キャンディーズ

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テンプレート:For テンプレート:Infobox Musician キャンディーズ(Candies)は、1970年代に活躍した日本女性3人組のアイドルグループである。所属事務所渡辺プロダクション。多くの楽曲は、当時渡辺音楽出版社員だった松崎澄夫(元・アミューズソフトエンタテインメント代表取締役社長)のプロデュースによるものであった。

メンバーは、

である。


略歴

デビュー当時

キャンディーズのメンバーは、3人とも東京音楽学院スクールメイツ出身。最終選抜で3人が選ばれたが、彼女ら以外に太田裕美ザ・ヴィーナスのボーカルであったコニーもいた。 1972年昭和47年)4月に、NHKの新番組『歌謡グランドショー』のマスコットガールとして3人揃って抜擢され、番組プロデューサーから「食べてしまいたいほどかわいい女の子たち」を意味して「キャンディーズ」と名付けられた。3人ともスクールメイツの中でも特に目立つ存在ではなく、『歌謡グランドショー』でもマスコットガール兼アシスタント(椅子・マイク運び・代理音合わせ)に過ぎず、歌手デビューの予定はなかった。しかし『歌謡グランドショー』に出てしばらくたった頃、東京音楽学院をたまたま訪れた松崎澄夫が、教室に入ってきたキャンディーズの3人を見て「かわいい子がいるなあ」と目を留めた。松崎が音楽学院の担当者にレコードデビューの有無を聞くと、「まだです」との返事が返ってきたので、松崎はそのままキャンディーズの歌手デビューを決定した。

1973年(昭和48年)に「あなたに夢中」で歌手デビュー。またデビュー前からは、人気バラエティ番組『8時だョ!全員集合』にもレギュラー出演していたが、デビュー後しばらくはヒット曲に恵まれなかった。デビュー当時のメインボーカルは、当時最も歌唱力が高かった田中が起用された。

人気歌手へ

だが当時のマネージャーである諸岡義明が、3人の中で伊藤だけファン層が異なる(お姉さん的)ことを発見、諸岡の提案により、1975年(昭和50年)に発売した5枚目のシングル「年下の男の子」で方針を転換。「お姉さん」的キャラクターの伊藤をセンター・メインボーカルに据えて前面に出したところ、これが当たって初ヒットとなり、又オリコンでも初のベストテン入りを果たした。

以降のシングルでは、「わな」が藤村のセンターである以外は、すべて伊藤がセンターを務めた。翌1976年(昭和51年)発売の「春一番」は、オリコンで初めてとなる週間3位を獲得。また1977年(昭和52年)にも「やさしい悪魔」「暑中お見舞い申し上げます」など、シングル曲を立て続けにヒットを飛ばした。その個性の違う3人という組み合わせや、『8時だョ!全員集合』や、『みごろ!たべごろ!笑いごろ!』などのバラエティ番組でコントまでこなす積極的なテレビ出演と、愛らしい振り付けを交えた数々のヒット曲により、幅広い人気を獲得した。

キャンディーズのデビューから遅れること3年、1976年のデビュー直後から社会現象的に爆発的な人気を博したピンク・レディーとは同じ女性アイドルグループとして比較されることが多かった。それ故、一部では両者をライバルとして見る向きもあったが、当人たちはライバルというより同じ時代を生きる戦友のようなイメージをもっていたようで、田中と増田恵子などはとても仲がよかった。

人気絶頂時の解散

しかし1977年の夏、人気絶頂となりつつあったキャンディーズは、突如解散を発表する。同年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートのエンディングで、3人は涙を流しながら、伊藤が「私たち、皆さんに、謝らなければならない事があります」藤村と田中が「ごめんなさい」と、それぞれファンに対して謝罪。それから突然の解散宣言後、伊藤が泣き叫びながら発言した「普通の女の子に戻りたい」は非常に有名になり、当時流行語にもなっている。3人は当初同年9月末限りで解散する意思を固めていたものの、事前に所属事務所の正式な了承を得ずに発表したこともあり、事務所の説得と話し合いの末、解散は半年間先送りされることになった。

この電撃的な解散発表からキャンディーズの人気は沸騰し、ラストシングルの「微笑がえし」では初めてオリコン1位を獲得。それまでのシングルが1位を獲得したことが無かったため、ファンをはじめ関係者が解散までには1位を獲得させたいとする支援の後押しがあった(後述)。キャンディーズは解散によってさらに人気を盛り上げたと言える。

1978年(昭和53年)4月4日、後楽園球場に当時空前であった5万5千人を集め、マスコミが歌謡界史上最大のショーと呼び、日本でも『ザ・ピーナッツ さよなら公演』以来2例目となるお別れコンサート(『ファイナルカーニバル』)が行われ、4年半の活動に終止符を打った。なお、後楽園球場でコンサートを開いたのは女性歌手(グループ)において、キャンデーズがはじめてである。この模様は全国にテレビで放送され、平均視聴率32.3%(関東地区)という単独アーティストによる音楽番組としては歴代1位の高視聴率を獲得している[1]。最後に述べた「本当に私たちは、幸せでした」の口上も有名。コンサートの最後に歌われた「つばさ」は先に解散を知った全国キャンディーズ連盟の有志が作った「3つのキャンディー」という歌への返歌として伊藤が作詞したものである。歌う前に伊藤が「やはりこの歌を歌いたい」と言ったのはそのためである。

なお、解散直後もTBSテレビ『ザ・ベストテン』内では「微笑がえし」が引き続きランクインした為、慰労会を兼ねたスタッフとの日本国外でのバカンス中に、電話ではあるがTV出演をしたことがある。当時は日本国外との衛星回線が不安定で、放送直前電話が繋がらない可能性があった為、ベストテン側とキャンディーズ側双方のスタッフで、一日中電話を繋いでいたという(『ザ・ベストテン』特番より)。

解散後

解散後は一度も再結成を行わなかった。但し、プライベートでは時々3人で集まっていたという。

  • 伊藤は、1980年昭和55年)に芸能界へ復帰。俳優歌手水谷豊1989年平成元年)に結婚し、1児の母となる。2014年(平成26年)現在は女優・ナレーターなどで活動中。
  • 田中は、1980年に復帰後、主に女優として活動。その間一時ソロ歌手として、音楽活動も行いシングル「カボシャール」などをリリース。1991年(平成3年)に結婚(夫は夏目雅子の兄)。2011年(平成23年)4月21日に乳がんのため55歳で死亡。
  • 藤村は、1983年(昭和58年)にソロ歌手として期間限定で復帰、カネボウ春のキャンペーンソング「夢・恋・人」(シングル、アルバムともに同名)を発表。マスコミにも取りあげられ、『ザ・ベストテン』に「今週のスポットライト」で出演、日本テレビ『ザ・トップテン』で10位にランクインしスマッシュ・ヒットとなった。間もなく結婚して以降芸能界の表舞台は出ていなかったが、2011年4月に田中の葬儀に出席、28年ぶりに公の場へ姿を現した。

年表

ディスコグラフィ

シングル

発売順 A面タイトル 発売日 作詞 作曲 編曲 備考
1 あなたに夢中 1973年テンプレート:09月テンプレート:01日 山上路夫 森田公一 竜崎孝路 デビュー曲、当時センター(メインボーカル)は田中が担当
2 そよ風のくちづけ 1974年テンプレート:01月21日 山上路夫 森田公一 穂口雄右
3 危い土曜日 1974年テンプレート:04月21日 安井かずみ 森田公一 竜崎孝路
4 なみだの季節 1974年テンプレート:09月21日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
5 年下の男の子 1975年テンプレート:02月21日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右 センターを伊藤に変更、キャンディーズ初のBEST10入り
6 内気なあいつ 1975年テンプレート:06月テンプレート:01日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
7 その気にさせないで 1975年テンプレート:09月テンプレート:01日 千家和也 穂口雄右 穂口雄右
8 ハートのエースが出てこない 1975年12月テンプレート:05日 竜真知子 森田公一 竜崎孝路
9 春一番 1976年テンプレート:03月テンプレート:01日 穂口雄右 穂口雄右 穂口雄右 アルバム『年下の男の子』収録の人気曲をシングル化。トップ3入り
10 夏が来た! 1976年テンプレート:05月31日 穂口雄右 穂口雄右 穂口雄右
11 ハート泥棒 1976年テンプレート:09月テンプレート:01日 林春生 すぎやまこういち 船山基紀
12 哀愁のシンフォニー 1976年11月21日 なかにし礼 三木たかし 馬飼野康二
13 やさしい悪魔 1977年テンプレート:03月テンプレート:01日 喜多条忠 吉田拓郎 馬飼野康二 衣装デザインをアン・ルイスが担当
14 暑中お見舞い申し上げます 1977年テンプレート:06月21日 喜多条忠 佐瀬壽一 馬飼野康二 発売後間もなくして突然解散を宣言
15 アン・ドゥ・トロワ 1977年テンプレート:09月21日 喜多条忠 吉田拓郎 馬飼野康二 作曲・吉田拓郎がのちにアルバム『大いなる人』でセルフカバー
16 わな 1977年12月テンプレート:05日 島武実 穂口雄右 穂口雄右 唯一藤村がセンターを担当
17 微笑がえし 1978年テンプレート:02月25日 阿木燿子 穂口雄右 穂口雄右 事実上のラストシングル、有終の美を飾りオリコン1位獲得
18 つばさ 1978年11月21日 伊藤蘭 渡辺茂樹 渡辺茂樹 解散後、キャンディーズの意向に反して発売されたもの

スタジオ・アルバム

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 あなたに夢中〜内気なキャンディーズ〜 1973年12月テンプレート:05日 12
2 危い土曜日〜キャンディーズの世界〜 1974年テンプレート:06月21日 12
3 なみだの季節 1974年12月10日 12
4 年下の男の子 1975年テンプレート:04月21日 12 初の全曲オリジナル・アルバム
5 その気にさせないで 1975年10月テンプレート:01日 12
6 春一番 1976年テンプレート:04月テンプレート:01日 12
7 夏が来た! 1976年テンプレート:07月21日 12 ムーンライダーズが参加
8 [[キャンディーズ 1 1/2〜やさしい悪魔〜|キャンディーズテンプレート:分数〜やさしい悪魔〜]] 1977年テンプレート:04月21日 18 2枚組(うち1枚の片面には3人のサインを刻印)
9 Candy Label 1977年テンプレート:09月テンプレート:01日 16 変則2枚組(30cm盤1枚+17cm盤1枚)
10 CANDIES 1676 DAYS〜キャンディーズ1676日〜 1977年12月テンプレート:05日 58 5枚組(ベスト盤3枚+洋楽カバー1枚+未発表曲・新曲1枚)
11 早春譜 1978年テンプレート:03月21日 20 2枚組

ライブ・アルバム

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 Candies' Carnival For 10,000 People 1975年12月21日 10 同年10月19日 蔵前国技館LIVE
2 蔵前国技館10,000人カーニバルVol.2 キャンディーズ・ライブ 1976年12月テンプレート:05日 18 同年10月11日 蔵前国技館LIVE
3 CANDIES FINAL CARNIVAL Plus One 1978年テンプレート:05月21日 39 同年4月4日 後楽園球場LIVE、3枚組(うちスタジオ録音1枚)
オリコン1位獲得
1985年3月21日に初CD化、CD化されたキャンディーズのアルバム中最古の作品

ベスト・アルバム(LPのみ)

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1974年版- 1974年11月テンプレート:01日 12 SQ4CH収録。既発ヴァージョンとヴォーカルが別テイクになっている
2 キャンディーズ・デラックス 1975年テンプレート:06月テンプレート:01日 24 「年下の男の子」を含む2枚組
3 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1975年版- 1975年11月テンプレート:01日 12 「その気にさせないで」「内気なあいつ」収録
4 Best of Best キャンディーズのすべて 1976年テンプレート:06月テンプレート:01日 24 「春一番」「ハートのエースが出てこない」を含む2枚組第2弾
5 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1976年版- 1976年11月テンプレート:01日 12 「ハート泥棒」「夏が来た!」収録
6 決定盤 キャンディーズ 1977年テンプレート:06月テンプレート:01日 30 「やさしい悪魔」「哀愁のシンフォニー」を含む2枚組第3弾
7 THE BEST / CANDIES' SHOP 1977年11月テンプレート:01日 14 「アン・ドゥ・トロワ」「暑中お見舞い申し上げます」収録。通常のジャケットの上にポスターがかぶさっている
8 THE BEST / 微笑がえし 1978年テンプレート:06月テンプレート:01日 30 解散直後にリリースされた。2枚組第4弾
9 THE BEST / キャンディーズ -1978年11月版- 1978年11月テンプレート:01日 14
10 THE BEST / キャンディーズ -1979年版- 1979年テンプレート:06月テンプレート:01日 14
11 THE BEST / キャンディーズ -1980年版- 1980年11月テンプレート:01日 30 2枚組第5弾
12 THE BEST again / キャンディーズ 1981年11月テンプレート:01日 14
13 THE BEST / キャンディーズ -1982年版- 1982年11月テンプレート:01日 12

CD化されたベスト・アルバム

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 THE BEST again / キャンディーズ 1983年11月テンプレート:05日 14 CD化された最古のシングル・ベスト
2 キャンディーズ・ベスト・コレクション 1985年テンプレート:04月テンプレート:01日 15 翌年5月21日に同一楽曲のまま、ジャケットとケースを変更して再発売
3 GOLDEN J-POP/THE BEST キャンディーズ 1997年11月21日 38 リリース時点で未CD化のスタジオ・アルバム収録曲やLIVE音源、シングルB面曲を初収録した高音質2枚組
4 2000 BEST キャンディーズ 2000年テンプレート:06月21日 15 『キャンディーズ・ベスト・コレクション』の高音質リマスター盤
5 DREAM PRICE 1000 キャンディーズ 年下の男の子 2001年10月11日 6
6 DREAM PRICE 1000 キャンディーズ 春一番 2001年10月11日 6
7 GOLDEN☆BEST キャンディーズ 2002年テンプレート:06月19日 38 2009年8月19日にはBlu-spec CD盤が完全生産限定でリリース
8 キャンディーズ・スーパー・ベスト 2006年テンプレート:07月21日 16
9 キャンディーズ BEST OF BEST 2006年テンプレート:09月21日 12
10 キャンディーズ・ヒット全曲集 -1974年版- 2008年テンプレート:09月テンプレート:03日 13 後述のCD-BOXキャンディーズ・タイムカプセル』にてSACDでリマスターされて初CD化。
未発表曲「霧のわかれ」(「哀愁のシンフォニー」の初期ヴァージョン)を収録
11 GOLDEN☆BEST キャンディーズ コンプリート・シングルコレクション 2011年テンプレート:06月テンプレート:08日 18

CD-BOX

発売順 タイトル 発売日 曲数 備考
1 キャンディーズ・バイブル 1994年テンプレート:05月テンプレート:01日 88 同作のリリース時点で未CD化のシングル曲・アルバム収録曲を初CD化した最初のCD-BOX。
デビュー20周年記念作品
2 CANDIES HISTORY 〜Best Selection Box 1973-1978〜 1998年テンプレート:09月テンプレート:09日 第2回「10,000人カーニバル」の未発表LIVE音源、
未発表曲「暑中お見舞い申し上げます Part 2」(「暑中お見舞い〜」の別作曲ヴァージョン)などを収録。
デビュー25周年・解散20周年記念作品
3 CANDIES PREMIUM 〜ALL SONGS CD BOX〜 2004年テンプレート:06月30日 デビュー30周年記念作品
4 キャンディーズ・タイムカプセル 2008年テンプレート:09月テンプレート:03日 スタジオ・アルバム10作、LIVE3作、『1676日』の新録盤を最新マスタリングし、
『ヒット全曲集(1974)』をSACDで初CD化。全作とも紙ジャケットで復刻。
未発表曲「霧のわかれ」を収録。デビュー35周年・解散30周年記念作品
5 キャンディーズ伝説 CD-BOX 2008年12月11日 96

キャンディーズの曲をカバーした歌手

CDとして発表されたもののみ。

ビデオ・DVD

  • CANDIES FOREVER (β / VHS / LD / DVD)
    キャンディーズ・ファイナルカーニバル For Freedom / 1978年4月4日 後楽園球場
  • CANDIES TREASURE (4枚組DVD)
    Disc1 / 1977年9月28日 砂防会館
    Disc2 / 1977年11月20日 千葉県文化会館
    Disc3 / 1978年2月9日 芝郵便貯金ホール
    Disc4 / CANDIES HIT PARADE
  • 歌の妖精(VHS / 第7巻) - 天地真理太田裕美・キャンディーズ
  • タイムトリッパー / キャンディーズメモリアル(徳間書店) - 付録DVDにキャンディーズ出演CM10本を収録

主な出演作品

テレビドラマ

  • 男たちの旅路 第3部・第2話「墓場の島」(1977年 NHK) - 山田太一原作。根津甚八演じる主人公の人気歌手、戸部竜作が突然引退を決意。舞台上でマネージャーを出し抜き引退宣言をするかどうか最後まで迷うという内容のこのドラマの中で当時人気絶頂であったキャンディーズが出演。彼女らが歌う姿が数回はさまれる。[4]

バラエティ番組

映画

ラジオ

CM

ミュージカル

  • 青春の真中
    (1974年12月24日、東銀座・中央会館。クリスマスコンサート『クリスマス・イヴの調べ 〜 白いコンサート』の第1部の中で披露された約30分のミニミュージカル)
  • 春一番 〜 スタンバイOK (1976年3月29日 - 31日、日本劇場
  • ROCKY
    (1977年7月17日 - 8月31日、日比谷野外音楽堂梅田コマ劇場・日本劇場・他。コンサートツアー『サマージャック'77』の中でのミニミュージカル。ツアー最終日の1977年9月1日にはミュージカルの上演は無し) 

エピソード

キャラクター

  • 全盛期当時、既に大学生世代であったメンバーではあるが、週刊誌の対談などでは処女である事を強調していた。1960年代のアメリカで始まり、1970年代に日本にも伝播してきたフリーセックス(性別からの開放運動)に対するアンチテーゼだったという。
  • 3人それぞれのイメージに関しては、作家山口瞳が『週刊新潮』誌上で連載していたエッセイ「男性自身」において「私はスーちゃんを妻にし、ランちゃんを恋人にし、ミキちゃんを秘書にしたい」と評していた。松下治夫の著書には「ランは気丈なタイプ、スーはおっとりしたタイプ」と書かれていた。
  • 各仕事によりかなり違ったキャラクターを見せていた。歌番組やゲスト出演では、お行儀の良い優等生的アイドルらしく、清潔感のあるハキハキした受け答えをすることが多かったが、ラジオ番組ではくだけた言葉遣いで、台本どおりとは言え下ネタも口にするなどかなり弾けたキャラクターの一面を見せていた。バラエティ番組では体当たりでコントに徹するコメディエンヌぶりも厭わず発揮し、番組関係者からの評判も良かった。コンサートでは、客席に向かって「皆さん、ノってくださーい!」「楽しんでいますかー?」と言った具合に、砕け過ぎない丁寧な言葉を使っている。これは下積み時代からの方針である。特にわざわざ会場まで足を運んでくれるファン(お客様)に対し、一期一会の気持ちで礼を尽くすよう教育され、本人たちも納得していたという。唯一例外として、後楽園球場における『ファイナル・カーニバル』の後半のMCで少々くだけた口調になっていた。最終公演も半ばを過ぎ、緊張が解けてリラックスしたためだという。
  • 3人は公私ともに非常に仲が良い。仕事で常に一緒の行動が多いグループなどでは、宿泊先のホテルの部屋を別にしてもらい、個人の時間を確保する向きが多い中、キャンディーズの3人は一緒に過ごす環境を望んでいたという。ツアー中のホテルではツインルームにエクストラ・ベッドを入れてもらい、同じ部屋で寝ていたという。休日も一緒に過ごすことが多く、まれに連休が取れると、3人で旅行に出掛けた(3人に加え、友人も同行することがあった)。インタビューなどで「ケンカをしないのか?」「ずっと一緒でイラついたり、ストレスを感じることはないのか?」という質問に、伊藤は「2人の気持ちが分かりすぎるから」と答え、藤村は「感情的に姉妹以上になっている」と語っている。現在テンプレート:いつでもプライベートでたまに集まる事があると田中が2006年・2007年のテレビ番組で、伊藤がラジオ(2007年)で語っている。
  • 伊藤蘭の夫の水谷豊が『うたばん』に出演した際、「現在でも年に数回は3人で集まって、食事や会話をよくしている。ただし、3人揃って外出することは不可能だから、集合場所はいつも決まって水谷家」と話している。2011年に田中が死去した際も2人は病室に駆けつけ、最期を看取ったという[6]

衣装

  • 同じ事務所に所属していた、双子のザ・ピーナッツから着用した舞台衣装をプレゼントされたことがある。その際、同じデザインのものをもう1着作成し、3人分揃えてくれた。感激したキャンディーズはその衣装を身に着けてステージに立ったことが幾度もある。
  • THE ALFEE坂崎幸之助は『ファイナルカーニバル』の際の藤村の衣装の制作を手伝っていた。

コンサート

  • 当時のコンサートでは客席から多数の紙テープが投げられていた。ファンはキャンディーズが怪我を負わないように、予め紙テープの芯を抜いていたが、それでもステージ上に大量に蓄積された紙テープが足に絡まり、細かい切り傷が絶えなかったという。
  • 『ファイナルカーニバル』の舞台となった後楽園球場は当時大型モニターがなく、客席のほとんどからキャンディーズの3人は点状にしか見えなかったが、このライブはもともとキャンディーズの最後を目に焼き付けるというよりは、ファンも一体となって完全燃焼する趣旨が強く、まさに「カーニバル」の名に相応しいものであった。また、同球場には天井が無かったため、場外でも歓声ははっきりと聞き取れた。
  • 『ファイナルカーニバル』においては入場できなかったファン数万人が球場を取り囲み、球場内から漏れる音声を伝手に一緒に歓声をあげていた。当然こうなることは事前に予測できたため、主催者側はカーニバルのプログラムを予め警察に提出していた。ところが実際の進行が予定より大幅に押してしまったため、警察は主催者側に幾たびも予定時間内に終わらせるよう指示を出した。そのため、公演後半に予定していた楽曲「夏が来た!」は、現場での判断により、やむなくカットされてしまった。
  • 解散までの期間に全国をコンサートツアーした(『ありがとうカーニバル』)。これはいわゆる解散記念興行であり、これは後の山口百恵を始め、大物歌手やロックバンドの解散時に恒例のものになっていった(この形式での興行は1975年ザ・ピーナッツが最初と言われる。ザ・ピーナッツ さよなら公演を参照)。リリースするレコードも、刻々と迫る解散を視野に入れた内容になっていった(「わな」はその例である)。この時、ずっとメインボーカルの機会がなかった藤村に、1曲のみとはいえメインの座が与えられた。

ファン

  • 日本初の、全国組織型ファンクラブ全国キャンディーズ連盟」(「全キャン連」)を持ったアイドルとしても知られる。アイドルのコンサートで行われているオタ芸の原形もメジャーなアイドルの中ではキャンディーズが元祖である。デビューから数曲の間は『8時だョ!全員集合』等で新曲を披露しても殆どメンバーの名前などを叫ぶコールがなかったが、「その気にさせないで」辺りからコールが激増した。
  • 世に倦む日日』の田中宏和に拠れば[3]東京や大阪の都会出身の子は伊藤、東日本田舎の子は田中、西日本の田舎の子は藤村を支持するという法則があったという。鳥取一区選出の代議士石破茂はそれに該当する。
  • 『ファイナルカーニバル』で見られた「男性の群集が号泣する」というシーンは、当時としてはショッキングな現象と見られている。1978年4月21日付『週刊朝日』では、解散コンサートの記事で「集団で、しかも人目をはばからずに泣くなんて、キミたち、どういう育ち方をしてきたんだい!?」とも記していた。
  • 1978年4月4日の『ファイナルカーニバル』から30年の時を経て、当時の代表的なファンであった全国キャンディーズ連盟の有志が、解散当時キャンディーズのマネージメントをしていた大里洋吉・現アミューズ相談役に協力を要請し、2008年4月4日に『全国キャンディーズ連盟2008大同窓会』と銘打って、約2000名の参加者の下、記念の地である後楽園球場の跡地に同年3月オープンしたJCB HALLにて開催された。その様子は、各マスコミにも取り上げられ話題となった。

歌謡界・事務所関連

  • 松下治夫の著書には、公式に渡辺プロダクションが手がけた最初のアイドルはキャンディーズであると記されている。また前述のとおり初期のころの売出しにはNHKの『歌謡グランドショー』の協力も大きく貢献しているという。
  • それまで日本の歌謡界では「3人組は当たらない」と言われていたが、それを覆した。また、センターポジションを曲によって入れ替えるということを、最初に行ったのもキャンディーズである。また、秋元康は田中の訃報に際し「キャンディーズがいなければおニャン子クラブAKB48もなかった」とコメントしている。
  • 同じ事務所に所属していた太田裕美もキャンディーズのオーディションに参加しており、メンバーになる可能性もあった。もし実現していれば、ラン・スー・ミキに倣って「ヒロ」と呼ばれていたであろうと言われている。
  • キャンディーズの妹分として結成されていたキャンディーズjrというグループがあったが(同じ事務所)、キャンディーズ解散後にトライアングルに改名した。キャンディーズファンから「違和感がある」という声が多かったため、あるいは敬意を表して、「キャンディーズ」の名称を半ば永久欠番扱いとしたため、と諸説ある。

他の作品への影響

  • 1973年4月2日から1985年3月26日まで、朝日放送(ABC)で放映された公開恋愛バラエティ番組プロポーズ大作戦』のオープニングクレジット映像のバックに流れたテーマ曲は、キャンディーズが歌う「ラッキーチャンスを逃がさないで」(サブタイトルは「プロポーズ大作戦のテーマ」)である。この曲は、1978年4月4日にキャンディーズが解散してからも、1985年3月に番組が終了するまでの間、オープニングクレジット映像でのテーマ曲として使用された。
  • 1998年(平成10年)に放送された鈴木保奈美主演のテレビドラマ『ニュースの女』のサブタイトルには全て、キャンディーズの楽曲のタイトルが使われた。
  • 2007年(平成19年)に公開された映画『Little DJ〜小さな恋の物語』では、劇中「年下の男の子」が物語の重要なキーとなる楽曲として登場し、シングル盤も小道具として用いられた。「年下の男の子」は同作品のサントラCD(アミューズソフトエンタテインメント)にも収録されている。
  • ドラえもん』にキャンディーズそっくりのグループ「チョコレイツ」が登場したことがある(てんとう虫コミックス25巻)。「新聞日づけ変更ポスト」でチョコレイツの解散コンサートがテレビに映し出されていた。「私達、普通の女の子に戻ります」の言葉を残して解散した。
  • 同年代のアニメ関係者は後に『魔法の天使クリィミーマミ』の主人公・クリィミーマミの衣装をデザインする際、キャンディーズの衣装を参考にしたという(特に78年頃の白のミニドレス)。
  • 15thシングル「アン・ドゥ・トロワ」は、作曲者の吉田拓郎がセルフカバーしている。このカバー版では、曲の終わりに「さよなら、キャンディーズ」と歌っている。

解散への軌跡

  • 「キャンディーズ」とは本来伊藤・田中・藤村のグループユニット名であるが、これに3人を支えた関係者、および全国のファンが一体となったムーブメントこそが「キャンディーズ」だったという見方もある。
  • 日比谷野外音楽堂の解散宣言直後、メンバーの3人は改めて記者会見に臨み、およそ9か月後の1978年4月4日に正式に解散することを決めた。当初はファン、関係者とも賛否が分かれたが、「キャンディーズの3人が解散を望んでいる以上、それを支持する」ことで意思統一が図られた。
  • 後に、それは誰からともなく「最高の状態で解散する」ことへと気運が高まり(後述の穂口雄右の証言によれば、その5年も前からレッスンの場で「一番いい時に解散しようね」と誓いあっていたという)、そのためには今まで獲得していなかったオリコンチャート1位をとることが最終目標となった(それまでの最高位は「春一番」「わな」の3位)。このような状況下で、事実上のラスト・シングル「微笑がえし」の作詞を担当した阿木燿子は、キャンディーズの集大成となるように、それまでのA面タイトル(春一番、わな、やさしい悪魔、アン・ドゥ・トロワなど)を各歌詞の随所にちりばめていた。
  • 作曲を担当した穂口雄右はレコーディングの際、「キャンディーズに敬意を表し、アイドルではなくミュージシャンとして処遇したい」と提案し、スタッフもこれに同意した。この穂口案は、「コーラスのパート譜を当日の、しかもレコーディングの時点で譜面台に用意する」、即ち初見でレコーディングを行うというものである。これほど厳しい条件にもかかわらず、譜面を手にした3人はミュージシャンとして難なくこれを歌いこなし、レコーディングは僅か3回のテイクで完了した。この一部始終を見ていた穂口は後年、以下のように懐古する。「あの(「微笑がえし」)コーラスは絶品であった。デビュー当時、音程を掴むのに苦労していた3人がここまで成長した。そこにいた3人はアイドルではなく、まさにプロのミュージシャンだった。あまりの嬉しさに私(穂口)は、涙を拭くことも忘れて3人のコーラスに聴き入った。ふと周囲を見ると、周りのスタッフも全員が泣いていた。」[7]
  • 「微笑がえし」が発売されてからは、主に全キャン連がこのラスト・シングルを1位にしようとラジオ番組で広報につとめたり、一部の地域では1人2枚以上の購入を呼びかける動きもあった。このように一部に「内輪受け」の要素があったのは事実だが、それを差し引いても「微笑がえし」は春の別れと旅立ちをイメージした曲であり、一般層をも巻き込んで解散直前の1978年3月12日、ついに念願のオリコンチャート1位を獲得した。
  • ラスト・シングルでキャンディーズ自身最初で最後の1位を飾り、文字通り最高の状態で解散を迎えることが出来たのはメンバーの3人に起因するところのみならず、前述の通り解散宣言からラスト・シングルまで関係者やファンまで全てが一体となって、即ち全てが「キャンディーズ」なる現象と化したためとの一考がある。

主な共演者

主な関係者

穂口雄右
「春一番」「年下の男の子」「微笑がえし」等代表曲の作詞や作曲を担当した作曲家。元GSアウト・キャストのメンバー。16才の時に、プロとしての活動を開始。その後日本大学芸術学部在学中に、作曲・編曲家の森岡賢一郎に抜擢され、19才で最年少のスタジオミュージシャンとなり多くのレコーディングセッションに参加。23才で作曲・編曲家に転向。
MMP(ミュージック・メイツ・プレイヤーズ)
キャンディーズ全盛期のライブを支えたバックバンド。リーダーはワイルドワンズでキーボード担当の「チャッピー」こと渡辺茂樹。後の「スペクトラム」のメンバーも数多く在籍していた。
当初は「ロックンロールサーカス」の名前で、伊丹幸雄のバックバンドを務めていたが、あいざき進也のバックを努める際に「ビート・オブ・パワー」と名前を変え、その後編成を変えMMPとなった。大里マネージャーの意向により1975年8月の日劇ウエスタンカーニバルや10月の蔵前1万人カーニバルで一部サポートに起用される。ホーンセクションをフィーチャーしたロックバンドであるMMPは、当時流行していたソウルミュージックのカバーに力を発揮。またオリジナル曲に於いてもフルバンドでは生み出せないノリをもたらした。ライブに於ける、MMPオリジナル曲「SUPER CANDIES」で客席を煽り、「ハートのエースが出てこない」でキャンディーズが登場するメドレーは名物のひとつとなった。
1977年、キャンディーズ解散前にホーンセクションが「ホーンスペクトラム」として独立(ライブのサポートは解散まで継続)。バンド自体はキャンディーズ解散後にシングル「悲しき願い」を発売するなどの活動もあったが、ほどなくして解散。後にリズムセクションの一部とホーンスペクラムの主要メンバーが合流して「スペクトラム」を結成した。
《MMPおよびそのメンバーによる楽曲》「SUPER CANDIES」「ダンシィング・ジャンピング・ラブ」「さよならのないカーニバル」「つばさ」等
諸岡義明
当時渡辺プロダクション社員、現在はワタナベエンターテインメント顧問。
ザ・ピーナッツ担当後、1973年より初代キャンディーズ担当マネージャーに就任。前述のランのセンター指名など、キャンディーズを大ヒットアイドルに育てた。常に3人と行動を共にし、的確に指導を行っていた。また諸岡以下のキャンディーズを支えた裏方達は「花の諸岡班」とも言われていた。マネージャー交代時には伊藤はあまりのショックに相当落ち込んでいたと言われている。
大里洋吉
当時渡辺プロダクション社員、現アミューズ相談役。
1975年夏より1977年までの約2年間、キャンディーズ担当2代目マネージャーに就任。キャンディーズ解散前に渡辺プロダクションを退社しアミューズを設立するも、解散時には契約プロデューサーとしてキャンディーズに協力していた[8]。後にサザンオールスターズなどをスターに育て上げた。2008年4月には『全国キャンディーズ連盟2008台同窓会』(ビデオコンサート)のプロデュース(演出・構成)を担当。
キャンディーズが解散を決意したとき、所属事務所の関係者は誰一人その事実を知らない中で、唯一メンバーから相談・報告された人物。その当時、ショービジネスの研究のため渡米していた[9]
全国キャンディーズ連盟
キャンディーズをサポートしていたファンの団体。アイドルのファン団体としては稀代な組織力を誇り、キャンディーズをバックアップしていた。一部のメンバーは解散後も2009年4月4日に「日本キャンディーズ協会」を発足させている。

脚注

  1. ビデオリサーチ社 音楽高世帯視聴率番組
  2. NHK『SONGS』(2011年12月21日放送)にて当時の映像を紹介
  3. 3.0 3.1 水谷豊&伊藤蘭夫妻、平和への想いを広島から発信! - ORICON STYLEテンプレート:Cite web
  4. 山田太一男たちの旅路『墓場の島』を語る。
  5. 中国新聞1974年4月23日朝刊14ページ全面広告、1974年4月21日朝刊4ページ・1974年4月26日朝刊12ページ部分広告などには、「キャンディーズ(専属タレント)」の表記がされていた
  6. 田中好子さんの最期 蘭さん・美樹さんみとる [1]
  7. 穂口雄右 - 現実になったビジョン 第6回(最終回)「微笑がえし」[2]
  8. Musicman's RELAY 第25回 株式会社アミューズ代表取締役会長 大里洋吉 氏(2002年7月9日時点のアーカイブ)。
  9. おはよう朝日です』「井上公造の芸能デラックス」(2011年4月22日放送分)

参考文献

  • 『ばいばいキャンディーズ キャンディーズ百科』ベップ出版、1978年
  • 『CANDIES HISTORY』(CD-BOX)付録ブックレット ソニー・ミュージックエンタテインメント、1998年
  • 軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』文春文庫、1995年
  • 野地秩嘉『芸能ビジネスを創った男-渡辺プロとその時代』新潮社、2006年
  • 松下治夫『芸能王国 渡辺プロの真実』ISBN 9784903853079

外部リンク

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