キリスト教原理主義

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キリスト教原理主義(キリストきょうげんりしゅぎ)は、特にアメリカ合衆国キリスト教右派キリスト教根本主義福音主義キリスト教会とその教派に向けて多くの場合、非難、侮蔑の意味合いを持って使用される語である。

常に他者の信仰態度を指して使用され、自らの信仰的立場を表す時に「キリスト教原理主義」の語を用いるキリスト教会、団体、神学者は存在しない。「ファンダメンタリストという名称ぐらい敵意に満ちた侮蔑的な差別用語は、おそらくキリスト教界には見当たらないのではなかろうか。」[1]と言われている。おもにキリスト教会外のマスコミや、この立場の教派に対して思想的に批判的なキリスト教内での立場から保守的キリスト教を指して使用されることが多く、蔑称としての意味合いも強いので使用には注意が必要である。

日本基督教団においては、神社参拝をしないクリスチャンファンダメンタリスト、その立場をファンダメンタリズムと呼んだ[2]。「神社非宗教論」を唱え神社参拝を容認する立場では、美濃ミッション事件から神社参拝拒否をファンダメンタリズムとする合意が形成されたという[3]。いずれもFundamentalist Christianity、Christian Fundamentalismの訳語であるが、キリスト教原理主義と訳される場合とキリスト教根本主義と訳される場合では、意味合いが異なる。植村正久は根本主義のウェストミンスター信仰告白代償的贖罪の教理に批判的であったが、1924年、『宣言若しくは信条』の中で英語のファンダメンタリズムの訳語としてキリスト教根本主義の語をあてている。以来、キリスト教界では批判的立場からも根本主義の訳語が使われていたが、イスラム原理主義の台頭以降、蔑称の意味合いをもって原理主義の語が使用されるようになった。

日本基督教団井門富二夫は、ファンダメンタリズムを、「負け犬の宗教」「反動形成」「新興宗教が萌芽状態において発生した直後の、情緒的ないしまだ結晶しない精神状況」「産業社会のじゃま者」「社会の発展に追随できない層の敗北自認から生じたもの」とする[4]

W.フートは、「カトリック原理主義」「ギリシャ正教原理主義」があるとしている[5][6]

脚注

  1. 宇田進著『福音主義キリスト教と福音派』p.42
  2. 渡辺信夫『主の民か、国の民か』 ISBN 426402465X
  3. 『主の民か、国の民か』収録渡辺信夫著「主の民の道」p.139-140
  4. 井門『世俗社会の宗教』日本基督教団
  5. W.フート著『原理主義-確かさへの逃避』新教出版社 ISBN 4400421163
  6. 月刊「いのちのことば」 2004年6月号-9月号連載宇田進著「「原理主義」と「福音主義」」

関連項目

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