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'''ウィーン議定書'''(ウィーンぎていしょ, Vienna Protocol)<!--Vienna Protocol?-->は、[[オーストリア帝国]]の首都[[ウィーン]]で作成された[[議定書]]である。 == 1815年のウィーン議定書 == 1815年のウィーン議定書は、[[ウィーン体制]]を成立させた議定書である。 [[1815年]]6月、[[ウィーン会議]]において承認された。[[ナポレオン戦争]]の戦勝国の利益に応じて領土変更がなされた。議定内容については[[ウィーン会議]]を参照。 == 1853年のウィーン議定書 == 1853年のウィーン議定書は、[[クリミア戦争]]の回避による[[ウィーン体制]]の維持を意図した議定書である。 [[1853年]]6月バルカン半島の自治領[[モルドバ]]・[[ワラキア]]に侵攻した[[ロシア]]と撤退を求める[[オスマン帝国]]が開戦寸前の緊張状態になったため、7月に[[オーストリア]]の外相[[カール・フォン・ブオル=シャウエンシュタイン|ブオル]]が中心となって[[イギリス]]・[[フランス]]・[[プロイセン]]とともに作成。ロシアも議定書の内容には概ね合意したものの、当事国でありながら一切関与できなかったオスマン帝国が反対したため発効せず、両国は10月に開戦。この[[クリミア戦争]]後の[[1856年]]パリ会議で調印された講和条約の原文となった。その経緯からも内容はロシアにとって決して不利益なものではなく、むしろ妥協案と呼べるものだった。 == 関連項目 == *[[神聖同盟]] {{DEFAULTSORT:ういんきていしよ}} [[Category:19世紀のヨーロッパ史]] [[Category:ウィーンの歴史]]
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