クライペダ

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クライペダKlaipėda)は、リトアニアバルト海に面した海港都市。同国唯一の海港である。ドイツ語ではメーメル (テンプレート:De) またはメーメルブルク (テンプレート:De)、ポーランド語ではクワイペダ (Kłajpeda)。

人口は 18万5899 人(2007年)で、1989年の 20万2900人から減少傾向にある。ほとんどの住民はリトアニア人である。今日クライペダはスウェーデンデンマークドイツポーランドと連絡する主要なフェリー港である。クライペダはダネ川の河口近くに位置する。

クライペダはドイツイギリスデンマークにあるような木枠の柱が使われる建築に富んでいる。クライペダ近郊には、リトアニアで人気のある海岸のリゾート地クルシュー砂州国立公園およびパランガがある。

歴史

クライペダはバルト族により12世紀に創建された。長い間クライペダは東プロイセンに属し、そのあいだメーメルと呼ばれていた。

このバルト海の港町は1252年ドイツ騎士団によって創建され、カストルム・メルメレ (Castrum Memele, ドイツ語では Memelburg, また Mimmelburg) の名で記録に残された。1254年にクライペダはハンザ自由都市となり、1257年にはリューベク都市法を承認した。この地域はドイツ騎士団によりキリスト教に改宗させられた。1422年メルノ海平和条約により、プロイセン公国リトアニアの国境が定められた。メーメルはプロイセン領となり、この国境線は1919年まで変わらずに残った。これはヨーロッパにおける最も長く変更されなかった国境線のひとつである。

1474年の初めには、メーメルはプロイセン州の都市としてクルム法に基づき統治されていた。1525年にメーメル公爵領はアルブレヒト(アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバハ=プロイセン)によりルター派地域となる。これが街と港湾の長年にわたる発展の始まりを告げた。なぜならプロイセン公国ポーランドの采地であり、後にはポーランド=リトアニア共和国の一部となったからである。ダネ川の河口近くに位置するという利点を活かし、この国境の都市は近隣のリトアニアに貿易港としての役割を務めた。繁栄の時代は1629年から1635年にかけて、メーメルがスウェーデンの攻撃により損害を受け、占領されたときに終わった。メーメルは幾度も再建されたが、75年後には多くの人がペストで死亡した。18世紀初頭にスウェーデンに再び占領されたが、1720年プロイセン王国の領土として確定した。1871年ドイツが統一されると、メーメルはドイツのなかでもっとも東北部に位置する都市となった。

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メーメル時代の街並み(絵葉書)

第一次世界大戦後の1919年、ドイツ領であった当地は連合国の保護下に置かれた。 ヴェルサイユ条約締結により、メーメル周辺の領土はドイツから割譲されテンプレート:仮リンクとしてフランスによる委任統治におかれ、フランス軍が駐留するが自治が行われていた。しかし、1923年にブドリュス大佐指揮下のリトアニア軍が侵攻し、フランスは自治権の保持を条件にメーメルを放棄した。ドイツ人の人口が多かったメーメルでは、1938年の選挙でナチ党が勝利し、1939年3月22日、ドイツ第三帝国に合併された。これはオーストリアズデーテンラントチェコスロバキアの合併の後のものであった。(このとき、ヒトラー総統が旧市街のドラマ劇場のバルコニーに立ち演説した)

第二次世界大戦中、1944年の末頃から始まって1945年に到るまで、住民はソ連軍の侵攻から逃れるためにドイツ本土へ避難した。当地のドイツ人人口は激減した。クライペダは赤軍に1945年1月に占領され、リトアニア・ソビエト社会主義共和国領となった。残留していた多くの住民はシベリアへ送られ、それを免れた者もドイツへ追放された。

第二次世界大戦1950年頃までに、ソビエト連邦の海港として近代的な大造船所や漁港が再整備された。

1945年〜現在

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リタス記念硬貨:クライペダが描かれている

第二次世界大戦中、1944年末から1945年にかけて連合軍の勝利が目前となった頃、戦闘が近づくにつれてドイツ人住民は引き揚げを余儀なくされた。それでもこの地域に残った住民は、のちに退去させられるかもしくは殺害されている。1945年1月28日、クライペダはソビエト赤軍に占拠された。メーメル地域は東プロイセンの他の地域とは違いカリーニングラード州の一部とはされず、リトアニア・ソビエト社会主義共和国に編入されることになった。ここからクライペダの新たな歴史が始まる。

ソビエトは、バルト海東岸の不凍港であるクライペダをヨーロッパ地域最大の漁業地域、海軍の拠点にした。巨大な造船所漁港が建設され、1950年代末までに人口は戦前の2倍にふくれあがり、そして1989年には20万3000人に達した。第二次世界大戦の影響から、ほとんどすべての住民はロシアベラルーシウクライナそしてリトアニアといった地域から流入していた。はじめはロシア語話者が市政を担っていたが、スターリンの死後はリトアニアから他より多く人が集まったためリトアニア人が最も多い民族となった。とはいえそれでも、リトアニアで人口10万人を超える都市の中ではクライペダが最もロシア語を母国語とする人の割合が大きい。

1970年代まで、クライペダは経済面でのみ重要視され、文化活動や宗教活動は最小限に抑えられ制限されていた。多くの教会は第二次世界大戦中に損害を受け、さらにソビエト占領中に取り壊されており、ローマ・カトリック教会を広めようとした者は逮捕された。その後、文化活動は1970年代から80年代にかけて発展しはじめ、海の祭りなどが催されるようになっていった。

1990年代はじめにリトアニアがソビエト連邦から独立し、1991年クライペダ大学が設立される。今ではドイツ語リトアニア語の2カ国語協会「Hermann-Sudermann-Schule」も作られている。

交通

船舶

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クライペダ港と造船所の浮きドック

ドイツキールおよびザスニッツ)、デンマークスウェーデンポーランドグダニスク)への航路が存在する。

近郊公共交通

近郊公共交通網としてバスが運行される。バスはボルボ社またはダイムラー・ベンツ社のものがよく使われる。また路線タクシーも利用されている。路線タクシーとは、フォード・トランジット・バスのような大きさで、特定の路線に運行されるものである。運賃は乗客一人当たりに定められている。路線タクシーの運賃は、一日あたり 1リタス、深夜料金は 2リタスである。利用距離には限定はない。

  • 渡船:旧市街(Old Castle Port) ~ スミルティネ(30分に1本程度、所要時間約10分)
  • 路線バス:スミルティネ ~ ニダ(1日10便程度、所要時間約1時間)
  • 路線バス:クライペダ バスターミナル ~ パランガ(30分に1本程度、所要約45分)

鉄道

クライペダには1875年に鉄道が開通した。パゲギャイおよびポゲーゲンに通じる路線は第一次世界大戦まで唯一の鉄道路線であった。今日では近郊路線だけが運行されている。今日、もっとも重要な鉄道路線はシャウレイ(Šiauliai)経由でヴィリニュスへ通じる路線である。この路線には毎日三本の遠距離列車(うち一本は夜行列車)、および三本の地域内列車が運行されている。運行主体はリトアニア鉄道(Lietuvos Geležinkeliai)である。

長距離バス

バスターミナルから、シャウリェイ、シルーテ、ヴィリニュスカウナス経由)、リガリエパーヤポーランドドイツロシアカリーニングラードへの路線バスが出ている。バスターミナルはクライペダ中央駅のすぐそばにある。ターミナルからは近郊の都市との路線バスも多く発着する。

  • ヴィリニュス行き(1日10~15本程度、所要時間約4時間)
  • カウナス行き(1日10~15本程度、所要時間約2時間)
  • リガ(ラトビア)行き(1日2本、所要時間約6時間)
(リガ行きのユーロラインズ・バスのうち1本は、パランガリエパーヤ経由)

観光

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旧市街(劇場広場付近の木組みの家)
  • 旧市街
  • クライペダ城
  • スミルティネ(海洋博物館、クルシュー砂州国立公園博物館)
  • クルシュー砂州国立公園(隣のネリンガ行政区まで続いている)

クライペダ生まれの人々

姉妹都市

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外部リンク

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