦人」があるチャルトリスキ美術館や、日本の美術品や骨董品の収集家であったフェリクス・"マンガ"・ヤシェンスキの7万点におよぶ日本美術コレクションが展示されている「日本美術・技術センター“マンガ”館」(館名の「マンガ」の由来は葛飾北斎北斎漫画で、建物の設計は磯崎新)、ポーランドの国民的画家ヤン・マテイコらの作品がある国立美術館が特に有名。

聖マリア教会のラッパ

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聖マリア教会と「ライコニック」

中世、モンゴル軍の襲撃に逢った際、ラッパ吹きが危険を周知させるためラッパを吹いている最中に矢で射殺されたという言い伝えがある。それに倣い、広場にある聖マリア教会の塔の上からは、一時間おきにラッパが吹き鳴らされ、演奏中に突如途絶する。この伝統は中世から連綿と続いている。

この時報としての「ヘイナウ・マリアツキ」(聖マリアのトランペットコール)は1392年の公文書に記載されているものが最古の記録だが、「ヘイナウ」がハンガリー語由来の外来語であることから、遅くともそれより数十年前の、ハンガリー王を兼任していたポーランド王ルドヴィク1世の治世には既に定着していたようである。当時は、市の東西南北それぞれにあった城門にもそれぞれラッパ士がいた。聖マリア教会でのラッパの途絶が途絶すると、4つのうちいずれかひとつの城門のラッパ士がその後のメロディを受け継いで、その城門の開閉を市内外に知らせていた。ヘイナウ・マリアツキはその長い歴史の中で、知られている限り二千人以上の人々が担当している。

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ヘイナウ・マリアツキの演奏

ヘイナウ・マリアツキは、これまで2度だけ「聖母の涙」という、キリスト教音楽の別の曲にとって代わられた。1度目はポーランドが生んだローマ教皇ヨハネ・パウロ2世の帰天(逝去)の日である2005年4月3日、2度目はポーランド大統領レフ・カチンスキ夫妻が飛行機事故で急死した翌日の2010年4月11日

ヘイナウ・マリアツキの由来となったは、クラクフを襲撃したモンゴル騎兵たちであるが、彼らを模したヒゲもじゃのマスコット「ライコニック」は、キリスト教の祭日「聖体の祝日」に毎年開催される「ライコニックたちの祭り」(ライコニキ)の主役。ライコニックと彼らの祭りは700年以上の伝統があり、クラクフ名物として親しまれている。ライコニックたちは聖体の祝日でなくとも時折クラクフの街かどで出会うことがあり、同じくクラクフの街角でよく見かけるマスコット「ビール君」と一緒に観光客から喜ばれている。

ビール君

上で紹介したビール君は市内にある「ヴァヴェル王宮のふもと」(Pod Wawelem、ポッド・ヴァヴェレム)というポーランド料理レストランの宣伝マスコット。このレストランの提供する「ビールの無料サービス」(piwo gratis、ピーヴォ・グラーティス)を広告する札を持って市内を歩き回っている。広場など目立った場所だけでなく、隠れた小道で休んでいたりする姿が目撃される。時折道行く人々にチラシを配る姿も見られる。ビール君は複数いることが判明していて、同時に2人以上で連れ立って歩いていることもある。

オブヴァジャーネック

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クラクフ式オブヴァジャーネックの屋台

クラクフ式オブヴァジャーネック」(obwarzanek krakowski、オブヴァジャーネックとは「一度茹でてから焼いたパン」の意味)はクラクフの食文化の代表格。市内でライセンスを取得したパン屋だけが製造販売できる。遅くとも14世紀から販売されており、当時もライセンスを取得したパン屋だけが製造販売を許されていた。オブヴァジャーネックは、現在は日本でも親しまれているベーグルの原型と言われている。製造業者から販売委託を受けた屋台がクラクフ市内に無数にあり、これらはみなクラクフ市のシンボルカラーである青色に塗られている。主に主婦や年金暮らしの老人たちがオブヴァジャーネックを売っている。クラクフ式オブヴァジャーネック("obwarzanek krakowski")は欧州連合(EU)の規定とクラクフ市の条例によりクラクフ市内中心部でのみ販売が許されている。早朝から街角で売られ始め、午後には売り切れることが多い。モチモチとした強い弾力を持つことから、乳幼児の歯固めとしても使われる。

スポーツ

世界遺産登録基準

この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。テンプレート:世界遺産基準/core

交通機関

空港

クラクフ西方の郊外に、バリツェ空港(ヨハネ・パウロ2世空港)がある。

鉄道・長距離バス

最も主要な鉄道駅はクラクフ中央駅であり、各種の普通列車および特急列車などで国内外の主要都市と結ばれている。鉄道駅の隣にはPKS(ポーランド国バス)のバスターミナルがあり、各種長距離バスが発着している。

市内交通

主要な公共市内交通手段はバスとトラムである。いずれも、MPKクラクフによって運営されている。2014年現在、バス・トラム共に一回券大人3.80 zlズウォティ

教育機関

主なランドマーク

クラクフに縁のある著名人

姉妹都市

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脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. http://www.fkz.pl/index.php?lang=e
  2. http://www.mfa.gov.pl/en/news/krakow_named_the_best_tourist_destination_of_2014

関連項目

外部リンク

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